長旅の末、ヘリコプターが降り立ったのは洋上のヘリポートだった。 それは、大型客船の屋上だった。つばめは乗り物酔いでふらつきながらも床を踏み、ローターが巻き起こす暴風で ツインテールが千切られそうになりながらも、辺りを見回した。ヘリの窓から見下ろした時も大きいと思ったが、その 上に乗ると更に大きさを実感する。全長は二百メートル以上はあり、客室と思しき窓もずらりと何列も並び、一千人 以上の乗客を乗せて大海原をクルージング出来るだろう。だが、つばめが豪華なクルージングに招かれたわけでは ないことは承知している。その証拠に、つばめの周囲を武装した戦闘員達が固めていた。 「銃を下げろ。大事な客だ」 つばめに続いて下りてきた武蔵野が指示をすると、戦闘員達は自動小銃を下げて後退した。つばめは武蔵野から 距離を置こうと身を引こうとするも、武蔵野はつばめの肩に軽く手を添えて促してきた。皮の厚い手だった。 「風が強いからな、お前なんか吹っ飛ばされちまうぞ」 「コジロウは!?」 つばめはその手を振り払ってから、風音に負けない声量で叫んだ。武蔵野はつばめに振り払われた手を見、若干 残念そうにしていたが、答えてくれた。 「別のヘリで輸送済みだ。あの生臭坊主と電脳女と、不良教師もだ」 「だったら、コジロウの傍に行かせてよ!」 「それは用事を済ませてからだ。まずはうちの社長に会って話をしてくれ」 「そんなの聞いてないよ!」 「別に何もしやしない。ただ、話をしてほしいだけだ」 武蔵野は腰を曲げ、目線を合わせてきた。その口振りは少々困り気味で、つばめは僅かながら気が引けてきた。 だが、こんな男に気を許していいものか。少し前であれば、武蔵野のことも頭ごなしに否定していたのだろうが、迷う ようになってしまった。それもこれも、武蔵野が母親のことを口にするからだ。 この男はつばめの母親を知っているのだろうか。いつ、どこで、何のためにつばめの母親と出会ったのだろうか。 母親とどんな言葉を交わし、表情を交わしたのだろうか。母親の行方を知っているのだろうか。母親とどんな約束を 契っていたのだろうか。つばめとこの男は、本当に他人同士なのだろうか。或いは、つばめの気を惹くために母親と 知り合いであるかのような嘘を吐いたのかもしれない。 期待と懸念と歓喜と疑念が絡み合い、ねじれて、つばめの心中を渦巻いていた。車とヘリコプターでの移動中に、 聞き出そうかと思った。だが、どうしても口に出来なかった。武蔵野が母親のことを口にしたのはあれが一度きりで、 それ以降は必要最低限のことしか喋らなかった。つばめが喋りたがらなかったから、というのもあるが。 屋上のヘリポートから階段で下ると、客船の女性職員が現れて、御客様を客室に御案内いたします、とつばめを 促してきた。一抹の不安に駆られたつばめが一度武蔵野に振り返ると、武蔵野は、大丈夫だから行ってこい、不安 だったらドアは俺が固めておく、と言ってくれた。つばめはその親切さが少々不気味だと思ったが、コジロウが傍に いないのであれば頼る相手は武蔵野しかいないと判断し、彼の言葉に甘えておくことにした。 案内された部屋は、煌びやかなスイートルームだった。屋上の真下のワンフロアをぶち抜いた大部屋で、リビング だけでも三十畳はありそうだった。続き部屋の寝室もまた広く、バスルームはサウナ付きだった。ハルノネットの時 といい、今回といい、つばめは世間では冷遇される一方で、こういった時には厚遇される立場にあるらしい。 「社長が御用意なさったお召し物がクローゼットにございますので、お好きなものをお選び下さい。美容師もおります ので、御用があればお申し付け下さい。何かありましたら、なんなりとお知らせ下さい」 それでは失礼いたします、と紺のベストにパンツスーツを着た女性職員は、深々と一礼してからスイートルームを 後にした。つばめは反射的に返礼してから、ベランダの外にある丸いプールに気付いた。 「ひょっとして、あれってジャグジーってやつ?」 「そうだ。だが、裸で入るなよ、他の連中が見張っている」 武蔵野が律儀に答えてくれたので、つばめは言い返した。 「お風呂になんか入るわけないじゃん、この非常時に」 「だが、シャワーぐらいは浴びた方がいいと思うぞ。お前もその方が気分が晴れるだろう」 「晴れるわけないじゃん」 コジロウが傍にいないし、皆が拘束されているのだから。つばめが顔を背けると、武蔵野は筋肉に覆われた骨太な 肩を竦めた。つばめの機嫌を取ろうとしているようだが、上手くいかないのだ。だが、つばめからすれば、機嫌を 取られるだけ不機嫌になる一方だ。状況は最悪なのだから、お姫様のような待遇を受けたところで喜ぶわけが ない。つばめは自分が賢い方だとは思っていないが、そこまで馬鹿ではないからだ。 「で、外に出ていかないの?」 つばめが目を据わらせると、武蔵野はだだっ広いリビングに見合う大きなソファーに腰掛けた。 「気が変わった。お前みたいな跳ねっ返りから目を離すと、この部屋がどうなるか解らんからな」 「じゃ、丁度良いから教えてよ。先生達は、今、どうなっているの?」 つばめが向かい側のソファーに腰掛け、尋ねると、武蔵野は躊躇った。 「あまり聞かん方がいいと思うぞ。鬼無の奴が、無茶苦茶やりやがったからな。あの野郎、無傷で捕らえてこいって 命令したのにことごとく無視しやがって。後で手足をバラしてやる」 「皆のこと、そんなにひどい目に遭わせたんだ」 「だが、どいつもこいつも死んでねぇから安心しろ。男共もそうだが、道子は物理的には不死身だしな」 「この際だから聞くけど、道子さんが私の方に来たことになんとも思ってないの? ほら、裏切ったことになるし」 つばめはテーブルに用意されていたウェルカムフルーツに手を付けようとしたが、考え直して手を引いた。武蔵野や 他の面々がつばめを丁重に扱うのは、飲食物に毒か薬を仕込んでいるからではないのか、と。 「毒も何もねぇよ、安心しろ。俺達はそこまであくどくない」 そんなに気になるなら俺が先に喰ってやる、と武蔵野はバナナを一本取ると、ナイフでそれを半分に切ってつばめに 投げ渡してきた。武蔵野が先に食べる様を目にしたつばめは、躊躇いは残っていたが、乗り物酔いが落ち着いてきた ので空腹を覚えていた。程良く熟したバナナの皮を剥き、囓ると、柔らかな歯応えと甘みが口に広がった。 「……おいしい」 「来客用だからな」 つばめの率直な感想に、武蔵野は色気のない返事をした。他も喰うか、と問われたので、つばめは桃を指した。 武蔵野はナイフと共にウェルカムフルーツの器に添えられていた小皿を取ると、その上で桃を切り分けた。職業が 職業だからか、ナイフの扱いは手慣れている。程なくして桃が六つに切り分けられ、三切れずつを分け合った。 「さっきの質問の答えだが」 武蔵野は瑞々しい白桃を食べつつ、言った。悩ましささえある甘い香りが、辺りに立ち込める。 「俺は道子がお前の方に付いたことに関しては、なんとも思っちゃいない。むしろ、あいつが収まるところに収まって くれてほっとしているぐらいだ。お嬢の部下だった頃の道子は本来の道子じゃなかったし、あの妄想狂の男の人形 だったから、色々と不自然だったんだ。だが、今の道子はそうじゃない。生身の肉体は完全に失っちまったが、あり のままに生きている。だから、それでいいんだ」 「なんか、意外だな」 上品な細いフォークを使って切り分けられた白桃を食べてから、つばめは呟いた。 「吉岡りんねの部下は派遣社員みたいなものだってことは知っていたけど、その割にドライじゃないんだなって」 「それは俺だけだ。連中に仲間意識みたいなものを感じていたのは、俺一人だ。それをお嬢に突っ込まれて散々に 言われたこともあるが、俺としては悪いことじゃないと思っている。方向性は違えど、同じ目的を持って行動している 以上は連帯感を持つべきだ。そうすれば部隊全体の実力を底上げ出来るし、連携出来るしな。だが、お嬢はそういう のが大嫌いみたいでな。まあ、あの性格だからな」 「じゃあ、吉岡りんねのことも、嫌いじゃないの?」 「嫌いだと思えるほど、感情を抱けるような女じゃねぇよ。感情ってのは、打てば響くものだからな。だがな、お嬢は それがいくら打ってもまるで響いてこないんだ。お嬢に好かれようとしても、空回りして馬鹿を見るだけだ。それに、 お嬢が俺達部下の中の誰かに特別な感情を抱いたら、それはそれで仕事に支障を来すからこれで良かったんだ。 そういうお前はどうなんだ、つばめ。お嬢に対して、何か感じているのか?」 武蔵野から問い返され、つばめは白桃を平らげてフォークを横たえた。 「私のことを目の敵にしているから、嫌い。コジロウや皆を奪おうとするし、傷付けてくるから嫌い。遺産を狙ってくる から、嫌い。ミッキーを傷付けたのに平気な顔をしているから、嫌い。好きになれる要素なんて、あるわけないよ」 「ああ、そうだろうさ。それが真っ当なんだよ」 武蔵野は白桃の汁で濡れた手をナプキンで拭ってから、つばめが使った皿と皮と種の入った皿を片付けた。 「両親のことは?」 唐突すぎる質問に、つばめは飲み込んだばかりの白桃が喉に迫り上がりかけるほど驚き、軽い怒りすら感じた。 そんなことを言われても、解るわけがない。そもそも、父親にも母親にも会ったことがないのだから、好きだの嫌い だのといった感情を抱けるわけがない。武蔵野にそんな質問を投げ掛けられる義理も関係もない。失礼だ、無遠慮 すぎる、といった文句を返そうとつばめは口を開こうとするが、言葉がまとまらなかった。 つばめの両親について触れようとする人間は、皆無と言っていい。義理の家族である備前家の両親も美野里も、 つばめの両親の所在には一切言及しなかった。祖父に会ったことはあっても、両親には会ったことがないからなの だろう。以前通っていた学校でも、教師が過剰な配慮をしていたので、他の子供に両親がいない事実を責められる こともなければ触れられることもなかった。だから、つばめは両親が存在していない現実を意識することもなかった し、出来る限り気にしないようにしていた。だが、徹底して排除されている両親に対して、こうも思っていた。そこまで して否定されるほど、両親は罪深いのだろうか。だとすれば、そんな両親から生まれた自分は何なのだろう。両親 からも見放された自分は何なのだろう。財産を受け継ぎ、遺産を動かすだけの、道具に過ぎないのか。 「好きになりたい。でも、会ってみないと解らない」 スカートの裾をきつく握り、つばめは掴み所のない感情をやり過ごした。 「そうか」 肯定も否定もせず、武蔵野は頷くだけだった。その距離感を弁えた優しさに、つばめは意地が折れかけた。彼が 母親の何を知っているのかも知らないくせに気を許すなんて何事だ、とすぐさま思い直すが、心根がぐらついている のは確かだった。コジロウも傍にいない、頼れるかは解らないが心を許せる大人達も恐らく負傷している、つばめの 力だけではこの客船から脱出することも出来ない、そもそもここがどこなのかも解らない。だから、目の前にいる男に 寄り掛かってしまいたくなる。けれど、それだけはしてはいけない。 つばめが押し黙ると、武蔵野も黙った。大型客船は錨を降ろしているのか、エンジン音は聞こえず、打ち寄せる波 が船体に与える揺らぎが伝わってくるだけだった。重苦しい静寂が漂っていたが、それを払拭するように内線電話 が鳴った。すかさず立ち上がった武蔵野は、リビングの一角を占めるバーカウンターに設置されている内線電話を 取って言葉を交わした後、電話を切った。 「社長との面会時間が決まったぞ。三時間後だ」 「着替えなきゃダメ?」 「そりゃそうだろう。ディナーなんだからな」 武蔵野は大型テレビの上に浮かぶホログラフィークロックを示すと、午後四時過ぎを指していた。だから、三時間 後は午後七時であり、夕食時である。こんな豪華客船のスイートルームに泊まらせられた客が、適当な仕出し弁当 で済まされるわけがあるまい。つばめはそれでも構わないのだが、招かれたからには相手の顔を立てるのが筋だ。 三時間もあれば、シャワーも着替えも済むだろうし、背伸びをしてヘアメイクをセットしてもいいかもしれない。 だったら、まずは衣装を決めなければ。つばめは今まで話し相手になってくれた武蔵野を廊下に追い出してから、 寝室に入った。当然ながらオーシャンビューの寝室には、恐ろしく巨大なベッドが中央に横たわり、ベッドサイドには ドレッサーと小振りな冷蔵庫が備え付けてあった。ベッドの右手にあるウォークインクローゼットに入ると、色彩の嵐が 襲い掛かってきた。つばめの身の丈に合わせたサイズのドレスやら何やらが詰め込まれていて、ドレスに合わせた ハンドバッグや靴といったアクセサリーも充実していた。これには、さすがにつばめの乙女心が反応した。 「うあ、うあああ……」 ドレスは可愛らしいものから大人びたデザインまで幅広く、選ぶだけでも一苦労である。更に小物を選ぶとなると、 もっと大変だ。ドレス一つを取っても決めかねるのだから、何時間掛かるか解らない。だが、ディナーを兼ねた面会 は三時間後なのだから、さっさと決めなければシャワーも浴びられないし、ヘアメイクも出来ない。 それでも、ドレスを決めるまでに一時間近く掛かった。悩み抜いてつばめが選んだのは、赤と黒のチュールドレス で、両肩がストラップになっていて二の腕と襟刳りが露出するものだった。胸のギャザーがたっぷりとしているので、 質量のない胸が増量されたようにも見えるから、というのも理由ではあったが。大きなリボンが付いた太いヒールの エナメルパンプスに、ピンクの丸っこいクラッチバッグを選んだ後、つばめは一旦シャワーを浴びた。髪をある程度 乾かしてから、内線電話を使って女性職員を呼び出し、ヘアメイクを頼んだ。 それから小一時間後、つばめは喜ぶべきか否かを悩んでいた。腕の良い女性美容師が飾り立ててくれたおかげ で、つばめは別人と化していた。クセの強い髪はヘアアイロンでくるくるに巻かれ、両サイドの髪は縦ロールと化し、 後ろ髪は大人っぽくアップにセットされ、控えめながらも華やかな化粧も施された。あれよあれよという間に別人へと 様変わりしていく鏡の中の自分を見つめながら、つばめは戦々恐々としていた。これでは、コジロウや皆に再会した 時に解らないのではないだろうか。そんなことを危惧していると、約束の時間になった。 スイートルームから出たつばめを出迎えたのは、スーツ姿の武蔵野だった。ネクタイが窮屈なのか、早々に襟元を 緩めている。サングラスの下では眉根を顰めていて、口元も盛大にひん曲がっていた。余程スーツを着たくないの だろう。つばめが少々戸惑っていると、行くぞ、と武蔵野は急かしてきた。 「どうせならコジロウが良かった」 つばめが不満を零すと、武蔵野は毒突いた。 「俺だって、胸も尻も真っ平らな小娘をエスコートするほど落ちぶれちゃいねぇよ」 レストランに繋がる廊下を連れ立って歩いていったが、武蔵野は歩調を緩めていた。慣れないドレスとパンプスの せいで歩調の遅いつばめを追い越さないように、一歩後ろを歩いている。大柄で足も長ければ歩調も早い彼には、 面倒なことだろう。コジロウであれば隣を歩いてくれるし、手も繋いでくれる。 右手が手持ち無沙汰で、つばめはハンドバッグを握り締めて誤魔化した。今頃、コジロウはどうしているだろうか。 寺坂も、道子も、一乗寺もだ。この船に連れてこられたのだとしたら、どこにいるのだろう。美野里と美月は本当に 無事なのだろうか。船島集落は、自宅は無傷なのだろうか。一度考え出したら切りがなくなり、つばめはそれなりに 感じていた空腹が引っ込んでしまった。 しばらく歩くと、見覚えのある女性職員に出迎えられてレストランに招き入れられた。ウェイターも待ち構えており、 つばめと武蔵野を案内してくれた。スイートルームの下の階にあるレストランは広く、白いテーブルクロスが掛かった 丸テーブルがいくつも並んでいたが、客は誰一人としていなかった。厨房からは作業音が聞こえ、調理が行われて いるようだが、それを口にする人数が少なすぎる。ドレスといいヘアメイクといい、たった数人のために大勢の人間の 手を煩わせているのだと自覚すると、つばめはなんだか申し訳なくなってきた。 こちらのお席へどうぞ、とウェイターが示したのは、一番見晴らしの良い窓際のテーブルだった。丸テーブルには 食器が既に並べてあり、四人分が揃っていた。つばめ、武蔵野、新免工業の社長、と、更にもう一人が食卓を囲む のだろうが、どこの誰なのだろうか。ウェイターが引いてくれた椅子に座り、ひらひらするドレスの裾を整えたつばめは、 夕暮れに染まる海を一望した。夏休み中に一度は海に行きたいと思っていたが、まさかこんな形で海に来る羽目 になるとは。結局手付かずだった写生は、せっかくだから海を描いてもいいかもしれない。 生きて帰れたら、の話だが。 12 10/2 |