ドラゴンは滅びない




汝、溺るることなかれ



 ラオフーは、釣りをしていた。


 高く晴れた空から注ぐ日差しが温かく、湖面は輝いている。その光が己の装甲に跳ね、ちかちかと眩しかった。
即席の釣り竿の先端から伸びる釣り糸は微動だにせず、吹き抜ける風で細かな波が揺れ、涼やかに鳴っている。
巨体の下で潰された雑草が、青臭い匂いを放っていた。遠くに見える森では、枝が柔らかく揺れ、ざわめいた。
 水面下では小振りな魚が釣り針に付けた餌を啄もうとしたが、何かに警戒したらしく、尾を翻して逃げてしまった。
今のは惜しかったが、魚との根比べこそがつりの醍醐味だ。この、なんともいえない緊迫感がたまらないのだ。
ラオフーは手製の釣り竿を挟んでいる太い指先を見下ろしていたが、ふと、気配を感じて反射的に顔を上げた。

「うん?」

 何の前触れもなく、魔力の気配が発生した。ラオフーは釣り竿を動かさないようにしながら、辺りを見渡した。
ブリガドーンから外へ出る際に感じる、空間が歪む感覚だ。どこからだ、と思っていると、湖面の中心が揺れた。
 空の青さを映し込んだ湖面の上の空間が、抉れた。すると、その抉れの中から数人の人間が落下してきた。
どぼんどぼんどぼん、といくつもの水柱が上がり、湖面が激しく波打った。そして、一際大きなものが降ってきた。
うわあ、と悲鳴を上げた巨大な鉄塊が水面に飲み込まれた直後、ラオフーの背丈はあろうかという水柱が起きた。
 ラオフーは呆然としていたが、すぐに釣り糸の先を見下ろした。その周辺にいた魚は、すっかり逃げてしまった。
もう少しで釣れるかもしれなかったのに、なんとひどいことをするのだ。苛立ちながら、ラオフーは湖面を睨んだ。

「これ、おぬしら! なんちゅうことをしてくれたんじゃい!」

 ラオフーの怒声が轟くと同時に、湖水が吹き飛ばされた。湖面が迫り上がり、割れると、そこから人が現れた。
全身ずぶ濡れになっている、戦闘服姿の黒人の男だった。男はラオフーの姿を見ると、苦々しげに舌打ちした。

「…こんな時に」

 男は右手を振り上げると、その背後の水面が生き物の如く立ち上がり、人間達と機械人形が引き出された。
機械人形の手には、ぐったりと脱力している子供が掴まれていた。戦闘服姿の人間は、男の他にも三人いた。

「ポール、飛べるか」

 黒人の男は振り返り、声を掛けた。

「…無理だな」

 一番後ろにいる彫りの浅い顔立ちの男は、薄い眉を曲げていた。顔色は悪く、血の気が引いている。

「これ以上飛んだら、頭が弾け飛んじまいそうだよ」

「戦うことになるのかな」

 巨体の機械人形は、身動きしない子供を抱える腕に力を込めた。

「ええい全く、無粋なことをしおってからに! おぬしら、瞬間移動はもうちっと丁寧にやらんか!」

 ラオフーは釣り竿を振り翳し、彼らを指した。

「儂が静かに楽しんどるところにいきなり揃って降ってきおって、おぬしらには礼儀っちゅうもんがないんか!」

「なんでオレら、いきなり怒られなきゃならないんだよ?」

 白人の男が頬を引きつらせると、もう一人の浅黒い肌の男が水面に手を付けた。

「魚が逃げたからだ、だそうです」

「なんだ、それは」

 黒人の男が訝しむと、浅黒い肌の男は水面から手を離した。

「そう読めたんですよ、本当に。このままオレ達がここにいたら、ますます怒られるでしょうがね」

「あれが、釣りをしていたってことか?」

 彫りの浅い男がさも可笑しげに頬を引きつらせると、浅黒い肌の男は肩を竦める。

「どうもそうらしい。魔導兵器が釣りをたしなむなんてのは、到底信じられないが」

 ラオフーは釣り竿を湖畔に横たえると、背後に置いていた金剛鉄槌を持ち上げ、構えた。

「ごちゃごちゃうるさいわい、さっさとそこから退かんか。退かぬのであれば、吹き飛ばしてくれるわ!」

「だ、そうで。どうします、隊長」

 浅黒い肌の男が黒人の男に言うと、黒人の男は渋い顔をした。

「あれと真正面からやり合って、五体満足でいられるとは思えないからな。撤退する」

「だけど、どこへ…?」

 白人の男は、辺りを見渡した。湖の周辺は広大な平地で、森は遠くにあり、すぐに身を隠せそうな場所がない。
逃げたところで、相手が悪すぎる。相手は、先日の戦闘で連合軍を一撃で粉砕した、ネコのような魔導兵器だ。
ネコに似た耳と尾が生えているので外見には愛嬌があるが、彼が持つ鉄槌の破壊力と装甲の固さは凄まじい。
 戦ったところで、勝機があるとは思えない。黒人の男、ダニエルは状況を見極めるべく、必死に頭を働かせた。
逃げるにしても、どこへ。頼みの綱である瞬間移動能力者のポールは、原因不明の不調に襲われてしまっている。
だが、ダニエルとピーターが念動力で味方全員を運んで逃げるにしても、相手があのラオフーでは逃げ切れない。
どうする。ダニエルがラオフーを睨み付けていると、ラオフーは金剛鉄槌を向けたまま、不機嫌そうに言い放った。

「儂は釣りをしたいんじゃ、おぬしらがそんなところにおっては釣れるモンも釣れんではないか!」

 ヴェイパーは身を乗り出し、ダニエルの背に近寄る。

「あの、隊長。とにかく、僕達がここから退けばいいんじゃないですか?」

「おぬしは話が解るのう。そうじゃ、とにかくそこを退け。儂は釣りの続きをしたいんじゃ」

 ラオフーは、妙に嬉しそうに頷いている。だが、ダニエルは腑に落ちないようだった。

「釣りをすることがそんなに大事だとは思えないが」

「それはおぬしの感覚であって儂の感覚ではないわい! ええからさっさと退かんかい!」

 ラオフーが金剛鉄槌を振り回すと、鈍く空気が唸った。ダニエルは眉根を曲げていたが、諦めたように呟いた。

「移動するしかなさそうだな」

「ですから、どこへ?」

 もう一度ピーターに尋ねられたダニエルは、ぐっしょりと濡れた髪を掻き上げた。

「湖岸しかないだろう。このままの状態で移動したら、全滅しかねない。それも、戦闘ではなく風邪でな」

 そうなったら、情けなくて死ぬに死ねない。ダニエルは隊長としての自負と、状況の馬鹿馬鹿しさと戦っていた。
こんなことは、今までに一度も経験したことがなかった。むしろ、戦闘が始まった方が楽であったかもしれない。
失敗して湖に落下してしまっただけでも情けないのに、そのことで敵である者から怒られているのがまた情けない。
ダニエルはちらりと仲間達を見やったが、彼らはやりきれない顔をしていた。ダニエルも、似たようなものだった。
 情けなさすぎて、いっそ腹が立ってきた。




 頭痛と寒気で、ロイズは目を覚ました。
 頭の内側に膨らんだ熱を押し込めたような重たい感覚があり、瞼は開くのが億劫なほどだるく、寒気がする。
風邪の症状にも似ているが、それとは違う。全身にまとわりつくのは関節の痛みではなく、魔力による痛みだった。
異能力の根源である魔力を消費しすぎたせいで胸の中心が鈍く痛み、手足は重たく、だるくてだるくてたまらない。
 やはり、無茶だったのだ。ロイズの力は空間を歪められるが、それは瞬間移動が出来るほどのものではない。
能力を扱う訓練を兼ねて、ロイズは瞬間移動能力者であるポールの補助として空間を歪めたが、異常が起きた。
原因は不明だが、ポールは突然激しい頭痛に襲われてしまい、瞬間移動能力の精度がひどく落ちてしまった。
彼の瞬間移動能力は鋭敏で、どれだけ遠く離れた場所であっても、一瞬にして全員を移動させることが出来た。
それは、異能部隊の人数が現在の数倍であった時から変わらなかった。だから、六人なんて簡単なはずだった。
しかし、ポールの頭痛は治まる気配を見せなかった。彼は精一杯頑張ったのだが、いつもより早く限界が訪れた。
瞬間移動先との距離を少しでも狭めて負担を軽減するために、ロイズも援護したが、大した効果は出なかった。
ゼレイブまでもう一回瞬間移動を行えば到着する、というところまで来たが、とうとう制御に失敗してしまったのだ。
そこまでは覚えているが、瞬間移動先に出現した際の記憶はなかった。力を使いすぎたために、気絶したからだ。
 ロイズは鈍い痛みが走る頭を押さえながら、上半身を起こした。しばらくしてから、景色が頭に染みこんできた。
視界一杯に、澄んだ水を湛えた湖が広がっていた。その色は清浄な青い空を映し込んでいて、風も柔らかかった。
細かな波が日光で輝き、水の匂いがする。その景色の美しさに呑まれてしまったロイズは、ぼんやりしてしまった。
気を失っている間に、何が起きたのだ。ロイズが目を丸くしていると、背後から金属質ながら優しい声が掛かった。

「起きた、ロイズ?」

 振り返ると、そこには人数分の戦闘服を装甲に貼り付けたヴェイパーが座っていた。

「頭、平気? 痛くない?」

「結構、痛い」

 ロイズは額に手を当てながら、自分が下着姿になっていることに気付いた。どうやら、この湖に落ちたらしい。
ヴェイパーの装甲に貼り付いている戦闘服の数は全員分あるので、揃って水浴びをしてしまったようだった。
 こんなことは初めてかもしれないなぁ、とロイズが思っていると、ヴェイパーは太い指で肩から服を剥がした。
それは、一番小さなズボンだった。ヴェイパーはそのズボンをロイズに差し出すと、ぱたぱたと振ってみせる。

「ロイズのはもう乾いたから、着てて。上着はまだだけどね」

「ありがとう、ヴェイパー」

 ロイズはそのズボンを受け取って着込んでから、靴も履こうとしたが、まだぐっしょりと濡れていたので諦めた。
立ち上がって湖畔を見、ぎょっとした。湖畔には、金色の装甲を纏った大柄な魔導兵器、ラオフーが座っていた。
そして、もう一度ぎょっとした。ラオフーから少し離れた場所で、ダニエルが釣り竿を持って座っているのである。
よく見れば、ラオフーの手にもあり、他の仲間達の手にもある。何がどうなったんだよ、とロイズはひどく混乱した。
 いつも以上に不機嫌そうなダニエルはロイズを横目で見やったが、すぐに釣り糸の先へ視線を戻してしまった。
ピーターは眠たそうな顔で釣り糸を垂らし、アンソニーは極めてやる気がなく、ポールはうずくまって休んでいる。
誰一人として、楽しそうではない。呆気に取られて口を半開きにしたロイズに、ヴェイパーが事の次第を説明した。

「ポールの瞬間移動が失敗しちゃって、僕達全員が湖に落ちちゃったんだよ」

「それは解るんだけど…」

 でも、あれ、とロイズがラオフーを指すと、ヴェイパーはちょっと首をかしげた。

「そう、彼が一番不思議なんだ。ラオフーはこの湖で釣りをしていて、僕達が落ちちゃったせいで魚が逃げちゃったって怒ってきたんだよ。だから隊長は早く逃げようって判断をしたんだけど、ラオフーに引き留められちゃったんだ。暇だから付き合え、って」

「釣りに?」

「そう、釣りに。一人でやるより人数がいた方が面白そうだ、って言い張られて、逃げるに逃げられなくなっちゃったんだ。不思議なことを言う人だよね、ラオフーって」

「不思議どころか、変すぎて笑えもしないよ」

「でね、ロイズ」

 ヴェイパーは足元に転がしてあった釣り竿を取り上げ、ロイズに差し出した。

「ラオフーが、ロイズもやれってさ。この釣り竿もそうだけど、人数分の釣り竿はラオフーから貸してもらったんだよ。空間転移魔法で取り出していたから、どこか別の場所に溜め込んであるみたい。とことん不思議だよねぇ」

「僕が、釣りを?」

 ロイズが怪訝な顔をすると、ヴェイパーは頷いた。

「うん」

 ロイズは渋々釣り竿を受け取ったが、気は進まなかった。

「でも、僕、釣りなんてしたことないんだけど」

「なんでもええからこっちゃ来い、小童こわっぱ。天気が良すぎるのがちぃと不満じゃが、釣れるモンは釣れるからのう」

 不意にラオフーが言葉を発したので、ロイズは釣り竿を取り落としそうなほど驚いた。

「だけど、お前は」

「儂は釣りがしたいんじゃ。戦いがしたいわけではない。戦う気じゃったら、端からそうしとるわい」

 早うせんか、とラオフーに手招きされたロイズは、ヴェイパーとラオフーを見比べていたが仕方なく歩き出した。
洗濯物を体中に貼り付けているヴェイパーは動けないので、いってらっしゃーい、と明るく声を掛けるだけだった。
ロイズは心細さと相当の恐怖を感じ、身を硬くしながらラオフーに近付くと、ラオフーはロイズを見下ろしてきた。

「小童。おぬしは力なんぞ使うてはならんぞ、そんなモンは無粋なだけじゃて。あの連中は、その方が手っ取り早いなんてことを言うて、水は持ち上げるわ魚の行動は読むわ魚ごと瞬間移動させるわ、無茶苦茶でのう。金剛鉄槌で張り倒してやろうかとも思うたんじゃが、騒ぎ立ててしもうたら魚は釣れんくなってしまうから、今日ばかりは勘弁してやっちょる。感謝せい」

「しないよ、そんなこと。でも、なんで魚釣りなんかしてるのさ?」

 ロイズに問い掛けられ、ラオフーはからからと笑った。

「したいからしとるんじゃて。それ以外の理由なんぞいらんじゃろうが」

 ますます訳が解らない。ロイズは反応に困りながらも、長い釣り竿を引き摺るようにしながら湖畔に向かった。
仲間達は間隔を開けて釣り糸を垂らしていて、それぞれの足元には大きさの違う淡水魚が数匹転がされていた。
それなりに釣れるらしい。ロイズがどこで釣りをしようかと考えていると、父親の威圧的な低い声が飛んできた。

「ロイズ」

 ダニエルは、視線だけロイズに向けてきた。

「私の隣に座れ」

 とても、逆らえる雰囲気ではなかった。まだ頭痛の残る頭では文句も思い付かなかったので、ロイズは従った。
ロイズは重たい足取りでダニエルに近付いたが、距離を置いて腰を下ろした。すぐ隣になど、座れるわけがない。
父親の傍に来ると、息が詰まってしまう。いつ叱り付けられるか、張り飛ばされるか、解ったものではないからだ。
だが、遠い昔はそうではなかった。大きな手に触れられると落ち着いて、声を掛けられると訳もなく嬉しくなった。
父親は誰よりも強かった。何よりも逞しかった。他の異能者達に慕われている様を見ると、ロイズも誇らしくなった。
 けれど、昔は昔だ。仲間は激減した。かつては数十人はいた異能部隊の隊員達も、十年の間に死んでいった。
戦闘であったり、自害であったり、或いは逃亡したり。それぞれの抱える苦しみは大きく、また力も大きすぎた。
幼かったロイズが、それがどれほどのものなのかは解らない。だが、優しかった仲間達が苦しむ様は見てきた。
中にはダニエルに刃向かってくる者もいたが、そうした者は有無を言わさずに粛清され、希に殺される時もあった。
部隊の規律を保つにはそうするしかないのだが、ロイズの目にはダニエルがただの殺人者にしか見えなかった。
そういったことが積み重なって、次第にダニエルが恐ろしくなった。だが、反抗心を抱くほどのものではなかった。
畏怖の中にも、尊敬が混じっていたからだ。だが、母親のフローレンスが死んでからは、父親は変わってしまった。
とにかく恐ろしく、ひたすら腹が立つのだ。だから、本音を言えば一刻も早く父親の傍から離れてしまいたかった。
 だが、今は無理だ。ロイズはダニエルの横顔をそっと窺ったが、その表情は険しく、釣り竿を握る手も硬かった。
鍛え上げられた腕はロイズの胴体ほどの太さがあり、肌の下に張り詰めた筋肉は分厚く、見るからに頑丈だ。
腕だけでも、多数の傷跡が残っている。古いものもあれば新しいものもあり、戦闘経験の豊富さを物語っていた。
無言も耐えられないが、会話するのも耐えられない。どうするべきか、とロイズが迷っているとダニエルが言った。

「アンソニーの調査では、ゼレイブへはここから歩いて行けるそうだ。これ以上ポールの力に頼ることは出来ない。だから、これから先は歩いていく。だが、ヴェイパーに頼るな。お前の足で歩いてこい」

 ダニエルの口調は平坦で、事務的だった。

「ゼレイブには、私の友人がいる。その娘もな。お前の丁度良い遊び相手になるだろう」

「隊長に友達なんているのかよ」

 ロイズが小さく漏らした悪態に、ダニエルは素っ気なく返した。

「いないと言った覚えはない」

「だけど、女の子じゃなあ…」

 ロイズはちょっと拗ねた。ダニエルは釣り竿を引いたが、餌が取られたと解ると、餌を付け直して糸を投げた。

「選り好み出来る立場か」

「そりゃ、そうだけど」

 ロイズは言い返そうとしたが、口籠もってしまった。確かにそうだが、そこまで言われる筋合いはないと思った。
ゼレイブに行けば新しい友達が出来るかもしれない、というのは嬉しいが、それが女の子なのが不満だった。
そもそも、女の子と遊んだことすらない。遊び相手はいつもヴェイパーしかいないので、勝手がまるで解らない。
だが、蓋を開けてみなければ解らないので、ここは飛び込むしかないだろう。案外、上手くやれるかもしれない。
 ダニエルの友人など想像も付かない。自分にも他人にも厳しすぎる男に、友人がいるとは思えなかったからだ。
息子の自分が言うのもなんだが、ダニエルは他人とあまり関わろうとしない。妻がいたことが、不思議なくらいだ。
隊員達とも過度に馴れ合おうとせず、用事のない時はよく一人でいた。だが、ダニエルにも過去というものはある。
ロイズの知らない若い頃のダニエルは、今とは違っていたのかもしれない。だから、友人がいるのかもしれない。
 父さんの友達は、どういう人なんだろう。ロイズは興味が湧いてきそうになったが、すぐに考えることを止めた。
こんな男に興味を持ってもどうしようもないのだから、考えない方が良い。そう思い、ロイズは釣り竿に集中した。
 だが、魚が近寄ってくる気配すらなかった。







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