横濱怪獣哀歌




飛ブ鳥ヲ引キ摺リ下ロセ



 軽く走っただけで、車を容易に追い越してしまう。
 そればかりか、車の方が遅く見えるほど神経が研ぎ澄まされている。力加減を誤って電柱や看板に激突したのは 一度や二度ではなかったが、壊れるのは電柱や看板の方で狭間は無傷だった。痛みはあったが。地面を強めに 踏み切ってジャンプすれば、民家の高さの二倍は跳ねる。音が異様に聞こえるせいで、桜木町から元町に かけての一帯の様子が手に取るように感じ取れる。視力も同様で、横浜湾に目を凝らすと房総半島側にいる発電怪獣の姿が はっきりと目視出来た。これではまるで俺はあの映画に出てきたヒーローではないか、と狭間は戦慄した。
 本牧埠頭の先端にある灯台の頂点で、ではあったが。ツブラと荷物を抱えて走り回るうちに、いつのまにかここに 辿り着いてしまった。そこに至るまでの道中でどれだけのものを壊し、地面に大穴を開け、交通事故を誘発しそうに なったのかを思い出すだけでうんざりするが、今は忘れることにした。鳳凰仮面の姿をしている以上、今の狭間は 狭間真人であって狭間真人ではない。言うならば、鳳凰仮面二号なのだ。

「これからどうしよう……」

 やたらと感覚が鋭い上に怪力になってしまったのでは、日常生活を送るのは難しい。

「愛歌さんはもう帰ってきているだろうし、電話しておきたいけど、腕力を押さえきれないから、公衆電話を壊しちゃう だろうしなぁ……。ああ参った参った」

 ぼやきながらもリュックサックを開けるが、力を入れ過ぎたようでファスナーが盛大に壊れた。それどころか生地 が破け、中身がぼろぼろと零れ出した。今晩の食卓に並ぶはずだったメンチカツとコロッケの入った包みも出て きたので、ほとんど力を入れずに手に収めてから、マスクを引き摺り下ろして齧り付いた。二つずつあったメンチカツ とコロッケを食べ終わると空腹が収まり、少しは気分が落ち着いた。

「で、お前はなんなんだ?」

 狭間が鳳凰仮面のコスチュームを引っ張りながら問うと、怪獣の声が返ってきた。

〈ふははははははははは、よくぞ聞いてくれた。この私こそ、縫製怪獣グルム!〉

「知らん」

「シラナーイ」

 のそのそと狭間の膝によじ登ってきたツブラが、狭間の言葉を繰り返す。

〈人の子が困っているのではないかと思い、遠い海の果てから馳せ参じた次第だ。どうだ、嬉しいだろう?〉

「いや、全然」

「ゼンゼン」

〈なんだその反応は! もっとこう、あるだろうが! 超人的な力を得てやることといったら、ほら、ほうら!〉

「俺は今のままで充分だ、他の役割を割り振られても身が持たないから全う出来ない!」

「デキナーイ」

〈……あれ、おかしいな? これまで私が出会ってきた人間達は、私が包み込んで超人的な能力を与えると潜在的な 欲望を開放し、ひたすら人助けをして自己顕示欲を満たすか、或いは悪逆非道の限りを尽くすんだが〉

「二つも三つもいらん。怪獣の声が聞こえるってだけでも面倒なのに。それと、物心付いた頃からそんなんだから、 俺はそういうのには慣れちゃっているんだよ。変な力があったって持て余すだけだって解っているし、その力だけで 何もかもをひっくり返せるだなんて思うわけがないし、増してヒーローごっこも悪役ごっこもするわけがない。余程の ことがない限り、どっちもただひたすらに迷惑なだけなんだよ」

「イラン?」

〈……人の子も苦労しているんだな〉

「苦労しすぎて感覚が麻痺しそうだが、それでも俺は常人でいたいから踏ん張っているところだよ」

「ダヨー?」

〈だがしかし、ここまで来て諦めるわけにはいかない!〉

「何をだよ」

「ヨー」

〈人の子をスーパーヒーローにしちゃおうぜ作戦だ!〉

「立案者はお前か」

「オマエカ」

〈私以外の誰がいる! 大体だな、穏健派も強硬派も人の子の扱いが下手くそなんだ! どいつもこいつも人の子 を顎で使おうとするばかりで、どうやったら上手く動いてくれるかを考えてもいない! 北風と太陽だよ! 連中は びゃあびゃあ吹き荒ぶ地吹雪だが、私は違う! 初夏の爽やかな日差しだ!〉

「暑苦しい上に強引でデタラメで無茶苦茶な奴のどこが爽やかだ」

「ダー」

〈他の怪獣に比べれば、遥かに穏便で平和的な歩み寄り方だと自負しているのだがね。私は常々考えていた、怪獣 とはもっと人間を助けるべきなのではないかと。いや、現時点でも立派に人間を助けているし、文明を発展させる ための礎となる営みを積み重ねる手助けをしているのだが、それはそれなのだ。ただの熱源として人間に寄り添うのも 悪くないが、私はもっとこう、ダイレクトに人間にいいことをしたい! そう考えていた時に出会ったのが、正義の 味方、鳳凰仮面だった! 鳳凰仮面は素晴らしいんだぞ、どうってことのない常人なのに率先して危険に向かって いき、困っている人がいればとりあえず助ける! 結果は二の次だが! その気高い志と正義の信念に感銘を受けた 私は鳳凰仮面に力を貸そうとしたのだが、したのだが……〉

「したんだけど、どうしたんだよ」

「ダヨ」

〈捨てられたのだ〉

「そりゃまたどうして」

「シテ」

〈その時の私は今と同じく鳳凰仮面のコスチュームを模倣した外見になっていた。自力で動くのは難しいが、必死 に這いずり回って鳳凰仮面の自宅に辿り着き、タンスに潜り込もうとしたのだが、折り悪く鳳凰仮面の奥方が帰宅して 私を発見してしまった。泥まみれ砂まみれ油まみれになっていた私は即座に外に放り出されて、紙芝居屋の仕事を 終えて帰宅した鳳凰仮面本人がこってりと叱られたのだ。良かれと思ってしたことなのに、それが却って鳳凰仮面 を困らせてしまうという結果になったのだ。しかも、焼け焦げが付いた虹色のスカーフも見つかってしまい、それが 奥方の怒りを煽り立て、鳳凰仮面は謹慎を食らう始末だ。それもこれも私のせいだ。そこで私は考えた、鳳凰仮面が 活動出来ない間、鳳凰仮面の手助けをするには、もう一人の鳳凰仮面を作るべきだと!〉

「それが俺か……」

「ソレカ」

〈というわけで人の子、鳳凰仮面が復帰するまでの間はよろしく頼む!〉

「頼まれてたまるかぁああああああっ!」

 と、狭間は怪力に任せて鳳凰仮面のコスチュームを剥がそうとするが、ゴムのように伸びるだけで裂ける気配 は全くなかった。それどころか、余計に締め付けがきつくなってくる。

〈言い忘れたが、このコスチュームは私自身だ。よって、私が満足しない限りは絶対に脱がさない、いや、逃がしは しないぞ! ふはははははははははははははははは!〉

 さあ正義を執行しようじゃないかっ、と縫製怪獣グルムは意気揚々と叫び、灯台のアンテナを軽く蹴って跳躍した。 たったそれだけの動作で空高く舞い上がった狭間――否、鳳凰仮面二号はあまりの高さに怯えて悲鳴を上げるが、 すかさずグルムが口を塞いできた。ツブラは鳳凰仮面の格好をした狭間が気に入ったらしく、触手を繰り出して 鳳凰仮面二号と同じ高さまで軽々と跳躍した。向かわされた先は、横浜市内有数の繁華街だった。
 それから一晩中、正義という名の暴力を行使する羽目になった。




 これでは身が持たない。
 それ以前に、仕事がなくなってしまう。公衆電話の受話器をそっと下ろして通話を切った鳳凰仮面二号は、盛大 にため息を吐いた。これで、三日続けて欠勤だ。海老塚は狭間の事情を深く聞こうとはしないのだが、その優しさが 却って末恐ろしい。いつか見限れてクビを切られるんじゃないかとびくつきながら、鳳凰仮面二号は電話ボックスから 出たが、ドアを閉める時に細心の注意を払った。昨日、勢いを付けてドアを閉めたら粉々に砕けてしまったからで ある。そのドアというのは、歓楽街の奥にあるぼったくりバーのものなので問題はない、とは思いたいのだが、そう 思っても開き直れないのが小市民の性である。
 鳳凰仮面二号は、縫製怪獣グルムに操られるがままに夜の街で暴れ、チンピラを相手に大立ち回りを繰り広げ、 コソ泥を見つけては警察署に叩き込み、いじめられているホームレスがいれば守り、帰りの電車賃がなくなるまで 飲み明かして途方に暮れている酔っ払いがいれば狭間の財布から電車賃を渡し、酔っ払いに絡まれているホステスが いれば酔っ払いを追い払ってやり、路地裏で残飯漁りをしている浮浪児がいれば狭間の財布から出した金で買った 食べ物を渡してやり、と休む間もなく動き回っていた。
 気付けば夜が明け、鳳凰仮面二号は体の芯まで疲れ果てていた。コスチュームの下は汗だくでぬるついていて、 髪もべたべたするし、自分の体臭が鼻に突いてくる。今すぐコスチュームを脱いで風呂に飛び込んで洗い流して から冷たいビールでも煽りたいところだが、そのコスチュームが一向に脱げる気配がない。コスチュームの正体で ある縫製怪獣グルムを満足させればいいのだが、満足する兆しすらなかった。むしろ、暴れれば暴れるほど余計に 高揚してしまうのだ。飲み食いする時や用を足す時はさすがにコスチュームを緩めてくれるが、それも僅かな隙間 なのでかなりやりづらい。そのおかげで、狭い穴から用を足すのが上手くなってしまったが、そんな特殊技能が身に 付いたところで人生の役に立つわけがない。役に立ってたまるか。

「あー……こんちきしょうめが……」

 人目に付くと九頭竜会の下っ端がどこからともなく現れて襲い掛かってくるので、体を休められるのは人気のない 寂れた場所しかない。初日は廃材置き場の錆びた車の中で短く睡眠を取り、昨夜はゴミ捨て場のゴミ袋に埋もれて 短時間ではあるが熟睡したが、それで体が休まるわけがない。肉体は落ち着けても、精神は尖ったままだ。ツブラは 鳳凰仮面二号がどこへ行こうとも気にせずに付いてきてくれるが、食うや食わずでろくな休息も取れない状態が長く 続いてはツブラに与えられる体力が大幅に減ってしまう。そんな時に超大型の光の巨人が現れたら、ツブラが 巨大化出来ずに横浜が消失させられるかもしれない。そんな不安も相まって、疲労は蓄積する一方だった。
 グルムに操られるがままに拳を振り回してチンピラを数人伸してから、鳳凰仮面二号は旭橋の下に辿り着いた。 橋の下の奥は死角だ、そう簡単に見つかりそうにない。一時間、いや、三〇分でもいいから眠らせてくれ、と内心 で祈りながら、鳳凰仮面二号は雑草を掻き分けて橋桁の下に入ると、先客がいた。

「ん?」

 丸々と膨らんだ布の固まり、否、服をたっぷりと着込んだ小柄な男が鳳凰仮面二号に気付いた。その男の手元 では片手鍋がぐつぐつと煮えているが、湯の中で踊っているのは白い芋虫だった。

「うぉわあぉうっ!?」

 二重の意味で驚いた鳳凰仮面二号が後退ると、布の固まりの男は瓶底メガネの奥でじっと目を細めた。

「ん、ああ、鳳凰仮面だ。日の高いうちから出てくるなんて珍しいね」

「いや、俺は……その、鳳凰仮面は鳳凰仮面なんだが、本家の鳳凰仮面が諸事情で活動出来なくなっているんで、 その代理の鳳凰仮面で、鳳凰仮面二号とでも言いましょうか」

「そう。でも、タカオ君じゃないね、声が違う。体形も骨格も違うね」

「タカオ?」

「鳳凰仮面の息子さんだよ。あれは父親似でデタラメな男なんだけど、ある意味じゃ鳳凰仮面よりも名の通った男 なんだよ。ろくでもない意味で」

「鳳凰仮面の息子さんって、そんなにひどい不良なんですか?」

「いや、その逆。理想と信念が高すぎて、斜め上にすっ飛んでいくんだ。偏差値底辺の工業高校に通っていたのに 東京の私立大学に現役で合格したから頭はいいはずなんだけど、どうにも頭のネジの締め方がおかしいみたいで。 まあ、僕も人のことは言えないけどね」

「初めて聞いたぞ、そんなこと」

 考えてみれば、鳳凰仮面の正体である野々村不二三の私生活については全く知らない。妻子がいるとは聞いて いたが、まさか大学生だったとは。息子は父親のヒーローごっこに付き合ってくれるのだと言っていたので、 せいぜい小学生程度かと思っていたのだが、遥かに大きかった。それにしては野々村が若すぎる気がしないでも ないのだが、きっとかなり若いうちに結婚したのだろう。

「マー、コレ、ヤーン」

 ツブラは布の固まりの男に臆し、鳳凰仮面二号の陰に隠れた。

「ああ、大丈夫。僕はサメ男ともヘビ男とも違うから、君には手を出さないよ。あなたにもね」

 そう言って、男は片手鍋に御玉を突っ込み、煮えた芋虫ごと煮汁を掬った。

「よかったら食べる? おいしいよ」

「全力でお断りします!」

「蛆虫は良質な蛋白源なんだけどなぁ。どうしてこう、誰も認めてくれないんだか」

 あ、僕のことはウジムシって呼んでいいよ、と男が言った。

「見たところ、その怪獣はグルムだね? それは厄介な怪獣だよ。九州の方だとイッタンモメンと呼ばれて妖怪扱い されていたけど、まあ、いいものじゃないよ。人間に巻き付いて締め殺すからね。戦時中はグルムを有効活用して 超人的な力を発揮する強化服を作ろう、っていう考えがあったようだけど、全部失敗した。それもこれも、グルムが 言うことを聞かないからだ。怪獣使いでさえも手に負えない。早いところ引き剥がさないと、いずれ死ぬよ。まあ、 人間誰しもいつか必ず死ぬものではあるけどね」

 だから体力付けなよ、とウジムシは再度蛆虫のスープを勧めてきたが、鳳凰仮面二号は丁重に断った。ツブラも さすがに嫌がった。そこで、ふと疑問が湧いた。なぜ、一目見て衣装が怪獣であると解ったのだろうか。

「あの、なんでこれが怪獣だと解ったんです?」

 鳳凰仮面二号が脱げない覆面を引っ張ると、ウジムシは蛆虫と屑野菜のスープを啜った。

「縫い目が一切ないからだよ。グルムは高度な擬態能力を持つ怪獣だけど、詰めは甘いからね」

「随分と怪獣に詳しいんですねぇ。サメ男とヘビ男って、もしかして鮫淵さんと羽生さんのことですか? それじゃ、 御知り合いなんですか?」

「ホームレスに敬語を使う辺り、君、律儀だね」

「いえ、なんとなく……」

「まあいいけど。でも、その質問には答えづらいな。僕はあの二人を知っているけど、あの二人は僕を知っている とは限らないからねぇ。だから、知り合いでもなんでもないよ。一方的に知っているだけさ」

「はあ」

「それで、グルムを剥がす方法だけど、一つしか思いつかないんだよ」

「なんでもいいので言ってみて下さい。参考にするので」

「ノデー」

 藁にも縋る思いで、鳳凰仮面二号はウジムシに迫る。ウジムシは煮汁を飲み干してから、顎をさする。

「光の巨人に近付くんだよ。そうすれば、光の巨人に最接近した時にグルムだけが消失するかもしれないし、グルム ごと君も消えるかもしれないけど、どのみち死ぬんだから死に方が多少変わるだけさ。悪くはないだろ?」

「それは……」

 それはそうかもしれないが。鳳凰仮面二号は言い淀んだが、使えるものはなんでも使わなければどうにもならない 状況に陥っているのは確かだ。ツブラと顔を見合わせると、ツブラも渋い顔をしているように見えた。グルムが消える か、狭間が消えるか、或いはどちらも消えるのか。ギャンブルにしては分が悪すぎる。だが、勝たなければ失うものは 計り知れない。しかし、ウジムシの立てた作戦には大きな穴がある。
 光の巨人が、そう都合良く現れてくれるだろうか。いや、現れさせるための方法ならば知っている。その手段を使う べきか否かを少しだけ迷ったが、四の五の言っていられない。鳳凰仮面二号は決意を固めると、ツブラとズタボロに なったリュックサックを抱えて白昼の繁華街へと繰り出した。一石二鳥の作戦が思い付いたからだ。

〈おい、人の子! あんな奴の言葉を信じるのか、私はお前を締め殺したりはしない! イッタンモメン呼ばわり されているのは私ではない別の個体だし、人間を締め殺すのは、その、ちょっと力加減を間違えただけだ!〉

 途端にグルムが喚き出したので、鳳凰仮面二号は赤いサングラスを引っぱたいた。ちょっと大人しくなった。

「お前にその気がなくても、いずれそうなるのは目に見えているんだよ! お前は人間を助けたいと言うがな、俺を 助ける気は更々ないじゃないか! むしろ、俺を苦しめているのが解らないのか!」

〈人間という生き物は、善行を行い、功徳を積むことに喜びを得るんじゃないのか?〉

「いいことを教えてやろう、それは自分の余裕がある時に限った話だ! 施しが出来るのは他人に施せるほど裕福な 人間だし、優しく出来る人間は自分が満ち足りているから他人に気を配れるんだよ! だが、今の俺にはそのどっちも ないんだよ! 全然! お前のせいでろくに飯も食えないし眠れないし風呂にも入れないし着替えられないし財布は どんどん軽くなるし最悪も最悪だ! バイトとはいえ仕事まで失ったら一生恨むからな!」

〈えっ?〉

 なんで狭間が怒っているのか、微塵も理解していない反応だった。怪獣が人間の機微に疎いのは今に始まったこと ではないのだが、これは重傷だ。こうなったら、徹底的に暴れて光の巨人を呼び出してやる。怪獣が感じる恐怖の中 でも最も強烈な恐怖を味わわせ、怒りを思い知らせてやる。そう思うと、俄然やる気が湧いてきた。
 良くない方向性のやる気だが、ないよりはマシだ。





 


14 7/15