機動駐在コジロウ




藪を突いてヘイトを出す



 右足を欠いた鬼無を引き摺り、周防も本堂に入った。
 床板には返り血が滴り落ちていて、一直線に奥へと進んでいた。目線を動かして辿ってと、ロウソクの頼りない光 が一点に集中している。朱塗りの祭壇には供え物がきちんと並べられ、水も白飯も真新しい。更にそこから目線を 挙げると、弐天逸流の信心を一心に受け止めている存在が控えていた。千手観音に似た異形、シュユである。

「お話になりませんねぇ」

 美野里の声が頭上から聞こえたので、周防が辺りを探すと、シュユの一際太い触手に美野里は腰掛けていた。鋭い 爪が生えた下両足をしなやかに揃え、一対の羽をかすかに振るわせている。触手の一本に爪を立て、高守の血を 擦り付けている。艶やかな黒い複眼の上で、触角が神経質に蠢いた。

「これだけ私が譲歩しているというのに、あなたと来たら、相変わらずですね。簡単なことですよ、そのお体を私に 明け渡して頂ければ、それでいいのです。信者達ですか? 彼らは蘇らせたところで、役に立ちませんよ。信仰心 も必要ありませんからね、私はそれと同等の精神力を調達する伝手を存じておりますので」

 地鳴りが聞こえた。前触れのない揺れに周防がよろめくと、美野里は悩ましげに頬杖を付く。

「或いは、この空間を破棄して異次元宇宙へと離脱するおつもりですか? 出来ませんでしょうね、頼みの綱である 信仰心を持った信者達が皆殺しにされてしまいましたから。生き残った人々がいたとしても、信じて止まない神様が 助けてくれなかったのですから、不信感どころか憎悪を抱いていることでしょう」

 きりり、と美野里は血糊がこびり付いた爪先でシュユの触手を引っ掻く。

「信和さんでしたら、国彦さんが止めをお刺しになりましたよ? 忠さんがお作りになった分解酵素の化学式も私の 記憶にはございますから、それを元にしてあなた方の肉体に最も有効な分解酵素を作り出し、あなたと信和さんに 与えてさしあげましょう。理屈の上では、あなた方は不死身とでも言うべき生命体ではありますが、その生命を維持 するために不可欠な生体組織を溶解させてしまえば、生命力の要である再生能力も潰えてしまいますしね。ですが、 私とクテイが生み出した個体は、あなたの子株などよりも遙かに有望で、有能で、有益なのです」

 おおぉぉぉん、ぅおおぉん、と獣の太い咆哮の如く、風が唸る。本堂が斜めに軋み、梁から分厚い埃が落ちる。

「そう、そうなのですよ。私と彼女の間には、子供がいるのです。驚きましたか?」

 地面から突き上げるような震動が発生したかと思うと、床板がひび割れる。ロウソクに明かりが灯っていた燭台 がばたばたと倒れて赤い敷布に火が燃え移り、周防は慌てて後退った。意識を取り戻した鬼無もひどく動揺して、 勢い余って周防の足に縋り付いてきたので振り払った。非常事態とはいえ、大の男に甘えられたくはない。

「シュユ。あなたはとても悲しい生き物ですね」

 美野里は羽を振るわせながら、シュユの目も鼻も口もないつるりとした頭部の前に浮遊する。

「愚者達の偶像となり、我が身を強張らせなければ、長らえることすら出来ないのですから。その点、クテイはとても とても美しい。故に、あなたの禍々しい腕に囚われていてはいけないのです」

 シュユの目の前に複眼を寄せた美野里は、顎を全開にする。敵意を剥き出しにした威嚇だった。途端に揺れが一層 ひどくなり、本堂の構造物にまで被害が及び始めた。このままでは屋根の下敷きになる、そんな死に方はごめんだ、 と周防は一人で先に退避しようとしたが、ジャングルブーツを掴まれて転んだ。鬼無だった。

「おい、離せよ。後で拾いに来てやるから」

「嘘を嘘であると見抜けない人ではこの掲示板を使うのは難しいー!」

 いつになく必死な鬼無は周防の足に力一杯しがみついてきたので、周防は治ったばかりの足で蹴った。

「また随分と古いネットスラングだなぁおい!」

「だ、だって、これって真理じゃないですかー」

 首をおかしな方向に曲げられた鬼無は、周防の足から離れると、首を元に戻した。

「そりゃまあ、そうだが」

 だが、今はそんなことを議論している場合ではない。周防は鬼無の左足を脇に抱えると、絶え間ない震動に足元を 掬われそうになりながらも出口を目指した。観音開きの扉は本堂の基礎が歪んだせいか外れかけていて、それが 落下したら脱出する術がなくなってしまう。古びた蝶番のネジは既にいくつか飛んでいるので、落下してくるのは 時間の問題である。鬼無さえ運んでいなければもっと早く走れるのだが、途中で投げ捨てれば背中から撃たれる 可能性が大いにあるので、周防は病み上がりの身で出せる限りの筋力を駆使し、落下物の中を駆け抜けた。
 扉と枠の隙間から這い出した周防は、細身ではあるが体重が恐ろしく重い鬼無を引き摺り出してから石畳目掛けて 放り投げた。中身が少しだけ入った一斗缶を投げた時のような金属音を響かせながら、鬼無は石畳の上を何度か 回転しながら遠のいていった。その際に罵倒されたような気がしたが、聞こえなかったことにした。
 ぅおおおおおぉぉぉん、うおおおおおぉぉぉん。遙か彼方の山頂から放たれた山彦の如く、大海を行き交う巨鯨が 意思を通わせる歌の如く。半壊した本堂の瓦屋根が下から突き上げられ、盛り上がり、柱が抜けて倒れる。猛烈な 土埃と濃霧が混ざり合い、視界が完全に奪われる。周防は咳き込みながらも目を凝らし、それを認めた。
 千手の神が、直立していた。滑り落ちた瓦が砕け散り、粉塵が高く昇り、噎せ返るような重たい霧に更なる粒子 を含ませる。凹凸のない顔が上がり、腕と呼ぶには本数が多すぎるものが柱と天井の残骸を押しやり、夜空の下に 現れた。細い触手で肩の上に横たわる美野里を掴んでいたが、素っ気なく投げ捨てた。庭へ投じられたホタル怪人の 女は羽ばたくこともせずに、庭木の枝を下りながら地面に没する。

「……国彦さん」

 音声ではなく、脳に直接至る音声が聞こえ、周防は身動ぐ。全神経が総毛立ち、人智を越えた脅威に対する畏怖 が吐き気すら込み上がらせてくる。こんな化け物を操るような輩の下に付いているのかと思うと、全身が総毛立つ ほどの寒気が起きる。だが、その選択をしたのは自分なのだと今一度思い直し、周防は答えた。

「なんだ」

「この空間からは、りんねさんの脳波が感じられません。鏡一さんも同様です。仕事を怠りましたね?」

 腰を曲げた巨体が、表情の現れない顔を寄せてくる。周防は腰を引きかけたが、踏み止まる。

「俺も鬼無も、御嬢様の居所は知らなかったんだ。高守信和を始末してからすぐに移動して捜索と捕獲を行うのは、 物理的に無理だろうが。文句を言うなら、自分の指示の手際の悪さに言うんだな。俺達は戦闘員であって、あんたに 気の利いたアドバイスをする秘書じゃない」

「一理ありますね」

 少々不愉快げではあったが、巨躯の御神体は触手をくねらせて周防に向けてきた。周防は堪える。

「どうする、その図体で外に出て御嬢様とヘビ野郎を捜しに行くのか?」

「いえ、その必要はなさそうですね。ムジンの反応は感じられます」

 巨躯の御神体はぐるりと頭部を巡らせてから、触手を伸ばし、本堂とは対極に位置している建物を指した。

「あの建物に向かって下さい。アソウギの反応がありますので、鏡一さんに割り当てられていたはずです。そこから、 ムジンを見つけ出して回収なさって下さい。ムジンは青く発光する金属板の集積回路ですので、ご覧になればすぐ にお解りになるかと」

「ああ、解ったよ」

 周防は巨躯の御神体に背を向けてから、足早に歩き出した。ああ待って、と鬼無から追い縋られたが、わざわざ 大荷物を担いで歩き回っては体力を無駄に消耗してしまう。死体と血と臓物だらけの建物に添って緩やかな傾斜を 下りながら、周防は己の所業を思い知った。今更ながら、無差別殺戮を行った事実に鳥肌が立ってくるが、嫌悪感 はそれほど感じなかった。それどころか、これで一乗寺と肩を並べられたのだ、という達成感すらあった。
 触手で示された建物に入ると、中は雑然としていた。他の建物は信者達の生活を支える施設だったが、この建物 は完全に私物化されていた。大量のメモ書きが貼り付けられた壁や本棚、乱雑に積み上げられた学術書、電源を 入れっぱなしになっている最新型のパソコン、デタラメな数字の羅列のようにしか見えない数学式が殴り書きされた ホワイトボード。脱ぎっぱなしの服も山となっていたが、原色と蛍光色だらけで趣味は最悪だった。シャツや着流し ばかりで、ズボンも靴下もなく、靴も一足もなかった。羽部は下半身が人間ではなくなっているのかもしれない。

「不用心というか、なんというか」

 スポーツドリンクの空きペットボトルがいくつも転がるパソコンデスクの前に、金属板の束が放置されていた。それを 掴んで数えてみると、十五枚ある。ならば、これがムジンだろう。周防はそれを手に取り、シュユの元に戻ろうと 外に出た。血と汗が染みた手袋を外してポケットに入れた時、気付いた。あれほど激しかった地震が止まり、霧が 晴れ渡っている。無意識に星の位置を確かめ、叢雲神社の鳥居を潜る前に見た星空と全く同じだと知った。
 ここは船島集落の裏側だ。止めどない欲望と際限のない金が集まる男が孤独に余生を過ごしていた集落の裏に は、異形の化け物が人心を掌握する異界が造り上げられていた。シュユという名の異形と、ラクシャに意識を移して 長らえている男を繋げるものは何なのか。意外と単純なものかもしれない。周防が一乗寺に抱いている歪曲した憧れ や執着も、一言でまとめてしまえば、不器用な恋で片付いてしまうように。
 世の中、割とそんなものだ。




 息苦しささえある濃密な霧を抜けると、闇夜が待ち受けていた。
 脱力感さえ覚えるほど楽に事が運び、羽部は拍子抜けしていた。それは伊織も同様で、ぽかんと気の抜けた顔 をしながら星空を仰ぎ見ている。これでいいのか、と二人は思わず声を揃えてしまったほどである。今頃は信者達が 侵入者達に殺されているかと思うと、ほんの少し気が咎める。平然としているのは、高守だけだった。
 高守がメモに書き記していた逃亡計画の内訳はこうである。外界と異次元の出入り口は一つしかなく、船島集落の 片隅にある叢雲神社の鳥居と離れの裏側だけだ。故に、侵入者がそこを通り抜けて入ってくるのは明白であり、 出入り口の中にも霧が大量に流れ込むとこれまでに行き来した際に経験しているので、霧に紛れて徒歩で静かに 脱すれば見つからない、という算段だった。事実、その通りだった。高守に道案内をされながら、羽部と伊織は霧の 中を黙り込んで足音を殺して歩いていったところ、侵入者達と擦れ違っても気付かれなかった。相手は三人、一人は ハイヒールを履いていた女で、残りは人間とサイボーグの戦闘員だった。今頃、彼らは人間ではない信者達を相手に 猟奇の限りを尽くしていることだろう。

『さて、行こうか』

 羽部の携帯電話を拝借して文字を打ち込んでいるのは、細い触手を伸ばしている種子だった。

「ちょい待てよ、色々と聞きてぇんだけど」

 伊織は植物を制してから、霧が少し零れてくる鳥居を親指で指した。

「まず、てめぇは高守なのか?」

『そうだよ。僕の親株はこれでね、あっちの体は子株だったんだ。あの方が便利ではあったんだけど、事態が事態 だから切り捨てざるを得なくてね。だから、しばらくは君達の世話になるよ。よろしくね』

 軟体生物のように赤黒い触手をくねらせながら、高守の意思を宿した植物は答えた。

『鳥居の下にある桜の枝は、ちゃんと回収しておいてね。でないと、異次元の入り口が開きっぱなしになって、あの人達も 出てきてしまうから。そうなったら、信者達の分身が犠牲になった意味がないよ』

「あー、おう」

 伊織は屈み、鳥居の下に横たえられている桜の枝を拾った。すると、鳥居から流れ出していた霧が消え失せ、 深い闇を薄らがせていた白がなくなった。それどころか、今し方出てきたはずの霧の立ち込めた道もなくなった。羽部も 不思議に思ったらしく、顔を突っ込んでみたり、手を入れて動かしてみたり、尻尾の先を鳥居に出し入れした。

「どういう仕掛けなの、これ? この聡明さを絵に描いたような僕でもちょっと察しが付かないんだけど」

『それは僕にも解り切っていないけど、シュユが心を開く相手がクテイだけ、ってことなんだろうね』

「クテイ? 誰だよ、そいつ」

 伊織が聞き返すと、高守は目玉に似た果実のヘタを少し掻いてから、打ち込んだ。

『シュユの伴侶、とでも言うべき存在かな。彼らの事情については、僕は少ししか知らないんだよ』

「んだよ、役に立たねぇな」

 舌打ちした伊織に、高守は更に打ち込んだ。

『とにかく、ここから移動しよう。でないと、あの人達の部下が来てしまうかもしれないからね』

「信者共はどこに行ったんだよ。つか、ここ、船島集落だろ? 出入り出来る道路は一本しかねーのに、どうやって つばめ達に見つからないように逃がしたんだ? てか、行く当てなんてあるのかよ」

 伊織が疑問をぶつけると、高守は簡潔に答えた。

『道路は一本しかないけど、山道ならいくらでもあるよ。僕が御嬢様の部下だった時に、山道に道標になるロープや 目印をいくつも置いておいたから、それを辿って市街地に向かっているはずだよ。弐天逸流の支部はそこかしこに あるし、連絡手段も持っているから、どこにでも行けるよ。そのまま弐天逸流を見限って元の暮らしに戻ってくれても いいよ、って伝えておいたから。来る者は拒まず、去る者は追わず、ってね』

「あー、そうかよ。で、俺達はどこに行くんだよ」

「そりゃ生臭坊主のところでしょ。電話を掛けてアポを取ったからには」

 伊織に急かされた羽部が返すと、高守は手早くボタンを叩いて応じた。

『そうだね。だったら、寺坂君の車を借りていこうか。事情を説明すれば、きっと解ってくれるさ』

「だからクソお坊っちゃん、生臭坊主の浪費と怠惰の象徴であるスポーツカーのキーの置き場を知らない? この 中で生臭坊主と関わりが深いのは、クソお坊っちゃんだけだからねぇ」

「は? 知らねーし、そんなもん。つか、俺、あいつの車になんか興味ねーし」

『最寄りのつばめさんの家にあるのは美野里さんの電気自動車だけだし、彼女の車なんかを借りたら色々と面倒な ことになりそうだしね。御嬢様の体が丈夫であれば、徒歩で移動出来たんだろうけどね。だから、寺坂君の車を 借りるのが最も安全な選択であって』

「家捜しすることになるかもしんねーぞ。寺坂の部屋なんてカオスだし、スペアキーだってどこにあるんだか」

 伊織が面倒くさがると、羽部は肩を竦める。

「でも、歩いていくよりはマシだろう?」

「まーなー」

『僕達は誰からも歓迎されないだろうけど、やるべきことをやらなきゃならないからね』

「この崇高にして高貴な精神の僕が、下劣な他人から好意を寄せられないってだけで心を痛めるとでも?」

「つか、マジどうでもいいし」

 集落はこっちだね、と高守が触手で進行方向を示したので、二人はそれに従って進んでいった。辺りは真っ暗で 街灯すらないため、頼れるものがないからだ。高守が筆談のために使っている携帯電話の明かりも、いつまで持つ かは解らない。現状と同じである。羽部はタイヤ痕と車の余熱がかすかに残る砂利道の上を這いずりながら、肩の上で 触手を伸び縮みさせている種子を振り払いたい衝動を堪えた。
 高守が弐天逸流側の計画と羽部の裏切りを摺り合わせてしまったため、裏切り損ねてしまった。弐天逸流を散々 虚仮にしてから陥れるつもりでいたのに、これでは消化不良だ。肩透かしだ。拍子抜けだ。無用な荒事から回避 出来たとはいえ、物足りない。多少なりとも自分の能力を評価された嬉しさはあれども、思い通りに事が運ばなかった 不満が腹の底に溜まり、羽部は薄い唇を曲げて毒牙を覗かせた。
 面白くない。





 


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