機動駐在コジロウ




情けは人のターミナル



 細長い天井に向かった男の体は、内壁に激突した後に鋭角な放物線を描いた。
 寺坂は座席の列に突っ込むかと思いきや、その寸前で背もたれに手を付いて反転して通路に着地し、靴底を床 に強く擦り付けて勢いを殺した。武蔵野は咄嗟に美月を守る位置に立っていたが、あまりのことに言葉を失った。 美月も目を丸くしていて、寺坂を凝視している。サイボーグといえども、常人では到底不可能な高等技術だった。 皆、驚き、一乗寺ですらも黙り込んでしまった。
 車体が空中を滑る軽やかな機動音だけが聞こえていた。数十秒間の沈黙の後、驚異的な軽業を見せた寺坂 は立ち上がった。だが、人工外皮が貼り付けられている顔面には得意げな笑顔は浮かんでおらず、明確な恐怖が こびり付いていた。寺坂は生身の頃と変わらぬ禿頭に手を添えると、独り言を漏らした。

「何、今の? てか、俺の意志じゃねぇし。なあ、何したの?」

 少々の間の後、寺坂は仰け反った。ボディに内蔵された通信機器を通じ、誰かと会話しているらしい。

「おいおいおいおいおい! さすがにそれだけは勘弁してくれよ、頼むからお願いだから! 俺の意志で接続解除 出来るようにしてくれって、でないと俺が何しようがリアルタイムで見られちゃうわけだし! みっちゃんだって、俺が ヌイてるところなんて見たくないだろ、え、あ、うん、見せるのは俺の趣味の範疇だけど、あーいや、違う違うそうじゃ なくて、だから、あー、つまりそのなんだ、気まずいの、色々と!」

 寺坂はその場に座り込むと、側頭部を押さえながら喋り続けた。サイボーグのボディに乗り換えたばかりなので、 携帯電話を使っている感覚が抜けないせいだろう。端々に出る名前から察するに、相手は道子らしい。

「え、ああ、なんでシュユにぶん投げられたのかって? そりゃあれだよ、クテイに手ぇ出すって言ったんだよ」

「はあ!?」

 寺坂の言葉に武蔵野が思わず声を裏返すと、一乗寺がにたにたした。

「そうなんだよー。よっちゃんって、本当に無節操っていうか、全方位範囲攻撃仕掛けちゃう感じでさー。てかさぁ、 普通、人んちの婆ちゃんに手ぇ出そうと考える? 俺だって考えないよー、そんなイカレたこと」

 事の次第を知り、美月は軽蔑しきった目を寺坂に向けた。武蔵野も似たような気分だった。寺坂は道子との会話 を中断し、サングラスを上げて武蔵野を見上げてくる。

「いいじゃんかよ、俺が誰を吹っ掛けようが何しようが。あれだけ好き好き言ったのにみのりんがダメだったんだ、 次に行くしかないだろ? んで、差し当たって思い付いたのがクテイだったんだよ。フーミンは結局喰えなかったし。 だから、クテイだよ。長光のクソ爺ィがあそこまで執着するんだから、クテイは余程いい女ってことだろ?」

「フーミンって誰だ」

「りんねちゃんのお母さん」

 寺坂が悪びれずに言ってのけたので、武蔵野は寺坂を強かに蹴り飛ばした。

「無節操すぎだろうが!」

 今度は道子による遠隔操作が行われなかったらしく、寺坂は通路を二度三度転がった後、起き上がった。

「むっさん、そこまで怒ることねぇじゃん。未遂だったんだしさぁ」

「未遂でも良くない。何も良くない。何度も死にかけたくせに、その腐った性根だけはどうにもならんのか」

 武蔵野が大いに嘆くと、寺坂は武蔵野の靴跡が付いたジャケットを払った。

「死にかけたから、余計にだ。どうしたって俺はそういう奴なんだ、それ以外の行動理念を見出せっていう方が無理 な話なんだよ。むっさんみたいに純情可憐な信念なんて、脳みそを雑巾絞りにしたって出てこねぇの」

「だからってな……」

 武蔵野が渋面を作ると、寺坂は触手を持った者達に顔を向けた。

「てなわけだから、そんなに怒らないでくれる? タカさんも、シュユも」

「僕の感情の振り幅は狭いから、怒りと呼べる段階には到達していなかったけど、あまりの理不尽さに攻撃手段に 打って出たのは確かだね。寺坂君、君はもっと常識で物事を考えるべきだよ」

 シュユの至って真っ当な意見に、長孝は心の底から同意した。

「全くだ」

「も、もう一度デッキに出てくる……」

 非常識極まりないやり取りに疲弊したらしく、美月はよろけながらデッキに向かった。それがいいさ、と武蔵野は 彼女の弱った背中に言葉を掛けてやった。人様の祖母に手を出す、という発想からしてとんでもないのだが、その 相手が異星人と来ては尚更である。こんな連中をつばめの元に向かわせていいものか、と武蔵野は猛烈な不安に 駆られたが、リニア新幹線は止められるものでもないし、寺坂と一乗寺はそれ以上に止められない。
 気付けば、リニア新幹線は上毛高原を過ぎ、越後湯沢を過ぎていた。あと二十分足らずで、終点である一ヶ谷に 到着する。部隊と呼べるほどのまとまりはなく、それぞれの行動理念もデタラメで、長孝に至ってはこの期に及んで 我が子に会うことを躊躇い続けている。こんなことで果たして大丈夫なのだろうか。大丈夫なわけがない。どの辺り に大丈夫だと言える根拠があるのだろうか。割と真面目に戦いに向かう覚悟を決めていた武蔵野は、変に気後れ してしまった。だが、自分は自分なのだと強く思い直し、振り払った。
 終点、一ヶ谷。車掌のアナウンスが響き渡り、車両のドアが開いた。武蔵野はやりきれない気持ちを抱えながら、 自分の荷物を担いでホームに出た。途端に、猛烈な寒さが襲い掛かってきた。リニア新幹線のホームには吹雪が 吹き込んでいて、線路の両脇にはこんもりと雪溜まりが出来ている。越後湯沢でさえも雪が降った痕跡はなかった というのに、なぜ一ヶ谷だけが真冬なのだろう。これもまたフカセツテンの影響だろうか、と武蔵野が考えていると、 ホームに駆け出した一乗寺は全身ではしゃぎ、サイボーグの腕力で美月のキャリーバッグを引っ張ってきた寺坂は 雪掻きの手間を嘆き、美月は雪景色に目を輝かせて、りんねは伊織にしがみつきながら雪を見つめ、伊織は体温 が急激に低下したせいで動作が鈍くなっていた。

「皆、お帰りなさい」

 その声に、皆、振り返った。ホームの中程では厚手のコートを着込んだツインテールの少女が立っており、その 背後には警官ロボットとメイド服を着た女性型アンドロイドが控えていた。つばめとコジロウと道子だった。

「たっだいまぁーんっ!」

 真っ先につばめに飛び付いたのは、一乗寺だった。少女を思い切り抱き締め、満面の笑みを浮かべる。

「元気だった? 寂しくなかった? 勉強してた? してなかったら、後で一杯一杯教えてあげる! 話したいことも 一杯一杯あるから、そのついでにね!」

「勉強がついでじゃ拙いですよ」

 つばめは苦笑しながら一乗寺を押し戻すと、今度は美月がつばめに駆け寄ってきた。

「久し振り! 会いたかったぁ!」

「うん、私も」

 つばめが美月と笑顔を交わすと、美月の荷物を引き摺ってきた寺坂が道子を小突いた。

「おい、みっちゃん、俺の体になんてことしてくれたんだよ。もうちょっとさぁ、色気のあることしてくれよ」

「寺坂さんの体、当分は私の管理下に置きますからね。大体、あんなことを言うのが悪いんです。ねー?」

 道子がつばめに同意を求めると、つばめは心底蔑んだ目で寺坂を見上げた。

「道子さんが生中継してくれたから、全部知っているからね? 本当にお婆ちゃんに手を出したりしたら、コジロウに どうにかしてもらうからね?」

「具体的には?」

 寺坂がへらっとすると、つばめは寺坂の下半身を指した。

「もぎ取ってもらう」

「つばめの命令とあれば、実行するまでだ」

 コジロウが意味ありげに銀色の手を開閉させたので、寺坂は腰を引いた。

「変なところだけ物解りが良くなったな、お前……」

「よう」

 皆から遅れて武蔵野が挨拶すると、つばめは武蔵野に駆け寄ってきた。

「お帰りなさい!」

 白い息を吐きながら、つばめは外気の攻撃的な冷たさで紅潮した頬を持ち上げる。心なしかツインテールの髪の 長さが伸びていて、その分クセも強くなっている。得も言われぬ熱が胸中に宿り、武蔵野は滅多に動かさない頬の 筋肉を動かした。すると、つばめは武蔵野をまじまじと見つめてきた。

「なんだ」

 その真摯な眼差しに武蔵野が少々臆すると、つばめは興味深げに目を瞬かせる。

「サングラスをしていない武蔵野さんをちゃんと見たの、初めてかも。良く見ると、男前だねぇ」

「そうか?」

 武蔵野が若干照れると、つばめははにかんだ。

「うん。でさ、今日の御夕飯、皆が一度に何人帰ってくるか解らなかったから、とりあえず寄せ鍋にしたんだけど」

「べ?」

 伊織の影から半分だけ顔を出したりんねが首を傾げると、つばめはりんねを見返した。

「うん、鍋。えっと……りんねはそういうの好きかな」

 若干迷った後にりんねを呼び捨てにしたつばめに、りんねは一度伊織を見上げてから、つばめに目を戻した。

「ん」

 小さく頷いたりんねに、つばめはほっとした。

「そっか、だったら良かった。で、伊織は普通の食べ物を食べられるようになった?」

「喰えるけど味は解らねーよ。虫の味覚は足にしかねーからな。まあ、匂いで大体の想像は付くが」

 伊織が触角を曲げてみせると、つばめは喜んだ。

「そっかそっかぁ! 良かった良かった!」

 わぁいお鍋だ、と一乗寺が諸手を挙げて感嘆し、それって俺んちでやるの、と寺坂は苦い顔をし、お手伝いする ね、と美月はつばめの手を取った。道子が仕込みを手伝ってくれたとつばめが言うと、皆、一瞬静まったが、道子が 野菜を切っただけだと言うと安堵が広がった。酒も出そう、どうせならとことん飲もう、と言い始めた一乗寺に武蔵野 はげんなりしたが、場の空気に水を差すべきではないので何も言わなかった。
 リニア新幹線は、まだ停車していた。最後の乗客が降りてきていないからだ。武蔵野はつばめを囲む輪からそっと 離れ、暖房の効いた車内に戻った。シュユは三メートルもの巨体を伸び縮みさせて車外に出ようと尽力していたが、 長孝は座席から立ち上がろうともしなかった。武蔵野は長孝の襟首を掴み、凶相を作る。

「立て。外に出ろ」

「お前達が行った後に出る。あの子の前に出るわけには」

「どうしても動かないなら引き摺り出してやる。シュユ、触手を貸せ」

 武蔵野が顎で示すと、自動ドアを潜り抜けてデッキに出たシュユは、数本の太い触手を向かわせてきた。

「神様遣いが荒いね、武蔵野君は」

「困った時に当てになるのが神様の仕事だろうが」

 さっさと行け、と武蔵野は長孝を通路に転がすと、シュユは触手をうねらせて長孝を運び出していった。これでは まるで、いじけた子供ではないか。よいせよいせ、とシュユは長孝を運搬していったが、ホームに通じる出入り口で 再び詰まってしまって手間取っていた。背中から生えた光輪が引っ掛かってしまうからだ。肉体の一部なので伸縮 出来そうなものなのだが、そうではないらしく、四苦八苦していた。その間、触手に絡め取られている長孝はシュユ が悶えるたびに、びたんびたんと床に叩き付けられていたが文句も言わなかった。
 車窓の外では、皆がシュユの様子を注視していた。それはそうだろう、仮にも新興宗教の御神体だった異星人が リニア新幹線から出ることに苦戦しているのだから。見るに見かねたのか、つばめがコジロウに手助けするようにと 命じてくれた。ぐねぐねと暴れ回る触手を数本握ったコジロウは、両足を踏ん張り、勢い良く引き抜いた。その甲斐 あって、シュユはリニア新幹線の出入り口から引っこ抜かれてホームに転がった。同時に、長孝も転がった。
 なんとも情けない、親子の対面だ。武蔵野はリニア新幹線から出ると、離れた位置から長孝を見守ってやった。 シュユの存在は知っていても、触手の異形がもう一体いるとは知らなかったのだろう、つばめは目を剥いていた。 長孝さんだよ、と美月がつばめに耳打ちすると、つばめは新たな動揺に見舞われたようだった。コジロウや他の 面々をしきりに窺い、武蔵野にも縋るような眼差しを向けてきたので、武蔵野は頷き返してやった。ここから先は、 当人同士でなんとかするべきだからだ。
 長孝は雪片と砂が付いた作業着を触手で器用に払い落としながら、重たい動作で上体を起こした。リニア新幹線 が発進すると、雪と電磁波の混じった風が吹き抜け、つばめの髪を舞い上げる。長孝の触手を靡かせる。つばめ の見開かれた目にはうっすらと涙が滲んだが、表情は強張っていた。無理もないだろう、あれほど求めていた両親の 片割れが人間ではなかったのだから。一方の長孝も、まだ覚悟が据わっていないのか、顔を上げなかった。

「……ぇ、え、っと」

 長い長い沈黙を経て、つばめが弱く言葉を発した。長孝は下半身の触手を波打たせながら、立ち上がる。

「つばめ、なんだな」

「はい」

 つばめはやけに他人行儀な返事を返し、体の前で両手をきつく握り合わせた。

「お父さん、ですか」

「ああ、一応は」

「だったら、えっと、うんと、その、ええっと、うん……」

 つばめは言いたいことをまとめようとしているのか、曖昧な言葉を繰り返し、指を擦り合わせた。

「さ、三歳の誕生日に、コジロウをプレゼントしてくれて、本当に、本当に、本当にありがとうございました」

「ああ」

 長孝の押し殺した返答には、万感の思いが込められていた。触手の尖端が萎れ、かすかに震えている。

「お父さん」

「……ああ」

「御夕飯、一緒に」

「ああ」

「お母さんの話、聞かせて」

「ああ」

「お婆ちゃんを助けて、全部片付いたら、そしたら、今度は、良ければ、一緒に、暮らしませんか」

 つばめは何度も言葉を詰まらせ、俯いた。

「俺でいいのか」

 長孝に問われ、つばめは歯を食い縛って嗚咽を堪えながら頷いた。何度も何度も頷いた。

「解った」

 間を置いてから答えた長孝の語尾は、僅かに掠れていた。

「お帰りなさい」

 今一度、つばめは父親を出迎えた。ああ、と長孝は短く返した後、下半身の触手を蠢かせながら階段へ向かって いった。親子のぎこちない会話の最中、皆、静かにしていた。寺坂と一乗寺でさえも黙っていて、長孝の姿がホーム から消えると、ようやく言葉を交わし始めた。無愛想だね、照れ臭いんだろ、クーデレなんですね、と一乗寺と寺坂 と道子が小声で囁き合った。武蔵野は口さがない三人にさっさと行くようにせっついてから、感極まっている美月を 促し、りんねと伊織もホームから下りる階段に向かわせた。

「行くぞ。鍋が喰いたいんだよ」

 最後に残ったつばめとコジロウに振り返り、武蔵野が急かすと、つばめは目元を擦った。

「お父さんも、寄せ鍋って好きかな」

「娘の作った料理を嫌う父親がいるか」

「そうだといいな」

 つばめは手袋を填めた手で頬を拭ってから、歩き出した。コジロウもそれに続いたが、首尾良く美月の重すぎる キャリーバッグを担いでいた。武蔵野も自分の荷物を担ぎ、皆のしんがりを務めた。他の乗客が一人もいない駅の 構内を通り、自動改札を抜け、駅前ロータリーに至った。辺り一面、二メートル近い積雪に覆い尽くされていたが、 ロータリーだけ除雪されていた。道子が除雪車を遠隔操作して船島集落までの通路を確保したのだそうだ。
 そこには、REIGANDOO! との青と黄色のロゴが一際目立つトレーラーが駐まっていた。運転席には小夜子 が座っていて、窓を開けた彼女が吐き出したタバコの煙が猛吹雪に掻き消された。つばめと美月は運転席の座席 に入り、他の面々はトレーラーのコンテナ部分に押し込まれた。機械油と金属の匂いが立ち込める箱の中は、悪路 も相まって乗り心地は最悪だった。そんな状況でも元気な寺坂と一乗寺に辟易しながらも、武蔵野は今夜の夕食に 思いを馳せていた。遺産を巡る争いに終止符を打てるか否かは解らないが、全力で戦うまでだ。
 吹雪の中、皆の帰りを待ち侘びてくれていた、少女のために。




 まろやかな日差し、さらりとした風、青い草の香り。
 思い出す、思い起こす、思い返す。鮮やかな陽の光の下で、人ならざる肢体を人間の生皮の下に閉じ込めていた 妻を蹂躙した時の一部始終が蘇る。あの頃、クテイは弱り切っていた。英子の死にかけた肉体を被って物質宇宙で 長らえていたはいいが、人間の食事を全く受け付けなかったため、栄養を補給出来ずにいた。その頃は長光も妻に 与えるべき食事が解っていなかったから、街に出て様々な食材を買い漁っては妻に与えてみたが、クテイはそれを 口にしてもすぐに戻してしまった。日に日に弱っていく妻が哀れで、愛おしく、狂おしかった。
 その命の灯火が消え去る前にと、長光はクテイを貫いた。人間の形をしていても、どこに何を与えればいいのか は見当も付かなかったので、文字通り手探りに事を終えた。生まれて初めて抱いた異性であり、異形であった妻の 肢体は喩えようもなく美しく、心地良く、素晴らしかった。生命力の固まりである生殖細胞を注ぐたびにクテイの触手は 波打ち、身を捩り、徐々に力を取り戻していった。
 甘ったるい一時を終えたクテイは服を直して乱れた髪を整えながら、私はあなたの感情を喰らうのです、と控えめ に答えた。これまでにも長光の感情の変動の端々を捕食していたが、クテイとの穏やかな結婚生活で次第に長光の 心が凪いでいったので捕食出来る感情が減ってしまった、と言った。
 それから、長光はクテイを愛し抜いた。クテイに多種多様な感情を与えられるように尽力したが、我が子を産んだ クテイの関心は長光から長孝へ移った。クテイは長光の感情ではなく、長孝の稚拙で微々たる感情を捕食するよう になった。八五郎が産まれた後は尚更だった。それが許し難かった。愛して止まないからこそ、クテイが他の誰かに 心を向けるのが耐えられなかった。クテイのような生命体を愛せるのはこの世で自分だけと信じていたから、クテイ の愛を注がれるのは自分だけと自負していたから、屈辱ですらあった。
 だから、クテイを切り刻み、生命力を削ぎ落とし、苦しめ、長光だけを欲するように仕立て上げた。それがクテイの 幸福なのだ。長光ならば、いついかなる時もクテイを愛する。どんなことになろうともクテイを欲する。クテイだけを 認める、信じる、思う、貫く。それを愛と言わずになんというのだろうか。

「そうでしょう、クテイ」

 まばらに舞い落ちる花弁に目を細め、長光は老いた桜の木を見上げる。

「だから、皆にもあなたを愛して頂きましょう。あなたを敬い、望み、慕うように理を作り替えてしまえばいいのです」

 長光の体の下には、粘液の海が広がっていた。アソウギ。

「けれど、あなたが愛するのは私だけ」

 長光が桜の木に向けて広げた手中には、小さな水晶玉が握られていた。ラクシャ。

「あなたを通してより精錬された真実の愛が、清浄なる神託が、私とあなたを繋ぎ合わせるのです」

 長光の傍らには、金属製の棺が横たわっていた。タイスウ。

「異次元宇宙の演算能力で物質宇宙の概念を改変し、クテイに本物の神として君臨して頂きましょう」

 それを成し遂げるには、莫大なエネルギーを要する。概念を操作する概念である桑原れんげは、シュユによって 使い切られたが、桑原れんげがインターネットの中に構築したネットワークまでは消えていない。そのネットワークは 遺産同士の互換性を支えにしているので、遺産を用いれば容易に内部に侵入出来る。ラクシャには、それに必要な 情報とプログラムは現存していることを確認した。家紋は手元にあり、同時にフカセツテンも手中にある。シュユが つばめ側に付いていようとも、未だ、長光が優勢であることに変わりはない。
 結晶体の障壁に覆われた上空には、空間が歪曲した影響で局地的に発生した低気圧から降り続いていた雪が 山のように積もっていた。陽光に似た光を放っているのは障壁で、空気が暖かいのはフカセツテンをエンジンなしに 起動させようと実験を繰り返したからだ。原動力に使ったのは、フカセツテンに圧砕された自宅に残っていたつばめ の生体組織と、死に損ないの虫女だった。長光の仮初めの体として使ってきたが、暴風雪に紛れて船島集落に辿り 着いた時点で力尽きてしまった。つくづく役に立たない娘である。
 フカセツテンの上部に降りた長光は、タイスウと同じ素材で出来ている端末、家紋を用いてフカセツテンの外壁に 穴を開け、無理矢理体を滑り込ませた。その際に、当の昔に限界を超えていた美野里の肉体は外骨格が分解して 内臓が散らばり、体液も一滴残らず零れ落ちてしまった。長光はクテイを通じて精神体を退避させたので、ダメージ はほとんど受けなかった。乾いた体液の筋が付いた黒い外骨格が、桜の木の根本に散乱していた。

「美野里さん。この私が、あなたを愛するわけがありませんよ」

 長光が人型ホタルの生首を小突くと僅かに転がり、折れた触角が土を擦る。

「私が美野里さんを構ってあげたのは、つばめさんを陥れる罠に必要な綱を撚り合わせるために決まっているでは ありませんか。それなのに、あなたと来たら、私があなたを愛していると思い込んで、私の甘言を真に受けて……。 それでも、弁護士になった女性なのですか? ああ情けない、ああ下らない、ああ鬱陶しい」

 年季の入った革靴の靴底で頭部を踏み砕いた後、長光は靴底を地面に強く擦り付けて汚れを拭った。アソウギ を用いて再生した肉体は真新しく、死を迎える寸前とは随分と勝手が違うが、自分の体だから使い方はすぐに思い 出せるだろう。五十年分の年月を取り除いた、二十代の若々しい肉体を取り戻した長光は、古びた我が家に残して おいた服に袖を通していた。異次元宇宙とラクシャに保存しておいたゲノム配列が見事に再現された新たな肉体は、 アソウギが与えてくれる活力が隅々にまで宿り、死する寸前の苦しさは消えていた。
 船島集落はクテイの庭だ。五十年分もの時間を掛けて、クテイがその眷属とも言える植物を繁栄させ、猥雑とした 人間の土地を浄化してくれた。人智を越えた遺産を守り、慈しんでいた。血を分けた息子達を育てるために不可欠 だった食糧を育んでくれた。そして、長光の愛情を受け止めてくれた。
 クテイを守り、育て、満たしてやりたい一心で、ここまでやってきた。もう一息で仕上げだ。長光は込み上げてくる 笑いを押し殺しながら、ごつごつとした木肌の桜の木に背を預けた。一足先に春を謳歌している船島集落の全貌 を見渡し、筋肉の衰えていない上腕に爪を立てる。そうでもしないと、意識が飛んでしまいそうだったからだ。
 あまりにも、クテイが愛おしいから。





 


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