横濱怪獣哀歌




曇天



 ようやく、夜が明けた。
 柔らかな枕に首を埋めていた麻里子は、弱く息を吐いた。首から下は傍に横たわっているが、首を繋げて動かすのも 億劫なほど疲れ切っていた。裸身の胴体は俯せに倒れていて、背中にはシルクのガウンが掛けられている。その 肌触りは滑らかではあるが、冷ややかだった。トラの彫刻が施された天蓋付きのベッドは、主人の体格に合わせた 広さで、ダブルベッドよりも更に大きい。枕元の青磁の香炉は、当の昔に火は消えているが、一晩中焚かれていた 白檀の香りは髪やら何やらに染み付き、汗の匂いを紛らわしていた。
 ジンフーの手で荒々しく断ち切られた後ろ髪はほとんど伸びていなかったので、両サイドの髪を使って首を軽く 持ち上げて転がし、胴体と首の切断面を合わせて神経と血管を繋げた。いつもであれば、カムロがやってくれること なのだが、今朝は彼は髪の毛一本動かそうとしなかった。彼の心中を考えれば、無理からぬことだ。
 あの話を持ち掛けたのは麻里子の方であり、カムロもそれを解っていた。いずれは身を差し出さなければ、渾沌 の頭領たる男を繋ぎ止めてはいられない。夫婦としての契りを交わしたのだから、床を共にするのは当然だ。だが、 解っているはずなのに、腹を括って事に及んだはずなのに。

「……あ」

 ベッドを囲んでいるレースカーテンが冷たい風を孕み、揺れる。鎧戸が開け放たれている両開きの窓があり、その 先ではちらほらと白いものが散っている。

「寒いはずじゃのう」

 窓の手前では、黒と黄色の漢服を身に着けた夫が煙管を銜えていた。その足元には、銅製の火鉢がある。

「一つ、やるか? 目が覚める」

 ジンフーは煙管を掲げると、麻里子は身を起こしてシルクのガウンに袖を通した。

「いえ、お構いなく」

「そんなら、ちょいと待っとれ。なあに、すぐ戻る」

 ジンフーは灰皿に煙管を叩き付けて灰を落としてから、腰を上げ、部屋を出ていった。漢服の襟元から覗く屈強な 首筋には、雄々しい虎の刺青が見え隠れしている。歳を重ねているのに肉体は弛んでおらず、体力も同様で、怪獣 相手に大立ち回りを繰り広げた後とは思えないほど、精力的に麻里子を貪ってきた。麻里子は曲がりなりにも怪獣人間 なので、最後まで付き合えたが、常人であれば体力が持たずに失神してしまうだろう。
 夫の抱き方が乱暴極まりなかったら、その場で首を刎ねていただろう。心身を虐げるようなことをしてきたら、心臓 を抉ってやっていたことだろう。だが、ジンフーはそのどちらもしなかった。怖気立つほど女扱いに慣れていて、男を 知らない娘の体を易々と開かせた。流されてなるものかと気を張っていたのに、いつのまにかその気にさせられ、 挙句の果てには醜態を曝す羽目になった。思い出すだけで恥ずかしく、麻里子は赤面した。

〈辛いか?〉

 いつになく優しい声色で、カムロが語り掛けてくる。

「辛ければ、もっと楽でした」

 ジンフーが粗暴な獣でしかなかったら、九頭竜会のために売られたのだと開き直れた。カムロと愛し合っていれば いいのだと割り切れた。けれど、老いた男は少女を本気で愛していた。それが煩わしく、疎ましく、悔しい。

〈あの野郎がお前を幸せに出来るとは思えねぇ。思いたくもねぇ〉

「ええ」

〈だが、俺は麻里子を幸せにしてやれない。してやりたくても、やりようがねぇんだ〉

「私は幸せですよ。あなたと一つになってからは、ずっと」

〈……ああ、俺もだ〉

「少し優しくされただけで絆されそうになるなんて、私はまだまだ青いですね」

〈当たり前だ、十七歳の学生なんだから〉

「許してくれますか?」

〈許すも何も、咎めやしねぇよ。麻里子が決めたことだ。あの野郎と結婚することも、まぐわうことも〉

 カムロは髪束を持ち上げ、麻里子の頬をそっと撫でる。

「けれど、私と共に死ぬのはジンフーさんではありません。あなたなんです、カムロ」

 赤い目が現れた髪束を掴み、麻里子は首筋の合わせ目を押さえる。

〈ああ、それだけは誰にも変えようがねぇよ〉

 赤い目がにんまりと細められたので、麻里子も笑みを返す。それからしばらくして、ジンフーが寝室に戻ってきた が、土鍋を載せた盆を手にしていた。土鍋の中身は、出来立ての熱々の中華粥だった。白身魚の小振りな切り身が 柔らかく炊けた粥の上に散らばり、ショウガの爽やかな香りが食欲をそそる。ジンフーに促されたので、麻里子は ベッドから降りて窓際のテーブルに付き、ジンフーが盛ってくれた中華粥を少し口にした。ホタテの貝柱のダシと 魚の風味がしっかりしていて、口当たりは優しいのに深みのある味だ。昨日食べた、香辛料と油まみれの中華料理 とは全く違う。寝起きで空腹だったからということもあり、麻里子はあっという間に平らげてしまった。

「その喰いっぷりからして、気に入ったようじゃのう」

「あなたの家には、腕のいい料理人がいるようですね」

 二杯目をジンフーに盛らせるのは癪なので、麻里子は自分で盛って食べた。

「粥なんぞ作ったのは久々じゃが、おぬしの口に合ったんならええわい」

 得意げなジンフーに、麻里子は面食らう。

「ということは、この御粥、あなたがお作りになったんですか?」

「若い頃はなんでもしとったからのう。殺し屋に用心棒に運び屋に売人に料理人、とな」

「御料理、お好きなんですか?」

「料理をこさえるんも、それを誰かに食わせるのも好きじゃのう。そうでなかったら、店なんぞ経営せんわい。隠れ蓑 と資金源にするには打って付けっちゅうのもあるがのう」

「リーマオさんにも振舞われたのですか?」

「うんざりするほど作っては喰わせたわい。ありゃあ、ちょいと体が悪うてのう。そのくせ、薬効のあるモンは 好かんというから、味を変えて作ってやったわい。下手に舌が肥えちょるから、喰わんことが多かったがのう」

「とてもそうは思えませんが」

「腰から上はなんてことはないんじゃ。悪いっちゅうんは、あれじゃ、足じゃ。ちょっと歩くと足が痛いだのなんだの っちゅうとったんじゃが、最近になって両足の骨ん中に出来物があるのが解ってのう」

「では、リーマオさんが両足を切断して怪獣義肢のカーレンを移植した理由は」

「九頭竜会をやり合うためだけに、あんなことをするわけがなかろうが。儂とて鬼ではないわ」

 冷めてしまうわい、とジンフーは残った粥を掬い、自分の椀に盛って掻き込んだ。

「カーレンには、リーマオの足の骨の代わりになってもらうはずだったんじゃが、思ったよりも進行が早うてな。一気に 足を切らんと全身に回ってしまうかもしれん、っちゅうことでああしたんじゃが……元気になりすぎよった」

 朝飯がなくなってしもうた、茶でも淹れるわい、とジンフーは盆を抱えて出ていった。そんなこと、リーマオからは 一言も聞いたことがなかった。というより、彼女は自分自身の話をしたがらない。手を組んでいるとはいえ、渾沌と 九頭竜会は敵対関係を解消したわけではないから、当然と言えば当然だ。ジンフーもまた、九頭竜総司郎と同等かそれ 以上に腹の内を見せない男だ。だから、そのジンフーが身内の話をするとは思ってもみなかった。
 程なくして、夫はジャスミン茶を淹れたポットを盆に載せて戻ってきた。爽やかな花の香りが目を覚まさせ、茶の 温もりが腹の内から体を暖めてくれた。いつのまにか、うっすらと雪が積もっていた。人気の失せた横浜の街並みに 薄化粧が施され、色彩を奪っている。二杯目のジャスミン茶を飲み干してから、麻里子は左手を挙げる。

「結婚式の続き、いたしましょう」

「ここでか?」

「この雪では、宴席を設けても客が集まりませんし」

「それもそうじゃのう」

 ジンフーは一笑し、腰を上げた。年季の入った中国タンスの引き出しを開け、小箱を取り出した。あの日、麻里子 の左手の薬指に填まり損ねた結婚指輪だった。夫の太い指が純金製のシンプルな指輪を抓み、妻の華奢な指に 填めた。サイズはぴったりだった。麻里子はジンフーの左手を窺うと、その薬指には、結婚指輪が二本も填まって いた。前妻との指輪を外していないのだ。麻里子は少し苛ついたが、自分も人のことは言えない立場なのだと思い 直した。麻里子は自分の指輪の倍近いサイズの指輪を取り出すと、夫の左手の薬指に突っ込んだ。

「そんなら、披露宴の続きもせんとならんのう」

 ジンフーは麻里子の顎を手に収め、上向かせ、目を合わせる。獣の男の指先は皮膚が硬く、いやに熱い。

「俗なことがお好きなのですね、意外と。幻滅します」

「その切れ味がたまらんのじゃ。おぬしとおると、退屈だけはせん。少しでも隙を見せたら、寝込みを襲われて喉笛 を切り裂かれてしまうじゃろう。他の女は、儂を怖れるばかりで喰らい付こうとはせんかった。じゃが、マーリーズー は儂を怖れはせん。首を刎ね飛ばした時もそうじゃった。儂を殺す気でおった」

「あなたを殺したくならない日は来ないでしょうね」

「感じるぞ、おぬしの髪を通じて、おぬしとカムロがいかに儂を憎んでおるかを。ここまで近くにおっても、おぬし の全部は手に入らん。未来永劫、儂のモノにならん。――――故に、求めずにはおられんのじゃ」

 ジンフーの手を遮ろうとカムロが脈打つが、ジンフーはもう一方の手で麻里子の髪を握り、動きを押さえる。先程 まで見せていた優しい眼差しのまま、いびつな欲望を露わにしていた。麻里子はジンフーの目を見返し、頬を歪めて 好戦的な表情を浮かべる。そうだ、だから麻里子はこの男に惹かれてしまう。カムロと同じように、麻里子の凶暴性 を真っ向から受け止めてくれるのだから。だが、今ばかりは牙を収めよう。
 朝食のお礼です、と囁き、麻里子は身を乗り出した。応じてくれるとは思ってもいなかったのか、ジンフーは僅かに 戸惑いを見せたが、腰を曲げてきた。カムロは抗うのを諦めて弛緩し、赤い目も引っ込めた。
 雪が舞い散る窓の前で、竜の娘と虎の男の影が重なった。




 横浜湾沖にて、波七型潜水艦はヒツギと合流した。
 その際、狭間はヒツギから詳細な報告を受けた。氷川丸がブリガドーン目掛けて飛び立ってから間もなく、桜木町 を中心とした一帯が帝国陸軍によって封鎖されてしまった。一般市民はトライポッドの騒動の際に避難していった が、九頭竜会と渾沌を始めとしたならず者達と、佐々本親子と小暮小次郎は留まっている。田室正大陸軍中佐と、 その部下である氏家武大尉は佐々本モータースに身を寄せている。バベルの塔の破片に動きはなく、他の怪獣達も 光の巨人を怖れているので熱量が低い。その上、昨日、シャンブロウに酷似した怪獣が出現した。
 狭間はヒツギを問い詰めたくてたまらなくなったが、深い話をするのは上陸してからだ、とぐっと堪えて、ヒツギ が連れてきてくれた小型の怪獣船舶に乗り移った。潜水艦には一度乗った経験があるとはいえ、乗り慣れているわけ ではないので、狭間は船酔いに悩まされていた。真琴、羽生、須藤も同様だったが、綾繁悲だけは平然としていた。 戦艦での従軍経験があるからだろう。

「……んあ」

 甲板で潮風を浴びていた狭間は、降りしきる白い粒に気付いた。

「雪だ」

 真琴は口元を拭い、鉛色の空を仰いだ。その顔色は、雪と等しい白と化していた。

「今年はいやに季節の進みが早いな」

 船室から出てきた須藤も顔色は芳しくなかったが、真琴よりは足取りはしっかりしていた。

「違うわ、季節はまだ秋なのよ。大気中の気温が奪われて、上空の雲と地表の温度が冬のそれに近付いてしまった だけよ。光の巨人の出現頻度が高くなりすぎたから」

 悲は素肌の二の腕を押さえ、顔をしかめた。真琴はすかさず学ランを脱ぎ、悲の背に掛けてやると、悲はちょっと 照れたように目を伏せた。いらないのに、とは言いつつも、悲は学ランの襟を掻き合わせていた。ワイシャツ一枚に なってしまった真琴は、金色のスカーフと化していた縫製怪獣グルムを変化させて上着代わりにした。狭間は二人の 微妙な距離感を微笑ましく思いつつ、進路を見定めた。波号は再び海中に没し、印部島へと戻っていった。
 降りしきる雪の向こうに、横浜港が見えてきた。ほんの少し離れていただけなのに、長らく遠ざかっていたかのよう な気分になる。スカジャンの袖を伸ばして指先を覆い、ボタンを全部留め、首を窄める。ライキリが弱く熱を発して くれているので、下半身は暖かい。皆、白い息を吐いているが、悲だけは吐息が白くならなかった。というより、彼女 はそもそも呼吸をしていないのかもしれない。
 ヒツギは船を真っ直ぐ先導していたが、急に進路を変えた。がくんと船体が傾き、狭間もよろめく。何事かと海面 を見下ろすと、その下には触手を生やした怪獣が没していた。藍色の波間の下、湿気の多いぼた雪が吸い込まれて いった奥には――彼女がいた。狭間は心臓が握り潰されたかのような痛みに襲われ、身を乗り出しかけたが、弟に 制された。冷え切っていた手足が一気に熱を取り戻し、息が出来なくなる。弟の手がしっかりと腕を掴んでくれて いなければ、ライキリを抜刀して海中に飛び込んでいたかもしれない。呼吸を整え、身を引き、狭間は震える手で 船の縁を握り締める。海の底に没した彼女に届くように、シャンブロウに向けて、その名を叫んだ。
 叫ばずにはいられなかった。





 


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