心が痛むと、忘れかけていた傷も痛む。 ヘビ男こと、フジワラ製薬の社員でありヘビ怪人である羽部鏡一に髪を無理矢理引っこ抜かれた際の傷は、まだ 治りきっていなかった。ツインテールに結んでいなきゃ良かったのかも、かといって下ろしていると生まれつきの癖毛 のせいで髪が跳ね放題でまとまりもしないし、それにロングなんて柄じゃないし、と、つばめは現実逃避をするかの ように割とどうでもいい問題を考え込んでいた。だが、ふと我に返ると、現実逃避をしていたことに対しても空しさが 怒濤のように襲い掛かってきた。自宅から逃げ出したところで、問題から逃げ出せるわけもないのに。 「はあ……」 つばめは桜の木にもたれかかり、項垂れた。ごつごつとした木の根に座り、突っ掛けを引っ掛けただけのつま先を 浮かせて軽く振る。皆に見つかるのは時間の問題ではあるだろうが、大人達の話し声が聞こえてこないことから すると、外には出てきていないらしい。しばらくそっとしておいてもらえるようだ、と知ると安堵する。行く当てなどない し、突っ掛けなので歩きづらいし、下手に遠出するとまた吉岡一味に絡まれかねないので、あの菜の花畑にやって きた。この一帯に埋められた地雷を、コジロウが荒々しく爆破処理したおかげで菜の花は全て吹き飛んでしまい、 未だに草一本生えていない。けれど、あの爆発を耐え切った桜の木は花開いていた。 「お金ってウゼェ」 生きていく上では欠かせないものであり、使い方一つで天国にも地獄にも行ける魔性の切符でもあるが、あまりに 膨大な額だと持て余してしまう。大分前に銀行で下ろした十万円もまだ使い切れていないほどである。お金を使える 場所に気軽に行けないほどの田舎に住んでいるから、というのもあるが気安く使えないのだ。十万円を貯めるには かなり苦労しなければならないのは、つばめは身を持って知っている。途方もない資産を持っていた祖父にとっての 十万円は、氷山の一角どころか大雪原に落ちてきた雪の結晶の一粒にも満たないだろうが、その十万円はどこかの 誰かが血と汗を流して稼いだ十万円なのだ。それが巡り巡って祖父の手中に入ってきた、と考えてしまうと、余計に 使うのが惜しくなってくる。それなのに、税金とはなんと惨い制度だろうか。五千億円に相当する遺産を相続した だけで、三千五百億も毟り取っていくなんて。 「三千五百億、かあ」 そのうちの大半は、この近辺の山だろう。つばめは顔を上げて見回してみたが、どの山も同じようにしか見えず、 どこからどこまでがつばめの所有物なのか判別出来なかった。この辺りの地形など把握していないのだから当然で はあるのだが、なんだか情けなくなってくる。どれが自分の所有物なのかすらも解っていないのに、税金を取られて しまうのだから、山に対して申し訳なささえ感じてくる。 「つばめ」 山から吹き下ろされてきた一陣の風が、桜色の雨を降らせ、電子合成音声を発した主をまろやかに包み込んだ。 コジロウの白い外装に薄い花びらが貼り付き、無機質な彼に自然の彩りが加わる。出来すぎたシチュエーション に、つばめは喜ぶよりも先に動揺した。あれほど冷え込んでいた心中が、焼け石が投げ込まれたかのように、一瞬 にして煮え滾ってしまった。おまけに赤面し、コジロウを正視出来なくなった。 「んなっ、なあに?」 上擦った声で答えたつばめに、コジロウは焦土を踏み締めながら近付いてくる。淀みない動作で確かな足取りでは あったのだが、左足を踏み込んだ際にぎぎっと耳障りな金属の摩擦音がした。両足を動かした時に連動して動く 股関節も心なしかぎこちなく、そのせいで下半身全体の動作が重たくなっていた。小倉美月が言っていたことは本当 だったのだ。それを理解した途端、つばめは浮かれた気持ちが萎んだ。 「コジロウ、足、大丈夫?」 つばめが彼に近付こうとすると、コジロウはつばめを制してから桜の木まで昇ってきた。 「歩行動作に問題はない。若干の不具合が見受けられるが、自己修復機能によって回復出来る範疇だ」 「痛くない? それもやっぱり、私が散々無理させちゃったからだよね」 「本官に痛覚は存在しない。本官はつばめの命令が無理だと認識したことはない」 コジロウは相変わらずで、泣き言も言わなければ文句も言わない。ロボットなのだからそれが当たり前なのだが、 なんだか気が引けてくる。電子レンジや炊飯器と同じで、命令されたことを忠実に行うだけなのだから、その行為に 好意もなければ真意もなく、行動理念も至って単純だ。だが、単純だからこそ、コジロウはやるべきことをやり通して いる。それなのに、自分はどうだ。税金を支払わなければコジロウに義理立て出来ないではないか。それに。 「この歳で脱税して逮捕されるのも嫌だもんなっ! 三千五百億なんぞ、一括で払ってやるわい!」 つばめは腹を括ると同時に立ち上がり、意味もなく拳を掲げた。 「……本官の予想よりも、遙かに早い決断だ」 コジロウはつばめの潔さに気圧されたかのように、やや言い淀んだ。つばめは腰に手を当て、胸を張る。 「だってさ、よーく考えてみると、お爺ちゃんって遺産絡みの特許とかを一杯持っていたんでしょ? で、その利権で ジャブジャブお金が入ってくるっていうじゃない。あと、株券もあるって前にお姉ちゃんから聞いたことがあるし。三千 五百億なんて、それで補填しちゃえばいいんだもん」 「そうだ。前マスターは国内外合わせて二百五十五の企業の支配株主であり、それによって毎月約五億円の収入を 見込める。同時に、人型ロボット関連の各種許可料が政府を通じて譲渡されているため、毎月約七千万円の収入 が見込める。それ以外にも細々とした収入源があるが、説明が長くなるので割愛する」 「そっかあ、そんなにあるのか。でも、年末になると、それも所得税で結構持って行かれそうだねぇ……」 「そうだ。各種税金についての計算は、備前女史に依頼するべきだ」 「当たり前だよ、そのためのお姉ちゃんだもん。ここぞとばかりに頼ってやらなきゃ」 腹を括ったことで鬱屈とした気持ちが吹き飛んだつばめは、コジロウに近付き、にんまりしながら見上げた。 「それに、それだけ税金を納めてやれば、政府の人だってコジロウを完璧に整備してくれるでしょ。足の調子だって 悪いんだし、たまにはゆっくり休んできなよ。後で先生に頼んでみるからさ」 「だが、しかし、本官がつばめから離れた場合に襲撃される可能性が圧倒的に高いのだが」 コジロウは彼なりに不安を示したいのか、半歩踏み出してきた。つばめはぎくりとしたが、言い切った。 「だあっ、大丈夫だって! 土日に一人で出歩かなきゃいいんだし、身を守る方法を私も考えるし、いざというときには 先生を盾にしてやるから! ねっ!」 つばめが親指を立ててみせると、コジロウは少し考えた後、身を引いた。 「了解した」 「えっ、いいの? 先生を盾にしても」 つばめは思わず噴き出すが、コジロウは平静だった。いつものことではあるのだが。 「一乗寺諜報員は、本官と同様につばめの身辺警護が主要任務だ。よって、戦闘に陥った場合、一乗寺諜報員が つばめの生存を最優先するのは当然だ。つばめの判断は正しい」 「正しいかもしれないけど、私はちょっと嫌だな。大人としては色々とダメな人だけど、先生のことも嫌いじゃないし。 出来れば、死んでほしくなんかないし。もちろん、コジロウも」 つばめは照れ笑いしつつ、コジロウに手を差し伸べた。コジロウは少し迷った後、右手を差し出してきた。 「本官はつばめの保護と生存を最優先に考えている。つばめが指摘した通り、本官の脚部の異常はいずれ重大な 欠陥となって行動の妨げになる可能性が高い。よって、つばめの指示に従い、整備を行う」 「それで良し」 つばめはコジロウの固く太い指を二本掴むと、彼の手を引いて歩き出した。 「じゃ、帰ろう。学校に行かなきゃならないし、お姉ちゃんだって心配しているだろうし、学費はともかく御布施の金額は がっつり勉強させてやる! 十分の一以下に値下げさせてやる!」 気分が上がってきたつばめは、それに任せてコジロウの手を前後に振ろうとしたが、彼の腕が重たいので思うよう に動かなかった。コジロウはつばめの意図が読み取れなかったらしく、不可解そうに見つめてくるだけだった。彼の 反応の冷淡さで自分の幼さを痛感したつばめは、居たたまれなくなって俯き。自分のつま先を凝視しながら帰路を 辿った。嬉しさと緊張で、繋いだ手が少し汗ばむのが無性に恥ずかしかった。 まだ帰りたくない、と言い出せたら苦労はしない。 詰まるところ、羽部はりんねとの勝負に負けた。 朝食を終えた時点では勝てそうな気はしていたのだが、道子の料理のひどさは一筋縄ではいかなかった。あれは 脳が損傷した事による障害云々ではなく、天性なのかもしれない。だとしても、何の役にも立たないどころか、食材を 無駄にしては他人に害を成す悪しき才能だ。そういう余計なものこそ、脳と一緒に吹っ飛んでほしかった。 昼食に出てきた見た目だけは綺麗なハヤシライスにはふんだんにイチゴジャムが混ざっていて、ポテトサラダには リンゴの薄切りのつもりなのか缶詰の白桃の薄切りが大量に混じっていて、ミネストローネの具はタクアンや野沢菜 漬けだった。午後三時に出てきたおやつは揚げドーナツで、ココナッツを纏っているのかと思いきや、衣は千切りの ショウガとニンニクだった。そのくせ中身のドーナツにはバニラエッセンスが程良く効いていたので、羽部はすっかり 混乱してしまった。やろうと思えばまともに出来るのに、なぜ最後の最後で変なことをするのだろう。 苦戦して変な味のドーナツを食べ終えた後、羽部を待ち構えていたのはフルコースだった。日も暮れた頃合いに なるとりんね達も別荘に戻ってきたが、皆、羽部には関わろうともしなかった。それもそのはず、りんねと武蔵野が 買い込んできたズワイガニを食べていたからである。どうやら、りんねは武蔵野と岩龍を連れて柏崎方面まで足を 伸ばしたらしく、鮮魚センターの文字が入った大きなトロ箱からは立派なカニの足がはみ出していた。 初夏も近い季節なので火を入れることすらない暖炉の前に座卓を置かせたりんねは、その上にズワイガニを山と 積んで皆に振る舞った。鬼の所業である。対する羽部は道子の作ったトンチンカンなフルコースを消化していったが、 食べた傍からお代わりが来るので、わんこそばのような状態に陥り、メインディッシュに至る前に観念した。このまま ではヘビ怪人というよりもツチノコ怪人になりかねないし、L型アミノ酸による消化不良が洒落にならないところまで 来ていたからだ。D型アミノ酸しか受け付けない体になった弊害が、こんなところで仇になるとは。 その結果、羽部はトイレと仲良くなっていた。上から下から、食べても消化出来ないものが出てきてしまうからだ。 幸いなことに、この豪奢な別荘には階ごとにトイレが設置されているので、羽部が一階のトイレを長時間占領したと しても、二階と三階が使えるので大した問題はないのが救いかもしれない。 「うべぇ」 二日酔いでもこんな目に遭ったことはないのに。羽部はトイレを抱えるようにして吐き戻すと、レバーを引いて水を 流した。咀嚼して飲み込んだはいいが、フルコースの前菜はほとんど原形を止めていた。胃液すらもアミノ酸の壁を 突破出来ない証拠だ。気持ち悪さで頭がほとんど動いていないのに、あー凄いな、アミノ酸の型が合わないだけで こうなっちゃうんだ、と考えてしまうのは化学者の性だろう。 「配水管、詰まらなきゃいいけど。この僕のゲロで逆流されたら、たまったもんじゃない」 胃液と吐瀉物の味を少しでも紛らわすべく、羽部はトイレの中にある洗面台に近付いていった。手を入念に洗って からその手に水を貯め、それを口に含んで濯いだ。これで少しは気が紛れたが、まだまだモノは出てくる気がする。 この分では、トイレで寝る羽目になりそうだ。吉岡りんねとは不本意極まる契約を交わす羽目になるし、その延長で 佐々木つばめの毛髪も奪い取られてしまうし、散々だ。 「全くろくでもないね、あの御嬢様は」 羽部は冷や汗がべっとりと染み込んだ蛍光イエローのシャツを脱ぐと、胸ポケットの裏地に作った隠しポケットに 入れてあった、もう一つの小さなビニール袋を出した。念のため佐々木つばめの毛髪を入れるビニール袋を分けて おいたのだが、正解だった。本数こそ格段に少ないが、効果は抜群だ。 「どうやって言いくるめたもんかなぁ、あのクソメイドを」 羽部はビニール袋に入れた数本の髪を見つつ、思案した。すると、トイレのドアがノックされた。もちろん施錠して おいたし、羽部がここで悶え苦しんでいることは全員知っているはずなのだが。思考に耽ろうとしたタイミングで邪魔 されたことで羽部は軽く苛ついたが、毛髪入りビニール袋を隠しポケットに入れてから、投げやりに返事をした。 「入っているって解るじゃないか、この僕が」 「申し訳ございませんでしたぁーん、羽部さぁーん」 ドアをノックしてきたのは、悪魔の如きサイボーグメイド、道子だった。途端に、羽部の怒りは極まった。 「お前の顔なんか見たくもないね! 二度と料理なんかするなよ、それが世界平和のためなんだからね!」 「あんまり出してばっかりですとぉーん、脱水症状を起こしますよぉーん?」 「だからどうした! この僕を舐めるんじゃないよ、それぐらい一人でなんとか出来る!」 フジワラ製薬が製造販売しているスポーツドリンクには、D型アミノ酸を多量に含んでいるものがある。この別荘の 冷蔵庫には、伊織が飲むためであろうそのスポーツドリンクが入っていたから、吐き気と下痢が落ち着いたらそれ を一つ二つ拝借してくればいいだけのことだ。今は吐き気も腹痛も収まっているので、この隙を見逃さずに移動し、 トイレの前にいる道子を振り払ってキッチンまで行けばいい。 シャツを羽織り直した羽部はジーンズを履き直してファスナーを上げてボタンを留め、大股に歩いてトイレのドアに 手を掛けた。が、何も収まっていなかった。途端にトイレに逆戻りした羽部は、便器を抱えて盛大に戻し、胃の中身 を一通り出した後は座って存分に解放した。ドア一枚隔てた場所に道子がいることが決して気にならないわけでは なかったが、四の五の言っている場合ではない。変な意地を張った方が、ひどい目に遭うからだ。 「……で、何の用?」 ぶり返してきた吐き気と下痢で体力を大幅に消耗した羽部が、弱々しく呟くと、道子が声を潜めた。 「朝のぉ、あの話のことなんですけどぉ」 「えーと、なんだっけぇおうっ」 話している途中でまた吐き気に襲われ、羽部は体を折り曲げ、足の間に顔を突っ込んだ。 「本当に大丈夫ですかぁーん……?」 道子の声色が不安げに沈んできたので、この女は割と正常な感覚の持ち主なんだな、と羽部は頭の隅で考えた。 胃液と体液と諸々で汚れた口から顎をトイレットペーパーで拭い、それを排出したモノと一緒に流してから、気分を 落ち着けるために一度深呼吸した。おかげで、少しばかり頭がすっきりした。 他の連中であれば、羽部の心配なんてするわけがない。りんねは医者ではないから何も出来ない、と言うだけで あろうし、武蔵野は自業自得だと切り捨てるだろうし、伊織はウゼェと一瞥するだけで関わろうともしないだろうし、 高守に至っては行動の予測すら付けられない。だが、道子は人並みに心配してきている。りんねの指示を受けての 行動だとすれば計算高く、抜け目ないが、道子本人の意志だとしたら話は変わってくる。 「まー、大丈夫じゃないかもしれないけどさぁ」 羽部は背を丸め、その向こうにいる女を見据えるようにドアを睨む。 「この僕の話を信じる気になった?」 「いいえ」 そう言いきった道子の語気は、間延びしてもいなければ気取ってもいなかった。本心なのだ。 「あ、そう。だったら、なんでわざわざこの僕が見苦しく情けなく悶え苦しんでいるところに来たのかなぁ?」 「御嬢様には黙っておいて差し上げますから、羽部さんが隠し持っているつばめちゃんの髪を分けて頂けませんか。 もちろん、ただでとは申し上げません。御希望であれば、私が所有する現金か、それ以外の財産をお渡しします」 「僕があの小娘の髪を隠し持っているっていう前提だけが、この行動の根拠なわけ? まあ、その通りだから間違い じゃないし、低脳なサイボーグにしては賢明な判断だけどさ。この僕の強かさを、正当に評価してくれているっていう わけだから。でも、現金以外の財産って何なの? この僕の趣味に見合った女の子でも紹介してくれるって言うの? もしかして、美少女フィギュアでもプレゼントしてくれちゃったりするわけ?」 羽部が嫌みったらしく嘲笑すると、道子は冷ややかに返した。 「御希望があれば、その通りにいたします。私はこの体の他にも十五体のスペアボディを持っていますので、その内 の一体を羽部さんの指示通りにカスタマイズして差し上げることも可能です」 「そんなのはいらない。この僕はね、人形遊びをするほど落ちぶれちゃいないんだ。それに、どうせいじくり回すなら 生身の女の子がいいよ。血が通っていて体温があって薄い皮膚の下に華奢な骨と薄っぺらい筋肉があって新鮮な 内臓が詰まっていて、ぷるぷるした脳がとろっとした脳漿に浮いている、死にたての女の子がね」 あちらが本心を曝すなら、こちらも本心を曝してやる。羽部は状況も忘れ、陶酔する。 「でね、その女の子をアソウギを溶かした培養液に入れちゃうんだ。綺麗なんだ、手術灯に照らされたミントグリーンの プールは。皮膚を溶かして、筋肉を溶かして、骨も溶かして、最後に残った内臓と脳と神経系をアソウギを混ぜて いない、レモンイエローの培養液に入れちゃうんだ。その時に比重が違う目玉がぷかぷか浮いてきちゃうから、それ をぶちゅっと潰すのが楽しいの。そういう女の子が何人いたかなぁ、数えるのも面倒臭くなるぐらい。だってさ、簡単 すぎて笑っちゃうんだよ。繁華街でふらふらしている子にね、新商品の化粧品のモデルになってくれないか、とか、 ダイエット効果のあるドリンクを試してみないか、とか、報酬を出すからエステに行って感想を伝えてくれないか、って 言うだけで引っ掛かっちゃうんだよ。僕も何度か現場に出てやってみたんだけど、そこら辺にいるアリに砂糖を撒いて 誘うよりも呆気なさすぎて物足りないぐらい。だから、この僕を満足させたいなら、女の子を寄越してよ」 羽部は言葉を句切るが、道子は言葉を失っていたのか、すぐに反応が返ってこなかった。 「この僕に言うことを聞かせたいなら、そうだね、御嬢様を差し出してよ。あの子を溶かすのって、超楽しそう」 「それだけは出来ません」 道子は声色を押し殺してはいたが、りんねを守るという強い意志が宿っていた。真面目な女なのだ。 「あ、そう」 その真面目さが鼻に突いてきたが、もう一押しだと羽部は判断した。 「解った。じゃ、この僕が御嬢様に手出ししないと約束してあげる。でも、君の本名は教えてあげないよ。絶対にね。 その脳みそをいじくらせてくれないっていうんなら、サービスなんかしてあげない。だけど、どうしても佐々木つばめの 生体組織が欲しいって言い張るのなら、君の貯金の八割を僕の銀行口座に入れてくれないかな。今すぐに」 羽部はジャケットのポケットから携帯電話を取り出すと、自分の口座のホログラフィーを投影した。それから五秒も 経たないうちに、羽部の口座に五千万円近い現金が一括で振り込まれた。それが道子の貯金なのだろう。彼女の 決断の早さに感心しながら、羽部はブーメランパンツとジーンズを上げてベルトを締めた後、佐々木つばめの毛髪を 一本だけ取り出して舌の上に載せてから、トイレのドアを開けた。 ドアが三分の一程度開いた瞬間に、羽部は上半身だけをヘビに変化させた。思い掛けないことに目を剥いた道子 の表情に愉悦を覚えながら、顎を最大限に開いて道子の作り物の頭を銜えた。抵抗すら出来ずに硬直した道子の 口を舌の筋力だけで強引にこじ開け、二股の舌を道子の生き物らしさのない喉の奥にねじ込んだ。更にその舌先を 液状化させ、人工体液を循環させている血管代わりのパイプの繋ぎ目に染み込ませていった。人間であれば苦痛と 窒息で痙攣しているだろうが、サイボーグである道子の反応は冷淡だった。力任せに羽部の頭を押し戻そうとして きたので、触れられた部分を液状化させて手応えを失わせた。 「契約成立ぅ」 道子の頭部に触れている骨を震わせて羽部が言葉を伝えると、道子は身動いだが抵抗しなかった。そこまでして 佐々木つばめの生体組織が欲しいのか、と思うといじらしくなってくる。けれど、羽部は同情も憐憫も感じなかった。 道子自身には興味はない。生きた女性に対してもあまり興味がないのだから、サイボーグなど尚更だ。 心臓に値するポンプが静かに動き、道子の人工体液が循環していく。佐々木つばめの毛髪を溶かし込んだ羽部 の体液が、道子の人工臓器を巡り、繊細なパイプラインを通ってコンピューターの傍を通り過ぎ、脳に辿り着いた。 崩れかけてはいるが形を保っている若い女の脳の舌触りが、羽部の脳にも至った。塩辛いプリンを思わせる味が 分断した舌を通じて届き、羽部は身震いした。その余韻に浸ろうと、羽部は道子の頭部を開放して後退した。髪や 顔が羽部の唾液と胃液で汚れた道子は、その場に崩れ落ちると、頭を押さえて俯いた。 「うひっ!?」 不意に痺れが走り、羽部は飛び退いた。液体と化して切り離したはずの舌の尖端から、過電流のような刺激が 駆け抜けてきた。道子の人工体液に馴染んだ佐々木つばめの生体組織が、道子の脳内にある何かに触れたのだ、 と感覚的に悟った。ずくんずくんと心臓が高ぶり、体液が熱してくる。この女、脳の中に遺産を隠していたのだ。その 遺産に佐々木つばめの生体組織を与えるために、羽部に近付いてきたというわけか。 「だから、この僕に優しくしたってわけ? へぇ、そういうの、嫌いじゃないかもよ?」 「……凄い」 道子は笑っていた。羽部の唾液や胃液で汚れた顔を拭おうともせず、目を見開き、口角を歪めていた。 「御嬢様や皆様にはぁん、内緒ですよぉん?」 顔を上げた道子は取って付けたような笑顔を作り、羽部を見上げてきたが、そこに好意もなければ歓喜もない。 自嘲と妥協、他者に対する優越感が滲んでいた。機械仕掛けの表情パターンを越えた人間の生々しい顔だった。 道子は多少ふらつきながらも、トイレから去っていった。トイレのドアを閉めて便器に戻った羽部は、上半身を人間の 姿に戻してから、側頭部を叩いてみた。だが、先程の痺れは抜けてはおらず、それどころか、これまでにないほど 頭が冴え渡っていた。恐らく、道子の所有する遺産は情報処理に特化しているのだろう。それ自体は予想の範疇 ではあるのだが、正直言ってここまでとは思っていなかった。吐き気も忘れ、羽部は声を抑えて笑い転げた。 毒を食った甲斐があったというものだ。 12 5/27 |