ブラッドは、寝付けなかった。 暗い天井が、視界に広がっている。窓から差し込む月明かりは頼りないが、吸血鬼の目には充分な光量だ。 なぜだか解らないが、神経が立っている。寝入ろうと思えば思うほど目が冴えてしまい、次第にうんざりしてきた。 このままでは、寝付けずに朝を迎えてしまいそうだった。吸血鬼族は元々夜型なので、たまにこういうことがある。 いっそのこと、起きてしまった方が楽になるかもしれない。ブラッドはベッドから起き上がると、背筋を伸ばした。 ベッドの脇にある窓を開けると、冷たい夜風が滑り込んできた。季節は春とはいえ、夜の空気は少々肌寒い。 だが、それは清々しいくらいだ。巨大な星の運河が横たわる藍色の夜空はどこまでも広がり、星々が美しかった。 どうせなら、外へ出よう。ブラッドは寝間着を脱いでズボンだけを履いて、引き締まった上半身を露わにした。 この季節なら、上に何も着なくても平気だ。翼を出さなければ飛べないのだから、最初から着ない方が楽なのだ。 靴を履いて窓枠に足を掛け、身を乗り出した。力を込めると、程良く筋肉の付いた背から鋭い骨が飛び出した。 骨は瞬く間に伸びていき、先端から分岐して三本の細い骨が更に伸び、その表面に薄い皮が張り、翼と化す。 コウモリのそれに酷似した翼を広げ、風を孕ませて窓枠を蹴った。背後でカーテンが揺れ、星空が迫ってきた。 「ぶらっど」 不意に名を呼ばれ、ブラッドは驚きながらも空中で制止した。振り返ると、両親の寝室の窓が開いている。 「おでかけなの?」 上下式の窓を開けて、母親、ジョセフィーヌが顔を出している。こんな時間に母親が起きているとは珍しい。 「まあ、そんなところ」 ブラッドは方向転換し、母親を見下ろした。 「なんか寝付けないからさ。でも、そこら辺をちょっと飛び回ってくるだけだから、朝までには帰るよ」 「あのね」 ジョセフィーヌは、白銀色の翼を生やした息子を見つめ、瞬きした。 「いけば、きっとこうかいするよ」 「母ちゃん、何を予知したんだよ。オレは、ただ散歩しにいくだけだぜ?」 「こうかいしないんだったら、いってらっしゃい。でも、するんだったら、いっちゃだめだからね」 「オレが何に後悔するってのさ、母ちゃん。訳解んね」 「そう、いくんだね。じゃあ、いってらっしゃい」 「ああ、うん。いってきます」 ブラッドは母親に手を振ってから、翼を羽ばたかせた。夜の湿った空気を叩くと、体は呆気なく上昇していった。 魔力を用いて体重を軽減させた状態で羽ばたいているので、それほど力を使わなくても距離を進むことが出来た。 古いが造りだけは立派なブラドール一家の屋敷が遠ざかり、ゼレイブの家々が遠ざかり、夜空が更に近くなる。 空気が一段と冷え込んだ高度まで到達した瞬間、温かな温度を持つ目に見えない壁の間を、すうっと擦り抜けた。 父親、ラミアンが造り出している魔力の蜃気楼から抜けたのだ。外に出てしまうと、ブラッドの姿は丸見えになる。 ブラッドは注意を払っていたが、真っ暗闇でしかない夜空の下を飛行する清々しさで、いつしか気が緩んでいた。 素肌を切る風の冷たさすらも心地良く、意味もなく気分が高揚する。やはり、吸血鬼は夜の世界の生き物なのだ。 青白い半月が、夜空の中心に浮かんでいた。 半月が地上に注ぐ月光が、鋼鉄の肌を舐めていた。 左手には、奪い取ったばかりの禁書がある。魔導師協会の跡地ではなく、魔導師の隠れ家から奪ったものだ。 連合軍の目から逃れるために家の地下室を改造して隠れ住んでいた魔導師を一撃で殺し、その棚を荒らした。 禁書は、すぐに見つかった。他の本と同じように並べてあったので探すまでもなく、呆気ないほど簡単に奪えた。 だが、苛立つ。砲撃を放ったために熱を持っていた右腕の主砲は、夜風を浴びたことで徐々に冷めつつあった。 なぜ、こんなことをしているのだろう。人を殺して、本を奪って、何になる。普段は考えないようにしていることだ。 一人きりで夜空を飛んでいると、生前を思い出してしまう。少し前までは、ただの吸血鬼に過ぎなかったというのに。 男を喰うことをしなかったが、獣や女の血を啜りながら生きていた。時代故に生きづらかったが、自由ではあった。 けれど、今はどうだ。ルージュは左手に持った禁書を見下ろしたが、前に向き直り、加速するために力を込めた。 背中から伸びた一対の推進翼から出る炎が強まり、吹き付ける風の勢いが増し、頭上の星がより速く流れていく。 彼にまた会えなかった。当たり前だ。いるわけがない。二度と会わない。会うはずがない。会えるわけがないのだ。 「何を考えている」 ルージュは独り言を漏らし、自嘲した。苛立ちの理由は、一つではない。 「大体、あいつは」 ただの若者だ。半吸血鬼であるというだけだ。それ以外は、その辺りにいる若い男と何ら変わらないはずだ。 だが、忘れられない。ただの一度、出会っただけなのに。それだけなのに、気が付くと彼の姿を思い出している。 久しく忘れていた、女の部分が目覚めていくのを実感していた。それがどうしようもなく嫌でたまらなかった。 まるで、盛りが付いたかのようだ。そうではない、と否定すればするほど彼の姿が尚更強く思い出されてしまう。 「くそおおおっ!」 腹立たしい。苛立たしい。憎らしい。 「なんだ、なんなんだ、あいつは!」 ルージュは、虚空に吼えた。激しく強い感情が、魂の内側で炎のように熱し、体まで焦がされそうだ。 「有り得ない、有り得るはずがない、有り得てたまるものか!」 いい名前だ。 「そんなこと、この私にあるはずがないんだ!」 交わった視線。こちらを見て、動きを止めた時の表情。 「そんなことが、あっていいわけがない!」 銀色の瞳。唇の端から覗いた鋭利な牙。幼ささえ残る顔立ち。 「お前など、お前のことなど!」 ブラッド・ブラドール。 「お前の、ことなど…」 ルージュは勢いを失い、制止した。真正面に、翼を生やして滑空する影がいた。姿形は、人間のように思える。 だが、間違いなく人間ではない。空を飛んでいる上に、翼を生やしているのだから、人間に酷似した別のものだ。 元より闇に強い目は機械の体を得てから更に視力が増したので、月光に縁取られたその者の姿を視認出来た。 短く切った金に近い銀髪。整った目鼻立ち。銀色の瞳。吸血鬼族の証である、コウモリのそれに似た白銀の翼。 その者もまた、空中で動きを止めていた。羽ばたかせていた翼を休めて、魔力を用いてその場に浮遊していた。 「あんた」 忘れもしない彼の声が、ルージュの聴覚をくすぐる。 「この前の」 二人の視線が、交わる。 「魔導兵器、だよな」 その声には、若干の敵意と警戒心が含まれていた。それに落胆してしまった自分が、とても情けないと思った。 何を期待していた。何を求めていた。何を願っていた。優しい言葉など、絶対に掛けられるわけがないのだから。 ルージュは自虐しながら、身構えた。禁書は空間転移魔法で転送させてから、主砲を掲げて照準を合わせた。 ブラッド・ブラドール。半吸血鬼の青年。忘れもしない、忘れてしまいたい、忘れたくない、忘れるべき存在だ。 照準の先に浮かぶブラッドは、翼を出すためなのか上半身を曝している。多少は鍛えているらしく、筋肉がある。 一瞬視線が彷徨いそうになって、ルージュは視線を強張らせた。これぐらいのことで、いちいち動揺してどうする。 「お前か」 ルージュは平静を装い、主砲に魔力を注ぎ込んだ。 「そこを退け。退かねば貫く」 「あんた、人の血の匂いがするぜ」 ブラッドは吊り上がり気味の目を僅かに細め、唇を歪めて牙を覗かせた。 「誰か殺してきたのか?」 「それが、どうした」 敵意に満ちた眼差しを見返したルージュは、主砲の砲身を回転させ、最も威力の高い光線を撃てるようにした。 「私は仕事をしなければならない。その過程で、障害となる存在を排除しているだけだ」 「たかが本一冊のために、人を殺すことはねぇだろ!」 「殺すな、との命令は下されていない。だからだ」 「だからってなあ!」 「なぜ怒る」 ルージュは目を細め、瞳の光を強めた。ブラッドは翼を広げ、ばしん、と空気を叩いた。 「怒るなっつう方が無理なんだよ!」 魔力を込めた足で空中を蹴り、ブラッドはルージュとの距離を詰めた。ルージュは引かずに、砲口を上げる。 「やかましい!」 鋼鉄の女の巨大な右腕から放たれた白い閃光はブラッドの翼を狙ったが、接する寸前にブラッドは身を翻した。 暗闇を切り裂いた一筋の白い閃光は地上に着弾し、全身を震わす衝撃波と腹の底を揺さぶる爆音が発生した。 爆風に煽られそうになったが、姿勢を保った。ブラッドが顔を上げると、目の前に鈍く光る砲口が据えられていた。 魔法の熱が残留する砲口が、額に当てられる。砲口の後ろから、表情を見せない美しい兵器が見下ろしていた。 「半吸血鬼風情が」 冷徹な、それでいて柔らかさを含んでいる女性らしい声。 「私に勝てると思うな」 ブラッドは砲口とその奥にいる彼女を睨み付けながら、この偶然を喜んでしまっている自分を腹立たしく思った。 こんな女にまた会えたぐらいで、喜ぶんじゃない。喜ぶべきじゃない。憎らしいと思わなければならない相手だ。 訳の解らない兵器だ。無意味に大量の人間を殺した。怒りを向けるための要素はあっても、喜ぶ要素はない。 だが、やはり美しい。吸血鬼の目でなければ見えないほどの暗闇の中であっても、その美しさは陰らなかった。 「そいつは、どうだかな!」 ブラッドは砲口を掴んで押し戻すと、思い切り下半身を捻って足を伸ばした。 「だっ!」 ブラッドの蹴りがルージュの硬い腹部に入ると、姿勢が僅かに崩れた。右腕が重たいからか、右に傾いている。 ルージュが姿勢を戻すよりも先に、右手を彼女の頭部に当てた。短時間なので出力は溜まらないが、今は充分だ。 右手に込めた魔力を魔力弾に変換し、ルージュの目の前で炸裂させる。真昼の日光のような光が、視界を焼いた。 夜目の利く吸血鬼にとって、突然の閃光はかなりきつい。ブラッドは白けた視界に眉を歪めながら、身を引いた。 ルージュは瞬きをしているのか、光だけで成された赤い瞳が何度か点滅している。機械でも、目は眩むようだった。 「こんな小細工が通用するか! 私の目はすぐに元に戻る!」 左手で目元を押さえながら、ルージュは苛立ち混じりの声を上げた。 「だったら、戻る前に落としてやるよ!」 ブラッドは、右手を振り上げた。人差し指を立てて集中し、魔力を魔法へと変換させるための言葉を放つ。 「雷竜、轟来!」 魔力を放ち、電流へと変質させる。ブラッドの魔力で生み出された光の竜は、振り下ろされた右手に従った。 ルージュは、ブラッドの放った雷撃を避ける間もなかった。眩んでいた視界が戻ったと思った瞬間、貫かれた。 魔導金属製の体は、通常の金属より遥かに魔力の伝達が良い。だからこそ、雷撃の威力も相当なものだった。 関節という関節が痺れ、体内に人工的に造られた魔力中枢が乱され、魂にびりびりとした痛みが走り抜ける。 だが、動けないこともない。ルージュはぎちぎちと嫌な悲鳴を上げる左腕を大きく振り上げて、ブラッドに向けた。 「効かん!」 閃光、閃光、閃光、閃光、烈光。いくつもの光線がブラッドの周囲を抜けたが、ブラッドは一瞬逃げ損ねた。 「そんな小手先の魔法など!」 左腕を下げると同時に加速したルージュはブラッドに詰め寄ると、主砲を振り上げ、薙ぎ払った。 「私に通じるわけがない!」 巨大な主砲の砲身が、ブラッドの腹部を抉る。むせるよりも先に視界がぐらつき、背中から地上に落下する。 痛みに顔を歪めたブラッドの姿はすぐに遠のき、程なくして着水音がした。どうやら、真下には水があるらしい。 夜の闇を吸い込んだ黒い水面からは、高く水飛沫が上がった。ルージュは、水場があったと知って安堵した。 だが、すぐに嫌悪に変わった。相手は鬱陶しい男だ、そんな相手の身の安全を心配したところで一体何になる。 「雷竜、再来!」 水面から、再度呪文が放たれた。ルージュが身構えた瞬間、左右から駆け抜けてきた雷光に襲われた。 「ぐああっ!」 二度目は、一度目よりも衝撃が強かった。関節に入れている潤滑用の油が沸騰し、じゅうじゅうと焼ける。 「再々来!」 三度目は、真上からだった。背中から飛び出している推進翼に落ちた雷撃が全身に抜け、魂までも痺れる。 物理的な攻撃なら、いくらでも耐えられる。感情のぶれという隙さえなければ、こんな魔法は簡単に跳ね返せる。 一瞬の迷いは、相手に攻撃の好機を与えるだけだ。解っているはずなのに、心ばかりが勝手に動いてしまう。 なぜだ、と思った直後、頭から着水した。高い水柱が跳ね上がり、どろりとした色合いの水面下に沈んでいく。 全身に漲った電流は水の中に流れ出し、痺れは消えた。その代わりに、全ての関節に冷たい水が入り込んだ。 まずい、と思った時には遅かった。魔導金属で出来た体は頑丈だが、金属の固まりなので浮力など皆無だ。 早く上がらなければ、沈んでしまう。そうなってしまっては、帰還するどころか水面から脱することも出来ない。 ごぼ、と口の中に入っていた空気が気泡となって溢れ出した。ぼやけた視界の隅を過ぎり、水面に向かう。 その気泡が爆ぜ、細かな泡となって散った。水中の闇はどこまでも深く、夜の世界の方が遥かに明るかった。 入り込んだ水が、人造魔力中枢を浸食していった。熱していた魔力中枢が冷やされ、魂も急速に冷却された。 だが、心だけは熱いままだった。 07 4/13 |