横濱怪獣哀歌




飛ブ鳥ヲ引キ摺リ下ロセ



 青天の霹靂だった。
 狭間は熨斗紙が貼られた化粧箱を受け取ったまま、玄関で硬直した。それを渡してきたのは、真っ赤な長い髪に ルビーの如く真っ赤な瞳に雪のような白い肌の少女だった。見間違えるはずがない。九頭竜会と密接な関係にある 闇医者から、アキナと呼ばれていた少女である。今後ともよろしく、と一礼したアキナは足早に隣室に戻っていった。 熨斗紙には、《御挨拶 辰沼京滋》とあった。

「これは、一体……」

 狭間はびくつきながらもドアを閉め、熨斗紙を剥がすと、裏側には親展との朱印が押された封書があった。宛名 には、狭間真人様とある。こちらの素性も何もかも解った上で、隣室に引っ越してきたようだ。狭間は熨斗紙を乱暴 に丸めてゴミ箱に放り込んでから、やけに分厚い封書を開いた。その中には、びっしりと紙幣が詰まっていた。

「おわぁ!?」

 狭間への口止め料のつもりなのか。それとも、愛歌に目溢しをしろとの賄賂なのか。どちらにせよ、綺麗な金では ないのは確かである。ざっと数えてみたが、一万円札が五十枚ほど入っていた。狭間は現金の力に圧倒されそうに なりながらも、ぐっと堪え、台所の流し台の引き出しに突っ込んだ。

「マ?」

 挙動不審な狭間が気になるのか、ツブラが赤い触手を引きずりながら近付いてきた。

「なんでもない、なんでもないぞツブラ、だからこの引き出しは開けるんじゃないぞ。俺が許可するまで」

 狭間は流し台にある引き出しを押さえると、ツブラはきょとんとした。

「ナンデ?」

「理由は説明出来ない。説明しても、たぶん解らんだろうし」

「ムゥ」

「愛歌さんに相談……しても何の解決にもならんな、きっと。だが、そうなると困ったことになりやがった」

 狭間は背中にじっとりと嫌な汗を掻きつつ、台所に面した部屋の隅を見た。そこには古道具屋で買ってきた年代物の タンスが鎮座している。日に日に増える狭間の私物を片付けるために据えたタンスなのだが、狭間の片付け方が いい加減なので乾いた洗濯物はタンスの周囲に積まれたままになっている。その衣類の山の奥に隠してあるのは 布製のリュックサックだが、それは狭間の私物ではない。野々村不二三のもので、中身は鳳凰仮面に変装 ――否、変身するために不可欠なコスチューム一式だった。
 野々村からリュックサックを渡されたのは、昨日のことである。古代喫茶・ヲルドビスをこっそり抜け出して紙芝居 を見に行ったツブラを迎えに行くと、野々村は困り顔で狭間にリュックサックを渡してきた。なんでも、先日の戦闘 で撃ち抜かれた七色のスカーフは野々村の妻である美羽子のもので、フランス製の高級品だったのだそうだ。見事な 焦げ穴についてはタバコの焼け焦げだと言い張ったそうだが。なので、全く同じスカーフを探し出すまでは鳳凰仮面 としての活動を禁止する、と美羽子にきつく言われたのだそうで、野々村は断腸の思いで鳳凰仮面のコスチューム 一式を狭間に預けることにしたのだそうだ。それだけなら、少し邪魔になるだけで大したことではないと思って受諾 したのだが、事はそう単純ではなかった。
 コスチュームを渡された後、狭間が忘れ物をしたことを思い出してヲルドビスに戻ると、狭間が退勤した後に来店 した九頭竜会の面々が物騒な話をしていた。最も声が大きいのは意外にも須藤邦彦で、一条御名斗が鳳凰仮面に しこたま殴られたことに怒り狂っていた。当の御名斗はしれっとしていて、クリームソーダを啜っていたのだが、須藤 は怪獣義肢の左腕で何度もテーブルを殴るので、テーブルが割れるのではないかと狭間は肝を冷やした。もっとも、 店主である海老塚は何事も起きていないかのようにカウンターでグラスを磨いていたのだが。
 そこで、須藤はこう言った。九頭竜会の若衆共に鳳凰仮面を探させ、見つけ次第、嬲り殺しにする、と。その言葉 に寺崎善行はなぜか大爆笑し、御名斗もけらけらと笑っていたが、須藤は真剣そのものだった。いや、真剣などと いう段階は既に通り越していて、須藤の目には鮮烈な殺意が漲っていた。

「だから、これがここにあると、イコールで俺が鳳凰仮面になってしまうわけであって」

 狭間は熱いものに触れるかのように、指先でリュックサックを小突いた。

「ホーオー」

 ツブラも狭間の真似をして、触手の先端でリュックサックを殴り付けた。見事に吹っ飛んで壁に激突した。

「だが、鳳凰仮面の正体が誰かとバラすのも非人道的だよなぁ」

「ヒジンドー」

「俺があの人を売ったら、今度は俺が標的になるだけだ。間違いなく」

「ヒョーテキ」

「隣人はあの子だけとは限らないし、あの子だけだったら辰沼なんて名前は書かないはずだ。辰沼ってあのタツヌマ だろ、それ以外には考えられないだろ。ということは、あの子とあの怪獣人間がセットで引っ越してきたという意味で あって、ということは俺と愛歌さんとツブラは常にあの三人に狙われることになるわけであって」

「デアッテー」

「ちょっと黙っててくれ、真面目な考え事なんだから」

「テクレ?」

「あの三人がろくでもないのは火を見るより明らかなのであって、でもってこのプライバシーもクソもない安普請では 色々が筒抜けになるのは考えるまでもないことだから……つまり……」

 怪獣人間、藪木丈治の手に掛かればドアも壁もボール紙のように壊されてしまいかねない。そうなった時、愛歌の 部屋の狭間のスペースに鳳凰仮面のコスチューム一式があると知られたら、鳳凰仮面の正体は狭間真人だと確信 されるとみていい。万が一そうなったら、今度こそ終わりだ。狭間だけでなく、ツブラにも手を出されたら取り返し の付かないことになる。そして、愛歌にも危険が及ぶ。

「もう、これしかないな」

 こうなったら、鳳凰仮面のコスチューム一式をどこかに隠しておくしかない。ほとぼりが冷めるまで、人目に付かない 場所に突っ込んでおこう。問題は、狭間がコスチュームを隠している場面を誰かに見つかってしまわないかという ことと、預かりものなので雨風が凌げて汚れないような場所で、尚且つ九頭竜会の捜査網から免れられる安全地帯と いえば、一つしか思い当たらなかった。狭間は普段使いのものよりも少し大きめのリュックサックを取り出すと、 鳳凰仮面のコスチュームを出来る限り小さく折り畳んで底に入れ、その上に仕事着と財布を入れた。
 そして、安全地帯兼仕事場に向かった。




 古代喫茶・ヲルドビスのバックヤードには、更衣室はない。
 あるのは食材を備蓄しておくための倉庫と手狭な休憩所と、海老塚の居住スペースである二階に続く階段ぐらいな ものだ。休憩所といっても名ばかりで、階段下のデッドスペースに古びたテーブルと椅子を詰め込んであるだけで あって、狭間の荷物はそのテーブルに下に突っ込んでおくのが常だ。ツブラは日がな一日テーブルに付いて絵本を 読んでいるが、紙芝居の時間になると抜け出していくのが常だ。
 狭間が着替えをするのも、休憩所でのことだった。従業員は狭間しかいないのだし、人目もないし、仮に見られたと しても困るわけではないからだ。だが、今日に限っては訳が違う。裏口からバックヤードに入った狭間は、ツブラを いつもの定位置に座らせてから、靴を脱いで足音を殺して二階に上がった。休憩所や倉庫に置いたのでは、海老塚に すぐに見つかってしまうからだ。そうなれば事情を説明させられるだろうし、説明したらしたでもっとややこしいこと になりかねないので、海老塚の目に付かないような場所に隠すべきだと判断したからだ。
 薄暗く冷ややかな階段を昇りきると、廊下に出た。カーテンの隙間から差し込む光が埃の粒子を僅かに煌めかせ、 使い込まれた板張りの廊下は飴色に輝き、複雑な模様が刻まれたドアは重々しい。西洋風の造りなのは一階の 店舗だけかと思っていたが、そうではなかったらしい。考えてみれば、二階に上がるのは初めてだった。化石が 詰まっているであろう木箱が壁伝いに一列に並んでいて、その一つ一つに海老塚の丁寧な字で日付と場所と生物 の名前が書かれたラベルが貼ってある。古代喫茶を彩る化石達は、海老塚本人が発掘していたらしい。

「マスターは知れば知るほど奥深い人だ。まあ、それはそれとしてだ」

 始業前に鳳凰仮面のコスチュームをどこかに隠さなければ。化石の入った木箱を動かせば、持ち主である海老塚 にすぐバレてしまうだろうが、みだりにドアを開けて部屋に入るわけにもいかない。それ以前に、金色の布地なので 異様に目立つ。早くしなければ、という焦りと、どこかにいい場所がないか、という不安に駆られながら辺りを見回して いると、煌びやかなモノが詰まった段ボール箱が目に付いた。イベント用装飾品、とのラベルが貼られている。

「あ、そういえば」

 御客様から頼まれれば貸切にしてパーティも行うんですよ、と海老塚が言っていたのを覚えている。だが、狭間が アルバイトを始めてからは一度も貸切になったことがない。つまり、貸切には出来るが滅多に行わない、ということ であり、装飾品を使う機会も少ないというわけだ。となれば、海老塚も滅多に触らないに違いない、
 だったらここに隠そう。狭間はキラキラしたモールやオーナメントといった飾りをそっと取り出して、リュックサック の底から鳳凰仮面のコスチューム一式を引っ張り出し、隙間に突っ込んでから飾りを元に戻した。それから一階に降りて 身支度をし、何事もなかったかのような顔をして仕事を始めた。
 それで済むはずだ、と根拠もなしに思っていた。




 だが、しかし。
 仕事を終えて退勤時間となった狭間が目にしたのは、リュックサックの底に詰め込まれている金色の布地だった。 どこからどう見ても、鳳凰仮面のコスチュームだ。海老塚の目を盗んで二階に上がって、木箱の中に隠したものが そのまま手付かずになっているのを確認した。だが、鳳凰仮面のコスチューム一式は狭間のリュックサックの中に そっくり入っている。これはどういうことだ。まさかとは思うが、プラナリアの如く増えたのだろうか。
 いや、まさかな、と首を捻ったが、見なかったことにして退勤した。元町商店街に行って総菜屋でおかずをいくつか 見繕ってから、フォートレス大神への帰路を辿った。いくつかの路地を曲がり、横断歩道を渡り、街灯が付いていても 薄暗い道に差し掛かるとゴミ捨て場があった。ゴミ袋に詰まった可燃ゴミが山盛りになっていたので、適当な袋を一つ 開いて増殖したコスチュームを突っ込んでしまおう、という考えが浮かんだ。

「そうすればなるべく自然に証拠隠滅出来るよな、うん、そうだなそうしよう」

 独り言を漏らしながら、狭間は手近なゴミ袋を引き寄せて封を開け、鳳凰仮面の二つ目のコスチュームを入れた。 が、ゴミ袋に手を突っ込んだ瞬間に何かに顔を塞がれ、仰け反った。一瞬、ツブラの触手かと思ったが、それにして は感触がざらついている。だが、冷静でいられたのはほんの数秒で、異物は狭間の鼻と口と目と耳にぴったりと密着 してきた。それどころか、独りでに穴に入り込んでくる。ということは、これは――――

〈やっと私に触れてくれたな、人の子!〉

 怪獣の声が耳の穴に入り込んだ布から響き、狭間は更に仰け反った。しかも、喉が締め付けられた。

〈私はお前に出会う日を待っていた! だが、私が自力で行動出来る範囲はとても狭い上、お前に話しかけすぎると 邪険にされて近付けないということを怪獣同士の情報網で把握していた! だから、お前が私に触れ、私もお前に 触れるこの瞬間を狙っていたんだ! さあ、私を受け入れろ!〉

 喉が、動脈が、気道が、呼吸が妨げられる。貧血と窒息を同時に見舞われたとあっては逆らえるはずもなく、狭間 はその場に両膝を付き、弛緩した。すると顔を塞いでいたものが緩み、一気に広がって体を包み込んだ。指先から 腕全体に包帯のように何かが巻き付き、続いて下半身から昇ってきたものが胴体をきつく締め付け、腰と首に幅の あるものが絡み付き、強く絞られた。ミイラにされる気分を嫌というほど味わっていると、鼻と口と首の拘束が緩み、 急に視界が開けた。だが、その視界はやけに赤かった。言うならば、赤いセロファン越しに見ているかのような。

「あ……?」

 視界が真っ赤に染まると同時に拘束が柔らかくなり、自由に動けるようになった。狭間は恐る恐る自分の手を見て みると、手袋が填まっていた。どこかで見た覚えのある形の、白い手袋だ。

「ホーオー!」

 歓声を上げたツブラに飛び掛かられ、狭間は後ろに倒れ込んだ。強かに道路に後頭部をぶつけた、と思ったのだが、 その衝撃と痛みが一切伝わってこなかった。背中も同様だった。不思議に思いながら起き上がると、ツブラが やけにうっとりとした眼差しを狭間に注いでいる。血の気の薄い頬もほんのり火照っている。なんでいきなり興奮した んだ、と狭間は戸惑いつつ、ツブラのサングラスに映っている自分を見た瞬間に状況を理解した。思わずツブラ の頭を抱え、自分の顔をサングラスに寄せる。

「はぁああああっ!?」

 黒いレンズに映っているのは、紛れもなく鳳凰仮面だった。厳密に言えばサングラスの色が黒ではなく、怪獣の瞳 じみた赤いレンズなのだが、それ以外は鳳凰仮面以外の何物でもない。なんでどうしてもしかしてアレがこれで俺が ああしたから、と混乱しつつも考えていると、狭い路地から足音が近付いてきた。相手が何であれ、鳳凰仮面が現存 していることが知られたら面倒になるので、狭間はツブラと自分の荷物を抱えて駆け出した。
 すると。ほんの一蹴りで、一〇〇メートル以上も進んだ。





 


14 7/15