横濱怪獣哀歌




髪ノミゾ散ル



 事態を急変させるのに必要な時間は、一秒にも満たなかった。
 目の前には、朗らかな態度を保ち続けてはいるが正気を失っている聖ジャクリーンと、聖女怪獣の正気を奪った 張本人、いや、張本獣のカムロが並び立っていた。九頭竜麻里子の頭部から伸びる長い黒髪であるカムロは自在に 形状を変化させていたが、麻里子の右肩の上に覗かせている赤い瞳の位置だけは変えなかった。
 そして、壁を背にしている狭間の顔の真横には、聖ジャクリーンが投擲した刃が埋まっていた。髪が数本切れて 首筋に散らばり、こめかみに鋭い痛みが走って僅かに血が滲む。狭間の足にはツブラが力一杯しがみついていて、 触手を何十本も使って抱き付いている。その怯えように、今一度カムロに対する怒りが湧く。

「思い通りにならないことがあることぐらい、承知しております」

 麻里子はするりとカムロに指を通すと、カムロも麻里子の指に髪を絡ませる。

〈思い通りにならないのであれば、思い通りになるようにするだけだろ?〉

 華奢な人差し指に絡めた髪を唇に運んだ麻里子は、愛おしげに銜える。

「だからってなぁ、やっていいことと悪いことがあるだろ!」

 こんな奴らに屈するものか、と狭間が意地で返すと、麻里子は優しく目を細める。

「お父さんのことですか? それとも、九頭竜会を見限ろうとしている件についてですか? でなければ、私とカムロ が今までしてきたことが何なのかという問い掛けですか? お好きなものからどうぞ」

「全部だ」

「それはまた贅沢ですね。いいでしょう、お話しいたしましょう。ですが、口頭で伝えるのはまどろっこしい上に時間を 喰ってしまうので、こうしましょう」

 麻里子が髪から指を外すと首が浮き上がり、カムロが髪で麻里子の肩を押して飛び出した。砲弾の如く向かって きた生首は狭間の顔面に激突するかと思われたが、その直前で髪を扇状に広げて壁に突き立て、停止した。目の前 というにはあまりにも近過ぎる距離に、おぞましくも美しい少女の顔が浮かぶ。にたりと悪辣な笑みを見せた麻里子 の生首は、複数の髪束を狭間の頭に巻き付けると一瞬で距離を詰め――――唇を塞いできた。
 ツブラ以外と唇を重ねるのは、これが生まれて初めてだった。




 喉の奥の粘膜に滑り込んだ髪、否、カムロの神経が狭間の神経に繋がる。
 それを抜こうとすればお前の動脈を千切ってやるからな、との脅し文句が繋がった瞬間に聞こえてきたが、カムロ の声色はいやに上擦っていた。自分から仕掛けてきたくせに、麻里子と狭間が接したことが許せないらしい。怪獣の 矛盾した感情を流し込まれながらも、狭間は怪獣達と話す時と同じ要領で精神の安定を保った。
 最初に見せられたのは、カムロの記憶だった。遠い昔、他の怪獣達と同じように火山の火口に放り込まれて卵を 孵化させられたカムロは、卵の大きさに反比例した小型怪獣だった。同時期に孵化した中型怪獣や大型怪獣達は 日本各地に分布し、ある者は神も同然の存在として敬われ、またある者は恐れられると同時に祈られ、またある者 は人語を介したので妖怪として認知されるようになった。
 だが、カムロはそうではなかった。毛羽毛現、或いは希有希見という名の妖怪として分類されたこともあったが、 怪獣として認知されることはなかった。怪獣には上も下もない、姿形と能力の違いはあれども生まれも育ちも同じ 地球のマントル、個性はあれども差別はない、という認識が怪獣の間にはあったので、その頃はカムロも己が他より 劣っているとは思っていなかった。他の怪獣達も同様だった。
 だが、時代が進み、怪獣達の望み通りに文明が発展していくと近代化の波が押し寄せた。産業革命の名の元に 妖怪という文化と価値観が拭い去られていき、訳の解らないモノは全て怪獣なのだという認識が人間達に広まり、 怪獣に対する優劣も付けられるようになった。発する熱量の大きさが優劣となったため、それまで重宝されていた 小型怪獣達が次々に追いやられていき、中でもカムロのような特殊な形状と能力の怪獣は疎まれた。
 活動限界を迎えていないにも関わらず、怪獣供養されそうになったのですぐさま逃げ出したが、行動範囲が 体格に応じて狭かったので横浜界隈で力尽きた。その後、辰沼に拾われ、麻里子の頭部に繋げられた。
 首を切断されていた麻里子との結合手術は、思いの外上手くいった。麻里子の首の切断面が綺麗だったことと、 拒絶反応が少なかったからだ。麻里子の後頭部に縫い付けられたカムロは首と胴体を再び繋げ、髪を通じて血液 を循環させ、麻里子の頭部に酸素を再び供給させると、麻里子の意識は回復した。
 その瞬間から、両者は二心同体となった。




 狭間の意識に流し込まれる、意識の視点が変わる。
 最初に目にしたのは、麻里子の幼い頃の記憶だった。病弱だったが故に臆病で、引っ込み思案で、たまに父親に 会っても怯えて母親に泣き付いては慰められていた。殺気を隠そうともしない強面の男達が常に家の中にいるので、 自宅にいても気が休まらず、毎日が不安と恐怖に支配されていた。母親だけは優しく、柔らかかったが、寂しげに 遠くを見つめていることが多かった。
 六歳の頃、母親が死んだ。少し出掛けてくると言って外に出た矢先に、九頭竜会と抗争中の極道の若衆によって 襲われたからだ。母親を守るべき舎弟達は、守る前に殺された。九頭竜屋敷のガレージに突っ込んできた外車の 中には、母親と舎弟達の赤黒く濡れた死体が無造作に詰め込まれていた。その日は体調が良かったので、家政婦 に付き添ってもらって散歩に出ていた麻里子は、母親が帰ってきたと歓喜して車に駆け寄ったが、その母親は無残 に死んでいた。絶叫した麻里子の口を塞いだのは、長年九頭竜家で働いていた家政婦だった。彼女の正体は渾沌の 情婦だと知るのは、それからずっと後のことだった。
 六歳から七歳にかけて、麻里子は自宅ではない場所で暮らすことになった。幼いながらに状況は理解していて、 お母さんが殺されたのを見たから攫われたのだ、お父さんを困らせるためでもあるのだ、だから自分は大人しくして いなければならないと思っていた。なので、麻里子は子供らしさを押し殺すようになった。
 九頭竜会と敵対している渾沌のアジトで暮らす中、麻里子は生き延びる術を身に着けた。それは、礼儀正しさと 品の良さと聞き分けの良さだった。にこにこ笑って、丁寧にお辞儀をして、きちんと大人の言うことを聞いて、御飯 は好き嫌いなく全部食べて、一人でなんでも出来るようになった。わざとらしくない程度に大人に甘えて、子供らしさ を振り撒くことも忘れなかった。そうでもしなければ、生きて帰れないと解っていたからだ。
 毎日本を読み、勉強し、漢字はほとんど読めないが新聞を読み、夜中に外に連れ出される時だけ運動することが 許されていたので思い切り走った。寝入ろうとすると母親と舎弟達の死に様が蘇り、飛び起きたことが何度もある。 父親が恋しくてどうしようもなくなって、会いたくて泣いた時もあった。
 その日は、初めて昼間に外に連れ出された日だった。やっと家に帰れるのかな、それとも引越しをするのかな、 と考えながら、麻里子はウサギのぬいぐるみを抱き締めていた。渾沌の頭領が麻里子に贈ってきたもので、最初は 触るのも嫌だったが、ぬいぐるみに罪はないのだと思って可愛がるようになった。スモークガラスを張った窓越しに 見えるのは、ランドセルを背負って小学校に通う子供達だった。

「……ぁ」

 いいなぁ、と言いかけたが口を閉ざし、麻里子はウサギのぬいぐるみに顔を埋めた。自分は普通ではないのだと 理解していたので、羨むことからして間違いなのだ。自宅のどこかには、母親が買ってくれた赤いランドセルがある はずなのだが、それを背負って通学するのは夢のまた夢だ。増して、友達を作ることなんて――――
 麻里子がぼんやりしていると、車が停まって外に出るようにと促された。件の家政婦はやけに派手な格好と化粧 をしていて、女だてらに刃物を携えていた。家政婦に手を引かれて向かった先は、古びた倉庫だった。

「おう、来よったのう」

 麻里子を出迎えてくれたのは、大柄な中国人の男、ジンフーだった。儂の名は金虎と書くんじゃ、と教えてもらった ことを今でも鮮明に覚えている。見上げるほど背が高く、太い骨格には筋肉が隈なく付いていて、左上腕には咆哮する 虎の刺青が入っていた。家政婦の女は麻里子の手を離し、中国式の礼をする。

「ちぃと見んうちに、すっかり大きくなりよったのう」

 妙な訛りが付いた日本語を操るジンフーは、麻里子を見下ろし、丹念に眺めた。

「シン。麻里子マーリーズーは七つになったか、ならんかったか」

「先週、御誕生日を迎えました」

 家政婦の女、李星リーシンは麻里子の背を支えるが、その手には刃物が握られていた。名を中国語読みで呼ばれるの はあまり好きではないのだが、その感情の揺らぎを顔に出さないために麻里子は歯を食い縛った。

「マオはもうちぃと年上じゃったかな……。ヤンが同い年っちゅうんは覚えとるんだがのう」

「自分の子の歳なのですから、覚えて下さい」

「そういうことほど忘れちまうんじゃ。ほんで、いくつじゃったかな」

「マオは今年で十歳に、ヤンは七歳になります」

「おう、そうじゃったのう」

 不意に、ジンフーの手が麻里子の頭に載せられた。分厚い手は体温が高く、爪の間からは香辛料のような匂いが 漂ってきた。ボスは料理人でもある、とシンが言っていたのをふと思い出す。おかっぱよりも少し長めの髪を撫で、 肉付きが今一つ良くない上に日光を浴びないせいで青白い頬を撫でていく手付きは優しく、麻里子は警戒心が緩み そうになったがぐっと堪えた。相手はマフィアであり、母親を殺したのだから。

「マーリーズー。今日は、親父さんに会わせちゃろうと思ってのう」

 麻里子と目線を合わせてきたジンフーは、傷痕が残る頬を持ち上げる。牙の如き犬歯が覗く。

「お父さんと……?」

 ということは、家に帰れるのか。麻里子の小さな心臓が高鳴り、頬に赤みが差した。

「ほうじゃ。じゃから、そこんところに座って良い子にしとってくれんか」

 ジンフーが指したのは錆び付いたパイプ椅子で、その後ろには鏡のように磨き上げられた青龍刀があった。それが 何をするためのものなのか、誰に使われるものなのか、考えるまでもない。麻里子は立ち竦み、嫌だと叫ぼうとすると、 ジンフーに口を塞がれた。太い指が首に掛けられ、冷汗が浮いた喉をぐっと押してくる。

「良い子に、出来るじゃろ」

 ジンフーの声色は重く、強くなった。喉を押さえられた麻里子は頷くことしか出来ず、首を縦に振った。すると、すぐ さま目隠しをされてパイプ椅子に座らされ、縛り付けられた。それからしばらくして騒がしくなり、父親の怒号が倉庫を 震わせた。ジンフーへの恐怖も父親への畏怖も忘れ、麻里子が叫ぼうとすると、後頭部を掴まれた。
 冷たい異物が首にめり込み、肉が裂かれ、骨が割られると、体温が急激に下がって猛烈な目眩が訪れた。母親と 一緒に行った遊園地でコーヒーカップに乗った時に似た感覚に陥り、意識が回転する。目隠しが緩むと、 高笑いするジンフーが見え、血まみれの父親が見え、あるべきものを失った自分の胴体を見た。どちゃり、と 生温く鉄錆臭い浅い池に落ちた麻里子は、激痛による悲鳴を上げようとしたが声が出なかった。
 激昂する父親の振るった日本刀がジンフーの腕を断ち切り、新たな血の海が生まれる。死体、肉片、臓物、吐瀉物、 怒号、絶叫、悲鳴、死体死体死体。ジンフーが動かなくなったことを確かめてから、父親は鬼の形相で吼える。怪獣の 咆哮よりも生々しく、獣よりも毒々しかった。

「まりこ」

 九頭竜屋敷の床の間で丁重に飾られていた日本刀を荒く落とし、父親は汚れた手で娘を抱く。首だけの娘を。

「おとうさん」

 そう言ったはずなのに、声が出ない。唇もほとんど動かない。

「ありったけの氷を持ってこい、辰沼を呼び出せ、生きている奴は全員血を寄越せぇえええっ!」

 頭蓋骨が割れそうなほど力を込めて、父親は麻里子を抱き締めた。上等なスーツを脱いで麻里子の首の切断面に 当ててネクタイをきつく締めて、止血の真似事をしてきた。徐々に弱まっていく意識の中、麻里子はこんなこと を考えていた。母親が生きている頃、九頭竜屋敷で暮らしていた頃、父親に抱き締められたことがあっただろうか。 たぶん、一度もない。あったとしたら、もっと上手くやれていたはずだ。
 もっと楽に殺せていたはずだ。





 


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