ドラゴンは滅びない




屋根の上の密談



 ギルディオスは、眠かった。


 上等のソファーに深く腰掛けて静まりかえった部屋にいると、次第に気が緩んできてしまい、視界が霞んでくる。
体が無機物であろうとも、眠気はやってくる。腕を組んで足も組んでいるが、時折、かくっと頭が落ちそうになる。
だが、まだ眠るには早い時間だ。ギルディオスは頭を振って顔を上げ、ベッドに横たわっている少女を見やった。
 薄手の掛布にくるまっているヴィクトリアは、しっかりと枕を抱き締め、心地良さそうな寝息を立てて熟睡していた。
枕に押し付けられた口元が緩んでいて、頬の下には涎の染みが付いている。余程、彼女は疲れていたのだろう。
その証拠に、ベッドに横になってあっという間に眠りに落ちた。いつもは、あまり寝付きが良くなかったというのに。
直前に、質素ながらも量のある料理や砂糖が大量に入った菓子を腹一杯に食べたから、というせいもあるだろう。
腹が膨れれば、眠くなるものだ。ギルディオスはヴィクトリアの可愛らしい寝顔を見つつ、内心で顔を緩めていた。
古びた飴色の扉が数回叩かれたので、ギルディオスは生返事をした。すると、服を抱えたフィリオラが顔を出した。

「あらま。ちょっと遅かったですか」

「なんだそりゃ」

 ギルディオスがフィリオラの持っている服を指すと、フィリオラは少し笑った。

「眠るなら着替えてからの方がいいと思いまして、私の寝間着を持ってきたんです。ジョーさんのものでは、ちょっと大きいんじゃないかと思いまして」

「その暇もなかったぜ。ヴィクトリアの奴、すぐに寝ちまったからな」

 ギルディオスは、ちょっと肩を竦める。フィリオラはベッドの脇にやってくると、めくれた掛布を直してやった。

「長旅でしたもんね、疲れが出ちゃったんでしょう」

「伯爵はどうした。食堂に転がしてきたままだが」

「ああ、伯爵さんならラミアンさんが地下室にお連れしましたよ。なんでも、湿気が恋しいとかで」

 フィリオラは寝間着をテーブルに置いてから、ギルディオスの隣に腰を下ろした。

「ずーっと外に出っ放しだったからなぁ。引きこもりの伯爵にはしんどかったんだな」

「あと、ひどく汚れていらっしゃったので、薄布の端切れを張ったグラスをお渡ししておきました。そうしておけば勝手に濾過するから、と以前に大御婆様が仰っていたのを覚えていたので」

 フィリオラは、変な顔をしてギルディオスに向いた。

「伯爵さんが随分と小父様のことを罵倒していましたけど、小父様は伯爵さんに何をしたんですか? 不純物の中には、虫の足とかがありましたけど」

「まあ、聞くな。思い出すのも馬鹿馬鹿しいから」

 ギルディオスが苦笑いすると、フィリオラは眉を下げた。

「本当に何をなさったんですか、小父様は」

「言えないほど馬鹿馬鹿しいんだよ。だから、あんまり聞くな、フィオ」

 ギルディオスにはぐらかされてしまい、フィリオラは少々不満だったが話を変えた。

「ですけど、小父様達、禁書なんてよく集められましたね。ブラッドさんのお話だと、物凄く強い魔導兵器がその禁書を狙っているらしいじゃないですか。連合軍もまだ沢山駐留しているのに、そんなに派手なことをなさるなんて。危険じゃありませんでしたか?」

「その辺の話は、また後でゆっくりしてやらぁ。結構長くなりそうだしな」

 ギルディオスがフィリオラのツノの生えた頭をぐしゃりと撫でると、フィリオラは少女のように笑んだ。

「小父様はちっとも変わりませんね」

「お前は大分成長したな、フィオ」

「そんなことないですよぉ」

「んで、レオとは上手くやれているか?」

「はい」

 満面の笑みを浮かべ、フィリオラは頷いた。

「レオさんはよく働いてくれますし、頼りになりますから。意地っ張りで捻くれているところは治っていませんけど、もう慣れましたから。リリのお世話もちゃんとしてくれますし、畑仕事も結構上手ですし、レオさんって意外に器用だから大抵のことはなんとかしてくれますし」

「リリも、ちょっと見ねぇ間にでっかくなったなぁ」

「小父様が前にリリと会ったのは、リリが産まれたばかりの頃でしたからね。もう何倍にもなりましたよ」

「時間が経つのって、早ぇよなぁ」

 ギルディオスは頭の後ろで手を組み、上体を反らした。フィリオラは、小さく頷いた。

「ええ、本当に。十年なんて、あっという間ですね」

 昼下がりの柔らかな日差しと初夏の匂いを含んだ弱い風が、上下式の窓の隙間から部屋に滑り込んでいた。
ここは、ブラドール一家の住まう屋敷の三階の部屋だ。長年使っていなかった空き部屋だそうだが、綺麗だった。
床は磨き上げられ、ベッドも手入れされていて、窓枠にも埃は溜まっていなかった。ジョセフィーヌのおかげである。
 屋敷の主の妻、ジョセフィーヌ・ブラドールは知性こそ幼いが家事が得意で、炊事も掃除も洗濯も器用にこなす。
彼女の言動の幼さを知っていると不思議に思えるが、慣れてくると違和感もなくなり、そういうものだと思えてくる。
それは、隣にいるフィリオラとて同じだ。短いツノが生えていて瞳孔が縦長であっても、これといって気にならない。
人外達との付き合いが長いと、彼らが人であっても人でなくてもどうでもよくなってしまう。そういうもの、だからだ。
 ベッドの上で、ヴィクトリアが寝返りを打った。その拍子に、枕元に置かれているクマのぬいぐるみが床に落ちた。
途端に、ごとっ、とぬいぐるみにはあるまじき重たい落下音がした。フィリオラは、恐る恐るぬいぐるみを拾った。

「…あの」

 フィリオラは、やたらと重いクマのぬいぐるみを慎重に持ち上げた。

「これ、ぬいぐるみ、ですよね? なんか、中に硬いものが入っているような気がするんですけど」

「ん、ああ。拳銃が入ってんだよ。弾もちゃんと込めてある」

 ギルディオスがさらりと返すと、フィリオラは、うひゃあ、と変な声を上げてぬいぐるみを遠ざけた。

「なんてことをするんですか、ヴィクトリアさんは! 物騒じゃないですか! 暴発でもしたらどうするんですか!」

「オレもそう思うんだけど、どうしても抜かせてくれなくってなぁ」

 護身用なんだと、とギルディオスが苦笑すると、フィリオラは渋い顔をした。

「やっぱり、ヴィクトリアさんはロザリアさんの娘さんなんですねぇ」

「あと、そこのトランクの中には斧が入っていてな、他にも暗殺用の武器とか毒とか呪術具とかがあるんだぜ」

 ギルディオスは顎をしゃくり、ベッドの足元に置かれた革製のトランクを示した。フィリオラは、げんなりしている。

「その辺は、グレイスさんの影響でしょうか」

「たぶんな」

「なんだか頭が痛くなりそうです」

 フィリオラは顔をしかめつつ、クマのぬいぐるみをヴィクトリアの枕元に戻した。

「あの、小父様。私はこれから家の仕事の続きをしなければならないので、一旦帰らせて頂きますね」

「おう」

 ギルディオスが片手を上げると、フィリオラは深々と頭を下げてから部屋を出た。

「それでは、また」

 フィリオラの軽快な足音が廊下を過ぎ、階段を下りた。歩調こそ変わっていないが、足取りは地に着いている。
魔力が高いために老化が遅いので外見はあまり変わっていないが、その内面は母親として女として成長していた。
どうということのない仕草や言葉の一つ一つに、成長の証が滲み出る。とても嬉しいことだが、少し寂しくもあった。
もう、フィリオラは完全に手を離れたのだ。彼女が幼い頃は、気が弱く頼りなかったのでついつい手を貸していた。
だが、もうその必要はなくなった。ギルディオスが手を貸さなくとも、フィリオラは自分自身の力で乗り越えていく。
 フィリオラは、子供でも少女でもない。一人前の大人になった。それを肌で実感し、ギルディオスは感慨深かった。
胸の奥に、熱いものが込み上がってくる。なんだか無性に泣いてしまいたい気分になったが、涙は出なかった。
それがありがたくもあり、ほんの少し残念だった。ギルディオスは気持ちだけ目元を擦ってから、体の力を抜いた。
 窓の外からは、リリとロイズと思しき高い声が聞こえる。幼子達に混じって、ヴェイパーの無機質な声もする。
近くの森からは鳥のさえずりが聞こえ、窓枠に切り取られた空はどこまでも高く、空気には温かな土の匂いがする。
森の手前には畑が並び、果樹園が造られ、山の斜面には家畜が放されていて、こぢんまりとした家々が連なる。
申し分ないほどに喉かで、この上なく平和だった。田舎とはこんなにもいいものか、とギルディオスは実感した。
 ギルディオスは、王国が健在であった時代の王都の出身なので、れっきとした都会生まれの都会育ちである。
その割には性格が垢抜けていないので、都会的なものは全て双子の兄のイノセンタスに押し付けたようだった。
事実、双子の兄であるイノセンタスはギルディオスとは真逆の男だった。魔力も高ければ頭も良く、理性的だった。
だから、ギルディオスには王都はあまり合っていなかった。時代が進んで旧王都になった頃、ようやくしっくり来た。
ある程度寂れていて、猥雑なくらいが丁度いい。だがその旧王都も、共和国戦争で攻撃され、壊滅してしまった。
その際、ヴァトラス一族が代々守り続けてきた屋敷も破壊されてしまい、よって、ギルディオスの生家も失われた。
その頃はフィフィリアンヌの城に住んでいたので帰る場所はあったのだが、それでも、どうしようもなく空しくなった。
瓦礫となった屋敷を何度も見に行っても、信じることが出来なかった。思っていた以上に、家の存在は大きかった。
自分では実家のことは切り捨てたと思っていても、それなりに思い入れがあったらしい。情けないが、自分らしい。
 ブラドールの屋敷は建てられた年代がかなり古いので、どことなくヴァトラスの屋敷と似通った雰囲気があった。
構造も違えば内装も違い、ヴァトラス家の家紋のスイセンの浮き彫りもないのだが、薄暗さや重たさが似ている。
それが、不思議と心地良かった。やはり、自分は古い時代の人間なのだ。だから、そんなふうに感じるのだろう。

「あんれまあ。灰色の嬢ちゃんは、お昼寝の真っ最中でごぜぇやしたか」

 唐突に、窓から声が聞こえた。ギルディオスが身構えると、窓枠の外側に白ネコが引っ掛かっていた。

「そう驚かんで下せぇな、重剣士の旦那。ぴょんと跳ねて昇ってきただけでごぜぇやす」

「ここは三階だぜ?」

「あっしをただのネコと思いなさんな、旦那。あっしも旦那達と同じく、普通ではございやせん。だから、三階だろうが何階だろうが簡単に辿り着けるんでさぁ」

 白ネコ、ヴィンセントは窓の隙間からするりと部屋に入り、扉に目を向けた。

「竜の御夫人は本当にええ人でやんすねぇ。あっしのことも、ちゃあんと世話してくれるんでやんすから」

「フィオは優しいからな。どんなにろくでもねぇ野郎でも放っておけねぇんだよ」

 ギルディオスが素っ気なく返すと、ヴィンセントは不満げに耳を下げた。

「あんれまあ。竜の御夫人や他の衆には親しくしておいて、あっしにはそれですかい?」

「当たり前だろうが。連合軍の密偵と親しくするような義理はねぇよ」

 ギルディオスが吐き捨てると、ヴィンセントは軽く跳ねてギルディオスの隣に飛び乗った。

「殺生でやんすねぇ」

「んで、てめぇはどうやってゼレイブに侵入した。ラミアンに聞いてみたが、魔導結界を破って入ってきたんじゃねぇみてぇだな。まさかとは思うが、他の連中にくっついて来たのか?」

 ギルディオスがヴィンセントを睨み付けるが、ヴィンセントは笑うだけだった。

「まあ、そんなところでやんすねぇ。あっしはナリが小せぇですから、その辺のことはどうにでもなりまさぁ」

「ダニー達か、それともリチャード達か?」

「今更その質問をされても、大して意味はありやせんよ。あっしはこうして中に入っちまっとるんですから」

 得意げに、ヴィンセントは目を細めた。

「そいで、これから旦那はどうするつもりで?」

「てめぇから連合軍の情報を吐かせるだけ吐かせて、追い出してやる」

「あっしの口はこんなにも小せぇ上に、がちっと固まっちょりやすからそれは無駄なことでさぁ」

「さあて、どうだかな」

 ギルディオスは身を乗り出し、ヴィンセントとの間を詰めた。ヴィンセントも、負けじと見上げてくる。

「割れるものなら割っておくんなまし、旦那」

 白ネコはヒゲの生えた口元を開き、牙を覗かせている。ギルディオスは威圧するように、口調を強める。

「ダニー達やリチャード達をゼレイブに集めたのは、てめぇなのか?」

「あっしはしがねぇネコマタ、そこまでの技能はございやせん。そいつぁ、あくまでも彼らの意志でごぜぇやす」

 旦那達もそうでしょうや、とヴィンセントに言われ、ギルディオスは言い返せなくなった。

「まあ、そうだけどよ」

「重剣士の旦那はちょいとばかり戦いすぎですぜ。ゼレイブにいるのは旦那の御友人達であって、魔導兵器三人衆でも連合軍でもございやせん。皆が皆、気心の知れた連中でしょうや。落ち着きはすれど、苛立ちはしねぇはずじゃありやせんか? 今ばかりは、その御自慢の剣を置いてみてはいかがでしょうや」

 ヴィンセントの口調は、柔らかい。ギルディオスは一瞬躊躇ったが、彼の言葉を振り切った。

「惑わそうって腹か」

「いえいえ、そんなつもりじゃございやせん。あっしはスライムの旦那ほど、口が達者ではございやせんので」

「こんなにべらべら喋ったくせに、今更何を言いやがる。ちゃちな嘘を吐くんじゃねぇ」

 ギルディオスの悪態にも、ヴィンセントはへらへらしている。

「そいでは、あっしはこれで。嬢ちゃんを起こしてはいけやせんからねぇ」

 ヴィンセントは頭を下げると、ソファーから降りて窓枠に飛び乗った。直後、窓枠を蹴って外に飛び出していった。
だが、落下音はしなかった。自称するように、まともなネコではないらしい。ギルディオスは、焦燥感を燻らせた。
ヴィンセントの存在は、かなり危うい。連合軍の密偵がゼレイブの中にいるだけでも、充分危険を招いてしまう。
これではいけない、と思うが、ヴィンセントの言葉が残っていた。今ばかりは、戦いを忘れてもいいのではないか。
だが、それではいけない、とすぐに思い直した。下手に気を緩めて、危機に気付けずにいたらそれこそ最悪だ。
 ゼレイブには、愛する者達がいる。ゼレイブは彼らが幸せに生きられる世界であり、壊してはならないものだ。
だから、守らなくては。何かあったら真っ先に戦ってやろうじゃねぇか、とギルディオスは鋼鉄の相棒を手にした。
 剣を置くことなど、出来るわけがない。







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