機動駐在コジロウ




井の中のカルト



 霧が晴れ、汚れた窓から鮮烈な西日が差し込んだ。
 すぐさま、高守はそれが異常事態であると悟った。異次元に立ち込めている霧は、余程のことがない限りは絶対 に晴れない。霧とは通常の空間と異次元を隔てる障壁であり、境界だ。この異次元を作り出している長孝が、外界 との隔たりを消したのであれば問題はないのだが、長孝はひどく動揺していたので、そうではないらしい。
 と、いうことは。高守が長孝に触手を向けると、長孝は凹凸のない顔を巡らせた。かつん、かつん、と硬い足音が 階段を昇ってこちらへと近付いてくる。饐えた空気に生臭みが混じり、一層濁る。磨りガラスに影が掛かり、足音の 主がノブを掴み、ぎしりと回した。ドアが開ききると、そこには人型ホタルが立っていた。備前美野里だ。

「お前は備前じゃないな」

 長孝は人型ホタルを視認すると同時に、その正体を察した。アソウギの力を受けて人智を超越した美野里もまた 遺産の互換性からは逸脱出来ないはずなのだが、彼女とは何も通じ合えなかった。その力の根源となっているもの がクテイかシュユの違いがあろうとも、多少の繋がりは生まれる。だが、美野里は全てから切り離されていた。ここ まで近付かれたのに、気配すら感じ取れなかったのだから。
 磨りガラスのドアに神経質な仕草で爪を立ててから、人型ホタルは複眼の付いた頭を回した。細長い触角もまた 揺れ、埃と共に匂いの粒子を絡め取る。歴戦の勇士の鎧を思わせる傷を無数に帯びた外骨格は、痛々しさ以上に 勇ましさを感じさせる。人型ホタルは長孝を見据えると、きち、と顎を開いた。

「お久し振りですね、長孝」

 口調だけではなく、声色も美野里からは懸け離れていた。低く掠れた、老いた男の声だった。

「父さん」

 長孝の呟きは声色を抑えてはいたが、数多の恨み、辛み、蔑み、怒りを含んでいた。人型ホタルの肉体を借りた 長光は触角を片方曲げ、腕を組むような仕草で上両足を曲げた。

「私がこの姿になっていようとも、驚きもしませんか。相変わらず、冷めていますね」

「他人の肉体を間借りするのは、あんたの常套手段だからな。驚くだけ、感情の無駄遣いだ」

 長孝が冷徹に返すと、長光は首を曲げる。

「ここを見つけ出すのに苦労しましたよ。長孝が勤めていた工場を見つけたはいいものの、その抵当やら何やらは 既にあなたのものに変更されていましたからねぇ。会社の名義もさることながら、不動産の権利までもが。それ以前 の持ち主に接触して掛け合ってみましたけど、長孝に譲ったからと言い張るばかりで無駄足でした」

「この会社の社長は、俺に目を掛けてくれたんだ。だから、俺が相続したんだ。それだけのことだ」

「なんでしたら、その社長さんの養子になればよろしかったのに。ああ、無理ですね。その体では」

 長光が可笑しげに肩を揺すると、長孝はつるりとした顔面を僅かに歪ませた。

「ハチに何を吹き込んだ? そうでもなければ、あいつはあんたの思い通りには動かなかったはずだ」

「別に何もしてはおりませんよ。ただ、実家に帰ってきてもいいですよ、と言っただけです」

 長光は無数の複眼に長男を映り込ませ、顎を開く。

「八五郎はあなたと違って、根が素直ですからね。私が子供の頃にろくに構ってやらなかった分、ほんの少し誘いを 掛けるだけで面白いように動いてくれましたよ。長孝がひばりさんと御一緒に一度も実家に帰ってきていないことを 教えてやった上で、実家に帰ってきてもいいですよ、と言ってあげただけで、文香さんの胎内で繋留流産したりんね さんを持って帰ってきてくれたばかりか、ハルノネットの経営権までもを明け渡してくれました。良い子ですよ」

「ハチは死んだ。神名円明に填められて殺された。あんたのせいでだ」

「ええ、存じ上げておりますよ。神名君は私が生き返らせて差し上げたのですから」

 長光は顎を押さえ、くつくつと喉の奥で笑みを殺す。

「神名君と知り合ったのは、随分と昔のことですよ。神名君は、ひばりさんの御父様が経営していらした会社の社員 だったのですが、その有能さとは反比例した環境で燻っていたのです。そこで、神名君をサイボーグの開発を行って いる会社に転職させ、更にその会社に兵器開発を斡旋してやり、新免工業を立ち上げる手伝いもしました。おかげ で神名君は大成功しましたが、博愛主義の名の下に不特定多数の女性に手を出すという悪癖がありまして、その せいで色々と面倒なことになりましたよ。後始末やら何やらで、無駄金を使ってしまいました。なので、神名君が息子 に殺されたと知った時はほっとしました。これで彼を人間もどきに加工して、良いように扱えるとね」

「神名円明の目的も利用したのか」

「ええ、もちろん。人間もどきの実用性とそれを支配するネットワークを実証するためには、きちんとした実験をする 必要がありましたからね。弐天逸流は人間もどきを内々でしか使っていませんでしたから、人間もどきが本物よりも どれほど優れているか、劣っているか、を調べる機会がありませんでした。ですが、神名君のおかげで随分と捗り ましたよ。これで、クテイを心行くまで満たしてあげられます」

「あんたは何がしたいんだ」

「ここまで言っても、まだお解りになりませんか? 桑原れんげを手に入れに来たのですから、おのずと想像が付く とは思いますけどねぇ。もっとも、私はそれをあなたに教える義理もなければ義務もありません。あなたに会えると は思ってもいませんでしたけど、願ってもない機会です。もう一度お会いして」

 かりっ、と長光の下両足の爪先がコンクリートの床を削る。直後、黒い矢が長孝に突っ込み、長孝の体は一瞬で 後方に吹っ飛ばされた。スチール机を薙ぎ払いながら壁に突っ込んだ息子を眺め、長光は満足げにかちかちと顎を 開閉させる。書類やファイルの切れ端が絡んだ触手を垂らしながら長孝が崩れ落ちると、長光は哄笑する。

「あなたを殺したかったんです! それだけは他の誰にも譲れないのですよ!」

「う、ぁ……」

 胸部を大きく抉られた長孝は呻き、触手を痙攣させる。作業着の胸元に赤黒い体液が滲み、滴る。

「覚えておいでですかぁっ、長孝! きっと覚えていないでしょうねぇっ!」

 長光は崩れたスチール机を身軽に乗り越えると、長孝に詰め寄り、その顔を爪の生えた手で握り締める。

「あなたが生まれた時、あなたはクテイの腕に抱かれた! そればかりか、クテイから体液を与えられた! あなたの 生体構造が人間に比較的近いと知ると、クテイはあなたのために食事を作って食べさせた! あなたが大きくなって くると、あなたを連れて外に出るようになった! あなたが生まれた日から、クテイの生活の中心は全て長孝に支配 されてしまった! それが、私にとってどれほどの屈辱で、恥辱で、陵辱であったかあああああっ!」

 激昂した長光は大きく振りかぶり、長孝を力一杯床に叩き付ける。コンクリートが抉れ、ヒビが走る。

「私は猛烈に後悔しました、クテイに我が子を生ませたことを。ですが、クテイを悲しませたくありませんでしたから、 あなたを殺せませんでした。私と似た名前にしてしまえば、あなたに愛着が湧いてきて気が晴れるのではと思ったの ですが、似た名前にすればするほど、クテイが私に良く似ているけど私ではない名前を呼べば呼ぶほど、私はあなた が憎らしくてっ、たまらなく、なっ、たぁあああああっ!」

 スチール机、ファイルの山、椅子、応接用のソファー、と長光は、息子の上に手当たり次第に物を投げ落とす。

「私はクテイの全てでありたいっ、クテイは私の全てだからっ、クテイこそがこの宇宙の中心だからぁああっ!」

 一際重たい金庫を担ぎ上げた長光は、仰け反りかけたが、それを渾身の力で投げ込んだ。スチール机と椅子の 詰まった大穴が再び抉れ、ぐぶぅっ、とくぐもった呻きが漏れた。同時に、赤黒い体液が天井まで噴き上がる。

「私が最も許せないのは、あなたがクテイが私の元から脱そうとした理由を作ったことです。十四年前、あなたから 電話を受けたクテイは、夜中に寝床を抜け出しました。そうです、覚えていますでしょう、ひばりさんが妊娠したとの 連絡を受けたからですよ。クテイはあなたと八五郎に無用なトラブルが被るのを避けるためなのか、管理者権限が 隔世遺伝するように細工を施していましたからね。だから、孫として生まれる胎児に生体接触を図り、管理者権限を なくそうとでも考えていたのかもしれません。ですが、そのせいで、そのせいで、そのせいでぇえええええっ!」

 天井まで飛び上がった長光は、天井を蹴り付け、金庫に全体重を掛けた蹴りを銜えた。床が割れ、崩れる。

「船島集落を抜け出そうとしていたクテイは、善太郎君の乗るバイクに撥ねられてしまったのですよ! そればかり か、クテイは善太郎君が失った右腕に自分の触手を移植しました! そのせいでクテイの数学的にも完璧な美しさ が損なわれたのです! 隙を見て善太郎君の触手を切断しようかとも思いましたが、仮にもクテイの触手ですから、 傷付けられるわけがありませんでしたよ! その歯痒さたるや!」

 崩落していく床を見下ろしながら、長光は高らかに叫ぶ。

「この空間であれば、クテイは私の悪しき殺意を捕食せずに済みますからね。クテイは全てに置いて美しくあるべき なのです、捕食する感情でさえも。ですから、私があなたを殺す際の激情は、私の内だけで止めます」

 これこそが、佐々木長光なのだ。老いた男が宿していた苛烈な愛情を目の当たりにし、事務室の隅に身を潜めた 高守は戦慄していた。長光は元から人間ではない、と長孝が言っていた意味が痛烈に理解出来る。我が子にさえも 嫉妬心を抱くのだから、正気ではない。その妻を孕ませたのはお前じゃないか、と高守は言い返しかったが、そんな 余裕はなかった。長光は遺産の互換性によるネットワークを切断しているので、こちらの思念が漏れないのが幸い だったが、それだけで何になるものか。この場を凌げなければ、長孝も高守も、桑原れんげも無事では済まない。
 何もしたくない、何も考えたくない、何にもなりたくない。高守は心中で淀む怠惰への憧憬と、目の前の凶行への 畏怖と、長光の理不尽さへの憤りを燻らせた。だが、長孝を助けたところで何になるのだ。長孝は高守の味方では ないし、シュユと長孝を繋げるための部品として利用されそうになっていたではないか。しかし、それは高守も納得 した上での決断だ。高守は誰かに従っていたいから、自由に怯えているから、愚鈍な道具でいたい。

「まだ息がありますか。では、こうしましょう。あなたの触手を一本一本切り落とし、裂いていきましょう」

 長光は穴から一階を覗き込むと、上機嫌に笑った。白っぽい粉塵が黒い外骨格に舞い降り、薄汚れる。

「それほどまでに許せないのですよ。クテイの愛を注がれていた、あなたが」

 長光は穴に身を投じ、姿を消した。逃げるなら今だ。今しかない。今ならば、長光がこの異次元に踏み込んできた 時の穴が空いているはずだ。土よりも硬いので手間取るだろうが、コンクリートを使えば体を作れる。そうすれば、 逃げられる。逃げて逃げて逃げて、だが、その先はどうする。逃げた先に何がある。逃げた先にあるのは外の世界 であり、高守が恐れて止まない世間であり、弐天逸流に入信した人々が遠ざけてきた現実がある。

「さあ、まずはどの触手から切り落としましょうかね。仮にも職人であるあなたのことですから、一番使い込んでいる 触手には触れられたくもないでしょうねぇ? ああ、これですね、一目で解りますよ。皮膚の厚さが違いますから」

 長光の浮かれた言葉に、長孝の呻きが重なる。

「ほら、切りましたよ。ああ、残念ですね、この触手で色々な機械を作り上げてきましたのにねぇ」

 止めろ、止めてくれ、と長孝は哀願するが、長光はそれを聞き流す。

「クテイがあなたに注いだ情の分だけ、あなたを切り刻めるのかと思うと、楽しすぎて楽しすぎて」

 体液の飛び散る音、無造作に投げ捨てられた肉の帯が壁に貼り付く音、長孝の苦しげな喘ぎ。

「こんなに満ち足りた気分になったのは、クテイと初めて床を共にした時以来ですよ。ああ……素晴らしい……」

 現実とは惨く、痛く、厳しく、やるせないものだ。だから、高守はシュユを求めて止まない。そのシュユと再び繋がる ことが出来る機会を与えてくれるかもしれない長孝が、ここで潰えてしまっては二度とシュユとは通じ合えない。高守 は現実という名の地獄に放り出されてしまう。それだけは嫌だ。嫌で、嫌で、嫌でたまらない。
 だから、今、長光と戦うしかない。高守はかなり歪んだ経緯で得た戦意を糧にして、触手を這わせてコンクリートに ねじ込み、底の浅い体力を使って振動波を放った。途端に分子構造が変換されて粘土に変化したコンクリートは、 高守の触手に絡み合ってきた。柔らかなコンクリートを寄せ集めて人型に練り直し、再度硬化させ、灰色の巨体に 種子を埋め込んだ。刀の代わりになりそうなものは簡単に見つかった。製図用のステンレス製の定規だ。それを二本 拝借してから、桑原れんげの情報を収めたサーバーである指輪を粘土の中に埋め込んだ。
 ステンレス製の定規を握りながら振動を与えて、刀の形に変える。それを両手に一本ずつ携えた高守は、穴から 一階に飛び降りた。工業用の機械の上に着地した高守が顔を上げると、赤黒い体液の海に横たわっている長孝は 両方の触手を半分以上切り落とされていて、作業着の袖の中には無惨な切り口が並んでいた。

「おや。意外な伏兵ですね」

 長光は息子の触手をぶぢゅりと握り潰してから、放り捨て、高守と向き直った。

「あなたは確か……高守君ですね? 弐天逸流の」

「ああ、そうだよ」

 高守は即席の刀を構え、長光と対峙する。長光は汚れた爪を擦り合わせ、滑り気を払う。

「だとしても、あなたには愚息を助ける理由などありませんでしょうに。弐天逸流を存続させたいのでしょう、今後も 外界から隔絶されている閉じた世界に収まっていたのでしょう。だとしたら、シュユを見限ってクテイを崇めなさい。 クテイこそが本物の神であり、宇宙の真理です。何者かに寄り掛かっていたいのでしたら、クテイに寄り掛かれば よろしいではありませんか。シュユなどを信じたところで、あなたの心は救われませんよ」

「僕は心はいらない」

「おやおや、高守君は仮にも人間だったではありませんか。それなのに、信仰の自由すらも放棄するのですか?」

「自由もいらない」

「そうですか。あなたは無欲な振りをしてはいますが、誰よりも強欲ですね、そうやって誰かに支えられて生きようと するのですから」

「解り切っている。僕は、そういう奴なんだ」

 長光との距離を測りつつ、高守は体内に埋めたアマラとナユタの複製体に念じた。つばめの心臓の鼓動に似せた タイミングで振動を与えてやると、僅かばかり反応を返してくれた。だが、それだけでは桑原れんげを操れるほどの 出力は得られなかった。管理者ログイン画面が開いただけ、とでも言うような状態だ。それでも、出来ることはある。 高守は余力を振り絞り、桑原れんげの名を心中で連呼した。概念を掻き集め、凝縮させれば、事象となる。
 窓から差し込む光が収束し、古びた工場と生臭い殺戮の場に似付かわしくない、幻影の少女が現れる。しかし、 その姿は偶像のイメージを煮詰めたアイドルではなかった。設楽道子が十代だった頃の外見を元にした、地味な 紺色の制服姿で顔付きもぱっとしない少女だった。それが、真の桑原れんげだった。

「れんげさん? ですが、私の知るれんげさんは、もっと派手ではありませんでしたか?」

 長光は訝り、幻影の少女を見やった。桑原れんげは外見に添ったおどおどした表情で、高守を窺う。

「あの、私、どうすれば……」

「れんげさん。僕は元々、なんだった?」

 高守が問うと、れんげは目を彷徨わせてから言った。

「えっと、私のデータベースに寄れば、高守さんは元々は人間で」

「だったら、それを全部書き換えてくれ。僕をシュユにしてくれ。いや、僕は本当はシュユだった」

「無理ですよ、だってそれは概念じゃなくて事実であって」

 れんげは躊躇ったが、高守は胸に手を添え、その内に納めた複製体の遺産を押さえる。

「エネルギーが足りないなら、僕の三十何年分の感情を一切合切使ってくれ。僕はシュユでいたい」

「何を馬鹿げたことを仰いますか! そんなことをしたところで、異次元宇宙と物質宇宙の接続が蘇るとでも!?  シュユとクテイの力関係が入れ替わるとでも!? そのようなデウス・エクス・マキナが許されるわけがない!」

 長光は嘲笑するが、高守は揺らがなかった。今一度、れんげに懇願すると、れんげは躊躇いを残しつつも概念を 書き換えるために必要なエネルギー量と、それによる影響を検証するための演算を始めた。十数秒後、れんげは 高守が過去に蓄積した感情と、桑原れんげを維持するために必要なエネルギーを全て使い切れば、理論上では 可能だと答えた。つまり、高守の概念を改変すれば、れんげも原形を止めなくなるということだ。

「僕にも欲しいものはある。だけど、それは僕が人間である限りは手に入れられないものなんだ」

「でしたら、なぜ私の膝下に屈さないのです。それが最も賢い選択だと、なぜお解りにならないのです?」

 長光は奇妙な角度に首を曲げながら、高守を指し示す。

「僕は人間ではいたくないけど、あなたの道具にはなりたくない」

 大きく踏み込んだ後、右手の刀を振り抜く。長光は最初の一撃は爪で弾いたが、その拍子に空いた懐に二本目 の刀が至り、切れ味の悪いステンレス製の刃が外骨格を割る。生温い体液の飛沫が上がり、高守の腕と同じ色味 の壁を汚した。長光がよろけると、高守はその隙を見逃さず、先程弾かれた右手の刀を逆手に上げる。
 斜め下からの斬撃が、中左足と上右足を断ち切った。大きく弧を描き、節くれ立った足が転げ落ちると、長光は 体液が止めどなく流れ落ちる傷口を押さえようとした。だが、背を曲げたことで腹部の割れ目が一気に広がり、体液 の流出量が倍増した。長光は全開にした顎から胃液らしき体液を漏らしながら、濁った声で喚く。

「道具に使い手を選ぶ権利など、あるものですかぁっ!」

「あるさ。僕にだってあるんだから」

 体液を帯びてぬらぬらと光る刀を翻し、長光の頭部に突き立てた。触角の間、複眼と複眼の僅かな空間にいびつな 刃が埋まる。それを軽く捻ると、人型ホタルは痙攣し、動かなくなった。遺産の互換性がないせいで長光の意志が 宿っている美野里の命が潰えたかどうかは確認出来なかったが、これで当分は動けまい。こうしておけば、長孝 の助けが来るまでの間は作れるはずだ。
 安定と安寧と安息を求めて止まないから、シュユを信じていた。だが、シュユに成り代わる存在になろうとした長孝 は生死の境を彷徨っている。ならば、高守自身がシュユとなるのが最良の選択だ。人間の猥雑とした世界から完全 に隔絶された、情報の海に精神体を浸す世界に至りたい。そうすれば、長孝は自分を捨てずに済む。つばめに会う ことが出来る、とも頭の隅で考えていた。高守は特定の誰かから愛情を注がれたこともなければ、注いだこともない から、それが出来る立場にあるつばめと長孝が羨ましい。つばめと長孝がまともな親子関係を築ける保証はないが、 築ける機会を損なわせるのは心苦しい。なんだかんだで、高守もつばめが好きになっていたからだ。
 仮初めの肉体にれんげが抱き付いてきた。彼女のプログラムが馴染み、広がり、概念が事実を塗り替えていく。 これまで高守が人間として積み重ねてきた時間、感情、情報、経験が溶けていった。溶けた情報を桑原れんげが 絡め取り、織り成し、高守信和という人間をシュユに置き換えていく。
 高守はシュユであり、シュユは高守であり、シュユはシュユである。無限に打ち寄せる情報の波に精神体を委ね、 概念化した情報を事実に置き換える最中に、かつてのシュユと擦れ違う。シュユは言葉を出さずに語る。高守もまた 意思を注ぐ。束の間の逢瀬の後、高守は現実へと、シュユは概念の残滓となり、果てていく。
 物質宇宙の理が、一つだけ書き換えられた。




 浄法寺に帰ってきたつばめは、体の芯まで冷え切っていた。
 だから、体の内側から暖めてしまおうと、ミルクココアを作っていた。どうせなら、ということで、お菓子作りのために 買い込んでいた純ココアを使うことにした。小さな片手鍋の中にココアと砂糖と少量の水と牛乳を入れてから、弱火 に掛け、泡立て器を使ってペースト状になるまでよく練る。その次に適量の牛乳を入れて、煮立たせないように注意 しながら暖めていくと、出来上がりである。美野里の母親である景子が、冬場になるとよく作ってくれたので、自分で 作れるようにとレシピを教えてもらっていたのだ。

「そうだ、マシュマロも入れちゃおう」

 この前、コジロウにお使いを頼んだ時に、おやつにするために買ってきてもらったのだ。つばめは戸棚を開けて、 ホワイトマシュマロの袋を取り出し、熱々のココアに二つ浮かべた。見た目も可愛らしいから、大好きだ。

「んふふ」

 使い終わった道具を洗ってから、つばめは湯気の昇るマグカップを抱えた。どうせなら、寒い台所ではなく暖房が 効いている居間に移動した方がいい。雪を被ったことで風情が出た庭を横目に、底冷えする板張りの廊下を歩いて いき、居間のふすまを開けた。石油ストーブが赤々と灯っていて、コタツには道子が入っていた。

「お帰りなさーい。二度目ですけど」

「コジロウは?」

「雪掻きですよー。掻いても掻いても降ってくるんですけど、掻かなきゃ積もる一方ですからね」

 メイド服姿の道子は、アンドロイドのボディでありながらもコタツを堪能しているのか、顔が緩んでいた。

「仕事熱心だね、相変わらず」

 つばめは道子の向かい側に座り、コタツに入った。やけに早い時期に雪が降ってきた影響で、急激に冷え込んだ ので、道子が三年前の記憶を頼りに納戸から引っ張り出してきたのだ。季節の変動が急すぎたので、コタツ布団を クリーニングに出せなかったのは残念だが、この際、多少のカビ臭さは我慢するしかない。

「あれ」

 道子の右隣、テレビの真正面にある水の入ったコップを見、つばめは訝った。

「ああ、これですか。なんでしょうね、なんとなく用意してしまったんですけど」

 道子は七分目ほどに水が入ったコップを小突いたが、つばめも見当が付かなかった。

「ま、後で片付ければいいか」

「ですねー。そういえば、あの人、いつ帰ってくるんでしたっけ」

「あの人って?」

「シュユさんですよー。ほら、御鈴様のライブの時に岩龍さんにKOされた後に、美野里さんに襲撃されてズタボロに なっちゃったから、つばめちゃんと遺産の力を借りて回復するために、浄法寺に一緒に来たじゃないですか。んで、 また野暮用があるとか言ってお出掛けになったんですよ。確か、一ヶ谷駅前で政府の方々と待ち合わせする、って 言っていました。今頃、東京に到着した頃ですかねー?」

「え? そうだっけ?」

「そうですよー。忘れちゃったんですか?」

 道子に苦笑され、つばめは思い返してみた。言われてみれば、確かにそうである。シュユ。弐天逸流の御神体に して、人間もどきを生み出していた植物の親株にして、異次元宇宙と物質宇宙の狭間に浮かぶ存在である。彼は 子株を使って吉岡りんねに接触し、部下となり、船島集落で長らえているクテイを滅ぼそうと画策した。紆余曲折を 経て、フカセツテンを佐々木長光に奪われ、挙げ句の果てに操られ、ライブでの激闘を経て共闘関係に至った。
 そのはずなのだが、何かが引っ掛かる。まるで、桑原れんげに概念を操作されて意識と記憶を改竄されていた時 と同じような感覚だ。だとしても、その桑原れんげとは何なのかも、思い出せなくなってきた。シュユはシュユでしか なく、シュユとつばめの間には何もないのだと、感覚が伝えてくる。それが猛烈な違和感を生んでいたが、ココアを 飲んでいるうちに溶けていった。マシュマロが溶けて消える頃、つばめの胸中の違和感も消えた。
 彼の記憶も、存在も、名前すらも。





 


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