横濱怪獣哀歌




髪ノミゾ散ル



 だが、しかし。
 それから程なくして、喉の奥に異物を突っ込まれる苦しさで意識が引き戻された。ツブラの触手よりも硬く、カムロ の髪の毛よりも太く、冷たいものだった。顎を強引に開かれて舌を平べったいもので押さえられているので、嘔吐感 に幾度となく襲われる。なんなんだよ、俺っていつもこんなんかよ、なんで俺ばっかりが、と狭間は苦しさのあまりに 憤怒して抵抗しようとしたが、両手足が力一杯押さえられた。

「もう少し……そう、もう少しだけ大人しくしていてくれる? 無麻酔で出来るなんて思ってもみなかったけど、途中で 意識が戻っちゃうなんてね……碁でも差せば気が紛れるかな?」

 馬鹿野郎、古代中国じゃねぇんだから、と狭間は怒鳴ろうとしたが舌も顎も動かせず、手足も拘束され続けていた ので胸を反らすだけで精一杯だった。だが、この声には聞き覚えがある。目を瞬かせて涙を拭うと、声の主の正体が 判明した。心底楽しそうな笑顔を浮かべている辰沼京滋が狭間の上に跨っていて、医療器具と思しき金属製の凶器を 操っている。狭間の顎を開かせているのは田室秋奈で、両手足を押さえているのは藪木丈治だった。

「先生。あと0.3ミリ下」

「頸動脈から入り込んで顔面動脈に入っていってくれたのは幸いだったねぇ、うん、くふふふ」

 逆光の中に見える辰沼はマスクを付けていたが、にやけは隠せていなかった。何がそんなに楽しいんだ、と狭間は 言い返したくてたまらなくなったが、辰沼の言葉通りに異物感が喉から顔に移動していくと、そんなことを言う余裕 もなくなった。辰沼が握っているのは細長い針金で、どうやらそれが狭間の動脈に潜り込んでいるらしい。

「じっとしていなよ……ちょっとでも動くと、動脈に傷が付いて君の貴重な脳が台無しになっちゃうんだよ。うん。 それならそれでいじり甲斐があるんだけど、さすがにそれは惜しいかなぁって思ってさぁ……」

 十秒間息を止めていなよ、と辰沼は強く言ったので、狭間はその通りにした。すると、辰沼の手中の針金が生き物 のようにうねり、狭間の顔面の皮下で何かが絡み合った。辰沼もそれを感じ取ったのか、針金を握り締めて引っ張り、 ずるずると血みどろの針金を引き摺り出した。針金が抜け切ると、今度は黒い糸が現れ、狭間の動脈からずるすると 出てきた。喉の奥から取り出された黒い糸は恐ろしく長く、一メートル弱はありそうだった。

「術式完了!」

 針金と黒い糸を掲げ、辰沼はにんまりする。

「消毒。縫合?」

 間髪入れずに、秋奈が狭間の喉にヨードチンキを浸した脱脂綿を突っ込んできた。出来たばかりの傷口に消毒液 をたっぷり塗られる感覚は強烈で、粘膜が焼けんばかりの激痛で狭間は全身を突っ張らせた。

「そうだね、縫合しておいてやろうか。特別に」

「報酬は巻き上げないんすか?」

 痙攣する狭間の両手足を押さえている藪木に尋ねられ、辰沼は笑う。

「同じホールケーキを食べた仲だもの」

「意味不明」

 狭間も秋奈と同意見だったが、頷けはしなかった。 

「さあ、治療は第二ラウンドだ」

 辰沼は針金をしゅるしゅると手に巻き付け、その先端に縫合用であろう針付きの糸を絡ませていた。針金が独りでに 動くはずがない、だが怪獣の気配はしない、どういうことだ、と狭間が疑問に駆られていると、辰沼は狭間の喉の奥の 傷口に針金を向かわせて縫い始めた。

「ん、あー、これね。これが僕の力というか、魔法かな」

 針が刺され、糸を縫われ、刺され、縫われ、刺され、縫われ、その度に針金がダンスを踊る。

「この針金の原材料は、怪獣が発掘される鉱脈から出てきた鉱石なんだ。つまり、怪獣の出来損ないってわけだ。 僕は見ての通り秋奈ちゃんと同系統の怪獣人間なんだけど、秋奈ちゃんみたいな能力には目覚めなくて、はてどう したものかと悩みながら怪獣義肢のサンプルをいじくり回していたら、怪獣鉱石が僕の意思に反応して動くってことに 気付いたわけ、さ、っとぉ。よおし上手く行った、上出来だね、さすがはこの僕だ」

 八重歯を覗かせた辰沼は、秋奈が差し出してきた小さなハサミを使って糸と針を切り、針金を回収する。

「ああ、それと、しばらくは喋りづらいからね。固形物を飲み込むのも難しいけど、治りを早くするためにはちゃんと 食べないといけないから頑張ってね。抜糸をする必要はないよ、体に馴染んで溶ける糸を使ったから。傷口が膿む ようであれば、もう一度治療してあげるけど、その時はきっちり別料金を頂くからね」

「ぞらろうも」

 そりゃどうも、と狭間は喋ったつもりだが、喉の痛みと舌にこびりついた血のせいで濁っていた。何の許しもなく いきなり手術をしてくるとは、辰沼はとてつもなく非常識な男である。文句の一つでも言ってやりたくなったが、辰沼 の手元にある金属製の皿でとぐろを巻いている髪の毛は、死に損ないのミミズのようにのたうち回っていて、辰沼の 手から離れたことで動かなくなった針金と格闘していた。それが自分の体内で起きていたら、と考えたら狭間は貧血 を起こしかけた。が、寝てはいられないのだ。ツブラを助けなければ。

「ツブラが」

 狭間は聖堂を見渡すが、ツブラを抱いた聖ジャクリーンの姿もなければ、麻里子とカムロの姿もなかった。無残に 切り落とされた触手は至る所に散らばっていて、手が空いた藪木が触手を拾ってはバケツに無造作に放り込んだ。 ツブラをぞんざいに扱われたようで苛立ちかけたが、触手は触手だ。本体ではない。

「狭間君。シャンブロウはね――――」

 辰沼の言葉を遮るように、場違いなエンジン音が轟いた。狭間が身を起こすと、聖堂の出入り口に見覚えのある バイクが横付けされている。愛車のドリームだ。

〈人の子、いつまで俺を放っておく気だ!〉

「うぉばえ、ろうじで」

〈なんだその声、改造車の排気音よりも耳障りだ。口で喋るな、俺達みたいにやれよ〉

「ぶぢゃいうら」

 だが、狭間も自分の今の声があまりにも聞き苦しいとは解っていた。潰されたカエルの呻きのような、瀕死の獣の 唸りのような、肥溜めで溺れる者のような。しかし、怪獣と同じ方法で怪獣と通じ合えるわけがない。狭間は怪獣達 とは違って、怪獣電波を受信できても送信出来るわけでは――――

〈いや、あるな〉

 口から出さずに頭の中で言葉にすればいい。受け取った怪獣達の声を聞き取る時と同じ要領で、自分の意識と 声を変換すればいい。なんで今までそんなに簡単なことに気付かなかったんだ、と呆れもしたが、言葉にするには 口から発さなければならないという思い込みから逃れられなかったのだ。これなら、どうにかなりそうだ。
 狭間は痛みと貧血と緊張を疲労を堪えて立ち上がると、三人に一礼してから聖堂を出た。だが、ドリームが敷地 に入り込んできても生徒も教師も無反応だった。今度こそ大騒ぎになるはずなのだが、と狭間が訝りながらも愛車 に跨ると、数人の女子生徒が校門から出ていった。彼女達の姿が消えてから、狭間はドリームを発進させて校門を 抜けると、異様な光景を目の当たりにした。
 黒のセーラーにグレーのプリーツスカートの制服を着た聖ジャクリーン学院の生徒達が、グレーの修道服を着た シスター達が、用務員が、寮母が、女性達が列を成して坂を下っていく。一列に、整然と、無言で、ぞろぞろと。誰も 彼もが無表情で、お喋りも一切聞こえてこない。ハーメルンの笛吹き男を思い出し、狭間は臆するが、こうも思う。 彼女達を操っている力の根源は、彼女達が向かう先にいるのだ。そして、それがあの悪しき怪獣義肢だ、とも。
 すぐさま愛車のスロットルを回し、駆け抜けた。




 同じ服を着た少女達が、女達が、列を成して進んでいく。
 黒と灰色の筋が道路に沿って伸びていく様は、葬列に似ていた。だが、弔うべき相手もいなければ棺の担ぎ手も いない。なぜならば、彼女達の誰もが弔われる立場になるかもしれないからだ。異様な光景だからだろう、道行く 人々のみならず通りがかる車もスピードを緩めて少女達の列を眺めていく。興味と怯えを混ぜた視線がそこかしこ から注がれる。少女達の知り合いや身内が飛び出してきて、名前を呼び掛けて腕を掴んで揺さぶって正気に戻そう とするが、少女達の眼差しは逸れない。真っ直ぐに、海だけを見つめている。
 
〈こっちよ!〉

〈そうだ、この道を右に曲がれば近道だ!〉

〈あの野郎、強硬派にも強硬派の矜持ってのがあるだろうが!〉

〈交差点に入ってくる車は止めておくから、今のうちに!〉

〈人の子、天の子を助けてやってくれ! 俺達では、天の子を救えない!〉

〈人の子!〉

〈人の子!〉

〈ひとのこ!〉

 カムロと麻里子の行き先を教えてもらえるのはありがたいし、助かるのだが、急かされすぎると癪に障る。狭間も 精一杯急いでいるが、速度を上げたら速度超過で違反切符を切られてしまいかねないし、事故を起こしてしまうかも しれないし、もしもそんなことになったら事態を解決するどころか新たなトラブルに見舞われる。相変わらず、怪獣は 狭間の都合を考慮してくれない。してくれるわけがない。だから。

〈そこまでガタガタぬかすんだったら、お前ら、俺に道を開けろ!〉

 狭間も、怪獣の都合を考慮しなければいい。これまでは割と大人しく従ってきた狭間が、口頭ではなく怪獣電波で 言い返してきたからか、怪獣達に動揺が広がった。車は急停止し、信号は点滅し、工事現場の重機はエンストし、 怪獣達は口々に狭間の命令に従うか否かを相談する。だが、意見が多すぎてまとまらない。狭間に従った方がいい という意見が多くなったかと思いきや、天の子を守れなかった人の子に従うべきではない、という意見に傾きそうに なるが、前者に賛同する怪獣が増える。だが、後者の意見に賛同する怪獣も増える。シーソーゲームというよりも 綱引きだ。賛成と反対が行ったり来たりするが、その混乱によって道路を行き交う車が急停止し、結果として進路が 開けてくれた。それを見逃さずに、狭間は拙い技術を駆使して潜り抜けていく。
 走って走って走り続けて、ついに女子生徒達の列の先頭に至った。と、同時に目的地にも。速度を緩めてカーブ してからドリームを停車させた狭間は、熱した愛車から降りて、震える手でヘルメットを外した。本牧埠頭の突端に ある灯台、その足元を囲むように女子生徒達が一列に並んでいる。一人また一人と増えていき、海に面したデッキに 沿って立つ。狭間はデッキに向かっていく女子生徒を引き止めようとしたが、振り払われる。

「お早い御着きでしたね」

 灯台の展望デッキから、九頭竜麻里子が顔を出した。但し、首は脇に抱えている。

〈あのまま俺の支配下になってくれるかと思ったが、そこまで都合良くは行かねぇな。誰が俺の髪の毛を抜いたの かは想像が付くが、大した問題にはならない。それをなぜかと問う必要もなければ、それに答えてやる必要もない。 そうだよな、人の子?〉

 麻里子の胴体が足蹴にしたのは、穴だらけのレインコートがはみ出している小さな肉塊、否、本数が大幅に減って しまった触手で体を包んで身を守っているツブラだった。狭間は目を剥き、叫ぼうとしたが、縫合されて間もない 喉が裂けかけた。血と胃液が混じったものが傷口を焼くが、その痛みは脳には至らなかった。神経が高ぶってきた からだろう、疲労も緊張も恐怖も痛みも遠のく。麻里子とカムロが何をしようとしているのか、ツブラに何を させようとしているのか、考えるまでもない。いや、考えたくもない。

〈考えたくなくとも、考えるしかなくなるぞ? ……口で喋らない代わりに怪獣電波を使っているようだが、使い方 が荒すぎてお前の思考もだだ漏れなんだよ〉

 勝ち誇っている、を通り越して慢心しているカムロの声がぬるりと入り込み、脳内を掻き乱す。普段使っていない 部分を酷使しているからか、鈍い頭痛がする。怪獣達がひっきりなしに上げる叫びと言葉が頭蓋骨の内側で反響し、 ただでさえ逆立っている神経に苛立ちが駆け巡る。これでは、ツブラの声が聞こえないではないか。だが、叫ぼうと 喉を動かすだけで、息を吸って横隔膜を上下させるだけで、唾を飲み下すだけで、喉が焼け付きそうに痛む。ツブラ は怪獣言語を使おうとしないのだから、言葉で伝えなければ、声を聞かせなければならないのに。
 腹に力が入らず、掠れた吐息しか出てこなかった。





 


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