同時刻。弐天逸流本部。 度重なる微震が明確な震動となり、あらゆるものを波打たせていた。それは、シュユの産物である植物を満たした 風呂も同様で、その中に横たわっている一乗寺を包んでいる生温い水は慌ただしく揺れていた。事の行く末が不安 なのか、風呂の縁にしがみついている周防はしきりに目線を彷徨わせている。植物と自身の再生能力のおかげで 傷の痛みが薄れてきた一乗寺は、風呂の縁を握り締めている周防の手に自分の手を添えた。 「すーちゃん」 一乗寺が弱く語り掛けると、周防は情けなさそうに一笑した。 「すまん。格好悪いな、俺は」 「大丈夫だよ。どうにかなるって」 一乗寺は目を閉じ、感覚を研ぎ澄ませる。遺産同士の互換性によって生み出された情報網が、一乗寺の意識と 知覚に絶え間なく情報を流し込んでくる。いつもは鬱陶しくてたまらないが、身動きが出来ず、皆の無事を確かめる 術のない今は役立ってくれそうだ。 シュユは目覚めきっていない。それどころか、打ち捨てられている。フカセツテンは半覚醒状態から再び昏睡状態 に陥ったシュユの指示を受けられず、困惑している。フカセツテンの機関室にねじ込まれたムリョウが放つ高出力 のエネルギーは不安定だが、フカセツテンの稼働には問題はない。電脳体と切り離されたアマラは完全に沈黙し、 彼女の意識はこちらの宇宙からは隔絶されている。ナユタはムリョウを活性化させるために使用されたようだが、 現段階では暴走の危険性は見受けられない。船島集落から回収されたアソウギとタイスウは機能停止している ようだが、ラクシャがその気になれば呆気なく操られてしまうだろう。そして、そのラクシャは、今。 「よっちゃんの、腹の中……?」 一乗寺の感覚が正しければ、間違いない。だが、あの男がそう易々とラクシャに操られてしまうのだろうか。寺坂 はその特異な肉体故に昏睡状態に陥らせるだけでも一苦労だし、あれほど自我の強い男が他人の操り人形などに 成り下がろうとするだろうか。だが、寺坂に寄生している触手からは、彼の意思は感じ取れない。武蔵野も負傷して いたようだが、何度も死地を潜り抜けてきたベテランだから放っておいても生き延びるだろう。しかし、寺坂の状況は 芳しくない。彼の意図がどうあれ、佐々木長光の意志が宿ったラクシャに操られていては、いずれ。 「んぐぅっ!?」 不意に、一乗寺の首が押さえ付けられた。水中に頭が没し、ごぼぉっ、と口に残っていた空気が浮かび上がって 無益に弾ける。植物のツルの間でゆらゆらと靡く自身の髪と水面越しに、周防の顔が窺えた。片手で一乗寺の首 を締めていて、見開いた目は瞳孔が開き、唇は奇妙に歪み、骨張った五指には万力の如き力が入っていた。 圧迫された喉が震えもしなくなった頃、周防は一乗寺の首から手を外した。浮力に従って浮き上がった一乗寺が 激しく咳き込み、呼吸していると、周防は濡れた右手で顔を覆った。すまん、と一言呟いてから、周防は背を向けて 風呂場から去っていった。一乗寺は少し飲んでしまった水を吐き捨ててから、風呂の縁に縋り、荒々しく呼吸を繰り 返して酸素を脳に回した。どくどくと高鳴った胸を押さえ、徐々に熱してくる頬を冷ますために再び水に付けた。 こんなにも自分を思ってくれる彼が、愛おしい。 トリプルスレットのエキシビジョンマッチで、会場は更に盛り上がった。 何せ、実況するのが御鈴様なのだから。ステージの中央に設置された十メートル四方のリングで、レイガンドー、 岩龍、武公の三体は戦い続けていた。試合をリードしているのは美月が指示するレイガンドーで、つばめが指示を 送っている岩龍は二番手に甘んじていた。こればかりは経験の差だ。かといって、オーナーのいない武公が二体に 負けているわけではなく、武公はレイガンドーと岩龍の間を上手く立ち回り、見事な魅せ技を決めてきた。 コーナーに追い詰めた岩龍とレイガンドーを一度に掴んだ武公は、小柄ながらもパワフルな腕力を生かし、二体 同時にスープレックスを喰らわせた。頭部のセンサー類にダメージを受けた岩龍がふらつき、レイガンドーも若干 立ち上がるのが遅れてきた。武公は追撃を仕掛けようとレイガンドーにニードロップを放ち、レイガンドーはそれを 浴びてチェーンまで吹っ飛ばされた。太い鎖がじゃりんと揺れ、武公はレイガンドーを場外に叩き出そうと更なる 蹴りを加えようと足を上げるも、レイガンドーも負けてはいない。武公が足を高く上げた瞬間に掴み掛かり、逆さまに 持ち上げてパイルドライバーを叩き込む。もつれ合った二体が倒れると、今度は岩龍が武公を肩の上に担ぎ上げ、 武公の背を下に向けて豪快なシェルショックを喰らわせる。誰が勝つか解らない、大混戦である。 ラッピングされたコンガラを抱き締めながら、つばめは力任せに指示を送る。岩龍はそれに従って戦うが、武公 はそれを先読みして応戦し、レイガンドーは技を技で切り返してくる。御鈴様は声も嗄れんばかりに煽り、解説し、 破裂寸前まで膨張した場の熱気に更に刺激を与える。フカセツテンを歌で引き付けた後に信仰心を集めるという 算段は成功している。その影響なのか、コンガラの放つ光がうっすらと熱を帯びてきていた。 一進一退の攻防を続ける三体が睨み合い、ラウンド3が始まった直後、異変が起きた。全身が総毛立つほどの 寒気に襲われたつばめが身震いすると、コンガラが一際激しく反応した。高揚に支配されていたライブ会場が少し ずつ静まり始め、空が翳り、風が変わった。それらを感じ取ったのはつばめだけではなく、御鈴様は試合の実況を 中断し、三体のロボットファイターも戦いを止めた。というより、強制停止させられた。 「くっ……そぉっ!」 ラリアットを失敗して空振りをした後に突っ伏したレイガンドーは悪態を吐き、起き上がろうとする。 「なんじゃい、急にパワーが落ちて……」 チェーンから崩れ落ちて前のめりに倒れた岩龍も唸り、腕を突っ張るが上体が起きない。 「ああもうっ、もうちょっと、で……」 ポールの上に立っていた武公はバランスを崩し、盛大な金属音と共に床に叩き付けられた。三体とも手足の出力 を上げようとしているが、電圧が著しく低下してしまったのか、ギアが空回りする音が繰り返される。美月は真っ先 にレイガンドーに駆け寄り、彼の背面装甲を開いてモニターを確認し、困惑した。 「どういうこと!? レイのバッテリー、満タンにしておいたはずなのに! 一試合ぐらいじゃなくならないのに!」 「原因は、ムジン……なのか?」 途切れ途切れの合成音声を発しながら、レイガンドーはつばめを見やる。 「でも、ムジンにそんな力はないんじゃ。だって、あれはただの集積回路であって」 つばめが戸惑うと、岩龍は関節から鋭く蒸気を噴出した。 「ほんでも、ワシらに直結しとる部品じゃけぇ、遠隔操作出来ればどうにでもなるんじゃろ……! コジロウの奴ぁ、 へたりおったからワシらもこげになってしもうたんじゃいっ! ワシらは元を正せば一つじゃけぇのう!」 「でも、武公はムジンを使っていないんじゃ」 つばめが崩れ落ちた武公に向くと、武公は這いずりながらつばめに近付いてきた。 「回路はね。でも、僕のプログラムを組んだのは親父さんだ……そのプログラムの原型はムジンのやつだから……僕にも 効いちゃうぅっ……」 「立って、立ってよレイ! 私じゃダメなのは解るけど、でも、立って!」 美月は懸命にレイガンドーのパワーを戻そうとするが、操作パネルからヒューズが飛び、美月は飛び退いた。 「ひゃっ!」 「このまま場の空気が冷えてみろ、俺達の作戦は台無しだ……。そりゃ、コジロウには俺達の状況は解らんだろう が、あれほど気に入っていたつばめ以外の奴に操られる馬鹿がいるかよ……。俺はな、俺の回路が遺産だろうが 何だろうが、俺は全部が美月のものなんだぞ? 俺のマスターは、オーナーは、妹は、美月だけなんだぁっ!」 レイガンドーは強引に電圧を上げようとするが、一際派手なヒューズが飛び、再度突っ伏した。 「そがぁなことを言うたらのう、ワシのマスターは、親父さんだけなんじゃい。じゃがのう、ワシャあ小夜子のものでも あるんじゃい。ほんでもって、ワシを好きになってくれる皆のもんでもあるんじゃい。こがぁな格好悪い試合、見せて たまるけぇのう!」 岩龍も起き上がろうとするが、踏ん張りが利かない。 「試合はまだまだ終わっちゃいない、本番はこれからなんだ、それなのに、それなのにぃっ……!」 悔しげに声色を震わせながら、武公は空の歪みを睨み付ける。つばめは太いチェーンを潜り抜けて武公と岩龍に 駆け寄り、彼らの視線が射抜いている空を仰ぎ見た。そこにフカセツテンがあるのなら、コジロウはすぐ傍にいる ということだ。だが、上空にあるのでは近付けもしない。目視して距離を測ろうにも、フカセツテンの形状すらもまとも に捉えられない。まるで、透き通った氷の固まりが空に貼り付いているかのようだ。このままでは、為す術もなく接近 されてコンガラ共々奪われてしまう。信仰心を募るために掻き集められた人々も、無事では済まない。 歓声が叫声に変わり、いつしかざわめきに移り変わっていた。観客達の顔からは御鈴様の歌とロボットファイトの 高揚が抜けていき、突っ伏したまま起き上がりもしないロボット達へ罵声を飛ばす者も現れ始めた。美月はたまらず 罵声に言い返すが、収まらず、却って激しくなってしまった。その不満と苛立ちは人から人へと伝播し、罵声の数も 一気に増大した。中には、仕事を中断させられてライブに呼び出された社員達の文句も多く混じっていた。 「どうしよう、このままじゃ」 気圧されたつばめが後退ると、伊織が舌打ちする。 「つか、ウゼェな。普通はこう、応援する展開じゃねぇの? チャントとかでさぁ」 「入場の時に時間短縮のためにチャントを出さなかったから、皆、解らないんだよ。それに、今、やっても」 美月はレイガンドーの肩装甲に縋りながら、歯を食い縛る。悪辣な野次を浴びせかけられ、つばめは耳を塞ぎたく なったが、ここで気弱になっては好機を逃してしまう。けれど、気を張ろうとすればするほど膝が震え、マイクを握る 手が汗ばんできて手袋の中が湿っぽくなった。どうすればいい、考えろ、考えろ、考えろ。それがマスターとしての 役割であり、遺産を管理する者としての義務であり、この馬鹿騒ぎの中心人物としての矜持ではないか。 ステージが震えているかと錯覚するほどの罵声の嵐に紛れ、音もなく小さな影が忍び寄ってきた。赤黒く細長い 触手を器用に使って這い寄ってきた種子は、するするとつばめの足を這い上がって肩に載った。 『やあ』 「わぁっ!?」 全くの不意打ちだったのでつばめは驚くと、種子、高守は携帯電話に文字を打ち込んだ。 『状況は芳しくないみたいだね。彼らは仕事でここに来ているのであって、御鈴様の純粋なファンじゃないから、無理 もないんだけど。でも、このままだと、フカセツテンは墜落しかねないね。コジロウ君と同じ回路とプログラムを使用 している三体に情報のフィードバックがあったってことは、コジロウ君は抵抗しているんだよ、佐々木長光の支配に。 つばめさんの話を聞いた限りだと、ラクシャが記録していた情報を利用してムリョウを強制終了させたようだけど、 フカセツテンに組み込んだはいいけど再起動しきれていないのかもしれない。だから、コジロウ君は不完全燃焼を 起こしてしまったんじゃないか、と。僕の私見に過ぎないけど』 「岩龍の言う通り、これ、コジロウのせいなの?」 つばめが三体のロボットを指すと、岩龍が呻いた。 「他に誰がおるんじゃい……」 「だったら、コジロウを叩き起こせばいいってことだよね。簡単じゃない」 それ以外に打開策はなさそうだ。つばめは一度深呼吸をしてからマイクを掲げると、伊織が遮った。 「馬鹿なこと言ってんじゃねぇ。ここでぎゃあぎゃあ騒いでも、あの木偶の坊に聞こえるかよ」 「聞こえるよ。聞こえないわけがない」 つばめはマイクを握り直し、フカセツテンを見据えた。徐々に高度が下がってきている。空の歪みの範囲が広がって いるように見えるのは、こちらに近付いているからだ。東京湾から吹き付けてくる潮風の流れも変わり、心なしか 気温も上がっている。フカセツテンが発するエネルギーの影響なのだろうか。 羽部が言った通り、つばめが本物だとしたら。美野里が言っていたことが、全て嘘だとしたら。フカセツテンもまた 遺産の一つに過ぎないのであれば、つばめが操れないわけがない。増して、その動力部がコジロウであれば尚更 だ。だが、どうやって声を届かせる。声、すなわち音とは振動だ。振動が伝わるためには空気が繋がっている必要 がある。だが、フカセツテンの中は異次元だ。繋がっていない空間に、音が響くとは思いがたい。 「いや、待てよ?」 確か、弐天逸流の本部と外界は携帯電話が通じていた。それを思い出し、つばめは高守の携帯電話を掴む。 「ねえ高守さん、あの中に通じる携帯ってある?」 『ああ、いくつかね。信者達の携帯電話は中にあるし、アドレスも覚えているけど……ああ、そういうことか!』 「察しが良くて結構!」 つばめがにんまりすると、高守は手早く電話番号を入力し、携帯電話をつばめに差し出してきた。 「でも、その携帯がコジロウ君の近くにあるとは限らないんじゃ」 美月の尤もな意見に、つばめはちょっと照れた。 「だとしても、コジロウなら絶対に気付いてくれるって。昨日だって、電話も繋げていなかったのに私がちょっと名前を 呼んだだけですっ飛んできてくれたんだもん。だから、きっと聞こえる」 「つか、なんで携帯が通じるんだよ。意味解んね」 伊織の言葉に、高守は返す。 『本部の敷地内に携帯の基地局を作ってあるんだよ。ハルノネットに手伝ってもらったんだ』 「あー、そうかよ。んじゃ、歌ってやるよ。あの木偶の坊を叩き起こせるぐらい、強烈なやつをよ」 伊織はマイクをつばめに向けてきたが、つばめはそれを断った。 「ありがとう。でも、それは御鈴様の歌であって、私の歌じゃないから」 「てめぇのためじゃねぇよ、勘違いすんな。シュユを叩き起こすついでだ。この空気も、俺ならどうにか出来る」 見ていやがれ、と口角を吊り上げ、伊織は再び御鈴様の顔になった。立ち姿も一変し、その眼差しは切なさと憂い を湛えて観客達を見渡した。すかさずカメラが御鈴様を捉え、ホログラフィーモニターに大写しにする。マイクを両手 で握った御鈴様は観客の一人一人と目を合わせるように視線を動かしていたが、少し俯いた。 「今日、こうして皆に集まってもらったのは理由があるの。皆の心を、ほんの少し貸してもらうためなの!」 いきなり何を言い出すのだ、とつばめが目を剥くと、御鈴様は目元を拭うふりをして悪辣な笑みを作った。が、すぐに それを打ち消してから、星屑を思わせるエフェクトの付いた照明を浴びつつ、御鈴様は語る。 「レイガンドーを、岩龍を、武公を応援してあげて! 彼らは画期的な新機構を備えた、吉岡グループが新開発した ロボットのプロトタイプなの! ロボットファイターとして活躍している彼らの原動力は、そう、人の心なの!」 御鈴様はやや声を上擦らせ、演技に信憑性を持たせた。 「吉岡グループを支える優秀な社員である皆が、日頃から積み重ねてきた業績と実績の賜物なの! けれど、彼ら のシステムはまだまだ発展途上、量産段階には至っていない! なぜならば、彼らを立ち上がらせるために必要な 人の心の数はとてつもなく大きいから! 皆、少し考えてみて! 大勢の人が一つのことを信じる心で動くロボットが 作り出すのは娯楽でも戦争でもないってことを! 吉岡グループは、いいえ、皆は世界をひっくり返すかもしれない 試験運用に立ち会っているのよ!」 とんでもないことを言い出した。つばめは呆気に取られ、美月は反論しようとしかけて口を噤み、当の本人達で あるロボットファイター達は顔を見合わせた。確かに、今し方まで戦っていたロボット達がいきなり倒れた理由を 説明しなければブーイングは収まらないだろうが、何もそこまで話を盛ることはないだろうに。 「だから、皆、思い切り応援して! レイガンドーを、岩龍を、武公を、そして私を!」 と、御鈴様はポーズを決めて会場全体に叫ぶと、観客達は一拍置いてから沸き立った。ほれ繋いでおけ、と素の 表情に戻った伊織に急かされ、つばめは高守から借りた携帯電話の通話ボタンを押した。数回のコール音の後に 繋がったが、電話口に相手は出なかった。ならば、どこの誰が受信しているのか、とつばめが訝ると、高守が触手を 掲げてみせた。弐天逸流の本部に残してきた子株を遠隔操作している、と言いたいのだろう。遺産絡みの者達は 皆人間離れしているが、高守は中でも群を抜いている。つばめはそんなことに感心しつつも、御鈴様の呼び掛け に応じて再び熱してきた歓声に携帯電話を向けた。 一陣の風が、ライブ会場を吹き抜けた。それは東京湾を巡ってきた潮風でもなければ秋口の冷ややかな風でも なく、神経を逆撫でする違和感を帯びていた。その理由を突き止める間もなく、遙か上空に見えていた空の歪みが 拡大していく。否、接近しつつあるのだ。御鈴様が信仰心を募ってシュユを目覚めさせたのであれば、フカセツテン が墜落することもないのでは、とつばめは戸惑ったが、今、フカセツテンを支えているのはシュユでもなければ祖父 でもない。エンジンであるコジロウだ。コジロウが祖父に逆らい、シュユにすらも抗い、その影響が兄弟分とも言える 三体のロボットに及んでいたとしたら。 「コジロウ」 彼を信じるしかない。つばめは携帯電話を耳に当て、彼に話し掛けた。 「ねえ、聞こえる? コジロウ、起きてよ。戻ってきてよ。コジロウは私のボディーガードで、家族で、友達で」 恋人なんだから、と歓声に掻き消されるほどの小声で付け加え、つばめは携帯電話を胸に押し当てた。今回の 事態を招いたのは、つばめの判断ミスだ。コジロウにも、皆にも、謝っても謝りきれないほどのダメージを与えて しまった。美野里を疑いもしなかったから、無用な損害を生んでしまった。だから、そんなことを言える立場にないとは 解っている。人間同士だったら、確実に嫌われる。けれど、もう一度会わなければ謝ることすら出来ないのだから。 応えてくれ、聞こえていてくれ。一心に願いながら、つばめは今一度空を睨んだ。 風が変わった。 通話中の携帯電話を発見、破壊した時には、既に手遅れだった。 ムリョウを収めた結晶体が放つ光はナユタを活性化させ、無秩序な破壊が始まりつつあった。鋭い光条が霧が 満ちた空を貫き、空間と空間を隔てている外殻ごと穿った。外界と異次元の物理的法則の違いが生み出す衝撃波 は凄まじく、崩壊した本堂を一瞬で抉り、塵一つない新地に変えてしまったほどだった。 爆風が過ぎ去ってから、美野里は触角を上げて物陰から顔を出した。ナユタが暴走した際の光景は、長光に意思 を奪われた上体ではあったが海岸から目視していた。あの時と同じように見えるが、攻撃の範囲が局地的だ。新免 工業の大型客船を無差別に破壊したのはつばめの無意識下の防衛機制と、コジロウがつばめを守らんとするプロ グラムの相乗作用によってあのような惨劇を招いてしまったが、今回は違う。明確な敵を見定めている。 青い光を打ち消しかねないほど強烈な赤い光が、結晶体の中心に宿る。携帯電話越しのつばめの呼び掛けだけ で、コジロウが再起動したのだ。警官ロボットは躊躇いもなく結晶体を破壊して脱すると、浮遊しているナユタを回収 した後、異次元空間を見渡した。物言わぬマスクフェイスに凄みを感じたのは、気のせいではあるまい。 ナユタを握り締める手には恐ろしく力が込められ、コジロウの右手のモーターが発熱しているのか、関節の繋ぎ目 から薄く煙が漂っていた。人間ならば、怒り心頭、とでも言うべきだろうか。消滅した瓦礫の残滓である粉塵に足跡を 残しながら半球状の穴から歩み出してきたコジロウは、再度、辺りを見回した。 「あれ、どうします?」 少々臆しながら、美野里がコジロウを示すと、寺坂の肉体を借りた長光は顎をさすった。美野里共々、コジロウの前 から物陰に逃げ込んでいたのである。 「善太郎君の体は再生しきっていませんし、ムリョウと正面切って戦うのはさすがに分が悪いですので、邪魔者同士 で潰し合って頂きましょうか」 「では、シュユを?」 「ええ、もちろん。りんねさんの歌で、半分ほどお目覚めになっているようですからね」 長光は美野里の目の前に触手を差し出してきたので、美野里はそれを迷わず断ち切った。体液を撒き散らしながら のたうつ触手を拾った長光は、時折痙攣している偶像の神に向けて放り投げた。触手の切れ端はシュユの背中の 光輪に落ちて跳ね、転がり、背中の中程に落ち着いた。途端にシュユの触手が反応し、荒々しく躍動した。光輪から 放たれる光量も倍増し、シュユは触手を突っ張らせながら緩やかに起き上がっていく。 「この体もクテイの産物なのですから、彼が反応するのは当然ですよ。男なのですから」 体表面に貼り付いていた砂を落としながら自立した異形を見、長光が挑発的に頬を持ち上げる。コジロウとシュユの 視界から遠のこうとしたのか、長光の左腕がごく自然に美野里の腰に回り、引いていた。外骨格越しでも感じる手の 感触に、場違いな感情を覚え、美野里は一層体を小さくして庭石の影に身を潜めた。長光の胸の中では心臓はまだ 再生していないのだろう、外骨格を接しても鼓動は聞こえてこなかった。それが、いやに残念だった。 互いの存在を認識した怪物と警官ロボットは、程なくして対峙した。どちらも警戒心を漲らせて身構えたが、それは ほんの短時間だった。コジロウとシュユの視線が動き、庭石の影に隠れている長光を捉えた。美野里は反撃しよう と腰を上げかけるが、長光は美野里を制してきた。二体は二人の生体反応を検知しているのだろう、迷わずこちら に向かってきた。シュユの下半身を成している触手が通り過ぎた後の地面には、足跡とは言い難い一筋の痕跡 が付いた。頭部と胴体こそ人間のそれに近いが、両手足は全て触手で出来ている。神と呼ぶには禍々しすぎる姿 に、美野里はぎちりと顎を噛み合わせた。弐天逸流は悪趣味極まりない。 「さあ、お二方」 長光は恐れもせずに二体の前に出ると、触手を枝分かれさせ、両者に伸ばした。 「私の言葉をお聞きなさい」 かすかな電流が、美野里の脳内を走る。長光はラクシャを用いて遺産と遺産の産物に直接働きかけ、生体電流 を操作したからである。単純だからこそ確実な、服従の命令だった。半覚醒状態で意識が希薄なシュユは自我を 揺さぶられたのか、よろめく。再起動したがシステムの立ち上げが不完全なコジロウは赤いゴーグルを点滅させ、 戦闘態勢を解いている。すかさず、長光は追い打ちを掛ける。 「あなた方の主は私です。お解りですね?」 長光の言葉に、巨体の異形と警官ロボットは膝を折って頭を垂れた。思い通りの結果を得られて満足したのか、 長光は何度も頷いている。そんな彼に心酔する一方で、美野里はコジロウの反応に驚いていた。あれほどつばめ に執着していたのに、長光に小細工をされた程度で、執着心が薄れてしまうとは。ますますつばめを嘲りたくなり、 美野里は腹の底から込み上がってくる笑いを堪えた。 コジロウは動力部こそオーバーテクノロジーの結晶だが、それ以外はちゃちなオモチャだ。その証拠に、簡単な 小細工で忠誠心が消え去ってしまったのだから。それでも、つばめはコジロウを慕っているのかと思うと、心底馬鹿 馬鹿しい。人形遊びの延長だ、パンダのぬいぐるみの代用品だ、浅はかな家族ごっこだ。そんな茶番劇につい先日 まで付き合っていたのかと思うと、我ながら反吐が出る。 では参りましょう、と長光は外界へと至る穴を指し示した。コジロウは右手できつく握り締めていたナユタを解放し、 浮かばせると、長光がそれに触れた。途端に青い光が球状に広がり、重力すらも阻むエネルギーフィールドが発生 した。長光、美野里、シュユ、そしてコジロウが光の中に収まると、長光が触手を軽く振り上げた。 長光の指示に従って、ナユタを核とした球状のエネルギーフィールドは急上昇した。外殻を穿った穴に突っ込み、 貫いた瞬間、シュユがびくりと触手を痙攣させた。フカセツテン本体と連動しているから、ダメージが逆流したのだ。 霧を抜けると、頭上には青空が広がっていた。足元にはフカセツテンが浮かんでいるが、異次元に存在する物質が 形成している結晶体で構成されたフカセツテンは、本来の世界では屈折率が大幅に変化するらしく、完全に透き通って いて目視しづらくなっていた。それでも、遺産と関わりの深い者には見えるのだろう。 美野里は、ステージ上のつばめと目が合った。フカセツテンの真下には物凄い数の人間がひしめき合っていて、 怒濤のような大歓声が湧いている。ステージでは特設のリングが設置されていて、三体のロボットが立ち上がろうと 懸命に四肢に動力を注いでいる。手を叩き、声を上げ、衣装を翻して観客達を煽っているのは、吉岡りんねだ。否、 吉岡りんねの肉体に同化している藤原伊織だ。恐らく、シュユを覚醒させるために必要な信仰心を掻き集めようと いう腹積もりで開いたイベントなのだろう。となれば、観客達は吉岡グループの社員であるとみて間違いない。だと すれば、吉岡グループも浅慮極まりない。吉岡グループの社員の大多数は、長光を信奉しているのだから。 コンガラを奪い返すのは造作もない。更に言えば、コジロウを寝返らせ、つばめが雇用した面々も分散している のだから、つばめを守れる者はいない。吉岡グループ、或いは政府の戦闘サイボーグが現れたとしても、美野里の 敵ではないからだ。コンガラを操って物体を複製するとしても、つばめの足りない頭ではまず対抗策など思い付かない だろう。この戦い、負けるわけがない。美野里は笑みを浮かべるように顎を開き、爪を擦り合わせた。 「美野里さん。あまり、つばめさんのことを嫌わないであげて下さいね?」 長光は口角を持ち上げ、美野里に柔らかく語り掛けた。 「管理者権限が隔世遺伝するように設定したのはクテイです。その思慮を知っておきながら私の庇護下から離れ、 愚かにも人間に紛れて生きようとした長男夫婦の愚行の果てに生まれてしまった、不幸な孫娘です。管理者権限を 持て余してしまうのも、遺産に振り回されるのも、それらを利用しようと近付いてくる大人達の喰い物にされてしまう のも、あの子の責任ではないのですから」 「マスターはお優しすぎます」 そんな祖父を蔑ろに出来るのだから、つばめの神経を疑う。美野里は腹部を膨らませて呼吸を整えて、ステージ に立っているつばめを注視した。無数に区分けされた複眼の数だけ、つばめの姿も見え、一層苛立ちが増す。 長光の元から佐々木長孝とひばりが逃亡しなければ、長光の人生はここまで狂わなかった。長男夫婦が長光を 支えていてくれれば、長光はもっと長く生きられた。そればかりか、管理者権限を持って生まれたつばめを完全に 支配下に置くことが出来た。そうなれば、桜の木と共に眠りに付いているクテイは目覚め、長光の心身を満たして くれたことだろう。美野里はクテイの身代わりにすらなれない。だから、クテイを目覚めさせる手助けをすることでしか 長光には恩を返せない。長光が遺産を売却して船島集落の土地を買い上げなければクテイが同化した桜の木は 現存していたかどうか危うく、遺産が存在していなければ現代社会の基盤は築き上げられなかっただろう。なのに、 誰も彼も長光を疎み、恨み、憎んでいる。それもまた、許せない。 その歯痒さを戦意に変え、美野里は空中に身を投じた。 12 12/16 |