ドラゴンは滅びない




夢幻泡影



 一瞬、遅かった。
 着地した瞬間に歪んだ空間は閉じてしまい、軍靴の靴底には硬く湿った地面の感触しか伝わってこなかった。
あと少しで、あの脱走兵に手が届いたというのに。地面には、立ち回った足跡と蒸気自動車の車輪跡がある。
それらはまだ新しく、足跡の付いた雑草に至っては、つい先程踏み潰されたばかりで青臭い匂いを放っている。

「アレクセイ」

 平坦な声が、背に掛けられた。彼が立ち上がって振り返ると、戦闘服に身を包んだ女が立っていた。

「ジム・マクファーレンの逃亡先は割れたか」

「空間転移魔法で転移したと思われる。だが、蒸気自動車の痕跡がある。足跡も多い」

 アレクセイは土の付いた手を払うこともなく、女、エカテリーナに向き直った。色素の薄い肌には、血の気はない。
青混じりの銀の瞳はアレクセイに向いていたが、何も映していない。アレクセイもまた、エカテリーナを見ていない。
間を置かずして、エカテリーナは車輪の進行方向に顔を向けた。アレクセイは首すら動かさず、目だけを向けた。

「逃亡を幇助した人間がいるようだ。処分の対象に加えるべきか」

「異論はない」

 アレクセイの平坦な言葉に、エカテリーナも平坦に返した。アレクセイは、右手を振りかざす。

「ならば、追うまで」

「それが我らの任務」

 エカテリーナもまた、右手を振り上げた。アレクセイは、瞼を半分ほど伏せた。

「空間転移先を捕捉した。これより移動する」

「了解」

 エカテリーナの返答と同時に、二人の足元の空間が歪んだ。その格好のまま、二人は引きずり込まれていく。
軍靴を履いた両足、くすんだ茶色の軍用ズボン、大国の国旗と階級章が付いた戦闘服が地面に飲み込まれる。
最後に、二人が掲げたままの右手の指先が没していった。その直後、歪められていた空間は反転し、逆流した。
ねじ曲げられていた地面が空間自体に引き戻されて形を復元し、渦を巻き戻すようにして通常空間へと戻った。
魔法の残滓である魔力がかすかに漂っていたが、すぐに失せた。荒れ果てた道は、再び静けさを取り戻した。
 その光景を、二つの青い瞳が見ていた。



 ギルディオスらは、蒸気自動車ごと転移した先から更に移動していた。
 空間移動魔法を使って空間超越を繰り返すのは楽だが、出現地点を誤って連合軍に発見される可能性がある。
そうなってしまっては元も子もない、ということで、ギルディオスの操る蒸気自動車は狭い裏道を走り続けていた。
両手両足を拘束されて後部座席に押し込められているジムは、居心地は悪そうだったが、表情は穏やかだった。
助手席に座っているヴィクトリアは怪訝そうな眼差しでジムを眺めていたが、運転席のギルディオスを見やった。

「ねえ、本当に連れて行くの?」

「連合軍の通り道から外れた場所に連れていくだけだ」

 ギルディオスは石に車輪を取られないように気を付けながらも、ジムに気を向けていた。

「ジム。オレの情報を誰から聞いたんだ?」

「モニカさんから聞きました。昔、あなたの部隊にいた人です」

 蒸気自動車の駆動音に掻き消されないように、ジムはやや声を張った。ギルディオスは、横顔を向ける。

「モニカ・ゼフォンか?」

「はい。モニカ・ゼフォンです」

「どうしてモニカが連合軍なんかと関わりがあるんだ? あいつは、歌劇団の歌手になったはずだが」

 ギルディオスが聞き返すと、ジムは答えた。

「その経歴は、僕も知っています。歌に力を込められる異能力を持っていたために異能部隊から誘いを受けて入隊したのですが、歌手になる夢を諦めきれなくて退役したのだそうです。ですが、歌手になって数年も経たないうちに共和国戦争が始まり、歌劇団も政府によって解体され、団員だった人達は共和国軍兵士の慰安をさせられていたんです。モニカさんもそうだったのですが、敗戦した際に連合軍に捕らえられて捕虜になったんです。そして、収容所で連合軍の大佐に目を付けられて歌姫として引き抜かれ、連合軍の基地や前線で軍歌を歌わされていました。僕がモニカさんに会ったのは、隣国の国境近くにある基地でした。とても綺麗な人で歌声も素晴らしかったのですが、悲しそうでした」

「そうか」

 ギルディオスは、沈痛な思いで呟いた。かつて部下であった女の人生は、戦争で乱れ、荒れ果ててしまった。

「軍歌以外の持ち歌はなんだったか、覚えているか?」

「僕が一番良く覚えているのは、鎮魂歌です。確か、歌詞は」

 ジムが言おうとすると、それを遮るようにギルディオスが言った。

「深き夢に、ゆるりと沈まん。猛る魂を涙で癒し、熱き滾りを大地に流し、戦いの士はここに休む」

「戦女神の微笑みに、安らかなる眠りを得よ。忠誠を解き、剣を横たえ、母の如き戦女神の膝で眠り続けたまえ」

 ジムは、ギルディオスの後に続けて歌詞を口にした。

「ですが、共和国語ではなく、魔法言語で歌っていました。連合軍の人達には魔法の知識がなかったらしく、歌詞の意味は解らなかったみたいでしたけどね」

「良い歌を歌う女だっただろ?」

 ギルディオスは、ほんの少しだけジムへの警戒心を緩めた。だが、ジムは表情を暗くした。

「ええ。ですが、モニカさんは、僕が基地を出発する前に銃殺されました」

「なんだと!?」

 思わず、ギルディオスは声を上げた。ジムは顔を伏せ、唇を歪める。

「異能部隊に所属していた経歴が暴かれてしまったからです。その処刑の様を、上官から見せられました」

 ジムは肩を震わせ、声を上擦らせる。

「この女は人間ではなく化け物だ、化け物だらけの部隊にいたのだからこいつも化け物なのだ、化け物は生かしておくべきではない、お前達も妙な力を持つ者を見つけたら即刻射殺せよ、それが連合軍軍人の義務であり使命だ、と…。あの人は、何もしていないのに」

「他にも、異能者は処刑されているのか?」

 ギルディオスは沸き上がる怒りを押し殺そうとしたが、感情は言葉に滲み出た。ジムは、項垂れる。

「僕のいた基地で処刑された異能者や魔導師の数は、二桁では足りません」

「悔しい? それとも、空しい?」

 ギルディオスの無表情な横顔に、ヴィクトリアが尋ねた。ギルディオスは、ぎちりとハンドルを握り締める。

「…どっちもだ。だが、死んだ奴は生き返らねぇ。後悔したって、どうにもならねぇよ」

「僕も悔しいです。出来が悪かったから魔導師にはなれなかったけど、それでも、やっぱり…」

 ジムは縄できつく縛られた両手を、爪が食い込むほど握り締めた。

「どうして、こんなことになったんでしょう…」

「時代の流れ、と言い切ってしまうのはあまりにも安易であるが、それ以外には見当たらぬのである」

 伯爵は助手席と運転席の間にフラスコを移動させると、赤紫の粘液をごぼごぼと泡立たせた。

「一度流れ出した奔流は、堰き止めるものがなければいつまでも流れていく。下手に押し止めようとすれば流れは分岐し、あらぬ方向に向かって思いも寄らぬ事態を引き起こすのである。今の我が輩達は、その分岐の真っ直中におると言っても過言ではあるまい。様々な国の軍を抱き込んで成長し、過剰な力を付けた連合軍が起こす流れは、凄まじすぎるのである。処刑された異能者達や魔導師達は、その流れをまともに受けてしまったのである。言葉は短絡的で表現もあまり良くないが、運が悪かった、としか言いようがないのである」

「そうね。そうかもしれないのだわ」

 ヴィクトリアは助手席で膝立ちになると、背もたれに両腕を載せてジムを見下ろした。

「この不気味な物体の言葉を拝借すれば、あなたはその流れから脱したと言うことになるわ。流れから出てさえしまえば、後はどうにでもなると思うわ。そこかしこに連合軍がのさばっているとはいえ、共和国も割と広い国だわ。死体と廃墟ばかりだけど、生きてさえいればなんとかなるんじゃなくて? 運が良ければ、の話だけれど」

「無責任に聞こえるかもしれねぇけど、結局はなるようにしかならねぇんだよ」

 ギルディオスはハンドルを切り、道に沿って前輪を曲げた。ばきばきと枯れ枝を踏み砕いて、狭い道から出た。
途切れた先には、細い小川が流れていた。人の入った気配はあったが、最近の足跡などは見当たらなかった。
木々の間隔もやや広がり、人里に近付いたようだった。ギルディオスは蒸気自動車を止め、感覚を澄ませた。
 虫の声。鳥の声。水のせせらぎ。人の足跡は聞こえてこなかった。油断は出来ないが、少しは休めそうだった。
細い川の上には、苔生した丸太の橋があった。だが、この蒸気自動車なら、橋を使わずに簡単に渡れるだろう。

「もう少し、前に進むか。視界が悪い」

 ギルディオスは再びハンドルを掴み、加速ペダルを踏み込んだ。蒸気自動車の煙突から、蒸気が噴き出す。

「生きてみせますよ、せっかく逃げ延びられたんだ」

 ジムは、顔を綻ばせた。

「魔導師協会がなくなったから魔導師にはなれないけど、魔法を修練することは出来るのだから」

「あなた、そんなに魔法が好き?」

 ヴィクトリアが言うと、ジムは少し恥じらうように笑った。

「ええ。そんなに上手くは操れないけど、とても好きです。だって、楽しいですから」

「そうね。私も好きだわ。でも、どちらかと言えば呪術の方が好みなのだわ」

 ヴィクトリアは助手席に座り直すと、前に向き直った。

「そうですね、呪術もとても面白いです。勉強出来る機会があれば、僕も呪じゅ」

 ジムの口調はやや浮ついていたが、唐突に言葉が途切れた。急に前につんのめり、後部座席に倒れ込んだ。
どうしたんだ、とギルディオスが言葉を出すよりも先に、ざざざざざざざ、と頭上の木々の枝が激しく揺さぶられた。
大量の葉が落下して視界が妨げられ、小枝が道に散乱する。ギルディオスは、すぐさま蒸気自動車を制動した。

「あら…」

 ヴィクトリアは目を見開き、驚愕している。ギルディオスも遅れて振り返ったが、硬直した。

「な」

 後部座席と運転席の間で体を折り曲げている兵士の背には、深々と、軍用サーベルが突き立てられていた。
胸元から突き出して足の間に伸びている刃に、どくどくと生暖かい血が伝い落ち、足元に水溜まりを作っている。
心臓を貫かれて絶命しているジムの目元には、先程までの穏やかな表情の名残が少しばかりこびりついていた。
死んだことを認識するよりも先に、死んだようだった。舌がだらりと出た口からは、血混じりの唾液が流れている。

「脱走兵の殺処分、完了」

 どぅん、と蒸気自動車のボンネットに影が落下した。ギルディオスが立ち上がるよりも先に、その者は言った。

「殺処分対象者、二名、いや、三名確認」

「殺処分対象者、三名確認」

 目の前の影と同じ抑揚の声が、蒸気自動車の後方からも聞こえてきた。右腕は、赤黒い液体で濡れている。
前にいるのは男。共和国周辺の人間とは違った色素の薄い肌をしていて、青混じりの銀の瞳が特徴的だった。
後ろにいる女も男と同じような色合いの肌と髪を持っているので、同郷か、或いは同じ地方の出身者なのだろう。

「お前らは」

 ギルディオスが問うよりも先に、男が立ち上がった。

「返答の義務はない」

「おかしいわ。あなたはともかく、どうして私も気付かなかったのかしら」

 ヴィクトリアは右手を挙げ、魔法を放つ構えを取った。ギルディオスも、剣を取って鞘を捨てた。

「さあな。だが、この状況がやばいってのは確かだ」

「罪状。脱走兵の逃亡幇助、連合軍への未申告、機密漏洩。宣告完了、これより行動に移行する」

 女は、すっと右手を挙げた。袖の布が膨らんだかと思うと、ばりっ、と内側から裂けて鋭いものが突き出てきた。
一言で表現すれば、それは刃だった。色は白っぽく、血液の筋が絡んでいる。根本は、華奢な腕に繋がっている。
刃は肘の付け根辺りから生えていて、女の細い腕の長さの二倍以上はあろうかという長さまで成長していった。
その刃は、両腕に生えていた。異形となった女の姿にヴィクトリアが一瞬たじろぐと、女は急に飛び出してきた。

「任務、遂行!」

「落ちなさい!」

 すかさず、ヴィクトリアは女を遮るように右手を振りかざした。女の軌道がぐっと折れ曲がり、地面に突っ込んだ。
顔から地面に転んだ女は、何事もなかったかのように起き上がった。頬がざっくりと切れていたが、傷は塞がった。
頬に流れ落ちた血液を拭うこともなく、女はヴィクトリアに向き直った。ヴィクトリアは、悔しさに任せて舌打ちした。

「あなた、人間じゃないわね?」

「人に見えるが、人じゃねぇみてぇだな!」

 ギルディオスがバスタードソードを振り翳した、ボンネットに立っていた男が駆け出し、真正面から突っ込んだ。
素手で剣を握り、手のひらに深い傷を作り、ぼたぼたと血を落としている。ジムのものとは、別の血臭が漂った。
男が身を乗り出すとバスタードソードの刃が更に埋まり、皮を裂いて肉を抉ったが、男は眉一つ動かさなかった。
 それが、異様だった。ギルディオスは男の手を断ち切るつもりで剣を押したが、男も負けずに腕を突き出した。
べぎ、とバスタードソードが男の手のひらの骨を割った。剣を伝った大量の血が足元に落ち、つま先を滑らせた。
 すると、訛りの強い言葉が発せられた。



「生体魔導兵器、っちゅうもんでごせぇやすよ」





 


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