路地裏には、つんとした火薬の匂いが残っていた。 それを嗅いだ途端、狭間の脳裏に場違いな夏休みの情景が過ぎった。花火の匂いによく似ていたからだが、それは つまり、そういうことなのだ。狭間よりも一足先に現場に駆け付けた鳳凰仮面は、袋小路で座り込んでいる男に大声で 話し掛けて揺さぶっているが、男は呆然として虚空を見つめていた。その背後の板塀には、小さな穴が放射状に出来て いる。板塀を易々と貫いたものの正体が鉛玉だとすれば、散弾銃だろうか。 「……あ」 男は狭間の顔を認めると、弱く声を発した。今し方射殺されかけたのは、羽生鏡護だった。 「羽生さん、大丈夫ですか」 狭間が声を掛けると、羽生は弛緩し、ただでさえ色白の顔から更に血の気が引いて紙のように白くなっていた顔色に ほんの少しだけ血の気を戻した。生きた心地が戻ってきた、というところだろう。 「ああ、君か、狭間君。この僕は優れすぎているが故に色々あったけど、撃たれたのは初めてだね。弾はどこにも 当たっていないようだから安心したまえ。そうしたければね」 会話し始めた羽生と狭間を交互に見、鳳凰仮面は訝る。 「なんだ、君達は友達か?」 「いえ違います、知り合いです」 「そうだとも。この僕の友人に相応しい男ではないが、無益な人間ではないと断言するね」 いつものように憎まれ口を叩いたが、羽生の声色は震えていた。こんな時でも意地を張っている。 「ちなみに、どの辺から撃たれたんだね。えーと」 「羽生鏡護だ。あんたは確か、鳳凰仮面だったっけ?」 「うおおおおおっ、鳳凰仮面の存在を知っていてくれるとはなんという僥倖! その喜びを分かち合うためにその辺の 立ち飲み屋で一杯酌み交わしたいところだが、それどころじゃないのは解っているのでもう一度質問するぞ! 羽生 君、君はどの辺から撃たれた?」 「知りたくなくても知ってしまうよ、あんたみたいな変人のことはね。質問の答えだけど、発砲されたのはこの路地 に追い詰められた直後だから――そうだね、一〇メートルもないね」 「散弾銃の射程にしては短すぎるし、そもそもこんな銃弾は街中で使うものではないぞ。それに、余程の下手くそでも ない限り、この距離で外すとは思えん。となると、うーむ。嫌な予感がするぞ、ヒーローの嫌な予感というのは大抵の 場合が的中するのだ。それを口にすると予感が確信に変わってしまうので憚られるが、だが、しかし!」 頭を抱えて呻く鳳凰仮面に、狭間は嘆息する。 「まどろっこしいので早く言って下さい」 「野生動物の群れはケガや病気で弱った個体を守ろうとはせず、群れから離れるがままにさせておくそうだ。だが、我ら 人間はそうではない。羽生君のように危ない目に遭った人間がいれば、親切心から近付いてしまうのだ。それは人間の美徳 ではあるのだが、相手がそれを逆手に取る輩だとすればどうなるだろう」 「要は、狩りの獲物が増えただけということでしょうね。こんな住宅街でショットガンを使うような輩だから、マンハント がお好みであってもなんら不思議じゃない」 ああやだ早く帰って満月に会いたいのに、と弱音を零した羽生に、鳳凰仮面は再度尋問する。 「では羽生君、誰かに命を狙われる心当たりはあるのかね?」 「ない、とは言い切れないのが悔しいね」 羽生は背中に隠していたビジネスバッグを両手で抱えると、提案した。 「状況を整理するためと身の安全を図るためにも、ひとまずこの場を離れてヲルドビスに行こう」 「ヲルドビスはとっくに閉店していますよ。それよりもまずは警察に通報しましょうよ、羽生さん」 あまりにも常軌を逸した考えだ。狭間が戸惑うと、羽生は肩を竦める。 「この素晴らしくも美しい僕の調べたところでは、この辺の警察は九頭竜会と中国マフィアの渾沌の双方としっかりと 癒着していてね。だから、警察に頼ったところで九頭竜会か渾沌のどちらかに売られ、情報を吐くまで拷問されるのが オチだ。となれば、双方の中立地帯にして安全地帯であるヲルドビスに向かうべきだ」 「マスターになんて言われるか解ったもんじゃありませんよ」 「ふはははははは、大丈夫だ! この鳳凰仮面、言い訳などせずに真実を述べるまでだ!」 「余計に拗れそうなんですけど……」 「マ」 ツブラに袖を引っ張られ、二人の男達にせっつかれ、狭間は渋々職場に戻ることにした。古代喫茶・ヲルドビスの マスターである海老塚甲治は九頭竜会と浅からぬ関係にあるとはいえ、そんなに上手く行くものだろうか。もしも、 横浜の闇夜に潜む謎の狙撃手が九頭竜会とは無関係で、時折名前を聞く中国マフィアの渾沌とも無関係で、ただ 単に羽生に恨みを持っている人間だとしたら、何の意味もないではないか。だが、ただ単に恨みを持っている人間 が散弾銃を撃って周囲の人間を誘き寄せたりするだろうか、とも思いつつ、元来た道を戻っていった。 本当なら、今頃は帰宅して銭湯に行っていたはずなのに。 閉店後だというのに、海老塚は快く店を開けてくれた。 明日の仕込みをしているので鍵はまだ掛けていなかったんですよ、と笑顔で受け答えたばかりか、闖入者である 鳳凰仮面と羽生に対しても柔らかく接してコーヒーも出してくれた。海老塚の気遣いはどれもこれもありがたかった が、反面、恐ろしくもあった。九頭竜会は海老塚とヲルドビスには手を出せないが、海老塚が一言でも申し出れば、 九頭竜会は即座に動いて狭間達に襲い掛かってくるだろう。いや、今はマスターを信頼すべきだ、と狭間は不安を 払拭してから、コーヒーをブラックで飲んだ。さっぱりとした後味が、ラーメンの名残を洗い流してくれた。 「つまりだね」 ボックス席に座った羽生は、コーヒーを飲み終えてから話を切り出した。 「この恵まれすぎて世界が嫉妬する僕は、チンケな小悪党の足取りを追っていたのさ。狭間君は知っているかも しれないけど、闇医者の辰沼京滋という男がいてだね」 こいつだよ、と羽生がテーブルに投げ捨てた写真には、青緑色の髪と赤い瞳が特徴的な西洋風の顔付きの男が 映っていた。狭間は心臓が痛くなるほど驚き、思わず後退りかける。その拍子に、膝の上に座らせていたツブラが 落ちそうになったので、慌てて抱え直した。間違えようがない、この男はゴウモンの山中の施設にいた、怪獣義肢 と人間の接合手術を行っている男だ。隠し撮りらしく、アングルがやけに低い。 「狭間君とツブラを連れ去った一件の後、怪獣監督省は警察共々御門岳にある九頭竜会のアジトに踏み込んだん だが、証拠品はあれども当人とその部下である怪獣人間達の姿は見えなかった。当たり前だがね。足取りを掴もうと 捜査も開始されたんだが、九頭竜会と警察が癒着しているのだから、捜査状況が芳しいはずがない。そこでこの 僕は、辰沼の行方を掴もうと独自に捜査を始めたわけだ。なあに、やることは至って簡単だ、怪獣義肢の結合手術 に必要な設備と器具と薬品の入手ルートを洗って、そこからどこに運んだのかを聞き出すだけでいいのさ。従業員 に袖の下をいくらか握らせてね。その結果、この僕は辰沼京滋とその部下達が本牧埠頭の倉庫に潜んでいたこと を察知したが、その倉庫には光永さんとその相棒の赤木君が別件で踏み込んだが、既に辰沼達は逃げ去った後 だった。問題はそこからだ」 コーヒーに添えられていたクッキーを齧り、羽生は片方の眉を吊り上げる。 「九頭竜会に匿われている場所がもう少しで解りそうなんだ。この近辺であることまでは突き止めたんだが、明確な 住所までは割り出せなくてね。それさけ解れば、手の打ちようがあるんだが」 「その人の居所が解ったら、今度こそ警察に通報するんですか」 「だから、何度も言っているじゃないか。この辺の警察は当てにならないと。物解りが悪いな、狭間君は。通報する のは警察じゃない、渾沌だ。敵対組織にタレコミをしてしまえば、双方が本格的に潰し合う。その混乱に乗じて この計算高い僕は行動するつもりでいるから、辰沼の居所を探し出すのはただの前振りでしかないんだけどね」 とんでもないことをしれっと言ってのけた羽生に、狭間は青ざめる。 「……それ、悪役がやることですよ。科学者のすることじゃないですよ」 「この僕はね、辰沼の技術もコネも何もいらないんだけど、辰沼が飼っている怪獣人間達には少しだけ興味がある んだよ。根暗サメ男はもっと興味があるだろうけどね。解剖し甲斐がある。だから、ついでなのさ、ついで」 おいしいねぇこの御茶請け、と羽生は二枚目のクッキーを食べた。狭間の心中にあった、羽生に対する同情心 が綺麗さっぱり消え去っていくのが感じられた。ツブラも似たような感情を抱いたのか、サングラスの奥で赤い目を 据わらせている。鳳凰仮面も羽生を助けるべきだったか否かを悩んでいるのか、唸っている。 「この僕の麗しき考えがどこで漏れたのかはまた今度突き止めることにして、この僕の話をここまで聞いたからには、 狭間君とツブラと鳳凰仮面にも付き合ってもらわなければならないね。裏切られると後が面倒だ」 じゃあよろしく、と言ってのける羽生に、狭間は困り果てた。 「よろしくって何をですか。俺は何も出来ませんよ、承知していると思いますけど」 「狭間君は出来ないだろうが、狭間君に話しかけてくる者達は別だろう?」 にんまりと口角を吊り上げた羽生は、舌なめずりをするヘビそのものだった。ツブラを始めとする怪獣達の 力を借りて助力してくれ、というわけだ。だが、そんなことが出来たら狭間は苦労していない。羽生の身に不安は 残るが、トラブルに巻き込まれると後が大変なので、狭間は丁重に断ろうとした。が。 「よおし!」 鳳凰仮面は勢いよく立ち上がり、羽生に手を差し伸べた。 「この鳳凰仮面、羽生君を守るついでに暗殺者を倒し、ついでに羽生君の目的も遂げさせてみせよう!」 「えええええ」 「エー」 狭間が唖然とするとツブラも同調し、口を半開きにした。狭間ではないのが不満げではあったが、いざという時に 盾になる人物が現れたからだろう、羽生は満足げに頷いた。 「というわけであるからして、羽生君、例の狙撃手を誘き出そうではないか! さあ行こう!」 そう言うや否や、鳳凰仮面は羽生の腕を掴んで引き摺り出していった。無論、店の外へだ。狙われている当人を 囮にするのは一番簡単ではあるが、それ故に危険性も高い。いざとなったらツブラになんとかしてもらおう、と 狭間は内心で決意を固めつつ、厨房で黙々と仕込みをしていた海老塚に謝った。 「マスター、こんな夜中にお騒がせしてすみません」 「いえいえ。賑やかでよろしかったですよ」 「羽生さんの話なんですけど、その」 「黙っておりますとも。誰に対してもね」 仕事着ではなく普段着にエプロン姿の海老塚は、映画女優のような仕草で片目を閉じた。 「私は堅気とは言い切れませんが、極道ではありませんし、増してマフィアでも魔法使いでもありません。あくまでも 喫茶店のマスターです。誰の味方であり、誰の敵にもなりません。私が皆さんに差し出すのは、束の間の安らぎと、 おいしいコーヒーだけですとも。逆に言えば、それ以上のことは出来ないのです」 「重ね重ねありがとうございます、マスター。コーヒー、ごちそうさまでした」 「マー」 狭間が頭を下げると、ツブラもその真似をする。 「いえいえ。ですが、お気を付け下さい。あの子は引き金を引く時、決して躊躇いません。相手が誰であれ、その 目的が何であれ。こちらもその気で挑まなければ、確実にやられてしまいます。鳳凰仮面さんにも、そうお伝え下さい。 鳳凰仮面さんも腕が立ちますが、あの子は訳が違います。なんと言いますか、たがが外れているんです」 御留意のほどを、と付け加えてから、海老塚は外を示した。ヲルドビスの店の前では、胸を張っている鳳凰仮面と その手に引きずられている羽生が待っていた。ということは、海老塚は羽生を狙っている相手が誰なのかの見当が 付いているのだろうが、そこまでは教えてくれなかった。公平であるということは、両者に対して与える利害も平等 であるということだからだ。それはそれで大変だろうな、と思いつつ、狭間は店のドアを開けた。 戦いは、既に始まっていた。 14 7/6 |