ルージュは、意識を戻した。 左腕の感覚が戻っている。指先に意思を送ると間を置かずして反応が返り、視界の隅で太い指が曲がった。 ぎち、と関節が擦れる。鉱石ランプの青白い光が鋼の皮膚に反射し、薄暗い天井に光の欠片を飛ばしていた。 喉の奥に焦燥に良く似た飢えを感じたが、すぐに失せた。全身に魔力が充ち満ちているので、飢えるわけがない。 長い足を曲げて上体を起こし、石の寝台の上から降りた。床の砂埃と硬いつま先が擦れ、耳障りな音を立てた。 寝台の傍には、鉄槌を抱えた巨体が座り込んでいた。尖った耳を生やした頭を上げ、赤い瞳をにいっと細めた。 「気分はどうじゃな?」 「悪くない」 ルージュは左腕を掲げ、副砲に魔力を注いだ。角張った砲口の奧から、微かに白い光が零れる。 「再生は完璧だ。これなら、すぐにでも出られる」 「まあ、そう急くこともないわい。おぬしはちぃと働きすぎじゃ、ルージュ」 巨体の魔導兵器、ラオフーは腰の後ろに生えた円筒を連ねた形状の尾を振った。ルージュは、彼を一瞥する。 「ラオフー。あの馬鹿鳥はどうした?」 「あの愚かモンなら、また遊んどるわい。よくもまぁ、飽きもせずに人を殺すもんじゃて」 よっこいせ、とラオフーは金色の鉄槌の柄を支えにして立ち上がった。 「儂も若い頃は人間を喰ってみたりしたもんじゃが、ありゃあ旨いもんでない。獣の方が余程味がええわい」 「私は好きだが。というより、それが主食だったからな」 ルージュは銀色の唇を開き、その奥にある鋭い牙を覗かせた。牙もまた、銀色だった。 「ただ、昨今の人の血は味が濁っていて敵わない。喉越しも悪ければ風味もなく、魔力濃度も大分低下しているから喰っても喰っても満たされない」 「水が悪いんじゃろうて。煙突の付いた箱が、汚い油水を川にも海にも垂れ流しちょるからのう」 ラオフーは、首を横に振る。ルージュは魔導金属糸で出来た髪に似た装甲を払い、背中に流した。 「このままいけば、人の血の味はますます落ちるのだろうな。吸血鬼泣かせだ」 「鋼の体となったおぬしが言う言葉ではあるまいて」 ラオフーは、からからと笑い声を上げた。 「それはお前も同じだろう、ラオフー」 ルージュは、五芒星の魔法陣が書かれた扉に向いた。 「体を慣らしてくる。留守を頼む」 「本調子ではないんじゃ、無理はせん方が良いぞ」 ラオフーは大きな手を広げ、振った。背を向けたルージュは手を振る代わりに、右腕の主砲を上げた。 「朝までには戻る」 ルージュは左手で分厚い扉を開き、明かりのない階段を昇っていった。かつんかつんという足音が、遠ざかる。 ラオフーは鉄槌を床に置き、その上に腰を下ろした。壁に吊り下げられた懐中時計の針は、夜中を指している。 レンガ造りで窓のない部屋の中には、ルージュが寝ていた寝台と、ラオフーには読めない書物だけがあった。 乱雑に積み上げられている大量の魔導書には、うっすらと砂埃が積もっており、全体的に白っぽくなっていた。 それは全て、今まで奪い取ってきた禁書だった。ラオフーは尾を伸ばし、その先で禁書の一冊を持ち上げてみた。 「ほんに、何が面白いのか解らんのう」 ルージュは禁書の内容が解るのか、たまに興味深げに読み耽っていることもあるが、ラオフーには全く解らない。 字も読めなければ数字も判別出来ないフリューゲルは当然興味も持たず、奪う時以外には触ることすらしない。 すると、鉄製の扉がかしかしと引っ掻かれた。ラオフーが立ち上がって扉を開けると、白い影が滑り込んできた。 「あんれまあ、今宵は虎の御隠居が留守番でごぜぇやすか」 「何の用じゃ、ヴィンセント」 ラオフーは、白ネコを見下ろした。薄闇の中では、白い毛並みはいやに目立つ。 「へえ。大したことじゃございやせん、ちぃとお顔を拝見しに来ただけでごぜぇやす」 ヴィンセントは二股に分かれた尾を、ぱたぱたと振った。やれやれ、とラオフーは大きな耳を引っ掻く。 「おぬし、たまには儂らの仕事に付き合おうてくれんかのう」 「あっしにはあっしの仕事がごぜぇやすから、それは無理なお話でさぁ」 ヴィンセントは、瞳孔が丸く広がった青い瞳をにたりと細めた。ラオフーは、鉄の扉をぎいと開け放つ。 「おぬしはいつもそれじゃな、ヴィンセント」 いってらっしゃいやせ、と、ヴィンセントは頭を下げていたが、扉がぴったりと閉ざされたので見えなくなった。 ラオフーは幅広く急な階段を、一歩踏み出すごとに揺らしながら昇った。この体は便利だが、重たいのが難点だ。 戦闘時には足元がぶれない上に一撃で強烈な打撃を生み出せるが、日常的な活動をするには邪魔で仕方ない。 金色の鉄槌も、物を破壊する以外の機能はない。それは、ルージュの魔力砲もフリューゲルの翼も同じである。 戦う以外には、何の役にも立たない。それが魔導兵器だと解ってはいるのだが、煩わしい時は煩わしいものだ。 壁に埋め込まれた魔導鉱石の原石が、青白く輝いている。足元には、ラオフーの巨体の影が幾重にも現れる。 そして、五芒星の魔法陣。魔法に明るいルージュによれば、この魔法陣は六芒星のものよりも古いのだそうだ。 階段を何十段と昇った先の天井に、四角く縁取られた明かりが見えた。ラオフーはその下に立ち、手を上げた。 背を伸ばさずとも、天井には手が届く。四角い光の中央を持ち上げると、ごりっ、と石同士が擦れ合う音がした。 石で出来た分厚い蓋を脇に押し、縁に手を掛けて懸垂の要領で体を持ち上げ、慎重に四角い穴から外へ出た。 出た先は、巨大な魔法陣の上だった。 夜風が心地良い。 火照った体と魂を冷やし、銀色の髪をなびかせる。再生したばかりの左腕の調子は良く、魔力の伝達も速い。 背中から生えた推進装置から出る炎を強め、加速する。無数の星々が散らばる夜空の下は、静寂に満ちている。 生前は吸血鬼であった身なので漆黒の闇の中でも夜目が利き、眼下に広がっているものは良く見えていた。 廃墟、廃墟、廃墟。かつては共和国の一大商業都市であった街も連合軍の集中砲火を浴びて、壊滅している。 南北に伸びて枝分かれしている線路も砲撃で破壊され、街道にも朽ちた戦車が転がされ、生き物の気配はない。 硝煙と灰の匂いに混じり、かすかな死臭も漂ってくる。血の匂いなら好ましいが、こちらはあまり好きではない。 ルージュは高度を落とし、廃墟の商業都市の上を滑空した。連合軍兵士の戦闘服を着た白骨がいくつもあった。 更に高度を下げて穴の開いた屋根のすれすれを飛行していると、視界の片隅に閃光が起き、顔の脇を抜けた。 程なくして、直線上で爆発が起きた。ルージュが止まって振り返ると、銀色の翼を広げた魔導兵器が背後にいた。 「くけけけけけけけけっ」 鋼鉄の鳥人は、己を誇るように金属の翼を広げた。 「腕、もがれたんだってな。マジだらしねーんだぞこの野郎!」 「硝煙臭いな。何をやらかしてきた」 ルージュは右腕の主砲を上げ、砲口を鋼鉄の鳥人に据えた。フリューゲルは、高笑いする。 「くけけけけけけけけっ! 連合軍の戦車部隊と遊んできただけだ、大したことじゃないんだぞこの野郎!」 「無駄なことを」 「仕事のたびに、人間焼きまくってんのはどこのどいつだよ? ヒトんこと言えるかよ、ルージュ!」 「好きで焼いているわけではない」 「オレ様、てめぇが好きじゃないんだぞこの野郎」 唐突に、フリューゲルは声を低めた。ルージュは、皮肉混じりに唇を曲げた。 「気が合うな。私もお前のことは」 空中を蹴り、ルージュは飛び出した。フリューゲルが近付くよりも先に接近し、彼の喉元を砲口で抉った。 「気に食わない!」 魔力が迫り上がり、光線に変換される。フリューゲルの細い首に押し当てられた主砲から、白い熱線が迸った。 光はフリューゲルの首を中心に割れ、肩の上を過ぎて背後へと飛び抜けた。着弾し、どぅん、と煙が舞い上がる。 既に砕かれていた壁が更に貫かれて崩壊し、地面が焼け焦げた。だが、目の前のフリューゲルは動じていない。 「効かないんだぞこの野郎!」 ルージュの砲身をカギ爪の付いた足で薙ぎ払ったフリューゲルは、ルージュの背を踏み台にして高く跳んだ。 ばさりと両腕を広げて翼を全開にし、更に上昇する。追い掛けてきたルージュに向かって、一直線に落下した。 「くけけけけけけけけけけけっ!」 やかましい笑い声を放ちながら、フリューゲルは翼を折り畳んで平たくさせると、擦れ違い様に振り下ろした。 空中で、火花が飛び散る。銀色の翼はルージュの腹部の表面を舐めるように滑りながら、耳障りな音を立てた。 だが、ルージュの腹部には傷一つ付かなかった。ルージュは姿勢を戻すと、長くしなやかな足を高く振り上げる。 「身の程を知れ!」 けけけ、と笑うフリューゲルの後頭部を、ルージュのかかとの高い足が抉った。そのまま、銀色の鳥は落下する。 眼下の建物の屋根が貫かれ、砕けたレンガが飛び散る。だがすぐに、その穴の中から無数の閃光が放たれた。 それはまるで、地上からの流星だった。大量の魔力弾がルージュを狙って降り注がれ、いくつかが装甲を掠った。 砲撃はしばらく続いたがルージュの反撃がないと知ると、フリューゲルは崩落寸前の屋根を中から突き破った。 両翼を最大限に広げたフリューゲルは、銀の矢と化して向かってくる。ルージュは、真下へと主砲を突き出した。 「やかましい!」 苛立った叫声と同時に砲口の幅を遥かに超えた太さの閃光が地上に突き刺さり、銀色の影が焼き尽くされた。 着弾した部分を中心にして地面が割れ、粉々になり、巨大な半円に抉られていく。光線の照射は、しばらく続いた。 半円の抉れが広がったので、ルージュは魔力を収めて止めた。足元を見やると、半円の中心に銀色の鳥がいた。 だが、その体表面は銀色ではなくなっていた。魔力砲の高温の砲撃で装甲が歪み、表面が焼けて煤けている。 関節の隙間から煙を立ち上らせていたが、足の爪先が動いた。フリューゲルは上体を起こし、関節から砂を零す。 「速度と瞬発力ではお前が上かもしれないが、出力では私の方が勝っていることを忘れるな」 ルージュが冷たく言い放つと、フリューゲルは首をこきこきと鳴らしながら立ち上がった。 「そういう性格だから、オスが寄りつかねーんだよ! あー、やっぱりてめぇなんか嫌いだこの野郎!」 フリューゲルは羽根のように平べったい指の付いた手で全身にこびり付いた砂を払い、胸の魔導鉱石も払った。 魔導金属製の装甲はルージュの砲撃で焼けてはいるが、五角形の土台に埋められた石は全くの無傷だった。 ぎしぎしと関節を軋ませながら歩くうちに、装甲の歪みも元の状態に戻ったが、汚れだけはさすがに消えなかった。 「オレ様帰る! ついてくんなばーか!」 子供のような言い回しで捨てゼリフを吐いたフリューゲルは飛び上がると、あらぬ方向に向かって発進した。 ばーかばーかばーか、と言い残しながら去っていくフリューゲルの姿を見ながら、ルージュは心底呆れていた。 「お前と私が帰還する場所は、同じなのだが」 他にも色々と言いたいことがあるような気もしたが、相手の姿が見えなくなったのでさっさと忘れることにした。 ルージュがフリューゲルのことを好いていない最大の要因は、その性格の悪さだけでなく、非常に馬鹿だからだ。 生前はただの獣だったフリューゲルは、人に紛れて生きていたルージュや経験を重ねたラオフーとは違っている。 無知なくせに力を持っているからそれを誇り、意味もなく驕り高ぶり、己の破壊力を権力であると勘違いしている。 割に温厚なラオフーとは付き合えているが、フリューゲルは別だ。なぜ、あんな馬鹿が魔導兵器になったのだ。 だが、いちいち深く考えてもどうしようもない。魔導兵器の力と仕事を与えられた以上、それを全うするだけだ。 ルージュはフリューゲルへの砲撃を行ったために熱した体を冷ますため、高度を上げて夜風の中に浮かんだ。 吹き付けてくる風は強く、装甲を舐めていく。フリューゲルの下らない悪態が蘇ってきて、少しばかり癪に障った。 「別に、私は」 男に好かれる必要はない。ルージュは二の句を飲み込んでから、三日月が輝く藍色の空を仰ぎ見た。 「そんなことは、どうでもいい」 吸血鬼であった時代から、男には縁がない。そもそも、異性の吸血鬼族にはただの一度も会ったことはない。 いたという噂を聞いたことはあったが、それだけだった。異性に会いに行くほど、繁殖に積極的ではなかった。 元来、吸血鬼は孤独を愛するものだ。馴れ合いも好まないので恋愛関係にも淡白で、家庭を築くものは少ない。 人づてに、その家庭を築いた吸血鬼の存在は知っていた。妻が人間であり、彼自身が魔導兵器と化したことも。 それが、ラミアン・ブラドールだ。そしてあの夜に出会った青年が、その息子であるブラッド・ブラドールだった。 男に真正面から見つめられたのは、初めてかもしれない。吸血鬼であった頃に、男を魅了して喰ったことはない。 本来なら捕食の対象として魅力を感じるはずの男がどうにも好きになれず、喰うのは女や動物の血ばかりだった。 同性愛の気があるわけではないのだが、人間の男が持っている野太さや生臭さや脂っこさが生理的に嫌だった。 どんなに顔のいい男であっても、女に対して最後に求めるのは情交だ。それが、嫌で嫌でたまらなかったのだ。 この潔癖さのせいで捕食の機会を失い、飢えた末に銀色の獣と化したこともあったが、この性分は治らない。 ブラッド・ブラドール。吸血鬼の寿命の尺度で考えれば幼子も同然の青年だが、気の強い銀の瞳をしていた。 他の色が混じっているせいで金色のように見える銀の髪と、作り物のように整っている顔に、そしてあの言葉。 ブラッドからすれば余裕を見せるための軽口だったかもしれないが、ルージュの心に未だに引っ掛かっていた。 「名を褒められたのも、初めてだな」 いい名前だ。ただ、それだけのことだというのに。 「ブラッド・ブラドールか」 彼の名を口に出し、名を噛み締める。古い吸血鬼一族の末裔でありながら人の血を持つ、異端の吸血鬼だ。 だが、それを言えばルージュとて異端の極みだ。肉体を捨て、機械の体を得た、生き物とは言えない存在だ。 そんな者が何を思う。それに、ブラッドもれっきとした男だ。吸血鬼であっても、男である以上触れられたくはない。 それに、今はそんなことに気を割いている場合ではない。命じられたことがあるのだから、最優先はそれだ。 逆らう気は起きない。死した時点で、自分の命運は尽きている。逆らったところで、何がどう変わるわけでもない。 禁書を集める、という目的が馬鹿馬鹿しいということも、そのためだけに人を殺すことが空しいことも理解している。 危険な魔法が記された本であろうと、本は本だ。紙の固まりだ。活字の並んだ紙が綴じられただけのものだ。 そんなものを集めるという馬鹿げた仕事は、死した魂を入れられた機械人形に相応しいどうでもいい仕事だ。 遠くの空では、ブリガドーンが浮かんでいる。地平線の先に広がるどす黒い海からは、強い潮風が走ってくる。 荒れた山肌を撫でた風はひゅるひゅると鳴り、大地に繋がれていない山は無言の圧力を含みながら宙に在った。 ず、とブリガドーンが胎動した。 07 3/20 |