機動駐在コジロウ




本日はブリザードなり



 姿見に映る自分を眺め回し、結んだ髪の出来を確かめる。
 セミロングよりも少し長めの髪で作ったツインテールは短く、生まれつきのクセで広がり気味だったが、つばめは その出来に大いに満足していた。ヘアゴムの根本をいじってみたり、毛先を抓んでみたり、首を左右に振って髪の 揺れ具合を感じてみたり、とひとしきり楽しんでから、一歩身を引いて頬を緩める。

「結構可愛いじゃーん、この制服」

 つばめは丸襟のブラウスの襟元を整え、その下に通したボウタイをリボン結びにした。紺色のジャンパースカート で襟刳りは四角く、プリーツの幅が広いボックススカートは膝丈で、冬服はその上に四つボタンの付いたブレザーを 羽織る。これまで通っていた公立中学校は、至って普通のセーラー服だったので、ブレザーの制服が新鮮だった。 ブラウスとボウタイ以外は全てが紺色なので地味といえば地味なのだが、それでも心が弾んでくる。

「んっふふふー」

 おまけに、髪型も自由自在だ。つばめは年代物の姿見に顔を寄せ、にやけた。

「生徒が私一人しかいないんなら、どんな格好にしたって誰にも文句言われないし、他人の顔色を気にしながら髪型 決めなくても済むもんねぇー。あー楽! 最っ高!」

 そう言いながら、つばめは両腕を高々と突き上げた。これまでずっと、クラスの中では角を立てないように、上にも 下にも突出しないように、空気であれと細心の注意を払って過ごしてきた。成績も友人関係も何もかも、常に周囲に 目を配ってきたおかげで、里子であることを知られても、いじめられもせずハブられもせずに平穏無事な学校生活 を送れていた。だが、そんな生活が楽しいわけがない。

「明日はどんな色にしよーかなぁー」

 ヘアゴムの色一つ取っても、髪の結び方一つ取っても、通学カバンに付けるマスコット一つ取っても、誰かと同じ であることを強いられていた。そうでなければ、クラスのリーダー格の女子生徒よりも地味であれという暗黙の了解が あった。だから、髪をツインテールにするなんて狂気の沙汰だった。けれど、山奥のド田舎の分校にはそんなものは 一切関係ない。途方もない解放感と清々しさが、つばめの心中を吹き抜けていった。
 制服も通学カバンも勉強道具一式も、全て自宅の中に揃っていた。つばめは姿見に縦長の布を掛けてから、自室を 見渡した。二十畳の部屋はだだっ広く、石油ストーブの熱気が届いているのは部屋の一角だけだった。制服などが 入った段ボール箱とこれまた年代物の勉強机と小難しそうな本が詰まっている本棚が置いてあるのは、奥の間に 繋がるふすまに面した三畳程度だけで、残りの十七畳弱のスペースは盛大に余っていた。押し入れも備え付けられて いるのだが、それもまた妙に大きく、つばめの分厚い布団を入れてもたっぷりと空間があった。広すぎて寒々しい 自室を見渡しながら、つばめは腕を組んだ。

「ラグを敷いちゃうとせっかくの畳が台無しだし、かといってソファーを置くのも変だし、ベッドなんて以ての外だけど、 空間が余りまくってんだよなぁー。家具を置くにしても、あんまり新しいと背景から浮きまくりだし」

 より快適に過ごすためにはどうするべきか、とつばめは真剣に考え込んだ。先日まで住んでいた備前家は徹底 して洋風で家の造りもそんな感じだった。畳敷きの和間は床の間の付いた客間だけで、それも来客がなければ滅多 に使わなかった。ほとんどの床がフローリング敷きなので常にスリッパを履き、食事はダイニングテーブルに付いて 洋食がメインの食卓を囲み、広いリビングの大きなソファーで団欒する、という具合だった。だから、畳敷きの部屋で 生活したことがなかったので、インテリアが思い浮かばない。

「あ、もうこんな時間か」

 横目に目覚まし時計を見やったつばめは、登校時間が近いと知ると、石油ストーブの火を落とし、新しい教科書と ノートが詰まった重たい通学カバンを担いで部屋から出た。凍えるほど冷たい板張りの廊下は庭に面しているが、 雨戸が閉まったままだった。廊下には光量は乏しいが電球も付いているので足元は見えるのだが、薄暗くてなんとなく 気味が悪い。そう思ったつばめは雨戸に手を掛けて引っ張ってみたが、がたつくだけで滑らなかった。

「ん?」

 引っ張り方が悪いんだろうか、とつばめは通学カバンを下ろしてから再度雨戸に挑むが、結果は同じだった。指が 冷えて少し痛んだので手を振って血流を取り戻し、スカートに擦り付けて暖めてから、つばめは腰を据えて三度雨戸 に挑戦した。だが、何度やっても開かない。雨戸の枠は滑らかに光っているので蝋が塗ってあるようなので、滑りは 悪くないはずなのだが、何かが引っ掛かっているかのような感触だった。

「まあいいや、後でコジロウに開けてもらおうっと」

 雨戸が開けられなければ掃除も出来ないからだ。つばめは通学カバンを担ぎ直すと、長い廊下を通り抜けて角を 曲がり、居間に入った。障子戸を開けると炭の焼ける匂いと熱気が漂ってきたので、何事かと見回してみると、灰が 溜まった囲炉裏に火が入っていた。部屋を暖めておいてくれたのは、もちろん彼だった。

「つばめの起床を確認」

 コジロウは炭壷と着火用のマッチを脇に抱えていて、囲炉裏の傍に立っていた。ロボットが囲炉裏に火を灯す様を 想像するとなんだかシュールだが、寒い朝にはありがたいことこの上ない。きっと、コジロウを使役していた祖父が 教え込んでくれたのだろう。つばめは手を入念に暖めていたが、ふと異変に気付いた。昨日、伊織という名の怪人と 戦った際に破損したはずの背面部の傷が塞がっている。まさか、夜中に部品を交換したのだろうか。

「ねえ、コジロウ。なんで背中の傷が元通りになっているの?」

「本官には自己修復機能が搭載されている。破損の程度にもよるが、およそ八時間で自己修復は完了する」

「理屈はさっぱり解らないけど、便利なもんだなぁ」

 それってもしかしてナノマシンってやつかな、と自己完結しつつ、つばめは手を擦り合わせる。

「雨戸を開けようとしたんだけど、私の力じゃ開かなかったから、後で開けておいてくれる?」

「その命令は受け付けられない」

「へ? なんで?」

「雨戸を無理に開けては、雨戸の枠が破損する可能性がある」

「なんで枠が歪むの?」

「昨夜からの降雪の影響で、屋根に多大な量の雪が積もったことで家屋の構造物に歪みが生じているからだ」

「なるほど、そういうことだったのか。とりあえず、囲炉裏に火を入れておいてくれてありがとう」

 手を温め終えたつばめは、朝食を見繕おうと台所に向かった。

「礼には及ばない」

 背中に掛けられた機械的な言葉に、つばめはぎくりとして敷居につまずきそうになった。だが、柱を掴んで転倒を 免れ、ぎくしゃくしながら台所に入った。古い家には似合わない大型冷蔵庫を開けると、昨夜の食べ残しを流用した 在り合わせの朝食を見繕いながら、つばめは何度も深呼吸した。言葉を交わすだけでこれとは、手を繋いだりしたら 心臓麻痺でも起こすのではないだろうか。それがまるきり冗談だと思えないのが、恋心の怖いところだ。

「疲れるなぁもう……」

 つばめは自分の馬鹿さ加減にげんなりしながら、平鍋で湯を沸かした。ダシを取っている時間も余裕もなかったので 汁椀の底に塩昆布と少量の味噌を入れ、その中に湯を注いで即席の味噌汁を作る。昨晩炊いた白飯を小分けに して冷蔵保存しておいたので、それを電子レンジで暖めてからそのまま茶碗に入れる。目玉焼きを焼きたい気分 ではあったがそんな余裕はなさそうだったので、小鉢に卵を割り入れて先程沸かした湯の残りを掛け、電子レンジで 短時間加熱してから湯を切り、温泉卵に似たものを作った。後は漬物の類を添えれば、形にはなる。
 朝食一式を載せた角盆を抱え、つばめは居間に戻ったが、この角盆をどこに置いて食べればいいのか解らずに 立ち往生した。テーブルがないことは知っていたはずなのだが、作っている間はすっかり失念していた。コジロウは つばめが戸惑っていることを察してくれ、戸棚から御膳を一台出してくれたばかりか、座布団も敷いてくれた。

「物分かりが良くて助かるよ」

 つばめは角盆を御膳に据えると、厚手の座布団に座り、手を合わせてから朝食を食べ始めた。コジロウは部屋の隅で 突っ立っていたので、つばめはもう一枚座布団を出させてから、コジロウも座布団の上に座るように指示した。コジロウは 若干躊躇ったものの、つばめの命令には素直に従った。

「つばめ」

「んー、なあに?」

 歯応えのいいタクアンを囓りながらつばめが返すと、コジロウは言った。

「本官を座布団に座らせる意味が理解出来ない。本官は人間とは異なり、畳に正座しても足は痛まない。それ以前に、 本官は直立していても疲弊することはない。よって、座って休息を取る必要がない」

「立っているだけでも関節って摩耗するじゃん、だからだよ」

 目を合わせると話しづらいので、つばめは顔を背けながら答えるが、コジロウは続けて言った。

「駐在勤務が主な職務である警官ロボットは直立姿勢が基本姿勢であり、着座している方が却って関節に過負荷を 掛けて消耗を速めるというデータが、過去のリコールで判明している」

「でも、自分だけ座っているのにコジロウが突っ立っているの嫌なの」

「その意味が解らない」

「とにかく、私が座ったら一緒に座る! 御飯も付き合う! それだけでいいの!」

「了解した」

 コジロウは語気を一切乱さずに答えたが、つばめには嫌味に聞こえてしまった。だが、それはつばめの手前勝手な 感覚でしかないのであり、コジロウに悪意など存在していない。嫌味に聞こえると言うことは、ロボットを人間扱い する自分に疑問を抱いているという証拠なのだろう。けれど、それの何が悪いのだともう一方の自分が開き直って いる。日本人が道具を擬人化して扱うのは今に始まったことではないし、お人形遊びの延長だと思えばいいのだ。 もっとも、人形にしては厳つすぎて可愛気はないが、むしろその機械らしさが彼の魅力であって。
 と、どうでもいいことを考え込みそうになり、つばめは気を紛らわすために朝食を詰め込んだ。登校時間は刻一刻と 迫りつつあったので、手早く食器を洗い、身支度をしてから玄関に向かった。制服と一緒に置いてあった学校指定の コートを羽織ってスニーカーを履き、風防室を通って玄関の引き戸を開けた。途端に、吹雪に襲われた。

「わぁっ!?」

 ばしゃんっ、とガラスが揺れるほど強く引き戸を閉めたつばめは、今一度思い返してみた。

「今、四月だよね……?」

 もう一度、恐る恐る引き戸を開けてみた。風切り音を立てながら滑り込んできた猛烈な吹雪は、ほんの一瞬で顔が 凍り付きかねないほどの冷たさだった。風圧に負けそうな瞼をこじ開けて外界を注視すると、色彩は消え失せて いた。辺り一面真っ白で、道にも田畑にも起伏がなくなるほど雪が分厚く積もっていた。雨戸が開かないはずだ、と 合点が行った。これほど大量の雪が一晩で積もったなら、家が歪んで立て付けが悪くなってもなんら不思議はない。 つばめは再び引き戸を閉めてから、主を見送りに出てきてくれたコジロウに振り返った。

「コジロウ、学校はどっちにあるの?」

 船島集落の地理を把握していないため、目的地がどこかも解らない上にこの吹雪だ。つばめが問うと、コジロウは スコープアイから立体映像の地図を投影してくれた。船島集落の構造は単純なもので、山に囲まれた盆地であり、 その名の通りに船に似た楕円形だ。つばめが住む佐々木邸は船島集落の南東側、要するに船の船尾に位置して おり、今日からつばめが通うことになっている地元中学校の船島分校は船首部分に位置していた。多少の傾斜が 付いてはいるが、ほとんど一本道なので迷うことはなさそうだった。つばめはその地図を何度も見て頭に叩き込んで から、再度引き戸を開けた。だが、一歩踏み出したところでスニーカーから靴下から何から玄関先に積もった雪に 埋まり、踏み出すことすら出来ずに足を引っ込めた。

「コジロウ、雪掻きってしたの?」

「午前五時三十二分に一度、午前七時二分に二度。だが、この降雪量では焼け石に水だったようだ」

「だろうねぇ……」

 こうして会話している間にも、雪は降り積もってくる。つばめはやる気を削がれながら、外を見やった。コジロウの 言葉通り、玄関と道路を繋ぐ道には雪掻きをした後が残っていて前庭には除雪された雪が山盛りになっているが、 道にも庭にも白く冷たい粒がたっぷりと積み重なっていて行く手を阻んでいる。おまけに風が強いので、吹雪の先に 朧気に見える杉林が弓形にしなっていた。これが東京であれば、電車はすぐに全線が止まり、道路も通行止めで、 上へ下への大騒ぎになるだろうが、ここは山間の集落なのだ。だから、これが普通であり日常だ。

「ねえコジロウ、防寒着ってある?」

 こうなったら慣れるしかない、と、つばめが腹を括って問うてみると、コジロウは即答した。

「つばめの着用に適した防寒具一式は、先代マスターが既に準備している」

「あるの!?」

 なんという手際の良さ。つばめは祖父に感心すると同時に、ほのかに心中が暖かくなった。制服や勉強道具一式 にしても、防寒着にしても、つばめがこの家に住むと信じて準備してくれていたのだから。顔を会わせたのが祖父の 葬儀が最初で最後だったのが、つくづく惜しくなった。存命中に会えていたら、その愛情を直に感じることが出来た だろうと思うと、切なさが喉の奥を締め付けてきた。

「所定の位置は記憶している」

 コジロウが答えたので、つばめは切なさを振り払うために明るく命じた。

「じゃ、出してきて!」

「了解した」

 コジロウは一度風防室から屋内に戻ると、しばしの間の後に戻ってきた。その手には少し埃が被った段ボール箱が あり、箱の側面にはサインペンながらも達筆な字で、つばめちゃん用、と書いてあった。祖父の肉筆はいかにも 古風で力強いのだが、その字でちゃん付けされると微笑ましいやら気恥ずかしいやらだった。つばめはコジロウの 手から段ボール箱を受け取り、ガムテープを剥がして開くと、心なしかカビ臭い女性用スキーウェアが出てきた。 スキーウェアの下には丈の長い長靴とスキー用手袋があり、どちらも新品だった。
 これを着るには制服からジャージに着替える必要があるので、つばめは一旦自室に戻ると、着たばかりの制服を 脱いでジャージに着替えてからスキーウェアに袖を通した。グレーの分厚いズボンにはサスペンダーが付いている ので、そう簡単には脱げなさそうだった。ピンクでチェック柄のジャケットのファスナーを上げてから備え付けのフード を被り、改めて通学カバンを肩に掛ける。玄関に戻ったつばめは長靴を履いてから、コジロウに挨拶した。

「じゃ、いってきます!」

「つばめ。視界不良により、方向感覚を失う危険性がある。本官が同行する」

「大丈夫だって。学校までの道は一本道だから、真っ直ぐ行けば間違いなく辿り着けるって」

「だが、つばめ」

「自分で出来ることは、ちゃんと自分でしなきゃ。学校に行くたびにコジロウにボディガードされてもらうんじゃ、あの 成金御嬢様と戦えるわけがないもん。んじゃ、改めていってきます、火の元には気を付けてね!」

「いってらっしゃい」 

 つばめが手を振ると、コジロウも条件反射なのか手を振り返してくれた。コジロウの律儀さと心配された嬉しさで、 寒さで強張った頬がちょっと緩んだが、山の吹き下ろしが入り混じった突風に襲い掛かられ、つばめの甘ったるい 感情は一切合切吹き飛んだ。がちがちと震える顎を噛み締めながら引き戸を閉め、雪の積もった道に踏み出した。 だが、長靴の半分以上がすぐに埋まってしまい、踏み出した一歩の次が踏み出せなかった。苦労して片足を抜き、 もう一方の足を前に出すが、またもや埋まってしまった。生け垣と柿の木で出来ている表門を睨み付け、つばめは 息を荒らげながら歩いた。一歩歩くごとに体力を消耗したが、歩かなければ登校出来ないのだ。登校出来なければ 学校生活も始まらず、学校生活が始まらなければ日常は取り戻せず、日常がなければ吉岡りんね率いる一味と 戦うための土台も完成しない。だから、まずは登校しなければ何も始まらない。
 だが、しかし、目的の校舎は吹雪の彼方だった。




 一方、その頃。
 吉岡りんねの根城である別荘でも、朝食が振る舞われていた。北欧を思わせる作りのログハウスにはぴったりの マホガニーの大きなテーブルには、所狭しと料理が並んでいた。しかし、そのどれもが計り知れない不味さだった。 いずれの料理も、見た目は完璧なのである。山型食パンのトーストはキツネ色に焼け、彩り鮮やかな野菜サラダに 湯気の昇るスープ、ふんわりと柔らかいスクランブルエッグ、と一見しただけではホテル顔負けなのだが、一度口に 入れると見た目とは反比例した味が舌の上で大暴れする。
 武蔵野巌雄はコンソメスープに良く似た色合いの液体を凝視していたが、スプーンの先で少しだけ掬って、口に 入れてみた。すると、飲み下すことを脳が拒否した。なぜならば、コンソメスープに似た液体はリンゴジュースがベース だったからである。リンゴジュースを加熱しただけならまだいい、そこに塩コショウと白ワインと煮えた野菜が入って いるから、途方もなく不味かった。野菜サラダのドレッシングはマヨネーズのように見えるが実は甘ったるい練乳で、 スクランブルエッグには大量のヨーグルトが混ざっているらしく、変な酸味がする。他の連中はどうだろう、と食卓を 囲んでいる面々を窺ってみると、寝ぐせで四方八方に髪が跳ねている藤原伊織は早々に食べることを諦めていて、 高守信和は矮躯を更に縮めてちびりちびりと奇天烈な料理を食べていて、これを作った張本人のメイドの設楽道子は にこにこしながら平らげていて、吉岡りんねに至ってはトーストを残すだけとなった。

「それでは、皆さん」

 寝起きでありながらも凛としているりんねは、一同を見渡した。

「昨夜、私が取り決めた、佐々木つばめさんを襲撃する人員の選定方法についてお話しいたしましょう」

「んあ」

 多少は興味が惹かれたのか、伊織が眠たげな瞼を上げる。高守も舌先で舐め取りながら摂取していたおぞましい スープからスプーンを下ろし、道子は笑顔を保ったまま半身をりんねに向けたので、武蔵野も手を休めた。

「こういった取り決めは平等さが第一ですので、私にも他の皆さんにも解らないようにいたしました。その時が訪れる 瞬間まで、誰が行くかすら解らないのです。ですので、あなた方も私も条件は同じです。場合によっては、私が襲撃 を行うこととなりましょう。ですが、それも至極当然のことなのです。この場にいる誰もが、佐々木つばめさんとその 遺産を奪取する権利を得る機会があるのですから」

 りんねの丁寧な前置きに、伊織が毒突く。

「なんでもいいから本題に入りやがれ、マジ苛々すんだけど」

「では、御説明いたしましょう。毎朝の御食事の中にちくわが入っている方が、襲撃する権利を得ます」

 と、真面目腐った顔で言い放ったりんねに、武蔵野は頬を歪めた。笑おうか笑うまいか迷った末の結果だった。

「なんでちくわなんだよ、お嬢」

「ちくわですかぁーん、確かにキッチンの冷蔵庫にたぁーっぷり入っておりましたぁーん」

 そのためのものだったんですねぇーん、と道子が両手を組んで頷くと、高守が困惑気味に俯いた。

「……む」

「マジ意味不明なんだけど。てか、お嬢のセンス、最悪すぎだし」

 伊織が肩を震わせるが、りんねだけは笑わなかった。それどころか、真顔だった。

「ちくわの何がいけないのですか。あれはとてもおいしい食べ物ではありませんか」

「そりゃそうかもしれねぇがなぁ」

 武蔵野は笑いを辛うじて堪えつつ、全員の朝食を見渡した。この寸分も隙のない洋食のどこにちくわを混ぜてある というのだろうか。本当にちくわが混入されていたとしても、この破滅的に不味い料理に混じってちくわ本来の味が 台無しになっているのは想像に難くない。だが、サラダやスープには見当たらず、スクランブルエッグにもそれらしい ものは入っていなかった。まだ手を付けていないものはトーストだけだが、と、いうことは。
 武蔵野がトーストを引き千切ると、伊織もそれに倣い、高守と道子も同じことをした。最後にトーストを千切ったのは りんねだったが、彼女のトーストの切れ目から、紛れもなくあの円筒形の練り物が現れた。

「あらまあ」

 かすかに喜色を滲ませて、りんねはパンと同化していたちくわを頬張った。パンだけはまともな味なのだろうか、と いくらか期待を抱きながら、武蔵野は千切ったトーストを囓ってみたが、途端に噎せた。この山型パンはキッチンに あるホームベーカリーで焼いているのだろうが、生地を練る段階で大量のシナモンを混ぜたらしい。あれもれっきと したスパイスなので、香りがどれほど甘くとも量が多ければ当然辛い。道理で綺麗なキツネ色をしているわけだ、と 苦々しく思いながら、武蔵野は口に入れた分だけでも嚥下する努力をした。

「では、今回は私が出ます。よろしゅうございますね」

 りんねはシナモン臭いトーストを食べ終えてから、椅子を引いて立ち上がり、一礼した。

「はぁーいんっ、どうぞどうぞぉーんっ」

「てか、俺は外に出たくねーし。雪なんか最悪すぎだし、冬眠しちまうし」

「……ぬ」

 三者三様の反応に、りんねは再度一礼してから食べ終えた食器を重ねてキッチンに運んでいった。艶やかな黒髪 を靡かせながら通り過ぎていった少女の後ろ姿を見つつ、武蔵野はシナモン臭いパンに挑んだが、やはり二口目 は無理だった。唯一まともな味のコーヒーで口中を洗い流してから、深く息を吐いた。
 自室で身支度をするためか、りんねは二階に昇っていった。あんな小娘がリーダーだと知った時は正直腹が立ち もしたが、今となっては的確な人選なのだと納得してしまう。感情というものを母親の胎内に忘れてきたかのような 少女は動揺せず、戸惑いすら見せず、親から命じられた仕事を淡々とこなしている。三日前、佐々木つばめを襲撃 した際も極めて冷徹で、同い年の従兄弟であるつばめが伊織に痛め付けられても眉一つ動かさず、それどころか つばめをいかに効率良く陥れるかを思案していた。コジロウと名を与えられたロボットさえ起動しなければ、あの場で つばめの手足を折って誘拐する手筈になっていた。若い頃は傭兵として戦場を渡り歩いていた武蔵野でさえ躊躇 するようなことを、淀みなく言い放ち、実行する。若さ故の青さも見受けられず、ある意味では武蔵野達以上に老成 している。佐々木つばめを追い詰め、遺産を強奪するにはこれ以上ない打って付けの人材だ。
 外気の寒さとは異なる寒気が、武蔵野の足元を擦り抜けていった。





 


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