横濱怪獣哀歌




風船事変



 やっと、帰ってこられた。
 古びた木造アパート、フォートレス大神を見上げ、狭間は感じ入り過ぎた挙げ句にちょっと泣きそうになった。傍ら の綾繁枢は何もかもが物珍しいのか、辺りをきょろきょろと見回している。好奇心に任せてどこかに行ってしまうと 後が面倒なので手を繋いでいるが、細すぎる手が抜けそうになるので、その度に握り直した。ヒツギは離れた場所 から二人の様子を見守りつつ周囲を警戒してくれているが、狭間と枢が手を繋いでいるのが余程面白くないのか、 憎悪が漲った怪獣電波が五分間隔で飛んできた。
 錆び付いた階段、色褪せた壁、古ぼけたトタン屋根、薄く濁った窓ガラス。そのどれもが懐かしく、胸の奥がきつく 絞め付けられそうになる。これでツブラも一緒だったら、と考えそうになるが、今、手を繋いでいる相手のことを第一 に考えるべきなのだと思い直す。不貞じゃないぞ、断じて違う、それに枢はまだ十歳だ、と狭間は後ろめたい気持ち になりながらも二階に昇り、郵便受けの裏の隙間に突っ込んである合い鍵を出し、玄関のドアを開けた。
 狭い土間には、見覚えのある革靴があった。そろりと中を窺うと、昼前であるにも関わらず、学生服姿の弟が居間 にいた。座卓には勉強道具が広げられていて、問題集と睨み合っては熱心に計算式を解いている。声を掛けるべきか 否かを若干迷っていると、真琴は異変に気付いたらしく顔を上げた。

「よお、真琴」

 間の抜けた挨拶をした兄に、弟は腰を浮かせかけたが、間の抜けた挨拶を返した。

「なんだよ……遅いよ、兄貴」

 お互いに言いたいことが山ほどあるが、ありすぎて言いようがなかったのだ。まずは落ち着つこうと、狭間は枢を 部屋に上がらせた。枢は人見知りする性分なのか臆していたが、狭間が促すと、ぎこちなく挨拶してから上がった。 真琴は勉強道具を片付けてから、狭苦しい台所で湯を沸かし、フィルターを填めたドリッパーを使ってコーヒーを 淹れてくれた。マグカップも四つあり、ドリッパーと一緒に買い揃えたのだそうだ。

「んー……」

 真琴が淹れたコーヒーの味は、苦みがつんと先に立った。それから、香りと酸味が来た。海老塚が淹れたものとは 豆からして違うのだろうが、これはこれで悪くない。狭間が弟の力作を味わっていると、真琴はそわそわしながら 兄の様子を窺っている。味の良し悪しを聞きたいが、自分から尋ねるべきか迷っているらしい。

「悪くない」

 率直な感想を述べた狭間に、真琴は安堵しつつも残念がった。

「そう言うだろうと思ったよ、兄貴の語彙じゃ。酸味がもうちょっと押さえられないかなぁ、と思うんだけど、それが なかなかどうして上手くいかないんだ。やっぱり、マスターの見様見真似じゃあなあ」

「飲めるようになったのか」

「そりゃあね。淹れた分は自分で消化しなきゃならないし、飲んでみないと成功したかどうかも解らないし」

「学校はサボりか? 出席日数に響かない程度にしておけよ」

「ん、まあ、そんなところ。でも、そろそろ行こうと思っていたから、明日からはまともに行くよ」

「生活費は大丈夫なのか? 俺が残していった金と政府からの見舞金で賄っていたのか?」

「アパートの家賃と光熱費と諸々の金は、マスターが半年先まで先払いしておいたって大家さんが言っていたから、 それは心配ない。ヲルドビスはマスターがいないからずっと休みだけど、俺の住所は今でもそっちだから、たまに 掃除しに行ったりしている。マスターが置いて行ってくれた生活費もあるんだけど、なんだか手を付けづらいから、 兄貴が貯めておいてくれた金でなんとかしていたんだよ。あ、学費は政府の金だけどね」

 だからその辺は心配しなくてもいい、と締めてから、真琴は綾繁枢を窺った。

「それで、兄貴。その子は」

「ああ、えと、わたくしは」

 コーヒーではなく温めた牛乳を飲んでいた枢は、膝を正して背筋を伸ばし、半身をずらしてから頭を下げる。

「愛歌さんの遠い親戚だ」

 枢の頭をぽんと撫でてから、狭間は枢と目を合わせつつ怪獣電波を発した。

〈間違っちゃいないし、真琴までややこしいことに巻き込むわけにはいかないだろ? そういうことにしておけ〉

 枢は目を丸く見開いた後、ゆっくりと頷いた。顔を上げてから、枢は真琴と向き合う。

「愛歌御姉様が御世話になりました。私は光永枢と申します。以後、お見知りおきを」

「……はあ、どうも。クルルってあの、万葉集の刑部志可麻呂の、むらたまのくるにくぎさしかためとし、の?」

「はい。その枢でよろしいです」

 二人のやりとりに、狭間は少し気後れする。

「真琴、お前は万葉集なんて覚えているのか?」

「全部じゃないよ、少しだけだよ。兄貴だってまるで覚えていないわけじゃないだろ、勉強したんだから」

 そうかあの字なのか、と理解した後、真琴は改めて兄を問い質した。

「で、何がどうなって愛歌さんの親戚の子と兄貴が手を繋いで帰ってくる羽目になったんだ?」

「ええと、だな」

 軍隊に捕まって訊問された後、麻里子や他のヤクザが殺されかけたところでエレシュキガルが現れたから、光の 巨人を出現させて火星に追いやったのだが、その際に狭間は重傷を負った。ツブラも光の巨人と共に火星に行き、 それきりだ。その後、玉璽近衛隊によって印部島海軍基地に連行されて治療されて拘束されたが、潜水艦怪獣達の力を 借りて横須賀に戻り、そこで暴走しているガニガニをツブラの歌で鎮静化させた。横浜にゴウモンの毒ガスを詰めた 風船怪獣がやってくるから、それを撃退しなければならないのだが、その危機を凌いだ後には怪獣使いと魔法使いの 抗争を阻まねばならないようで――――

「どれもこれも話しちゃ拙そうだから、全部片付いたら教えてやる。それでいいよな?」

 狭間が枢に意見を求めると、枢は苦笑する。

「その方がよろしいでしょうね、きっと」

「事情は良く解らないが、兄貴が怪獣に振り回されまくっているのは解った。だから、いいことにしておいてやる。でも、 全部終わったら一から十どころか百も千も話してもらうからな」

 真琴はやや身を乗り出し、マグカップを突き付けてきた。狭間は弟らしからぬ態度に臆しつつも、弟のマグカップ に自分のマグカップを当てた。

「お、おう」

 それから、真琴は三ヶ月間の出来事をこれでもかと捲し立てた。その中のいくつかは狭間と怪獣達が原因であろう 事件も含まれていたが、やり過ごした。枢は温めた牛乳が余程おいしかったのか、ちびちびと大事に飲んでいた。 真琴がコーヒーの当てにするために買い込んでいたココナッツサブレを出してやると、枢は目を輝かせながら しゃくしゃくとサブレを齧った。その反はが可愛かったのだが、食べさせ過ぎて枢が腹を下してしまったらヒツギ が狭間を殺しかねないので、三枚目を食べたところでココナッツサブレは戸棚に引っ込めた。
 真琴の無事を確かめたのだから、次はやるべきことをしなければ。




 無謀を承知で、九頭竜屋敷に赴いた。
 アパートから出る前に電話を一本入れておいたのが功を奏したのか、門番の若衆は狭間の顔を見た途端、門を 開けて通してくれた。枢が何者かと問われたら困ると案じていたが、彼らは枢も快く出迎えてくれた。表向きは、 ではあるが。枢はヤクザの下っ端の男達から挨拶されるたびに丁寧に挨拶を返していたので、母屋に辿り着くまで にやけに時間が掛かってしまった。玄関で引き戸に手を掛けようとしたところ、内側から開かれた。

「よう、バイト坊主」

 引き戸を開けたのは、スカジャン姿の寺崎善行だった。

「どうも」

 狭間は挨拶すると、枢も一礼する。

「突然の無礼、お許し下さいまし。私と狭間さんは、麻里子さんに用事があって訪問いたしました」

「そう来るだろうと思ったよ。あの御嬢様をただで助けるわけがねぇ」

 寺崎は何かを諦めたような顔になり、千手観音を背負った背中を向けて手招いた。

「しっかし、お前はとんでもねぇ野郎だなぁ」

「そりゃどうも」

 寺崎の語気で、褒められていないのは解る。狭間が愛想笑いで返すと、寺崎は肩を竦める。

「帝国陸軍から御嬢様の生首を取り返してくるなんて、正気の沙汰じゃねぇぞおい。というか、俺みたいなのが 言うのはなんだが、そんなことをした奴が外で歩いていたら、すぐに手が後ろに回っちまうんじゃねぇのか?」

「今のところは大丈夫ですよ。玉璽近衛隊が印部島から脱する手立てはないので」

「おいおい、軍隊と戦争でもするのか? げははははは、なんとも面白くなってきやがったぜ」

「麻里子さんはどうしています?」

「元気なもんだよ。殺しても死なないってのはああいう輩のことを言うんだなぁ。御嬢様が帰ってきてからと いうもの、上も下も緊張感が戻ってきやがった。親分よりもその娘にビビっているだなんて、極道としちゃ 情けないことこの上ないが、その気持ちはよぉーく解る。怪獣に勝てる人間なんていねぇからな」

 何度目かの角を曲がったところで、寺崎は狭間の後を付いてくる枢に目を止めた。

「そのちっこいのは、あの触手娘とは違うんだな?」

「その節は、愛歌御姉様が大変お世話になりました。私、光永枢と申します」

 枢は一度立ち止まって頭を下げると、寺崎は釣られて頭を下げ返した。

「あ、どうも。俺は寺崎善行ってもんで、九頭竜会の舎弟頭だ」

「では、寺崎さんはお偉い御方なのですね?」

 枢が仕事用の大人受けの良い笑顔を浮かべると、寺崎は禿頭を押さえる。柄にもなく照れたらしい。

「いやあ、そうでもねぇよ。上から下からせっつかれて大変だよ、須藤の奴がいねぇから尚更よ」

「それで、麻里子さんはどちらに」

 狭間が訊ねると、すぱぁんっ、と勢いよく背後の襖が開いた。それと同時に黒い奔流が溢れ出し、ずるりと足元 を埋め尽くした。狭間は咄嗟に枢を抱き上げて振り返ると、背後の部屋に黒髪の海が出来上がっていた。その 中心に立っていたのは、首から下を取り戻した九頭竜麻里子だった。平安時代の女性の如く、いや、それよりも 遥かに長く量の多い黒髪を裸体に巻き付けて、髪に頬を摺り寄せてうっとりしている。

「あぁ……カムロ……。やっと戻ってきましたね、あなたが……」

 頬を火照らせ、目を潤ませ、麻里子は愛おしげに髪を撫でていたが、カムロが髪束を尖らせて麻里子の頬を軽く突いて やると我に返った。狭間と枢と寺崎にようやく気付いた麻里子は、珍しいことに動揺した。よろめいて髪ごと自分の体 を抱き締め、奥の間に引っ込んだ。数分後、浴衣を雑に羽織った麻里子が取り澄ました顔で現れた。

「あなた方の用件が何かは、把握しております」

 こちらへどうぞ、と麻里子は狭間達を促しながらも、耳まで真っ赤になっていた。歩くにつれて髪が徐々に縮んで いき、最終的には腰の上の長さで落ち着いた。カムロは麻里子をしきりにからかっていて、照れる麻里子にちょっかい を掛けては髪束と目玉を引っぱたかれている。麻里子と同等かそれ以上に、カムロもまた浮かれている。枢はそんな 両者を眺めていたが、狭間の袖を引っ張り、微笑んだ。

「私がカムロさんを頂かずに済んで、本当によかったです」

 そうなっていたら、カムロはどれほど怪獣使いを恨んでいたことか。その恨みはいずれまた別の恨みを生み、負の 感情が連なり続けてしまう。関係はどうあれ、カムロと麻里子はこの上なく幸せそうだった。但し、両者の会話の 内容は相変わらず物騒で血生臭かった。どちらも救いようのない悪人ではあるが、カムロと麻里子が元気になった ことは素直に喜ぶべきだろう。そう思いながら、狭間は奥の間へと向かった。
 九頭竜邸で大事な話をする時は、いつもあの部屋だ。





 


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