横濱怪獣哀歌




飛ブ鳥ヲ引キ摺リ下ロセ



 事は意外と簡単に済んだ。
 それもこれも、人質が協力的だったからである。鳳凰仮面二号は危険を承知でフォートレス大神に向かうと、丁度 一条御名斗が買い物袋をぶら下げて帰ってきたところだった。呼び止めて物陰に招き、九頭竜会から付け狙われて いるんだが、手っ取り早く蹴りを付けるために鳳凰仮面を狙っている本人を呼び出してくれないか、と頼んでみる と、御名斗は二つ返事で了承してくれた。そればかりか、すーちゃんに助けてもらうのも面白そうだ、と言って人質 を買って出てくれた。そして、埠頭の空き倉庫に御名斗を連れていき、公衆電話で須藤を呼び出してもらった。
 人質が自由でいるとそれっぽさに欠けるので、とりあえず手近なパイプ椅子に座らせて緩めに縛ったが、御名斗 はきゃあきゃあとはしゃぐばかりで嫌がるそぶりも見せなかった。彼女にとっては、これもまた須藤とのじゃれ合い の延長に過ぎないのだろう。それでいいのかと疑問に駆られたが、本人が納得しているのならいいのだろう。

「ねーねー、俺、何してたらいいのー?」

 御名斗はコンバースのスニーカーを履いた両足をばたばたさせていて、楽しげに笑っている。

「別に何もしなくてもいいですよ。手も出さないし。じっとしてもらえれば、それでいいんで」

 須藤に電話を入れたのは五分前なので、到着にはまだ余裕があるはずだ。そう思いつつ、鳳凰仮面二号が返すと、 御名斗は下品に笑い転げた。ひとしきり笑ってから、頬を歪めて鳳凰仮面二号を見上げる。

「えぇー? この前、俺を散々殴ってくれたじゃーん。あの時の続きをしようってんじゃないの? 確かに今はボニー もクライドも普通の銃も手元にないけどさ、いい感じに遊んであげられるよ? ていうか、あんたが連れている子供、 バイト君の連れ子じゃんか。もしかして誘拐したの? だから、バイト君がここんとこ欠勤しまくりだったりするの?  鳳凰仮面って正義の味方ごっこをするわりにはやり方があくどいって思っていたけど、まぁさかここへきて実力行使 だなんて。まあ、おかげですーちゃんが元気だし、俺も面白いから別にいいんだけどさー」

「この際だから聞きますけど、なんで須藤さんは鳳凰仮面に絡んでくるんですか?」

「鳳凰仮面が俺を殴ったから。それ以外の何があるの?」

「ですけど、その……さっきの言い方だと、この前鳳凰仮面を撃ったのは御名斗さんってことですよね? ボニーと クライドって怪銃のことを知っているってことは、つまり」

「そーだよ。あの二匹、可愛いよ」

「しれっととんでもないことを告白しないで下さい」

「別に隠すようなことでもないしぃ。俺が撃ち殺すのは基本的にこの業界の人間だけだから、逮捕されることなんて まずないし、ていうか鳳凰仮面も筋者でしょ? 堅気なら、あんなに頭のおかしいことしないって」

「極道の世界から見ても変なんですか、鳳凰仮面って」

「変! 体形と声で、あんたがいつものあの鳳凰仮面じゃないってことは解るけど、あいつの真似をしていることから しても変! 正義の味方とかなんとか言うけどさ、結局はチンピラ相手にケンカしたいだけじゃん! それなのに正義 だなんだって大義名分を振りかざすんだもん! アタマおかしい! イカレポンチ!」

「はあ」 

 そこまできっぱり言わなくても、と思ったが、それもそうだよな、と狭間は内心で納得した。

「マー」

 倉庫の出入り口に立っていたツブラが戻ってきたので、そちらに向くと、砂煙を巻き上げながら黒い外車が迫って きた。運転席に座っているのは寺崎善行で、助手席で凶相を作っているのは須藤邦彦だった。後続車両の中には若衆 がみっちりと詰まっているのだろう。外車は倉庫の手前で減速する、かと思いきや、開け放たれている出入り口へと 迷わずに突っ込んできた。このままでは御名斗が轢かれてしまうと危惧したが、派手なスキール音を立ててドリフト しながらブレーキを利かせ、一回転した後に倉庫の真ん中で停車した。

「……ぁ、あっぶねぇええええええええええ!」

 もうもうと立ち込める排気ガスとゴムの焼ける匂いを吸い、少し噎せつつも鳳凰仮面二号は絶叫した。それもその はず、黒い外車のフロントは御名斗の十数センチ手前で止まっていたからだ。御名斗は殺されそうな目に遭ったにも 関わらず、相変わらず上機嫌に笑い転げている。

「てぇらぁさぁきぃいいいいいいっ!」

 助手席から飛び出してきた須藤は運転席から寺崎を引っ張り出すと、鳳凰仮面二号以上の声量で怒鳴る。

「早く行けと言ったが、ここまでしろとは誰も言っていない! 一歩間違えば御名斗がどうなっていたか!」

「えー、別にいいじゃん」

 襟首を掴まれながらも、寺崎は涼しい顔をしている。それどころか、殺しかけた張本人に同意を求めた。

「なー、御名斗」

「別にいいよー」

 本の貸し借りをするかのような気軽さで、御名斗は寺崎と笑い合った。どっちもおかしいだろ、と鳳凰仮面二号は コスチュームの下で嫌な汗を掻いたが、その下に着ている服は汗を上手く吸い込んでくれなかった。それまでの汗を 吸い過ぎて湿っているからだった。須藤は寺崎を一発殴ってから突き飛ばし、舌打ちする。

「御名斗!」

「はーい」

「そいつに声を掛けられて、そいつに応えたんだな? そうだな?」

「それ以外の何があるの」

「だったら、鳳凰仮面を今度こそ殺していいんだな?」

 須藤の目が据わり、左手を覆っている白手袋を乱暴に引き剥がした。岩石じみた硬い皮膚を備えた手が現れ、 その手の甲から真っ赤な目が見開いた。怪獣義肢のシニスターだ。寺崎は後部座席からおもむろに金属バットを 引っ張り出したが、野球をするために持ってきたわけではないことは言うまでもない。それ以前に、その金属バット は本来の用途に使われている様子はない。表面がでこぼこしていて、赤黒い染みが付いていたからだ。
 この時点で鳳凰仮面二号は血の気が引き過ぎて卒倒しそうになったが、そんなものはまだ序の口だった。改造車 しかいない後続車両から次々に吐き出される若い男達は、皆、凶器を携えていたからだ。寺崎と同じ金属バットに 始まり、バール、鉄パイプ、ナイフ、ハンマー、チェーン、レンチ、などなど。大方、鳳凰仮面を倒したら報酬 をやるとでも須藤が言ったのだろう、どの若者達もやけにやる気に満ちている。殺戮と暴力に対する高揚だけでは ない、率直な欲望で誰も彼もぎらついている。

「ツブラ。少し大人しくしていろよ」

 鳳凰仮面二号がツブラを一瞥すると、ツブラは安全地帯である御名斗の影に引っ込んだ。

「ワカッタ!」

〈五体満足で帰れると思うなよ、鳳凰仮面? ――――いや、人の子〉

 須藤の左腕であるシニスターが、にんまりと目を細める。

「この鳳凰仮面、受けて立とうではないか」

 鳳凰仮面二号は野々村不二三の立ち振る舞いを思い出しつつ、それらしい格好を取る。

「鳳凰だかインコだか知らないが、お前は目障りだったんだよ。横から首を突っ込んで引っ掻き回すから、渾沌との イザコザが無駄に根深くなっちまった。この落とし前、どう付けてくれる」

 眉根を寄せた須藤は左手をこれ見よがしに握り締めると、シニスターが瞬きする。

〈敵が増えた分だけ暴れられるから、俺は嫌いじゃないけどな。ふへひひひひ〉

 やれ、と寺崎が血が付いたバットを下ろすと、一斉に若衆達が駆け出してきた。鳳凰仮面二号は一瞬臆したが、 足を踏ん張って堪えた。怒号と歓声と金属音が怒涛のように押し寄せ、分厚い人間の壁が鳳凰仮面二号に焦点を 定め、襲い掛かってきた。鳳凰仮面二号はぐっと拳を固めて腰を落とし、息を詰めた。
 狭間は格闘技の経験はおろか、ケンカをしたこともない。だから、考えるだけ無駄だ。対人戦闘の経験はグルム の方が遥かに上なのだから、逆らったところで筋を痛めるだけだ。狭間の役割はただの中身だ。綿だ。骨組みだ。 この三日間を経て至った諦観に身を委ねた狭間は、鳳凰仮面のコスチュームの成すがままにさせた。だが、一つ だけこれまでとは違う点がある。それは――――

「ふははははははははは!」

 罪悪感と躊躇いを誤魔化すために、鳳凰仮面二号は高笑いを放ちながら、スカジャンに金髪リーゼントの若衆を 思い切り殴り飛ばした。げぐぅ、と妙な声を上げて吹っ飛んだ若衆は後続に激突し、数人を巻き込んで転倒する。 どよめきが起きたが、寺崎に鼓舞された若衆達は勢いを緩めなかった。目の前に振り下ろされた金属バットを片手で 受け止めた鳳凰仮面二号は一息にそれを握り潰し、敵の手中から引き抜くと同時にもう一方の手でボディーブロー を食らわせる。だが、拳を叩き込んだ位置が少し上だったらしく、パンチパーマに革ジャンの若衆は胃の内容物を ぶちまけて倒れた。鳳凰仮面二号は胃液混じりの雨を避けてから、四方八方から襲い来る若衆を殴った。

〈おい、人の子ぉ!〉

 グルムが慌てるが、狭間はそれを無視した。狭間が何を言おうともグルムは聞き入れてくれなかったのだから、 おあいこだ。自分がされて困ることであれば、他人にするべきではないのだ。

〈人の子、止まれ、止めろ、そこまでしなくていい!〉

 ナイフを閃かせて突っ込んできた若衆のナイフを持った手を掴み、捻り、極める。

〈こんなのは正義じゃないぞ、私の目指す正義からは懸け離れている!〉

 どこからか飛んできたバールを受け止めた鳳凰仮面は、そのバールを投げた主に投げ返し、昏倒させる。

〈私は人間を傷付けるつもりはないのに、あ、あああああっ!〉

 飛び蹴りを食らいそうになった鳳凰仮面は、突っ込んできた若衆の両足を掴んで回転し、遠心力を充分加えたところ で若衆達の群れに放り込んだ。ジャイアントスイングの要領だ。

〈こんなことをしたら、アレが来るじゃないか! 光の巨人が! あいつらは人間であればなんでも守ってしまうんだ、 良い人間と悪い人間の区別が付かないんだ! だから、私は今の今まで手を抜いていたんだ! それなのに、人の子が こんなことをしては台無しだ! すぐ止めろ、止めないというのならば!〉

 暴走族と思しき青年の顔を抉ろうとした鳳凰仮面二号の右の拳が硬直したが、ほんの一瞬だった。

「止めなきゃ、どうするんだ?」

 特攻服姿の暴走族を荒っぽく殴り飛ばした後、鳳凰仮面二号は複数人の鼻血で赤黒く汚れた手袋を握り締める。 グルムは動揺と共に光の巨人が現れる恐怖に見舞われたらしく、コスチュームの締め付けが少しばかり緩んだ。 それでも、解放されはしなかった。けらけらと笑っている御名斗の足元にツブラが隠れていることを確かめてから、 鳳凰仮面二号は赤いサングラスを指で弾いた。ぐぅおえっ、とグルムが激痛に呻き、布地が波打つ。

「ヒーローごっこはうんざりだ。光の巨人が現れてどちらも消えるか、お前が俺を開放するか、二つに一つだ」

〈お前がいなくとも、天の子は光の巨人と戦ってくれるはずだ! そんな脅しに屈するか!〉

「それはどうかな。この三日間、ツブラにはまともに喰わせてやっていないんだよ。戦えるわけがない」

 狭間はグルムと言葉を交わしながらも、一対多数のケンカを続行していた。若衆達の半分以上を殴り飛ばすと、 時として突っ込んでくる改造車を回避し、稀に放たれる銃弾を全て避け、高頻度で投げ付けられるナイフを掴んでは 投げ返し、掴まれては振り解いて逆に背負い投げし、覆面を引っ張られれば相手の髪をたっぷり掴んで引き抜き、 後頭部から殴られればヘッドバットで返し、殴られ、返し、蹴られ、返し、返し、返し、返した。
 いかに怪獣で出来たパワードスーツを着ていても、何十人も一度に倒すと息も上がるし、拳も痛いし、足も痛い。 鳳凰仮面二号は覆面の下にじっとりと滲んだ汗を拭おうとしたが拭えず、舌打ちする。死屍累々とは正にこのこと で、足元と言わず倉庫の床を倒れた若衆達が埋め尽くしていた。血に唾液、吐瀉物に失禁、出るものが全て出て いる者さえいた。初夏の熱気も相まって人いきれが臭気を孕んで膨れ上がり、異様な空気が立ち込めた。
 それでも、須藤と寺崎は顔色一つ変えなかった。一条も例外ではない。何十回も飛び膝蹴りを繰り出したために 膝が腫れ上がっているらしく、コスチュームに擦れる肌が痛い。両手の指の付け根がひりひりする。痛みはなくとも 打撃は体に届くので、これでもかと凶器を投げ付けられた背中が熱を持っている。ナイフが刺さりはしなくとも何度 も力一杯切り裂かれた腹も痛い。この分では、体中が痣だらけになっているのは確実だ。

「よく立っていられるな、その辺は素直に褒めてやる」

 須藤は黒い外車のボンネットに座って戦いを眺めていたが、腰を上げ、ネクタイを解いた。

「すーちゃん、俺はパス」

「寺崎にしては珍しいことを言うな」

「だって、すーちゃんのアレに巻き込まれたら無傷じゃ済まねぇもん」

「それは確かに」

 須藤は口角を上げたが、笑顔とは程遠い表情だった。御名斗はやはり笑い転げている。仕立てのいいジャケットも 脱ぎ捨てた須藤は、ワイシャツの左袖をまくり上げてシニスターを掲げる。にやにやと嫌らしく細められていた赤い 瞳が見開いたかと思うと、その瞳から赤い光の帯が飛び出した。さながら、光の鞭だ。それは飛び上がるヘビのように 縮まった後に伸び切り、真っ直ぐに鳳凰仮面二号を狙ってきた。弧を描いた赤い光が、汚れた金色を叩く。

「ぐぇあはっ!?」

 胸を岩の固まりで突かれたかのような重たい衝撃に、鳳凰仮面二号は後退る。しゅるりと光の鞭が戻ると、須藤 はあられもない姿の若衆達を踏み付けながら歩み出し、大きく手を振って光の鞭を操った。須藤の手の動きとは全く 異なる動きをするために予測が付けられず、避けた先で叩かれ、よろめいた先で叩かれ、手に巻き付かれて関節を 呆気なく極められ、とうとう鳳凰仮面二号は膝を曲げた。いかにグルムでも、関節までは守り切れないようだ。 右肘を有り得ない方向に曲げられた鳳凰仮面二号は意地で膝を伸ばし、立ち上がる。

「根性だけは認めてやる。根性だけはな」

 光の鞭を手繰り寄せながら近付いてきた須藤は、それをくるりと丸めて輪を作り、鳳凰仮面二号の首に掛ける。 途端に焼けた有刺鉄線を巻き付けられたかのような激痛に襲われ、硬直する。叫ぼうとしても、喉が抑えられて いるために声が上手く出せない。光の鞭を掴もうとするが、あまりの熱量に触れられない。

「さて、顔を見せてもらおうか。俺の御名斗をたぶらかした屑野郎の顔は、身元が解らない程度に潰してやらない と気が済まないんだよ」

「わあい、すーちゃんの悪趣味ぃ」

「俺をそうさせているのはお前だろうが、御名斗」

 須藤の岩石に似た皮膚の左手が、鳳凰仮面二号の覆面を掴む。だが、剥がれない。どんなに引っ張っても、爪を 立てて引き裂こうとしても、ゴムのように伸びるばかりで切れ目すら出来ない。苛立った須藤はサングラスを外そうと したが、結果は同じだった。何やってんだよすーちゃん、と寺崎から野次が飛び、御名斗は更に笑い転げた。
 業を煮やした須藤は獣の如く唸り、鳳凰仮面二号の顔を鷲掴みにする。上機嫌なシニスターが語り掛けてくるが、 答えられるわけがない。シニスターの腕力は凄まじく、鳳凰仮面二号を易々と持ち上げて高く掲げた。すると、その 指の間、須藤の肩越しに外界が垣間見えた。白目を剥いて気絶している若衆達の影が薄まり、白い光と季節外れの 冷気が流れてくる。それが何なのか気付いた瞬間、鳳凰仮面二号は須藤の左腕の付け根に裏拳を食らわせて左手の 拘束を弱まらせ、脱し、ツブラを手招いて駆け出した。
 勝負はまだ終わっちゃいない、との須藤の咆哮が聞こえたが、今はそれどころではない。改造車の群れの隙間を 駆け抜けていくと、光源が背後に寄ってきて鳳凰仮面二号の影が薄められていく。あれだけ熱かった体が数秒で 芯まで冷え切り、筋肉が強張る。だが、まだ立ち止まるわけにはいかない。振り返る暇すらない。ツブラは触手を 用いて並走してきていて、器用にサングラスとカツラを外してレインコートの下に入れると、鳳凰仮面二号の体 に触手を巻き付けて跳躍した。それだけの動作で数十メートルは舞い上がり、それと同じ視点に浮いた。
 有翼の光の巨人が、惨劇の現場である倉庫を取り囲んで浮かんでいた。その数、十二。頭上に光の輪が付いて いるもの、翼が不気味に蠢いているもの、裾の長い服を着ているかのような体型のものと様々だったが、いずれも 目的は一つだ。部品のない顔は、一つ残らず鳳凰仮面に向いたのがその証拠だ。計画通りだ。

「っ、どぉうあっ!」

 落下中に態勢を変えた鳳凰仮面二号は、倉庫を避けて道路に着地したが、速度が付いたままだったので両足を 擦り付けて減速した。ブーツの底からはゴムの焼ける匂いよりも生臭い匂いが立ち上り、グルムがぎゃあぎゃあと 騒ぎ立てたが無視した。海へと向かえば、万が一の際も被害が少なく済む。そう判断した鳳凰仮面二号は、着地の 衝撃が残る膝を伸ばしてアスファルトを強く蹴り、海上へと飛び出した。ツブラと共に。
 直後、鳳凰仮面二号とツブラがいた場所が消し去られ、埠頭に大きな穴が開いた。続いて今し方足を付けていた 消波ブロックが消え、海水もごっそりと奪われるが、その都度ツブラが触手を放って光の巨人を消失させる。だが、 巨大化していない上に捕食させていないために、ツブラの動きはいつもよりもかなり鈍かった。普段は寸分違わず 命中させる触手も何本も外していて、光の巨人に圧倒されかけている。これでは分が悪すぎる。

「ツブラ!」

 ならば、こうするしかない。鳳凰仮面二号は跳躍し、消波ブロックの端に立っているツブラに飛び掛かる。赤い 瞳と赤いサングラス越しの目が合った瞬間、鳳凰仮面二号はツブラを抱き締めて海中に身を投じた。海面に衝突 した後に白く煌めく泡に包まれ、海水の冷たさは最後に感じた。飛び込んだ衝撃と光の巨人への畏怖で震えている 覆面を剥ぎ取った鳳凰仮面二号は、僅かに開いている小さな唇に己の唇を重ね、硬く抱き締めた。
 喉の奥ににゅるりと滑り込んでくる触手の感触を心地良く思ったのは、これが初めてだった。窒息する前に事を 終えなければならないので、すぐに唇を離すと、ツブラは名残惜しそうだったが表情を一変させた。光の弱まる 海中に光源が現れ、包囲網を作る。巨大化とまではいかないまでも大人の女性に近い姿に変貌したツブラは、 ちょっと照れくさそうな笑みを浮かべてから光の巨人の群れと向かい合った。瑞々しい真紅の触手が濁った海水を 切り裂き、冷気と光を放つものを締め付け、貫き、引き裂いていく。
 海中が静まると、狭間を戒めていたものも解けていた。するりと剥がれたグルムは帯状に変化し、イッタンモメン と呼ばれるに相応しい姿に戻ると、上下に平べったい体を波打たせながら去っていった。

〈ごめんなさいもうしません死ぬかと思った怖すぎた……〉

 二度と戻ってくるんじゃねぇよ、と内心で毒づいていると、狭間はツブラの触手に引き上げられた。海面から顔を 出すと狙い撃ちされるのではと危惧したが、あの埠頭からは離れていた。どうやら、ツブラが光の巨人と戦っている 最中に移動したらしい。ツブラの触手を借り、海藻とフジツボがこびり付いた柱に足を滑らせながら登ると、桟橋に 出た。だが、桟橋を散歩していた人間に見つかってぎょっとされたので、ツブラを元の姿に戻してやりつつも必死に 月並みな言い訳をした。この子が落ちかけたから助けに行ったら自分まで落ちたのだ、と。びしょ濡れの服を絞っても 尚垂れてくる海水に辟易しつつも、狭間はツブラと手を繋いで帰路を辿った。随分と遠回りをした。
 三日ぶりに触れる外界は冷たくも暖かく、広かった。




 それから数日後。
 狭間真人は、狭間真人としてのごく平凡な日常を全うしていた。ぐしょ濡れで疲労困憊の体を引き摺って帰宅して その足で銭湯に行き、汚れ切った体を洗い流したときの爽快感は凄まじかった。その際に体に出来た痣を数えてみた が、すぐに嫌になったので見なかったことにした。汚れきった服は洗えるだけ洗ったが、どうしても汚れが取れない ものは捨てるしかなかった。まともな食事を食べ、柔らかな布団で寝ることはとてつもない幸福だと知った。ツブラ も帰宅した当初はさすがにぐったりしていたが、狭間が食べた分だけ体力を与えると回復した。愛歌は心配してくれて いるのかいないのか解りづらかったが、狭間が帰ってきた日には夕食の後にケーキを出してくれたので、愛歌 なりに狭間を労ってくれたようだった。何が起きていたのかを話すと、呆れられ、困られ、最後には笑われた。
 三日続けて欠勤しても、海老塚は怒るどころか笑うだけで態度も変えなかった。その寛容さはありがたかったが、 仏の顔も三度までだ。二度目はあっても三度目はないはずだ、と狭間は自戒し、疲れ切って節々が痛んで痣だらけの 体を奮い立てて遮二無二働いた。懸命に動き続けたからだろう、体の調子は比較的早めに戻ってきた。
 その日も、古代喫茶・ヲルドビスはそれなりに客が入っていた。午前中のピークタイムが過ぎたので、狭間は バックヤードと店内を行ったり来たりしていると、新たな客が訪れた。野々村不二三だった。

「いらっしゃいませ」

 この男に言いたいことは富士山並みに積み上がっているが客商売なのでぐっと堪え、狭間は笑顔を作った。

「狭間君、この前はすまなかった」

「それ、長くなりますか?」

「なるな。マスター、ちょっと狭間君を借りていいかい」

 野々村が海老塚に許しを求めると、海老塚はにこやかに快諾した。不本意ではあったが、狭間はバックヤードに 野々村を連れていき、椅子に座らせてから狭間も向かいに座った。ツブラの隣にだ。鳥打帽を外して膝に置いた 野々村は弱り切っていて、四十過ぎの大男が泣きそうになっている。

「狭間君。この前、三日ほど行方不明だったそうだな」

「ええ、まあ。色々ありまして」

「実は、その三日の間に嫁さんの誕生日祝いをヲルドビスでやったんだ。虹色のスカーフも問屋で新品を見つけた から、それを渡すのとお祝いを一緒くたにしようとしたんだが……。店の飾り付けが入っている箱の中に、鳳凰仮面 の衣装が混じっていてだな……。嫁さんは働き者だから、自分の誕生日祝いも自分でやらなきゃ気が済まないほど だから、俺よりも先にヲルドビスに来て飾り付けをしていて……その……うん……」

「しこたま怒られたんですね」

「うん」

 筋肉の厚い背中を丸めている野々村は、子供のようにしょぼくれていた。

「狭間君に迷惑を掛けるな、ヲルドビスにも迷惑を掛けるな、でもって変な誤魔化しをしようとするな、と……。 俺が変身していないはずなのに別の奴が鳳凰仮面の格好で暴れていたから、嫁さんは俺が帰宅する前にヲルドビスに 立ち寄って変身して暴れていると思ったんだ。実際、俺もそうしようかなと思ったんだが、それはさすがに拙いから 諦めたんだ。だが、俺じゃない誰かが鳳凰仮面として振舞っていたものだから、どんなに言い訳しても取りつく島も なくてな……。あ、でも、スカーフは受け取ってもらえたぞ。それだけは嬉しいな」

「大変でしたね」

「ああ、大変だった」

 しみじみと嘆く野々村に、俺はその数百倍は大変だったんだがな、との文句が狭間の喉まで出かかったが、飲み 下した。仕事の邪魔をしてすまなかったな、と野々村は肩を落としながらバックヤードを後にしたが、ツブラが 拙い言葉で励ますと少しだけ元気が出たようで手を振り返してくれた。店内に戻ると、野々村と入れ違いで来店した 須藤と寺崎と御名斗がいたので狭間は心臓が跳ねたが、平静を装って接客した。三人もまた落ち込んでいて、こちら も上司である九頭竜麻里子にこってりと叱られたようだった。無断で若衆を引き連れて乗り込んだ挙句に全滅したの だから、当然だ。御嬢様に叱られるだけで留まったのが奇跡だよ、と寺崎は弱く笑うが、須藤も御名斗も御通夜の ような辛気臭い顔で俯いていた。これは俺の勝ちなのかな、と狭間はちらりと思ったが、ヤクザに勝ったところで 何も嬉しくない。それどころか、因縁を付けられる材料が増えただけである。
 ヒーローごっこは懲り懲りだ。





 


14 7/16