横濱怪獣哀歌




髪ノミゾ散ル



 今よりも、もっと幼い頃。
 乳児と幼児の境目ぐらいの年頃の記憶がある。麻里子は大きな外車に乗せられて、どこかに連れていかれた。 車の中に充満するタバコの匂いと揺れのせいで、車酔いに見舞われたのを覚えている。吐いて吐いて吐き尽くし、 胃液も唾液も乾涸びそうになった時、ようやく車は止まった。
 辿り着いたのは山奥で、小ぢんまりとした小屋が一軒あるだけで、その周囲は森に囲まれていた。車中の空気 の悪さに心底参っていた麻里子は、新鮮で瑞々しい空気を胸一杯に吸い込んだおかげでかなり気分が持ち直した。 それから、麻里子は父親に連れられて山の奥へと向かっていった。子供の足では歩きづらく、何度も転び、その度 に母親に抱き起こしてもらった。そのせいで、余所行きのワンピースも母親の洒落たスーツも汚れてしまったのが 目に焼き付いている。母親のストッキングを履いた膝に付いた砂粒の数や、枯葉の曲がり具合が。
 小一時間歩いたところで、父親と舎弟達は足を止めた。麻里子も立ち止まり、目的地の正体を知った。先程の 小屋よりも古いプレハブ小屋で、数人の若衆が待っていた。彼らはタバコを吸っては足元に捨てていて、その匂い がまたも気分の悪さを招いた。喉の奥に胃液が込み上がってきた麻里子は、思わず噎せた。

「麻里子」

 父親は麻里子を手招いたが、麻里子は母親の手に縋ったままだった。すると、母親は手を解き、麻里子の背中を 優しく押して促してきた。正直行きたくなかったが、母親に再度背中を押されたので渋々歩き出した。父親は幼い娘 の腕を取ったが、その手は荒々しく、肩が抜けそうなほど力が入っていた。
 引き摺られるようにしてプレハブ小屋に投げ込まれると、そこには幼稚園の先生がいた。猿轡を噛まされていて、 荒縄を体中に巻き付けられて、パイプ椅子に縛り付けられて、傷だらけで痣だらけで顔が腫れていて両足の爪が 一つ残らず剥がされていて、全裸で、股を大きく広げる格好をさせられていた。それなのに、どうして彼女の正体が 幼稚園の先生だと解ったのかというと、素肌の胸元に直接名札が付けられていたからだ。安全ピンを突き刺された 肌からは血が細く垂れていて、先生が息をするたびにちゃりちゃりと汚れた名札が揺れた。

「おとうさん?」

 なんでこんなことをしたの、と麻里子は言おうとしたが、喉が引きつって言葉にならない。

「このクソアマ、端金で渾沌に使われていやがったんだ。トルコ風呂にでも沈めてやろうかと思ったが、それは それでつまらん。だから、麻里子がしたいようにしろ」

「え」 

「いいか、よく聞け。この女は、お前を、殺そうと、したんだ」

 言葉を一つ一つ区切りながら、父親は麻里子と目を合わせる。麻里子は肩を縮める。

「わたしを、ころそうと」

「そうだ。お前、幼稚園で昼寝の前に何か食べさせられていただろう」

「うん、おやつがある」

「お前の分にどぎついヤクを仕込もうとしたんだよ、こいつは。大陸の怪獣の体液から作ったやつだ。そんなもの、 大の大人がちょっとヤッただけでもぶっ飛ぶんだ、子供が少しでも体に入れたら泡を吹いて死ぬ」

「しぬ?」

「死ぬかもしれない薬を盛られかけた、ってことだ」

「わたしを、せんせいが、どうして」

「金もそうだが、こいつは渾沌の幹部のイロだったようでな、お前の殺しが成功したらその幹部が組織の上層部に のし上がれるって約束をしていたそうだ。その幹部本人から聞き出したんだ、間違いはない」

 そう言って、父親は小屋の隅を一瞥する。ずたずたに切り裂かれた男の死体が転がっていた。

「さて、どうする?」

 父親はスーツの内ポケットからバタフライナイフを出すと、刃を出してから麻里子の手に握らせた。金属製の柄は ぞっとするほど冷たいのに、麻里子の両手を包んできた父親の手は火傷しそうなほど熱かった。ナイフは鏡よりも 綺麗に磨き上げられていて、車酔いと緊張で青ざめた麻里子の顔が映り込んだ。自分の肩越しに、不安げな面持ち の母親の姿も見えた。父親は麻里子が承諾することに期待してはいないのだろう、ホルスターから拳銃を抜いて 手中で弄んでいた。六連発式リボルバー拳銃の黒い影が、銀色の刃をちらちらと掠める。

「……どうやるの」

「喉は切りづらい、心臓に突き刺すのには肋骨と縄が邪魔だ、剥き出しの腹、でなければ太股の動脈だ」

「わかった」

 バタフライナイフの刀身はあまり長くはなく、せいぜい一〇センチだった。それなのに、大人の命を奪えるのか。 目隠しをされていないので、幼稚園の先生はナイフを携えた麻里子を直視して怯えている。猿轡には唾液と吐瀉物 と折れた歯と血が付いていて、片目にはアイシャドウが僅かにこびり付いている。どんな子供にも優しくて、ピアノが 上手で、絵本を面白おかしく読んでくれて、笑顔が素敵な先生だった。けれど。
 ひくひくと痙攣する下腹部にナイフを突き立てた感触は、思いの外、呆気なかった。体重を掛けて深く押し込むと、 中で何かがぶつりと千切れ、出血量が増した。声にならない声で叫ぶ先生の姿は醜悪で、幼稚園での楽しい思い出 が台無しになるほどだった。更に二度三度と刺すと、次第に動きが弱まり、そして――――死んだ。
 両手がべたべたする。ワンピースがべとべとに汚れた。足元がぬるぬるする。鉄臭くて生臭かったが、車酔いは もうぶり返さなかった。なぜなら、あらゆる不快感を凌駕する征服感が麻里子を満たしていたからだ。
 麻里子の背後で、父親が笑っている。とても楽しそうで、家族団欒の際には一度も見せたことのない表情と声で 笑っている。麻里子も笑っていた。声を出さずに肩を震わせながら、確信する。自分はこの男の実子であり、この男の 血を継いでいるのだと。生物的な本能で悟り、動物的な感覚で理解し、衝動的に確信する。
 己の性癖を。




〈――――だから、今の今までいい子ちゃんぶっていたってわけか?〉

「そうです。あの人はアレでいて私に執着を抱いているから、私を助けに来ると解っていたからです」

〈ガキのくせして、マフィアを利用しようとしたのか〉

「お互い様です。彼らも私を利用していました。ですから、お互いに利益しか生まれません」

〈首が飛ばされるのも予定の範疇か?〉

「いいえ。失敗してしまっただけです。痛かったです。驚きました」

〈死ぬ気はないと?〉

「ありません。けれど、今までの私ではいけません。やりたいことが出来ないからです」

〈人間ってのは訳が解らんと昔から思っていたが、お前は特に訳が解らんな〉

「お褒めに預かり、光栄です」

〈ああ、今のは本心から褒めたよ。……そんなこと、言わなくても解るだろうが〉

「解ります。けれど、言葉にするともっとよく伝わります。あなたの御名前はなんですか」

〈そうだな。俺の名は――――〉




 カムロ。
 それが、麻里子に無限大の力と可能性を与えてくれる怪獣義肢の名前だった。渾沌から足抜けして九頭竜会に 加わったばかりの辰沼京滋の忠誠心と技術を見定めるために、麻里子は辰沼の手によって施術された。もちろん、 施術されている最中の麻里子自身の記憶はないのだが、カムロが覚えているのでそれを見せてもらった。
 胴体と首の切断面から湯水の如く輸血された。出術時間が長引くにつれて若衆達は何度も血を抜かれたため、 何人も貧血を起こして倒れてしまった。麻里子の頭部は綺麗に剃り上げられると、頭皮を剥がされ、薄い肉と骨の 間にカムロの神経に当たる髪の毛を埋め込んでから頭皮を元に戻して縫い付け、首と胴体を繋げるために太めの 髪を伸ばして血管に差し込み、血液を循環させた。カムロの本体ともいえる赤い眼球とそれと一体化している臓器 は皮下には埋め込まず、外に出した。辰沼の腕前は完璧とは言い難かったが適切で、麻里子と神経を繋いで意識を 共有したことで麻里子が気に入ったこともあり、カムロは麻里子を受け入れ、麻里子もカムロを受け入れた。
 そして、両者は運命共同体になった。カムロとの意思の疎通が上手く出来るようになるまでは時間が掛かって しまったので、麻里子は首を切られて死にかけたショックで少し頭が変になったように振舞い、異変を悟られないよう にした。カムロはカムロで、他の怪獣達を屈服させるための手段を考え始めた。髪の毛に毒液を充填させて放つこと は昔から出来たのだが、それだけでは麻里子の願望を叶えられるとは思い難い。なので、麻里子の脳を借りて 思案した末、毒液を含んだ髪の毛を刺した相手に怪獣電波を放って遠隔操作をするという方法を思い付いたが、 それが上手く出来るようになるまでには随分と時間が掛かった。
 だが、その甲斐あって、麻里子は父親を填めることに成功した。渾沌の下っ端のチンピラを操り、九頭竜総司郎 を襲撃させたが、寸でのところで殺し損ね、右腕と右足を切り落とすだけに留まった。けれど、これは失敗ではない のだと麻里子は笑った。九頭竜総司郎に代わって組長代理の座に収まったのだから、本懐に近付ける、と。
 そして、その本懐とは。




 顔を締め付けていた黒髪が引き剥がされ、視界が戻る。
 喉に刺さっていた髪の毛も同時に引き抜かれたが、そのせいで粘膜を痛めたらしく喉の奥に血の味が溜まった。 口の中に残る異物感と怪獣特有の硫黄の匂いとその他諸々で、狭間は激しく咳き込んだ。血が多く混じる唾液を 吐き捨ててから、狭間は口元を拭った。麻里子とカムロの生首を戒めているのは、ツブラの赤い触手だったが、 本数が異様に減っていた。触手の切断面からは体液が零れ、聖堂の床に赤い雨が降っている。
 壁掛け時計の針はそれほど動いていなかったので、狭間が拘束されていた時間は十五分程度だったようだが、 その間にもツブラは単独で戦い続けていたらしい。だが、カムロと聖ジャクリーンを相手にしつつ狭間を助けるのは 至難の業だったらしく、ツブラは疲れ切っていた。そればかりか、触手の三分の一を失っている。

「ツブラ!」

 猛烈な怒りが湧くよりも先に罪悪感が膨らみ、狭間はよろけながら駆け出すと、聖ジャクリーンは刃を握った 両手を大きく広げてツブラを抱き締めようとしてきた。聖女怪獣の苦痛を生む抱擁を受けかけたが、ツブラは 狭間の声に気付いて身を縮め、壁を足と触手で蹴って聖ジャクリーンの足の間を滑り抜けた。自身の体液と触手 が散らばる床を抜けてきたツブラは、ぼろぼろと泣きながら狭間に飛びついてくる。

「マァー!」

「その辺にしておいて下さい、聖ジャクリーン。あまり触手を切りすぎると、支障を来します」

 首を元に戻した麻里子が髪を払うと、カムロが赤い瞳を見開く。

〈ちょっと話し込んでいる間にこの有様とは、守護聖獣にしておくのは惜しいぐらいだ〉

「ヤクザ同士の親子ゲンカがしたいなら、俺とツブラを巻き込むな!」

 必死にしがみついてくるツブラを抱き寄せ、狭間は吼える。裂けた喉が痛むが、構わずに。

「カムロ、九頭竜麻里子! あんたが何をしたいのかは大体解ったが、そんなことは自分だけでやれ! どうして 俺達があんたらの楽しみのために苦しまなきゃならないのか、全く持って解らんし解りたくもない!」

「解ってもらう必要なんてありませんよ」

〈俺と麻里子だけが通じ合っていれば、それでいいんだ〉

 触手の肉片と返り体液にまみれた聖ジャクリーンを従え、麻里子とカムロは陶然と微笑む。

〈とりあえずは礼を言っておこうか、人の子、天の子。お前らが動き回ってくれたおかげで、実に効率良く実験が 出来た。怪獣が人間を襲うと光の巨人が出現する、ってのは怪獣同士では周知の事実だが、それがどこからどこまで なのかが曖昧だったんだ。だから、それを見極めるためにも色々と手を回したんだよ。ゴウモンの元に連れていき、 俺の髪の毛を仕込んだ若衆共にお前らを襲わせたが、光の巨人は出現しなかった。バンリュウとガニガニの一件 が起きたのはまあ偶然だったが、怪獣同士で争っても光の巨人は出現しなかった。九頭竜会の手下だった大石家 の娘を模倣したダイリセキは何度も子供にちょっかいを出していたが、それでも光の巨人は出現しなかった。俺の 思想と似た思想を持ったガチョーラとインファレドを呼び寄せて好き勝手にさせてやったが、それでもやはり光の 巨人は出現しなかった。男でも女でもないあいつに怪銃を使わせてやったが、やはり出てこない。そこで、俺は 怪獣同士の伝手でグルムを誘き寄せて人の子に被せて暴れさせてやると、やっと光の巨人が出現した〉

「要するにですね。怪獣が操る人間が人間に危害を加えてもダメ、怪獣同士で戦い合ってもダメ、人間を模した怪獣 が人間に殺意を抱いただけではダメ、怪獣が明確に人間に危害を加えようと企んでいてもダメ、悪意を持った人間が 怪銃を使って殺人を働こうとしてもダメなんです。けれど、人間を操っている怪獣が人間に危害を加えると光の巨人 は出現するのです。私とカムロでなぜそうなるのかを考えてみたところ、こんな結論が出ました」

〈光の巨人は人間と怪獣が接触したことを感知しているんじゃないのか、ってな。もちろん根拠なんてないが、ダメ だったのと成功したのを比べると、違いはそれぐらいしか見当たらないんだよ。だが、俺のような怪獣義肢が人間 相手に暴れても出現する場合があるから、そうだとは言い切れない。けどな、どうやれば光の巨人が出現するのかと いう理屈を見つけ出したってことは……解るだろ?〉

「私とカムロは、光の巨人を操れるということです。この世で何物にも勝る力、消失という絶対的な破壊、自然現象 の中でも最も特異で最も凄絶であり、最も美しい存在をですよ? ただの殺戮や暴力よりも完成されている、美学の 中の美学。破壊の中の破壊。絶望の中の絶望。はあ……」

 麻里子の頬が、ほんのりと赤く染まる。喜色満面、愉悦至極。

〈だが、自分で呼び出した光の巨人に消されちまうことほど馬鹿な話はないし、そこまで間抜けじゃないんでな。そこ で、俺と麻里子は保険を掛けておくことにしたんだよ。天の子を配下にするのさ。だが、これまで見てきた限り、天の子 は人の子にしか従わないようだからな。だから、人の子を操ってしまえば、万事上手く行く〉

 カムロの瞳が一際赤くなり、にんまりと弓形に細められる。恍惚と悦楽。

「そんなの」

 上手く行くわけがない、と狭間は叫ぼうとするが、口を開きかけたところで体が痺れた。ぞろりずるりぬるり、と 異物が血管を這い回る音が聞こえてくる。その異物がどこかに辿り着き、止まると、狭間は膝を折る。脳の中に 入り込んだのか、それとも脳に近い神経に接触したのかは定かではないが、体の自由が奪われた。脱力した両腕 から落ちたツブラは狭間に抱き付くが、その甲斐なく、聖ジャクリーンに抱き締められた。
 黄色いレインコートが裂かれて青白い皮膚に突き刺さると、小さな怪獣は甲高い悲鳴を上げた。悲鳴に合わせて 触手が暴れるが、暴れた傍から切り落とされ、人間のそれとは色合いの違う血液が更に落ちる。麻里子はうっとりと しながら狭間の服を探り、辰沼から渡された抗怪獣薬の入った注射器を奪い取った。
 頭の最深部に異物が到達すると、狭間の意識は途切れた。





 


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