南海インベーダーズ




記憶は瓶に、願いは海に



 三日も寝込むと、さすがに飽き飽きした。
 紀乃は胸一杯に潮風を吸い込んでから吐き出し、楽に呼吸出来るありがたさに感じ入っていた。節々も痛まず、 頭も軽く、思うように動けることがなんと素晴らしいことか。ガニガニを探すために台風の最中に飛び出した挙げ句、 ひどい風邪を引いた紀乃は、ベッドの上で大人しくするしかなかった。三日間、ゾゾが熱心に看病してくれたおかげで すっかり全快し、前よりも元気になったぐらいだ。ガニガニの上から見下ろす海も平穏を取り戻していて、台風の影響 で砂浜に漂着物が増えた以外は異変はない。青いセーラーがはためき、スカートが翻る。これで水着の一枚でも あればいいのにな、と思いつつ、紀乃はガニガニの背に揺られながら海の眺めを楽しんでいた。

「うん?」

 進行方向で、何かが光を撥ねた。

「ガニガニ、あれ、なんだろうね?」

 紀乃が日光を撥ねる物体を差すと、ガニガニはヒゲを互い違いに上下させた。

「行ってみよう」

 紀乃が急かすと、ガニガニはヒゲを下ろして歩調を速めた。海草と絡み合った流木が一塊になって転がっており、 干涸らびかけた磯臭い海草の間に何かが埋まっていた。紀乃はガニガニに這い蹲らせると、彼の鋏脚を滑り降りて 砂浜に降りた。表面が摩耗して滑らかになった流木をまたいで海草を蹴り飛ばしてから、紀乃は光源の物体を掴み 取った。それは今時珍しいボトルレターで、丈夫そうな肉厚の瓶に一通の手紙が入っていた。

「わあ珍しいの」

 紀乃は驚き、瓶のコルク栓を引き抜こうとしたが、まるで歯が立たなかった。

「ガニガニ、ちょっと貸してね」

 紀乃はガニガニの鋏脚に狙いを定め、瓶を真横に振り抜いた。ガニガニの強靱な外骨格に激突した瓶は粉々に 砕け散り、破片は砂浜に散らばった。その中に手紙が混じったので、紀乃はつま先でガラス片を避けてから手紙を 拾った。封筒に印された宛名はいかにも子供が書いた文字で、どこかのだれかさまへ、はーちゃんより、とあった。

「はーちゃん?」

 本名ではなく通称を使う辺り、ますます子供だ。紀乃は封筒を開いて便箋を取り出し、ガニガニを手招いた。

「おいで、ガニガニ。一緒に読もう」

 ガニガニは紀乃の背後に近付き、飛び出した目を近寄せてきた。

「えー、と」

 紀乃は可愛らしいキャラクターが印刷された便箋を開き、幼い字を読んだ。他人の手書きの字を見ること自体が 久々だったので、不思議な感動があった。ガニガニは文字を読めているのか怪しいので、音読することにした。

「どこかのだれかさまへ。こんにちわ、はじめまして。わたしのおなまえわ、はーちゃんです。ほんとうのおなまえわ、 むーちゃんもおしえてくれません。だから、はーちゃんです」

 むーちゃん、とは親兄弟なのだろうか。だが、誰も本名を教えてくれないとは、はーちゃんとは不思議な子だ。

「はーちゃんには、ふたりのおねえちゃんがいます。どっちもえげつないです。だけど、むーちゃんとおにいちゃんは やさしいからすきです。きょうも、むーちゃんとおにいちゃんははーちゃんをほめてくれました。いいこいいこってして くれました。がんばったごほうびに、おかしもくれました。そしたら、おねえちゃんたちはいぢわるなことをゆいました。 だから、えげつないです。あしたはおしごとです。がんばってほめてもらいます。おわり」

 紀乃はそこまで読み、首を捻った。

「ほとんど日記じゃん。普通、ボトルレターって返事を下さいって書くものじゃなかったっけ?」

「では、お返事を書いてみたらいかがでしょうか」

 すると、唐突に浅瀬からゾゾが立ち上がった。紀乃は驚いて仰け反り、流木から落ちかけた。

「うおっ。てか、そこで何してんの?」

「昼食の足しに海ぶどうでも、と思いまして、収穫に参った次第です。浅瀬に沢山生えているんですよ」

 ゾゾの手には、細かな粒が付いた海草の束が握られていた。そして、その左手にはずた袋のような物体が。

「そのついでに、ミーコさんも回収してきたのですが、今回はなかなか被害が甚大なようでして」

「うあああああああっ!?」

 紀乃は再度驚き、そのせいで暴発したサイコキネシスが流木を吹き飛ばした。ゾゾの左手に襟首を掴まれている ミーコは、どこからどう見ても水死体だった。水を吸ってぶよぶよに膨張し、肌は紫色に変色し、目玉は飛び出し、 海水とは違った意味で生臭い。明らかに腐臭である。だらりと垂れた両腕は今にも肩から外れそうで、指は芋虫の ように太くなり、形相も変わり果てていた。近頃見ないと思ったら、本当に死んでいたのか。紀乃は吐き気と恐怖と 戦いながら後退ると、ミーコの半開きの口元からぼとぼとと寄生虫が零れ落ち、砂にまみれて蠢いた。

「ひぃやあああああああっ!」

 出せるだけの悲鳴を上げた紀乃が逃げ出すと、例によってサイコキネシスが暴発し、砂浜に衝撃破が発生した。

「ああっガニガニー!」

 不意打ちの攻撃を足元に喰らったガニガニがひっくり返り、紀乃は慌てて立ち止まった。が、何が出来るわけでも なく、ガニガニは大きく仰け反りながら砂浜に甲羅を突っ込んだ。白い砂煙が舞い、潮風で掻き消えると、ガニガニは 八本足をわしゃわしゃと動かして悶えていた。ガニガニを助けるべきか、だけど水死体のミーコが、と紀乃が逡巡して いると、エンジン音を唸らせながら小松が歩み寄ってきた。

「何をしているんだ、お前らは」

 小松はガニガニを簡単に元に戻すと、ゾゾの左手にぶら下がる水死体にメインカメラを据えた。

「なんだ、死んでいないな」

「ええ、そのようで。開腹して海水と腐敗ガスを抜いて、二三日天日干しにして、塩抜きをすれば、元に戻るかと」

 はいどうぞ、とゾゾがミーコの水死体を手渡すと、小松は不本意そうに彼女を受け取った。

「余計な手間を増やしやがって」

 きつく毒突いてから、小松は擂り鉢状の工作場に向かっていった。あの台風で雨水と泥が溜まってしまったので、 近頃は雨水と泥を掻き出す作業をしているらしく、六本足と二本の腕には泥と砂がたっぷりと付着していた。足跡も 粘ついていて、作業効率は芳しくないらしい。だったらミーコの処分はゾゾに任せればいいのに、と紀乃は思ったが、 小松はミーコを嫌うわりに妙に距離が近い。もしかしたら二人は友達同士だったのかも、と手前勝手な結論を出し、 紀乃はどこぞの少女が書いたボトルレターを折り畳んでスカートのポケットに入れた。
 暇潰しに、返事でも書いてみよう。




 最初は、日記を付けるように言われていた。
 波号は油性ペンを握り、便箋を向かい合っていた。今日は何が起きたのか思い出すだけで苦労するので、どんな 書き出しをすればいいものか。昨日書いた手紙の書き出しを流用出来ればいいのだが、それすらも覚えていない。 波号が投薬なしに覚えていられるのは、せいぜい一週間の記憶だ。それ以前の記憶は、朧気な記憶の積み重ねと して感覚的に残っているが、明確なビジョンはまず無理だ。だから、生体兵器達の主治医から日記を付けなさいと 言われたのだが、それでは面白くないので手紙を書き始めた。けれど、知り合いに送る手紙では日記と大差がない ので、どこの誰に届くか解らない手紙、ボトルレターにして海に流している。

「はーちゃん、お手紙出来た?」

 ノックの後、紙袋を提げた秋葉が波号の部屋に入ってきた。波号は首を横に振り、ペンを下ろした。

「まだ。今日は何があったのかなぁって」

「ゆっくりでいいからね、はーちゃん」

 秋葉は優しく笑み、波号の傍に寄り添った。その笑みに釣られて、波号は明るく頷いた。

「うん、むーちゃん」

 波号の部屋は研究施設らしからぬ幼さで、カラフルな花柄の壁紙に大きなぬいぐるみが並んで座り、おもちゃ箱は 一杯で、波号の実年齢よりも遙かに幼い子供向けの知育玩具も床に散らばっていた。ひらがな、カタカナ、数字、 アルファベットが書かれた積み木、パズル、絵の付いたボタンを押すと英単語を話すボード。ふわふわしたタオル地の ウサギが横たわるレースの天蓋が付いたベッドの傍らには、内装に不釣り合いな医療器具が設置されていた。 窓の外には東京湾が一望出来るが、都市部の夜景は見せない造りになっていた。

「瓶はちゃんと持ってきたからね」

 秋葉は紙袋を開き、ワインボトルを取り出した。波号はそれを受け取り、物珍しげに眺め回した。

「わあ、緑色だぁ」

「書き上がったら、中に入れようね」

「うん」

 波号は瓶を机に置き、便箋に向かった。机の正面の壁に貼ってあるひらがなの一覧表と長々と睨み合ってから、 黒のサインペンを斜めに握って書き始めた。

「こ、ん、に、ち、わ。わ、た、し、の、お、な、ま、え、わ……」

 と、そこで波号はペンを止め、首を捻った。

「は、と、わ、ってどっちが本当なの? 口で言うとどっちも同じなのに、なんで書く時は違うの?」

「それは、文章の表現によって使い分けるもの。だから、この文面では、わ、ではなく、は、が正しい」

 秋葉はメモ用紙を一枚取り、波号の書いた文章と同じ文章を書いたが、わ、を、は、に訂正した。

「でも、はーちゃんははーちゃんだよね。わーちゃんじゃない」

 ますます難解そうな波号に、秋葉はくすりと笑った。

「はーちゃんは波号の愛称。だから、わ、ではない」

「あ、そっか。そうだよね、そうだったね」

 波号は頷き、手紙を書く仕事に戻った。今度は、秋葉の文章を参考に、わ、と、は、を使い分けた。

「き、ょ、う、は、む、−、ち、ゃ、ん、と、い、っ、し、ょ、に……」

 今日は、秋葉と一緒に海上基地と東京を行き来する定期連絡船に乗って、臨海副都心に出掛けた。行動範囲は 限られているが、とても楽しかった。遠くからでも綺麗な花火が見えるテーマパークには一度も行ったことはないが、 その近くまで散歩した。秋葉が二段重ねのアイスクリームを買ってくれたけど、二つめは地面に落ちてダメにした。 それが悲しかった。海鳥を見た。飛行機も見た。ゴーグル越しだから、何を見てもグレーだけど。
 便箋を五枚も使い、波号は懸命に文章を書き上げた。おわり、と最後に書き加えて、波号は出来上がった手紙を 秋葉に見せた。秋葉は一枚一枚に目を通してから、波号の髪を撫でてきた。

「よく出来ました」

「んへへへ」

 照れ臭くなった波号が身を捩ると、秋葉は手紙を丸めて筒状にした。

「じゃあ、これは瓶に入れるね。流す場所は、いつもの連絡橋からでいいね?」

「うん。一緒に行こうね、むーちゃん」

「もちろん」

 秋葉は快諾してくれたが、制服の胸ポケットで携帯電話が鳴った。ちょっとごめんね、と秋葉は波号に断ってから 立ち上がり、背を向けてから電話を受けた。

「はい」

 途端に秋葉の声色が冷え込み、波号は彼女が知らない大人になったような気がして寂しくなった。ワインボトルに コルク栓を填めようとしたが、力が足りないので上手く填らなかった。

「了解しました。直ちに波号と司令室に向かいます」

 秋葉は通話を切り、携帯電話を胸ポケットに入れると波号に向き直った。

「はーちゃん。御仕事しなきゃならなくなったから、手紙を流すのはもう少し後でいいかな?」

「……うん」

 波号は本心では嫌だったが、頷いた。戦いの仕事は、一ノ瀬真波主任が怖いから好きではなかった。あまり派手な 戦い方をすると伊号が不機嫌になるし、体も痛くなるし、凄く疲れてしまう。けれど、それをしなければ秋葉と一緒に 遊べなくなってしまう。波号は手紙を入れたワインボトルを抱き締め、椅子から降りた。

「御仕事って、何をするの?」

「そのお話をしに、司令室に行くんだよ」

 秋葉が手を差し伸べてきたので、波号はその手を掴んだ。少し冷たいが、安心する柔らかさの手だった。

「さあ、行こうね」

 手を繋いで歩きながら、波号は泣きたい気持ちを必死に堪えていた。戦いに行くと言うことは、また波号は誰かに 変身しなければならない。そのたびに頭は誰かの記憶に塗り潰され、波号の記憶は奥へ奥へ追いやられてしまう。 覚えていようと思っても、大事なことほど思い出せなくなる。今日、楽しかったことも、きっと思い出せなくなる。

「むーちゃん……」

 不安に駆られた波号は秋葉のタイトスカートを履いた太股に縋り付くが、秋葉は歩調を緩めなかった。

「早く行かないと、また主任から怒られちゃうよ」

 波号の手を掴む秋葉の手に力が入り、痛いほど掴んできた。波号は嫌で嫌でたまらなかったが、我が侭を言えば 秋葉はとても困った顔をする。笑いかけてくれなくなる。忘れてしまうことも怖いが、それもまた怖かった。毎日のように 波号を構ってくれるのは秋葉だけだ。その秋葉から嫌われては生きていけない。好きでいてほしい。ずっと友達で いてほしい。目元に溜まった涙を袖で拭い取り、波号は震えそうな足を前に出して司令室を目指した。
 今日は、誰の真似をすればいいのだろう。





 


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