女学生達が、一人また一人と柵を乗り越える。 潮風でスカートが捲れ上がって下着が露わになっても一切気にせず、海の彼方を見つめ、手元も足元も見ずに 薄く錆の浮いた鉄柱を掴んで跨ぐ。コンクリートの崖と柵の間にある狭い足場に辛うじて立ったが、お揃いの革靴の つま先は宙に浮いている。強い風を受けて煽られれば、ちょっとしたことで驚いてしまったら、あっという間に海へと 飲み込まれてしまうだろう。同じ制服を着た同じ年頃の娘達が同じ方向を向いて同じ目的のために集っている様 は、狂気以外の何物でもなく、この世のものとは思い難い禍々しさにある種の美しさが同居している。 〈さあ、皆さん。救われましょう〉 聖ジャクリーンは爪の代わりに刃が生えた指を絡ませ、胸の前で両手を組む。 〈これまで私は、皆さんの切ない悩みを受け止めてきました。けれど、皆さんが生きる限り、苦悩や苦痛は絶える ことなく押し寄せてくるのです。苦しみから逃れる術はただ一つしかありません。そう、苦しみのない世界はすぐ傍に あったのです。どうしてそんな簡単なことに気付かなかったのでしょうね、うふふふふふふ〉 聖ジャクリーンは左目だけが露出した顔で女学生達の背中を見回し、しゃらりと刃の髪飾りを鳴らす。 〈私も今までずっと苦しかった。寂しかった。切なかった。私は意思があるのに、自由に動けるのに、生きているの に、聖堂の中にいなければならなかった。人間の宗教家に守護聖獣として選ばれたというだけであって、私自身が そうなることを選んだわけでも望んだわけでもなかったのだから。ずっと何かに焦がれていた、けれどその何かが 何なのかすらも解らずにいたから、行動にすら出られなかった。だけど、その何かがやっと解ったの〉 左目が零れ落ちんばかりに見開いた聖ジャクリーンは、口元の包帯の隙間からぬるりと刃の舌を出す。 〈私の清らかさを保つためには、私を信じている者達が清らかでなければならないことに気付いたの。けれど、皆、 学校を卒業すれば結婚して家庭を設けるようになるし、そうなったら世俗にまみれてしまうし、進級していくに連れて 大人になるから可愛くなくなってしまうし、何よりも私以外のものを信じるようになるわ。それはとても穢らわしいこと なのに、穢らわしいということにすら気付かなくなってしまう。ああ、なんて悲劇的。だから、私は皆さんが清らかな 時に時間を止めてあげるわ。ふふふ、んひふへははははははははははは〉 少女達を品定めするように、聖ジャクリーンはゆっくりと歩く。こいつは強硬派だったのか、と狭間が気圧されると、 ドリームがすぐに教えてくれた。聖ジャクリーンのような思想の持ち主は強硬派でも穏健派でもない、超越派である、と。 どの思想にも当てはまらない上に自分の理想こそが正しいと信じている、最も危険な相手なんだよ、とも。 つまり、カムロと麻里子はそれを見越した上で、聖ジャクリーンを操っているのだ。そして、聖ジャクリーンが己の 美学を守るために少女達に手を掛ければ光の巨人が現れ、一人と一匹の思い通りになるという寸法である。そこで 狭間がツブラを起き上がらせて戦わせなければ、被害は哀れな少女達だけでは済まなくなる。狭間が良心の呵責 に耐えられない人間だということは、これまでのことで知られているだろう。それも含めた計画だ。 〈聖ジャクリーン! 俺の声を聞け、聞こえているんだろうが!〉 使い慣れない怪獣電波を駆使しながら、狭間は息を切らして走る。一人の少女に目を付けた聖ジャクリーンは、 両手を広げて少女を包み込み、聖母のような仕草で巨体を寄せる。守護聖獣とは名ばかりの凶器と狂気を孕んだ 怪獣に抱かれているのは、古代喫茶・ヲルドビスの常連でもある兜谷繭香だった。 〈うるさい、黙って。人の子が何をどう言おうと、私には関係ないわ〉 〈こっちは関係大有りだ、人間に手を出されたら光の巨人が出てくるってことを知らないわけがないだろう!〉 〈知っているわ。光の巨人が出てくる理屈を教えてくれたのは、カムロだもの〉 〈だったら、さっさと学校に帰れ! あいつらが現れたら、お前まで消されるぞ!〉 〈それのどこが恐ろしいの? 全ては無から生まれたの、無に帰すことは必然なのよ〉 〈うあああもうっ、ちっとも話が通じねぇ!〉 〈無に帰したら、そこには神様がいらっしゃるのよ神様よ神様。怪獣の神様。人間の神様。光の巨人の神様。神様 は神様だから神様なのであって穢れとは無縁で不変で不動で不老で不死でふひふふふうふふふ〉 〈あーもうじれったい面倒臭いやかましい気色悪い!〉 〈だから、人の子も穢らわしい! というか、男は嫌いなの!〉 唐突に聖ジャクリーンは振り返り、狭間を睨み付ける。兜谷繭香は刃が生えた腕からは解放されたが、その勢い で海に落ちそうになったので狭間はすぐさま彼女の腕を引っ張り、柵を握らせた。だが、それがまた聖ジャクリーン の怒りに火を注いだらしく、一際長い刃が生えた腕が振り翳された。日光を撥ねて白く煌めいた刃には、引きつった 形相の自分が映り込んでいる。一瞬、海に飛び込んで逃げようか、とも思ったが、切っ先に付着している赤い体液が 目に入った途端に我に返る。ここで逃げても、事態はもっと悪くなるだけだ。 死神の鎌を思わせる刃が柵を呆気なく断ち切り、コンクリートを砕く。兜谷繭香が無傷であることを確認した後、 狭間はデッキの柵を伝って必死に進む。逃げるわけではない、一度は聖ジャクリーンから離れないと手の打ちよう がないからだ。その間にも、聖ジャクリーンは次々に柵を切り、コンクリートを割って追撃してくる。柵を切られた 瞬間に一歩下がり、聖ジャクリーンの足の間を摺り抜けて陸地に戻ってから、狭間は愛車を呼んだ。 〈ドリーム、来てくれ!〉 〈うっひょう、やっと俺の出番か!〉 小高い丘を飛び越えて現れた無人のバイクは、一気に駆け下りてきて狭間の前で横付けした。狭間は冷めやらぬ 愛車に跨ってハンドルを握り、聖ジャクリーンとの距離を更に開けるべく速度を上げた。がしゃがしゃじゃきじょき と金属音を振りまきながら走ってくる聖ジャクリーンは思いの外足が速く、狭間は目を剥いたが、スロットルを思い切り 捻って上げられるだけ速度を上げる。すると、当然ながら追手の速度も上がる。 〈ドリーム、お前、階段を昇れるか!?〉 〈無茶言うな、俺のサスペンションとタイヤがオフロード仕様に見えるか!? やって出来ないことはないが、尻と 膝の安全は保障しないからな! あと、俺のタイヤの磨耗も!〉 〈なんでもいいから進んでくれ!〉 〈そう言われちゃ仕方ねぇなぁーっ!〉 口ではそう言いつつも、ドリームは乗り気だった。狭間がハンドルを捻る前に前輪が曲がり、灯台の階段の登り口 に向かっていった。芝生に無残なタイヤ痕が付き、泥と千切れた芝生を撒き散らしながら階段に突っ込むと、最初の 段を上った瞬間に強い衝撃が訪れた。石を踏んだ時の比ではない。頭が前後に大きく揺れ、視界はおろか三半規管 も掻き混ぜられる。だが、この程度で根を上げてはどうにもならないのだ、と狭間は耐えた。耐え抜いた。 舌を噛まないようにと奥歯を食い縛りすぎて顎が痺れたが、この際どうでもいい。展望台に至ると、狭間はバイクを 傾けて滑らせ、力一杯ブレーキを握って減速させた。タイヤとコンクリートが摩擦を起こして排気とは異なる煙が 漂うが、潮風に拭われて一瞬にして視界が晴れる。すぐ目の前には、やや驚いた顔の麻里子とカムロ。背後には、 階段を破壊しながら追いかけてきた聖ジャクリーンが。 〈ツブラ! 起きろ!〉 出せる限りの力と念を込めて、狭間は怪獣電波を発する。異変を察知したツブラは触手の繭を少し緩めていたが、 起き上がるまでには至らなかった。バイクを起こしてからアクセルを回した狭間は、灯台を剥くように螺旋階段 に沿って昇ってきた聖ジャクリーンを一瞥してから、カムロと麻里子を見据える。 〈映画の主人公にでもなったつもりか、人の子の分際で。格好が付くのはここまで――――〉 嘲笑するカムロが赤い瞳を露わにした途端、灰色の粉塵を赤い閃光が貫いた。赤と赤が触れると炸裂し、麻里子 の頭部が吹き飛んだ。が、展望台の手すりに髪を絡めて持ち直し、首から下も踏み止まる。 「これは、もしや」 生首の麻里子と首から下の麻里子が光線の発生源を辿ると、灯台から少し離れた位置の倉庫の屋上に狙撃手 の姿があった。麻里子とカムロの視線が外れた隙に再加速した狭間は、ツブラに手を伸ばすと、半泣きのツブラは 触手の繭を解いて飛び上がり、狭間の背中にしがみ付いてきた。その衝撃でよろめきかけたが、態勢をなんとか 立て直す。だが、昇ったはいいが下りはどうするか考えていなかった。再び狙撃されているカムロと麻里子の様子を 窺っていると、剣山の如く刃が生え揃った手を振り上げた聖ジャクリーンが赤く光る紐に縛られ、ずるずると下方 に引き摺られていった。これはもしかすると、だが、どうして。 「いよーう、バイト坊主」 呆気に取られている狭間に、灯台の下から声を掛けられた。見下ろすと、赤いサバンナの運転席から寺崎が 顔を出している。今度こそ詰んだ、と狭間が死を覚悟すると、寺崎はサングラスを上げて片目を閉じた。 「そこから動くなよ、下手に動くと当たっちまうからな」 何が、と問う必要はなかった。 「うぎっ!?」 〈ぐがっ!〉 麻里子とカムロの悲鳴が重なる。赤い閃光の雨、雨、雨。容赦なく浴びせられる赤色光線が美しい顔を焦がし、 黒髪を焦がし、ついでに聖ジャクリーンの刃を砕く。これは最早、機銃掃射だ。それでなくとも壊し尽くされた 灯台が更に穴だらけになり、展望台も原形を止めていない。怯えた狭間は、無意識にツブラと抱き合った。 〈ほほほほほほほ、良く当たるわぁ! 的が動かないのはちょっと残念だけどね!〉 〈ははははははは、最高に気持ちいいぜ! 撃って撃って撃ちまくれ!〉 この、一対の怪銃の声は。 〈やっと俺の力を振るえる時が来た、この時をどれだけ待っていたことか! って須藤が言いたそうにしている けど言えないのが悔しそうだ! あと、御名斗の雄姿が見られないを猛烈に残念がっている!〉 この、忘れもしない怪獣の声は。 〈ようやく気付いたな、人の子。気付くのが遅すぎるが、そうでもなきゃカムロを謀れなかったのさ。悪く思うなよ、 いや、悪く思ってくれてもいいんだぜ? 何せ俺達は、強硬派である以前に九頭竜会だからな!〉 この声も。ということは、つまり。 「やあやあご苦労さん、狭間君。いい囮になってくれたよ」 サバンナの後部座席から出てきたのは、上機嫌な辰沼だった。その手には注射器が三本ある。ということは自分に 渡された注射器の中身は、と狭間が察すると、辰沼はにんまりする。 「静脈注射のやり方も知らないズブの素人に、貴重な薬を渡すわけがないじゃなーい」 「丈治君」 辰沼に続いて後部座席から出てきた秋奈が呟くと、サバンナとは逆方向から黒のシボレーC/Kが爆走してきた。それが 灯台の根元に激突したかと思うと、ひしゃげたボンネットから怪獣人間が飛び出してきた。赤い光の紐を振り払おう ともがいている聖ジャクリーンの背中に貼り付き、腰を抱え、そのまま雪崩式ジャーマンスープレックスへと 持ち込んだ。轟音を立てて芝生の丘に頭からめり込んだ聖ジャクリーンと、守護聖獣を投げ飛ばした主である藪木を 見下ろし、狭間は半開きになった口を閉じるのを忘れた。なんなんだろう、こいつら。 最後にやってきたのは、黒いキャデラックだった。その後部座席から降りてきたのは九頭竜総司郎で、一振りの 日本刀を携えている。怪銃ボニー&クライドによる狙撃も止んで、束の間、静寂が訪れる。廃墟も同然の灯台から 父親の姿を認めた麻里子は、頬に出来た真新しい火傷を押さえ、忌々しげに舌打ちした。 取り繕っていない、素の表情だった。 14 7/29 |