大石理子。 それがリコの本名であり、リコと名乗ったモノの原型でもあるんだよ、と言ったのは野々村不二三だった。空き地 の隅でタバコを吸いながら、放置されて久しいブロックに腰掛け、片足を膝の上に載せていた。ヲルドビスの休憩 時間を使って空き地にやってきた狭間とツブラと向き合いながら、野々村は回想する。 「あれは二十年も前のことだよ。やけに洒落た家が建ったってんで近所中で評判になって、どんな人間が越してくる のかってことも噂になっていた。俺もちょっと気になっていたから、家主が引っ越してきた後に見に行ってみたんだ。 塀の鉄格子越しに見えたのはバラが咲き乱れる庭園で、そこで遊んでいたのが一人娘の理子だったのさ。一目で 外人との合いの子だって解ったが、外国には行ったことがないらしくて普通に日本語で喋っていたよ。通りすがった 人間が必ず覗いていくからだろうが、理子は不機嫌そうだった。だから、その日はさっさと退散したんだが、理子の ことがやけに気になって数日後にもう一度訪ねてみた。すると、理子は石像を相手に遊んでいた」 羽根が生えていて竪琴を携えている天使像だ、と付け加えてから、野々村は眉根を寄せる。 「それがあんまりにも楽しそうだったんで眺めていたら、理子は俺の方に振り向いてこう言った。この子は凄いの、 私の言うことをなんでも真似するの、ってな。名前はその時に教えてもらった。石像が話すってのは子供にありがち な空想だとばかり思ったんだが……」 両切りのタバコをブロックに擦り付けて火を消してから、野々村は二本目のタバコを銜える。 「それから三ヶ月もしないうちに、その家で葬式があった。理子のものだ。理子は生まれてからずっと入院していて、 やっと退院して家族と一緒に暮らせるようになったんだが、ほっとして気が抜けちまったんだろうな、ひどい高熱が 出たと思ったらあれよあれよと言う間に弱っちまって……と御両親から聞かされた。俺は大石家と付き合いがあった わけじゃなかったから、焼香だけしかしてやれなかったが、あれは辛いもんだ。理子とほんの少しだけ関わった俺 でさえも身を切るような思いだったから、御両親の辛さは想像するだけで涙が出そうになる」 紫煙を吐き出し切った野々村は、少し間を置いてから続ける。 「葬儀を終えてから半年もしないうちに、御両親はどこかに越していった。家はそっくりそのままで、誰かに貸すよう な様子もなかったが、庭師や掃除婦が中に入っていくのを何度か見かけたから、よく手入れはされていた。だが、 そこには家族は誰一人いない。庭には天使像が置かれたままで、理子が作った花冠が天使像の頭に乗っかっていた が、かさかさに乾き切っていた。それから、俺は一度は警察に入ったが性に合わなくてすぐに辞めて、知り合いの 伝手で紙芝居屋の手伝いを始めて、嫁さんと出会って結婚して息子も生まれて今に至るわけだが、紙芝居屋と して独り立ちして仕事をし始めてから気付いたんだ。この辺の子供達の中には、紙芝居が終わるとどこかに飛んで いく子供が必ず一人いるってことにな。妙なことに巻き込まれたら大変だから、こっそり子供の後を追いかけてみた んだが、行き着く先は決まって同じだった」 理子の家だ、と野々村は火の付いたタバコで洒落た洋風の家を指す。 「そこで何が起きているのかを知りたかったこともあって、俺はこの空き地に来る頻度を上げた。するとどうだ、 理子の家に遊びに行った子供は二三ヶ月もしないうちに行かなくなっちまう。それとなく理由を聞いてみると、 子供達は揃ってこう答える。あの子はいつも同じことしかしないからつまらない、とさ」 「で、野々村さんは行ってみたことがあるんですか。あの家に」 狭間に問われ、野々村はタバコを深く吸ってから述べた。 「行ってはみたが、中に入れなかった。門扉がどうしても動かなかったんだ。やろうと思えば塀を乗り越えて敷地 に入れないこともないだろうが、商売柄、顔が売れているから滅多なことは出来ない。近所の奥様方によれば、最近 じゃ庭師も掃除婦も出入りしなくなったそうだが、庭も家も荒れていないのも妙だ。かといって、俺が何かを出来る わけでもなし、だが、このまま放っておくのは寝覚めが悪い。だから、警察でも役所でもなく、妙なことを専門にして いる官庁に電話を掛けてみたんだがな」 「大体解りました。ありがとうございます」 狭間が一礼すると、野々村はツブラを見下ろした。 「ツブラちゃんは今でこそ理子に似たモノに熱中しているが、いずれあの子に飽きるだろうさ。だから、あんまり 気を揉むこともないさ、狭間君」 「理子ちゃんの御両親の引っ越し先については存じていませんね」 「そりゃあな。付き合いがなかったんだから。噂じゃ、親父さんの本国に戻ったとかだが、まあ噂だしな」 マスターによろしく頼む、と野々村が狭間とツブラを見送ってくれたが、狭間は古代喫茶・ヲルドビスには真っ直ぐ 戻らずに寄り道をした。行き先は言うまでもなく、大石邸である。ツブラの手を握る狭間の手の力が強くなり、彼の 眼差しにも力が籠る。洒落た家の門扉は固く閉ざされていて、中に入れそうもない。 「ツブラ。鍵を開けられるな?」 「ウン」 ツブラは門扉の鉄格子の隙間から触手を滑り込ませると、錠を捻って開けた。だが、門扉は開かず、狭間とツブラ が押してもびくともしなかった。がたがたと揺れるばかりで、蝶番が少しも動かない。まるで、蝶番がセメントか何か に固められているかのようだった。 「いらっしゃい」 外の異変に気付いたのか、理子が現れた。玄関のドアを開け、半身を出している。 「紙芝居屋さん、今日は来ないんだって。他の子がそう言っていたわ」 「さて、どうしたもんかな」 開かない門扉に手を掛け、狭間は眉根を寄せる。 「リコ!」 ツブラは鉄格子の隙間から両手を入れて精一杯伸ばすが、理子には届くわけがない。 「ツブラに免じて中に入れてくれ。頼む」 狭間がじたばたしているツブラを示すと、急に門扉が開き、狭間とツブラは敷石に転げ落ちた。わあ仕事着が、と 狭間はすぐさま立ち上がって汚れを払い、ツブラも立たせた。背後では門扉が独りでに閉まり、鍵も掛かった。玄関 のドアは重々しく開き切り、御姫様のようなドレスを着た理子が二人を待ち受ける。 「うちの玄関まで来てちょうだい。それじゃ、何して遊ぶ?」 狭間はツブラの手を引いて大股に敷石を歩き切り、玄関に入るとドアを力一杯閉めた。薄暗い玄関先には理子 が運んできた遊び道具が散乱していて、ツブラが使ったクレヨンも画用紙もそのままになっている。理子は狭間を 食い入るように見つめ、口角を上げた。 「私のお名前は〈人の子〉、〈お願い助けて、もう耐えられない!〉大石〈この子の身代わりは嫌なの!〉理子です」 「あの時、箱の外に出たいって言ったのはお前だな?」 一番声がでかかったから覚えているんだよ、と狭間が耳を押さえると、理子は子供らしい笑みを歪める。 「どう〈そう、その声! やっと気付いてくれた! 人の子に私の声を聞いてもらえた!〉して? 私の〈私は人間の 外見と記憶と人格は模倣出来るけど、その当人が成長しなければ成長出来ない。でも、理子が死んでしまったから、 私は子供のままでしかいられない。だから、理子が両親を喜ばせようとして取っていた行動しか出来ない〉ことが 〈ああ嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い、理子なんか大嫌い!〉嫌いなの?」 「……そりゃまたどうしてだ」 理子に化けさせられていたダイリセキの声を聞き、狭間が顔をしかめると、理子の姿をしたダイリセキは叫ぶ。 「なんでもあるわよ。綺麗な〈私を生き物だと思っていない理子から何をされたと思う? 人間には到底耐えられない ことをね!〉絵の御話の〈に出てくる悲劇の主人公みたいに、理子の両親は幼くして我が子を亡くす自分達に酔っていた から理子の病気はどんどん悪くなっていて〉本に〈逃げ込むしかなかったの、あの子は!〉、御人形〈だったのは 私よりもあの子だった、だけど私はあの子にとっては人形ですらなかったの! あの子の代わりに薬をたっぷり 飲まされて、必要のない注射をされて、嫌いなものを食べさせられて!〉に、おままごと〈だったらどんなに良かった か、私は怪獣であって人間じゃない、そんなものを体に入れられたら不調を起こすに決まっている! 口に入ったもの は全て吐き出していたけど、理子はそれを許さなかった! 身代わりは辛いことを引き受けるのが身代わりだと 言って私に強引に摂取させた! その結果がこうよ、体の調子がおかしくなって元の姿にすら戻れなくなった!〉 に、テレビ〈に映っていた光の巨人、光の巨人は人間に危害を加える怪獣を滅ぼしに来ると怪獣達が話していた、 だから私は子供達を招きよせては殺そうとした! だけど出来なかった、子供達と遊ぶと私は七歳の理子を演じて しまうからだ! どうにかしてくれ、どうにかしてくれないと私は私は私は!〉に〈んげんを〉」 理子の姿をしたダイリセキの背から、天使像を模していた際の翼が生え、翼から無数の棘が生える。 〈人間を殺して光の巨人を招く。私が自由になるには、そうするしかないんだ〉 「ツブラ」 狭間はツブラのフードとカツラとサングラスを外させ、触手を襟から引き抜いて解放させた。 「ドウスレバ、イイ? リコ、ツライ?」 理子の姿を保ったままで怪獣の声で吼えるダイリセキに、ツブラはやや臆する。 「辛いのは理子じゃない。ダイリセキだ」 狭間の言葉に、理子の姿をしたダイリセキは息を飲み、白目のない赤い目で狭間を注視する。 「だからといって、光の巨人を呼び寄せさせるわけにはいかない。だから――――」 出来るよな、と狭間が目で訴える。ツブラは迷ったが、手を下してやらなければもっと辛い目に遭うのだと覚悟し、 触手を太く束ねる。天使像、仏像、人魚像、いびつな岩、歴史上のあの人物、早逝した名女優、少年、青年、赤子、 少女、幼女、空想上の生物。ダイリセキの外見が目まぐるしく変わり、本来の自分を取り戻そうと躍起になっているが、 本来の姿が何だったのかを思い出すのに苦労しているようだった。 ぐにょり、とダイリセキが姿を変貌させようとした瞬間に、ツブラは太く束ねた触手を突き刺した。光の巨人よりも 圧倒的に重たく、狭間の粘膜や肌より硬い、怪獣の肉の感触だった。ダイリセキは異物であるツブラの触手を排斥 しようと体を捩るが、ツブラは更に触手を繰り出してダイリセキを拘束し、きつく絞り上げ、吸い上げた。 怪獣が怪獣であるために不可欠な、熱を。 その後、ツブラは寝込んだ。 体に合わないものを食べたのが原因である。狭間の粘膜から摂取する生命力、要するに血液と体液と体温と 諸々はツブラに最も適した食糧であり難なく消化吸収出来る。光の巨人から得るエネルギーはほとんど腹の中 には溜まらないし、消化にはあまり良くないのだが、吸収出来ないわけではない。しかし、怪獣の発する熱と その根源である高熱発生器官は摂取してもほとんど消化出来ないばかりか、その熱が体に籠ってしまう。 ツブラはダイリセキの高熱発生器官から熱を吸い上げて弱らせた後に引っこ抜いたまではよかったが、その後、 熱を外部に放出し損ねたために倒れてしまった。愛歌がダイリセキの回収に来たことまではうっすらと覚えているが、 それ以降は記憶がない。頭がずっしりと重たく、視界がぐるぐると回転し、内臓が煮えてしまいそうだ。 「無茶言って悪かったよ、本当に」 ツブラの枕元に座っている狭間は、ツブラの頭の下に置いた氷枕を引き抜いたが、氷は一つ残らず溶けていた。 そればかりか、熱い湯と化していた。 「マ……」 朦朧としたツブラが手を伸ばすと、狭間はツブラの小さな手を取る。温度差で、今は彼の手の方が冷たい。 「熱が収まるまでは世話をしてやるよ。というか、そうでもしないと罪悪感から解放されない」 「ザイアク?」 「俺がお前に悪いことしちまった、ってことだよ」 狭間はゴム製の氷枕を台所まで持っていき、中身を流してから、冷凍庫を開けた。 「氷が出来上がるまではもうちょっと時間が掛かるから、水だけになっちまうけど、ないよりはマシだ」 「ダイリセキ、ドコ?」 「あれはなぁ……後片付けが大変だったんだ」 と、狭間が零したが、その意味が解ったのはまた外に出られるようになってからだった。更に三日寝込み、ツブラ は体に籠った熱とダイリセキの高熱発生器官を体の外に出し切った。その間、狭間は仕事を休んで世話してくれて いたが、ツブラが回復してくると今度は狭間が寝込む番になった。消耗した体力を補うために、ツブラはいつも以上 に狭間の体力を吸い上げたからである。 四日目にツブラと狭間の体力が均等に回復したので、狭間は仕事に戻り、ツブラも日常に戻った。狭間はツブラ の風邪が移ったのだと海老塚や常連客に言い訳しつつ、鈍った心身を奮い立てて動き回った。ツブラはしばらくは バックヤードで大人しくしていたが、また退屈してきたのでヲルドビスを抜け出して空地に向かった。レインコート のポケットに入っている十円玉が飛び出さないように押さえながら、小走りに駆けていった。 空き地に飛び込もうとして、ツブラは足を止めた。斜向かいに建っていた洒落た家が、塀ごと消えていたからだ。 土台ごと綺麗さっぱりなくなっていて、平たい地面に成り果てている。ツブラが不思議がっていると、空き地で子供達 を待っていた野々村が声を掛けてきた。 「そこの家なら、一昨日取り壊されたんだよ」 「トリコワ?」 「なんでも、違法所有されていた怪獣が建物の基礎まで根を張っていたんだそうだ。土台から掘り起こした土と家を 丸ごと運んでいっちまったんだよ。怪獣監督省の役人がな」 「マルゴト……」 ツブラはぽかんとしたが、腑に落ちた。箱の外に出たい、とダイリセキが叫んでいたのは比喩でもなんでもなく、 家と肉体が融合してしまったから外に出るに出られなかったからだったのだ。住宅街の怪獣達がさざ波のように ざわめき、言葉を交わしている。あいつがいなくなってよかった、人間が殺される前でよかった、あいつが自由に なってくれてよかった、小石一つ残さずに回収してくれたから浸食されずに済んだ、などなど。ダイリセキに同情 していた怪獣達は一様に安堵していて、ダイリセキがマグマに優しく溶け、再び卵になって生まれ直したら今度は 幸福に使われるように、と願っていた。中には、ダイリセキが不甲斐ないと憤る強硬派もいたが。 いつものように棒付き水飴を一つ買って、子供達に混じって紙芝居を堪能していても、ツブラはダイリセキと理子が 住んでいた家のことが気になって何度か振り返った。そのせいでいいところを見逃してしまった。なので、紙芝居が 終わってから、ツブラは理子の家の跡地に向かった。 ツブラは左のポケットに手を突っ込み、折り畳んだ画用紙を取り出した。愛歌が返してくれたツブラの絵は、長らく 折り畳まれていたせいでクレヨンが擦れて色移りしていた。画用紙一杯に描かれているのは、白黒のマーブル模様 の石盤だった。ツブラは理子の姿をそのまま描いたつもりだったのだが、無意識にダイリセキの本来の姿を描いて いたらしい。絵を再び折り畳んだツブラは、理子との思い出を埋めるつもりで、更地に穴を掘って埋めた。 棒付き水飴と一緒に。 14 6/22 |