「お初にお目にかかりやす、重剣士の旦那、灰色のお嬢ちゃん。お久しぶりでやんす、スライムの旦那」 ぱた、ぱた、と二本の尾の先が地面を叩いている。 「あっしはシライシ・ヴィンセント・マタキチと申しやす、しがないネコマタでごぜぇやす」 場違いなほど悠長な足取りで、二本の尾を持つ白ネコが蒸気自動車に近付いてきた。 「アレクセイ、エカテリーナ。お楽しみのところを申し訳ねぇんでやんすが、連絡があるんでさぁ」 「特別管理官からの連絡でもあるのか、ヴィンセント」 アレクセイと呼ばれた男はギルディオスの剣に埋めていた手のひらを抜き、血濡れた手を下ろした。 「まあ、大したことじゃねぇんですがね」 ヴィンセントは足音を立てずに飛び上がると、ボンネットに着地した。 「そこのお三方は、殺処分対象から除外するんだそうですぜ」 「なぜだ。理由を言え」 女、エカテリーナは骨の刃を生やした腕をヴィンセントに向けた。ヴィンセントは、首を縮める。 「そんな物騒なものを向けないでおくんなせぇ。その辺のことは、あっしも知らねぇんでやんすよ」 「命令なのか」 アレクセイはやや語気を強め、ヴィンセントを見据えた。ヴィンセントは、長いヒゲをひくつかせる。 「ええ、命令でごぜぇやす」 命令、と強調されると、二人は途端に勢いを失った。アレクセイはボンネットから降り、エカテリーナも身を引く。 ギルディオスは呆気に取られながらも、警戒心は緩めなかった。ヴィクトリアもまた、細い眉を吊り上げている。 アレクセイの両手からはだらだらと血が流れ出ていたが、皮が伸びて塞がり、程なくして骨も元に戻ってしまった。 エカテリーナの両腕の骨の刃も引っ込み、滑らかな肌に戻った。二人が生体魔導兵器というのは本当のようだ。 だが、ギルディオスが知っているものとは違っている。アレクセイの流した血は体温を含んでおり、匂いも新しい。 ギルディオスの知る生体魔導兵器とは、名前こそ生体だが、その実は死体を魔法で動かしているに過ぎない。 なので、彼らには血の気などなく、肌は土気色で瞳も濁って動きもぎこちないのだが、二人はそうではなかった。 肌には張りがあり、瞳も瑞々しい。死体のそれではなく明らかに生者のそれだが、二人の表情に生気はなかった。 無機質、機械的、人工物。そんな言葉がよく似合う。ギルディオスは視線を据えたまま、確信を得るために問うた。 「お前らは連合軍か」 「そうとも言えやすが、そうでないとも言えやす」 ヴィンセントは白い毛に覆われた口元を開き、鋭い牙を覗かせた。 「命拾いしやしたねぇ、旦那。特別管理官のご厚意がなかったら、今頃はお三方も」 「失礼なのだわ。この二人はともかく、私はそんなに弱くはなくってよ」 ヴィクトリアが眉根を歪めると、ヴィンセントは、こいつぁ失敬、と前足で頭を押さえた。 「伯爵、知り合いか?」 ギルディオスが尋ねると、伯爵はフラスコを移動させてボンネットの上に落ちた。 「一度ばかり、廃墟で会っただけである。しかし、貴君が密偵であったとはな」 「あんれまぁ。スライムの旦那、あんまり驚いてくれねぇんでやんすか?」 ヴィンセントはちょっと残念そうに、ヒゲの先をへたれさせた。ごとり、と伯爵はフラスコを前にずらす。 「我が輩とて、長く生きておるのである。これくらいのことで動じるほど、神経は細くないのである」 「あっしらの目的を話すわけにはいきやせんが、このお二人のことについては話せるので話しやしょう」 ヴィンセントは目を上げ、アレクセイとエカテリーナを見比べた。 「お三方がお察しの通り、アレクセイとエカテリーナはただの人間じゃございやせん。元々は人間だったのでごぜぇやすが、魔法を使った生体改造手術を受けやして、人ならざる感覚と再生能力、そして肉体を自在に変化させる力を得たのでごぜぇやす。ただ、その代わりに」 ヴィンセントの目が、にいっと細められる。 「アレクセイとエカテリーナは、魂を失ったんでやんす。けれども、ちゃあんと生きとるんでやんす。頭も使えれば腹も減る、やろうと思えば子供だって作れねぇことはありやせん。ちょいと前には能力強化兵っちゅうのもありやしたが、あれよりもずうっと性能は良いんでやんすよ。異能力こそ使えやせんが、寿命も長ければ耐久力も強く、再生能力も高いと来とりやす。頭蓋骨に穴を開けて魔導金属を埋め込んで脳を直接いじくる能力強化兵の手術に比べれば、さすがに手術には手間と時間は掛かっちまいやすが、こっちの方がずうっと使い出はあるんですぜ」 「嘘だわ。魂を引き抜かれても生きられる生物はこの世には存在しないわ。それに、生体魔導兵器は死体を魔法で動かしているだけに過ぎないものだわ。生きているわけがないのだわ」 ヴィクトリアが反論すると、ヴィンセントは二本の尾をゆるやかに振った。 「そいつぁ少しばかり前の話でごぜぇやすぜ、お嬢ちゃん。科学が日々進歩していくように、魔法も進歩しておるのでやんす。あっしはちっとも学がねぇもんですから、御魂を引っこ抜かれた人間がどうやって心の臓を動かしちょるのかはさっぱりでやんすが、このお二人が生きとるのは間違いのないことでごぜぇやす。心の臓は動いちょりやすし、感情の起伏こそないでやんすがちゃあんとご自分で考えて動いちょるんでやんす。どうです、旦那。まっこと、面白い連中でございやせんか」 「面白いっちゃ面白いが、好きじゃねぇ。反吐が出らぁ」 ギルディオスは、内心で顔を歪めた。 「アレクセイとエカテリーナと言ったな。どうしてジムを殺した?」 「脱走兵は殺処分するのは軍紀を守る上で当然の行為だ。疑問とする考えが解らない」 アレクセイが答えると、エカテリーナも答えた。 「殺す、という表現は不当。この場合、処分という表現が妥当だと判断する」 「人間を物みてぇに言いやがって」 ギルディオスが吐き捨てたが、アレクセイの態度は変わらない。 「これ以上の会話は不要と判断する。帰還する」 「同意」 エカテリーナは、真っ直ぐに右手を挙げた。アレクセイもすっと右手を伸ばす。二人の周囲で、魔力が渦巻いた。 魔法の呪文を一言も発していないにも関わらず、二人の足元の空間は容易く歪み、ずぶりと飲み込まれていった。 引き留めるよりも先に、アレクセイとエカテリーナは消えてしまった。辺りには、生臭い血臭と死臭だけが残された。 ギルディオスは二人のいた場所を睨んでいたが、ボンネットに振り返った。ヴィンセントは、へらりと笑っている。 「悪いことは言いやせん、お三方。禁書に関わるっちゅうことは、間接的にではありやすが、連合軍と関わり合いになるっちゅうことでごぜぇやす。重剣士の旦那は昔と同じ感覚でやっちょるんでしょうが、昔と今は違いやす。そりゃ、昔は王国だの帝国だのっちゅう小せぇ国同士がしょっちゅう小競り合いをしちょりやしたが、それと今の戦争を比較するもんじゃありやせん。共和国が最初にケンカを売ったのは隣国でやしたが、最終的にはこのどでっかい世界の中でも相当幅を利かせちょる国に対してケンカをふっかけたんでやんす。連合軍は、そりゃ名前は連合軍と言いやすが、今は実質的に大国のものでやんす。その大国の軍事力は、最盛期の共和国軍なんぞとは比べものになりゃしやせん。いくら旦那達が人ならざる力の持ち主であろうとも、そんな化け物みてぇな軍隊に刃向かって生き延びられる保証はありゃしやせん。ここで一つ、手を引いてはいかがでごぜぇやすか?」 「化け物なんざ、いくらでも相手にしてきたさ。それぐらい、どうってことねぇよ」 ギルディオスはアレクセイの血がこびり付いたバスタードソードの切っ先を、ヴィンセントに向けた。 「だが、なぜオレ達に忠告する? どう考えても、てめぇはオレ達の味方じゃないだろう?」 「確かに、あっしは旦那達の味方じゃあございやせん。ですが、敵でもねぇんでさあ。ただの流れ者でごぜぇやす」 「特別管理官とは何者である」 伯爵の問いに、ヴィンセントは意味深な表情を目元に浮かべた。 「いつか、相見えることもありやしょう」 ヴィンセントはギルディオスの剣先から身を引くと、ただの死体と化したジムに目を留めた。 「所詮、人生なんざ夢みたいなもんでやんす。幻みたいに薄っぺらくて、泡みたいに簡単に吹っ飛んで、影みたいにすうっと消えちまうもんでやんすねぇ」 ヴィンセントはジムの死体から目線を外し、ギルディオスに据えた。 「ああ、そうそう。モニカ・ゼフォンが銃殺刑に処されたのは、一ヶ月ほど前のことでごぜぇやす。そう、丁度、旦那達が吸血鬼の姉御と、ルージュとやり合った直後でやんす」 「どういう意味だ」 ギルディオスの胸中に、氷塊のように冷たく重いものが迫る。ヴィンセントは、笑っている。 「そりゃあ決まっちょりやす、旦那達がルージュとやり合ったからでごぜぇやすよ。重剣士の旦那が戦後も長らえちょることは、連合軍は把握してなかったんでやんすよ。魔導師協会役員や魔導師達を捜索し処刑していくのに手一杯で、異能部隊絡みの人間の捜索は手間取ってたんでやんす。その状態のまま、旦那が大人しくしてりゃあ連合軍も諦めてくれたかもしれやせん。だが、旦那は姿を現してしまった。異能部隊の前隊長であり、十年前のあの出来事に誰よりも深く関わっちょる旦那の身柄は、連合軍も欲しがっちょるんでやんすよ。だから連合軍は、旦那に関する情報をモニカ・ゼフォンから引き出そうとしやしたが、頑として口を割らなかった。まぁ、そこの若人には話したみたいでやんすけどね。拷問に掛けても自白剤を注ぎ込んでも一向に吐かなかったために、モニカ・ゼフォンは処刑されたんでやんすよ。あの時、旦那が連合軍の前にさえ出てこなければ、死なずに済んだかもしれやせんなぁ」 「それも嘘だわ。私はちゃんと呪いを掛けて」 ヴィクトリアが困惑気味に言うと、ヴィンセントはふっと息を漏らした。 「お嬢ちゃんの呪いは実に見事なもんでやしたが、ルージュの砲撃で全部吹っ飛んじまったんでやんすよ。あの女の砲撃に込められた魔力の量は尋常じゃありやせんからねぇ、ちゃちな呪いの一つや二つ、吹っ飛ばせて当たり前なんでやんすよ」 「そんな…」 唖然として、ヴィクトリアは目を見開く。ヴィンセントは、ボンネットから飛び降りた。 「長話はこれくらいにしやしょう。またお会いすることがありやしたら、この続きをゆっくりと」 頭を垂れた白ネコの姿が、ふわりと薄らいで消えた。どうやら、こちらも空間転移魔法を用いて移動したようだ。 ギルディオスは前に踏み込みかけたが、足を止めた。ヴィクトリアは小さな拳を握り締め、両肩を怒らせている。 足元をじっと睨み付けているが、地面には小さな水滴がいくつも落ちていた。押し殺した、嗚咽が漏れ聞こえる。 悔しいのだ。絶対的だと思っていた自分の呪いを呆気なく打ち破られたことが、彼女の自尊心を揺さぶった。 俯いて唇を噛み締めているヴィクトリアはなんとも弱々しく、頼りなかった。やはり、彼女は十二歳の少女なのだ。 ぽん、とコルク栓が引き抜かれる音がした。ギルディオスが伯爵に向くと、伯爵はコルク栓を持ち上げている。 水っぽい光沢を帯びた赤紫の触手が指し示した先には、死後硬直が始まっている青年の死体が横たわっていた。 そうだ。まず、彼を葬ってやろう。魔導師にもなれず、連合軍から逃げ出すことも叶わず、命を落とした若者を。 ギルディオスはバスタードソードを横たえて、地面と水平にした。アレクセイの血に汚れた刃を睨み付け、祈った。 「天上のヴァルハラに向かいし者に」 せめて、彼の魂が安らげるように。 「どうか、戦女神の加護を」 ギルディオスは剣を下ろして、怒らせていた肩を下ろした。ヴィクトリアは俯いたままで、顔を上げなかった。 ざ、ざ、ざ、ざ、ざ。山の斜面から吹き下ろされた風が、青臭く湿り気を帯びた匂いのする新緑の森を掻き乱す。 死臭は散る。乾き始めた血が、ぱらりと剣先から落ちる。鈍い銀色の甲冑は、じっとジムの死体を見つめていた。 青年の夢は、潰えた。 ジムの埋葬を終えたのは、夕方近くなってからだった。 あれから、ヴィクトリアは一言も口を利かない。飴玉だけをいくつも消費しながら、ぼんやりと虚空を見ている。 真新しい血の染みが残る後部座席で体を丸め、眠っているかのように静かだったが、その目は見開かれている。 ギルディオスは土に汚れた両手を払い、蒸気自動車の傍に座り込んだ。ジムの墓は、森の出口に作ってやった。 せめて明るい場所に眠らせてやりたかった。枯れ枝をツタで括った簡素な十字架が、土に突き立てられている。 その十字架の根本には、ジムの持っていた小銃を埋めてやった。だから、土の山は少々横長に造られていた。 何もないのは哀れなので、野草の白い花を手向けた。土の上で揺れる薄い花弁は、西日に赤く染められている。 平地の西側にそびえる山の後ろに太陽は沈み、昼間の残滓である橙色の日光が頂の端から鮮烈に溢れていた。 モニカ・ゼフォン。彼女が異能部隊にやってきた日のことは、覚えている。どの隊員達のことも、忘れられない。 モニカは、寂れた酒場の娘だった。酒場に通う娼婦や流しの歌手から様々な歌を教えられて、歌うようになった。 今でも、その歌声は思い出せる。澄んでいながらも力のある声には魔力が含まれていて、人々の魂を揺さぶった。 だが、力の方向性を誤ると歌声は破壊の力と化した。十五歳の頃、モニカはその歌声で酒場を破壊してしまった。 力の加減どころか、自分自身の能力も知らなかったからだ。訳も解らずに逃げ出した彼女を、隊員が見つけた。 そして、モニカは今は無き異能部隊基地に連れてこられ、ギルディオスと出会い、自分自身の能力を自覚した。 能力としてはそれほど異質なものではなかったが、その歌声はとても美しく、戦い疲れた隊員達の心を癒した。 歌を褒めると、モニカは何よりも喜んだ。いつかは本物の歌手になりたい、とギルディオスに夢を語ってくれた。 異能力を操る訓練を受けたので、力を出さずに歌うことも出来るようになった。だから、彼女の退役を許可した。 隊員達の中には彼女の退役を悔やむ声も出たが、モニカも少し寂しそうだったが、それ以上に嬉しそうだった。 晴れて歌手となったモニカと会ったのは、旧王都に歌劇団が公演に来た時だ。だが、舞台は観てやれなかった。 一度でも、舞台を観てやるべきだった。ギルディオスは激しい後悔に苛まれて、震えるほど強く拳を握り締めた。 「人の生は、夢であり幻、泡であり影」 伯爵の低く響きのある声が、じわりと広がった。 「言い得て妙な言葉である」 「なあ、伯爵」 ギルディオスは上体を反らし、ボンネットの上にいるフラスコを仰ぎ見た。 「どうしてこう、次から次へと死んでいっちまうんだろうなぁ。人間ってぇのは、どうしてこう、脆いんだろうな」 す、と僅かに衣擦れの音がした。後部座席を窺うと、ヴィクトリアは黒いスカートに包まれた膝に顔を埋めている。 彼女の気持ちも、解らないでもない。ギルディオスはやりきれない気持ちを抱えたまま、夕暮れの空を見上げた。 「オレって奴ぁ、どうして、こう…」 こうなることは、少なからず予想出来たはずだ。だが、外へ出て旅をする日々が楽しく、失念していたらしい。 異能部隊の隊長であり、共和国軍の少佐という経歴は、ギルディオス・ヴァトラスという男をきつく縛り上げた。 永遠に一介の傭兵のままでいたなら、こうはならなかった。様々な後悔が頭を巡ったが、どうすることも出来ない。 モニカだけでなく、かつての部下達には幸せに生きて欲しかった。部隊を解散した後も、長らえて欲しかった。 だが、彼らが異能者である限り、世界が異能者を受け入れない限り、彼らが穏やかに生きることは出来ない。 十年前、異能部隊を解散させた時は、彼らの未来が無限大に広がるものだと信じていた。信じてやりたかった。 しかし、現実は違っていた。彼らの未来に待ち受けていたのは、やはり、辛辣で残酷な結末だけでしかなかった。 「馬鹿野郎め」 誰でもない、己に向けて吐き捨てた。力の抜けたその言葉は夜の気配を帯びた風によって、掻き消された。 なんと罪深く、なんと愚かな男だ。これでは、ヴァルハラに行ったとしても戦女神が出迎えてくれるとは思えない。 せいぜい、悪魔に喰らわれるだけだ。自分が良いと思って行ったことでも、その結果が良いとは限らないのだ。 ジムの墓に突き立てたちゃちな十字架の影が伸びてギルディオスに届き、交差した部分が銀色の頭に掛かった。 罪の証だ。 戦いから逃げた男の未来は潰され、かつての部下の未来も滅した。 死人である彼の周囲に転がるのは死体であり、その背に背負うのは重き業。 熱き信念と共に求めた未来は、時代の激流に押し潰された。 現実とは、極めて非情なのである。 07 4/11 |