赤いカプセルを頭上に翳し、見つめる。 生体安定剤、との名目で、フジワラ製薬が吉岡グループ傘下の製薬会社から買い取っている薬剤だ。その中身が 何なのかは、出来るだけ考えないようにしている。飲み下す瞬間や、胃の中に落ちて硬いゼラチンが溶けた瞬間 や、その中身が消化されて体内を循環し始める瞬間を、意識しないように務めている。けれど、吉岡りんねの配下 となって戦い始めてからは、嫌でも意識せざるを得なくなった。伊織は虚ろな目で、赤い楕円を捉えていた。 このカプセルの中身は、吉岡りんねだ。りんねの分泌物や血液から成分を抽出し、凝縮し、作成した薬剤なのだ。 佐々木つばめの生体組織を使えばもっと効力を上げられるだろうが、その佐々木つばめのガードは文字通り硬く、 コジロウを倒すか、先日、ジャスカで鉢合わせした時のように不意の隙を衝かなければ、佐々木つばめの生体組織 はまず手に入らない。だから、遺産の管理者権限が発動する条件を備えているもう一人の少女、吉岡りんねの身を 削って薬剤を造っている。りんね側はフジワラ製薬に生体安定剤を与えることで怪人とアソウギの暴走にブレーキを 掛け、フジワラ製薬側はりんねの生体組織を多く含んだ薬剤を買い付けることで他の企業からは頭一つリードする ことが出来るので、利害関係はある程度一致している。だが、拮抗しているわけではないのだ。 「今になってビビってきちゃった、とか言わないでくれる? クソお坊っちゃん」 唐突に伊織の視界に入り込んできたのは、羽部鏡一だった。伊織は毒突く。 「んだよ、てめぇ」 「この作戦はねぇ、面倒臭い会議と手回しを重ねに重ねて、頃合いを見計らって、人員を調整して、ついでに怪人の 能力も調節して、どうにかこうにか漕ぎ着けたんだから、肝心のクソお坊っちゃんがビビっていたんじゃ何も始まりは しないの。それどころか大いに損失が出るの、ざっと十億ぐらいかな。この僕の才能を持ってすれば、それぐらいの 損失はすぐに補填出来るけど、高校中退が最終学歴のクソお坊っちゃんじゃねぇ」 羽部は胡座を掻き、にやにやしてきた。伊織は苛立つよりも先に、その趣味の悪い服装に心底辟易した。紫色の バスローブを着ていて、サテンのような艶を帯びた生地には妙にリアリティのあるムカデの刺繍が這い回っている。 気色悪いことこの上ない。上背があるか、武蔵野のように顔形に凄みがあればそれなりに格好が付くのだろうが、 羽部はどちらかというと小柄で猫背気味なので、バスローブの袖も裾も少々余っていて、服に着られているかのよう だった。伊織はげんなりして寝返りを打つが、羽部は伊織の視界にまたも顔を入れてくる。 「何? どしたの? この僕に言い返す勇気もないんだ? まあ、この僕に敵うはずもないって理解したんだったら、 君みたいな単細胞生物でも脊椎動物ぐらいには進化出来るかもしれないねぇー」 さすがに苛立った伊織はカプセルを握り締め、おもむろに羽部を殴り付けた。羽部は避ける暇すら与えられずに 伊織の拳を頬骨に喰らい、仰け反った。だが、伊織に打たれ慣れてきたのか、前ほど派手なリアクションはせずに 殴られた部分をさすって愚痴を零すだけだった。伊織は仰向けに寝転がり、板張りの天井を見上げる。 「ビビるわけねーし? つか、俺がビビる意味すらねーし?」 「あー、そう?」 羽部は伊織の隣に敷いてある布団に寝そべると、少し不満げな顔をした。何が悲しくてヘビ男と同じ部屋で寝起き を共にしなければならないのだ、と伊織は常々思うのだが、りんねがそう決めたのだから仕方ない。別荘の部屋も 無限ではないし、道子が私室の他にもサーバールームとして二部屋を占領しているので、羽部に宛がうべき部屋は 元より存在していなかった。おかげで私物が二倍、いや、十倍に増え、部屋の空間を大いに狭めている。 「うっ……あー……。すっご、うーわぁー……」 前触れもなく、羽部は身震いして恍惚とした。さながら性的快感を覚えているかのような格好と声色なので、伊織は またも苛立ちが蘇ってきた。だが、そんな状態の羽部に近付くことすら嫌なので、伊織は苛立ちを黙殺した。 「いやもう本当に凄い、凄すぎてアレだね、うん、んふふふ」 満足げにため息を吐いた羽部は、うっすらと汗ばんだ額に手を当て、だらしなくにやける。 「ねえクソお坊っちゃん、群体って知っているかい? ああ知らないよね、聞いたこの僕が愚かだね、ふふ」 「は? それぐらい、知らないわけがねーし」 伊織は飲まず終いだったカプセルを枕元の薬袋にねじ込んでから、乱暴に答えた。 「あれだろ、アメーバの固まりみたいな、無性生殖で繁殖した連中がくっついて固まってるやつだろ?」 「そうそう、軍事組織じゃない方ね。クソお坊っちゃんのくせに正解するなんて生意気だなぁー。あー、でも、この場合は 超個体って言った方がいいかな?」 羽部は仰向けに寝転がったままで足を組んだので、バスローブの裾がはだけて朱色の裏地が露わになった。 「この僕の素晴らしい研究成果をちょっとだけ特別に御披露目してやるよ、クソお坊っちゃん。この僕の見解では、 アソウギは魔法の液体でも何でもない、一個の生命体なんじゃないかってね。でも、何らかの理由で遺伝子情報を いじくられまくってただの液体と化して、無限バイオプラントにさせられたんじゃないかってね」 「は?」 そんなこと、初耳だ。伊織が聞き返すと、羽部はきょとんとした。 「あー、そっか。知らないのかぁー。やっぱりクソお坊っちゃんは果てしなくクソだねぇ」 「うるせぇ死ねよ」 「そう言うわりには率先して人殺しには出かけないくせに? まあいいや、特別の更に特別で続きを話してあげる。 いいかいクソお坊っちゃん、この僕達は人間を凌駕した進化した生命体であることは確かだけど、高みに昇ったかと 言えば、そうでもなかったりするんだなぁ。地球上のほとんどの生物はL型アミノ酸で構成されていて、アソウギは D型アミノ酸で構成されていて、この僕を始めとした怪人はD型アミノ酸しか受け付けられない体なのに、その体の 方は未だにL型アミノ酸で構成されているという、ややこしい事態になっている。それはなぜかって? 答えは至って 簡単だよ、アソウギが癒着した細胞だけがD型アミノ酸に変換されているからさ。人間から怪人に変身するってこと は細胞そのものを大きく変化させて体中の構造を組み替える必要があるんだけど、組み替えないでいた方が都合が 良い部分もあったりしちゃったりする。脳だよ。でも、その脳を支えるための細胞や神経も一杯あるから、結果と して脳に関わる細胞の大半がそのままになっちゃっている。それはなぜか? 生物の本質を変えないためさ」 羽部は、いやに真面目な口調で語り続けた。 「僕が思うに、アソウギの役割は生物を進化させることじゃなくて、土着の環境に合わせた改造を施すための道具に 仕立て上げられた群体、或いは超個体の生物なんじゃないかって。遺伝子情報を切り貼りするにしても、根っこから 変えているわけじゃない。ぐちゃぐちゃにして一から作り直しているわけじゃない。人間なら人間で、ヘビならヘビで、 虫なら虫で、環境に適応させつつも誰かにとって都合の良い形に作り替えているような気がしてならないんだよね。 だってそうだろ、この僕はヘビになったのに脱皮もしやしないし、クソお坊っちゃんは軍隊アリになったのに女王様を 探そうとはしていないじゃないか。どこまでも人間である証拠だよ」 「あー、そうだな」 言われてみれば、そうかもしれない。伊織が少し納得すると、羽部は頭を小突いた。 「これだって妙な話なんだよ。この僕の高潔で完璧な生体組織に佐々木の小娘の生体組織をちょろっと混ぜたモノ をサイボーグ女の脳みそに流し込んでやったんだけどさ、驚いたことにテレパシーみたいなので繋がってんの」 「嘘吐け」 伊織は半笑いになったが、羽部は真面目な口調を崩さなかった。 「遺産同士に互換性がある、ってのは随分前から言われていたことではあるんだよねぇ、うん。サイボーグ女の脳に 突き刺さっている遺産と、我らがフジワラ製薬が有する遺産のアソウギは、性質も違えば用途も能力も違っているん だけど、互いを補えるんだよ。アソウギ自体にも理屈はさっぱり解らないけど演算能力が備わっていてね、おかげで 生体改造が出来るんだけど、それにも限度ってものがあるんだ。アソウギと何らかの生物を与えられることによって 人間は変身能力を得ることが出来るんだけど、それだけなんだよ。そこから先はない。吉岡グループが暴利を貪る ために売り付けてくる生体安定剤を使わなければ、変身前後の姿を安定させることもままならない。それはなぜか、 至って簡単な話、アソウギで体を作り替えたことによって後天的な染色体異常を罹患したからさ。その染色体の穴を 埋めるために生体安定剤が必要、ってわけね。でも、あのサイボーグ女の遺産を使えば、これからはそんなことも なくなるんだよ。染色体異常の穴を埋めるための染色体を造るために必要な情報を処理出来るばかりか、それを 元にした情報をアソウギに与えて再改造出来る、ってわけ。んで、今、この僕はその情報処理作業をやっている んだよ。意識が一枚引っぺがされたみたいな感覚には慣れないけど、作業効率は最高だね」 「再改造出来たら、どうなるんだよ」 「わっかんないかなぁ、これだから低脳な昆虫はダメなんだよ。ま、それは後のお楽しみなんだけどね」 羽部は肝心な答えをはぐらかすと、もう寝ようよ、と急かしてきた。 「勝手に寝てろ、死ね」 羽部の得意げな語り口に飽き飽きした伊織は、薬袋を引っ掴んでから自室を後にした。羽部の名残惜しげな声が 聞こえてきた気がしたが、無視した。あのヘビ男の傍にいるだけで腹が立ってくる。二階の廊下を通ってリビング の吹き抜けに面した通路に出るが、リビングの明かりは落とされていてダウンライトだけが弱く灯っていた。 道子の眠るサーバールームからは、絶え間ない機械の唸りが聞こえてくる。武蔵野と高守が寝起きしている部屋は 人の気配が希薄で、何をしているのかも解らないが、誰かが傍にいることだけは確かだった。それを知ると安堵する のは、根っからの人間嫌いではない証拠だ。伊織は他人と接するのは煩わしいとは思うが、心底憎んでいるわけでも なければ、一個人に恨みを抱いているわけでもない。それなのに、他人を殺したいと願って止まない。 特に、あの女だ。伊織は階段を下りると、静まり返ったリビングに留まっている少女を見据えた。別荘の主であり、 一味のリーダーであり、フジワラ製薬から伊織を買い取った女は、暗がりの中で読書に耽っていた。その手元には ベネチアングラスのスタンドライトがあり、淡いオレンジ色の柔らかな光を丸く広げていた。 「伊織さん」 とろけるようなシルクのネグリジェを着てストールを肩に掛けているりんねは、振り返り、銀縁のメガネの内に伊織 の姿を収めた。りんねは本を閉じてリビングテーブルに置いてから、立ち上がった。 「いかがなさいましたか?」 「どうもこうもねぇよ」 伊織は階段を下りきってリビングに至ると、りんねに大股に近付いた。だが、りんねは動じない。 「お休みになれないのでしたら、外出なさっても結構ですが。朝食の時間までにお戻り頂ければ結構ですので」 「そんなことじゃねぇ」 伊織はりんねの襟首を掴み、力任せに引き寄せる。それでも、りんねは表情一つ変えない。 「持て余していらっしゃるのでしたら、私でよろしければ御相手いたしますが?」 「……相手、って」 シモの世話か。伊織が言い淀むと、りんねは涼やかに返した。 「ええ、御想像の通りです。こういった環境ですから色々と鬱屈したものも溜まられるでしょうし、それは生物の摂理 としては自然なことです。伊織さんもですが皆さんは特殊な身の上ですので、持て余したものを外部に向けられると 困ってしまうのです。後から手を回して事後処理をすると、経費も手間も掛かってしまいますので」 ですから、手近なところでお済ませ下さい、とりんねは躊躇もせずに言い切った。 「黙れ!」 伊織はりんねを床に放り投げると、肩を怒らせた。これだから、この女は腹が立つ。 「気に障ったのでしたら、申し訳ございません」 りんねは事も無げに立ち上がると、ネグリジェの裾とストールを直した。襟元から覗く首は白く薄い皮膚に包まれ、 細い鎖骨の間では水晶のネックレスが転げ、年齢にそぐわない大きさの乳房が絹の生地をふんわりと押し上げて いる。真っ当な人間であれば、多少なりとも扇情するだろうが、生憎伊織には真っ当な性癖は備わっていない。 だから、殺意しか感じなかった。 目が冴えて、どうしようもない。 それもこれも、コジロウが傍にいるからだ。布団の中なのに居心地が悪く感じ、つばめは目を開いた。ナツメ球の オレンジ色の光が暗がりを溶かしているが、その色はどことなく不安を誘う。とてつもなく嫌な夢を見て、夜中にふと 目が覚めると必ず目に入る色だからだ。彼が帰ってきたのは心の底から嬉しいのに、少しだけ怖い。 何度も寝返りを打ったせいでぐちゃぐちゃになった薄い掛け布団を剥がし、起き上がったつばめは、縁側に面した 障子戸越しに彼の背を見上げた。少し前まではその位置に金属の棺のタイスウが控えていたのだが、コジロウが 帰ってきたことでタイスウは物置に戻り、それまで通りにひっそりと横たわっている。 手を伸ばせば触れられる、一歩踏み出せば近付ける、声を掛ければ返してもらえる、そんな距離だ。だが、それ が余計に不安を煽る。笑顔を作り、他人との距離を測り、可もなく不可もない人間として生き延びてきた頃の感覚が 拭えないからだ。コジロウにはそんな建前は通用しないのに、本音も素顔も曝け出してきたのに、それでも尚、心の どこかが竦んでしまう。全身で寄り掛かりたいのに、縋りたいのに、甘えたいのに、萎縮してしまう。 布団から起き上がったつばめは、恐る恐る障子戸に近付いた。政府による整備を終えたコジロウは今まで以上に 素晴らしく、力強く、磨き上げられた塗装は美しささえあった。トレーラーから出てきた彼を見た瞬間、飛び付きたい 衝動に駆られたが寸でのところで押し止めた。それから、コジロウを出迎えてやった。といっても、人間ではないので 手の込んだ夕食や熱い風呂や片付いた家に喜びを感じることもないのだが、心行くまで出迎えた。何度言っても気が 済まなかったので、何度も何度もお帰りと言った。美野里に苦笑されるほど、つばめは喜び倒した。 けれど、喜びが収まると不安だけが残った。コジロウの左胸には翼のステッカーが残っていたし、つばめが何度も お帰りというとそれに応じた言葉を返してくれたが、どうしても胸中がざわめく。何かが引っ掛かる。 「ん……」 つばめは障子戸に手を掛けようとしたが、思い止まった。 「所用か、つばめ」 不意に、障子戸越しに声が掛けられた。つばめは動揺したが、呼吸を整える。 「ううん、なんでもない。なんか、寝付けないだけ」 「備前女史の助力が必要か」 「大丈夫だよ、お姉ちゃんを起こすほどのことじゃないから」 つばめは淡い月明かりでコジロウの影絵が映る障子戸に近付き、彼の影の手元に自分の手を重ねた。障子紙と 木枠のざらついた手触りしか返ってこなかった。 「つばめ。報告すべきことがある」 「なあに? 珍しいね」 つばめはコジロウの影絵をなぞるように、手を挙げる。 「本官は、つばめが本官に譲渡した装飾品を保護するため、命令を無視した」 「いいよ、そんなこと。コジロウが自分を守るためには仕方ないことだし、ロボット三原則にだって自分を守るためには 命令を無視しても構わない、ってあるんだし。だから、気にしないでよ」 コジロウも気が引けることがあるのか。そう思うと、つばめは少し気持ちが楽になった。 「本官は……」 心なしか言い淀み、コジロウの頭部が傾く。顔を背けたのだろうか。 「整備作業に関連する事象で、本官とつばめの身の安全は他者の犠牲によって成り立っていると認識した。また、 機密保護条令によって本官に開示されていない情報も多々あると認識した。しかし、本官はそれに対していかなる 主観も得てはならないと認識している。また、情報を多く得ることで判断と認識が無数に蓄積し、疑似人格に等しい 情緒が発生することもあってはならないと認識している。また、その情緒的に累積したパターンに基づいた判断を 下すことはあってはならないと認識している。よって、つばめに本官の判断の是非を判断してもらいたい」 「判断の判断、って」 つばめは笑い出しそうになったが、コジロウの語気は至って真面目なので抑えた。確かに、コジロウとつばめの今の 生活を支えているのは、周囲の大人達の力に他ならないのだ。美野里や一乗寺や寺坂だけでなく、政府関係者 の助力がなければ、徹底的にやり込められて押し潰されているだろう。だから、個人の一時の私情だけで動くことは 許されない。ほんの小さな判断ミスがドミノ倒しのように連鎖し、大きなトラブルを生みかねない。 だから、コジロウが片翼のステッカーを守るためにつばめの命令を無視したのは、主従関係としては正しい行動 かもしれないが、大局で見れば正しいことではない。そう思ったつばめは、答えた。 「約束を守ってくれてありがとう。でも、次からは気を付けて。それでいいのかどうか、コジロウがちゃんと考えてから 行動してね。私の判断じゃ頼りないから」 「了解した」 コジロウは簡潔に答え、首の位置も戻した。つばめは障子戸を開けようと思ったが、やはり手を止めて、そのまま 布団に戻った。コジロウでさえも不安になることがあるのだから、自分の不安など些細なことだ。体温の残る布団に 潜り込んで体を丸めたつばめは、目を閉じた。気持ちが落ち着いたからか、すんなりと寝付くことが出来た。 そして、懸念を忘れようとした。 12 6/10 |