フリューゲルは、空を飛んでいた。 今日も天気が良い。両腕に付いた翼が眩しい日光を撥ねて輝き、全身を包み込んでいる空気も暖かかった。 だが、気分はそれほど良くなかった。禁書の回収作業が粗方終わってしまったので、最近の三人衆は暇だった。 気分を紛らわしたかったので、フィフィリアンヌから命じられた任務を引き受けたが、その内容もつまらなかった。 偵察をしてこい、と言われてひたすら南下しているのだが、その目標である田舎の街がなかなか見つからない。 先程から目を凝らして地上を見ているのだが、下にあるのは広大な大地と大きな湖、そして山脈だけしかない。 街はおろか、人家の一つも見えない。フィフィリアンヌに担がれたのでは、とフリューゲルはにわかに苛立った。 「あんのトカゲ女ぁーっ!」 フリューゲルはぎゅんと高度を上げると、青空に向けて猛った。 「このオレ様を騙しやがったなあああああっ!」 空に浮かぶブリガドーンを睨み、竜の少女への文句を連ねた。 「テーサツって何をテーサツすんだよ、どこにも何もねぇじゃねぇかよこの野郎ー!」 ばーかばーかばーか、と何度も程度の低い罵倒を繰り返していたが、さすがに飽きてきたのでやめることにした。 ここにフィフィリアンヌがいないからこそ言えることだが、相手がいなければ罵倒したところで何の意味も成さない。 フィフィリアンヌがいたならば、彼女の独特の雰囲気と竜の気配に気圧されて、文句は飲み込んでしまうだろうが。 彼女のことは気に入らないし、ルージュ以上に上から物を言ってくるので腹立たしいが、面と向かって嫌えない。 生前は魔物だったせいもあり、竜だけはどうしても恐ろしい。彼女の性格だけでなく、竜であるから恐れてしまう。 ではフィフィリアンヌが竜でなかったら恐れないのか、と言われると、やはり恐れてしまうような気がしてならない。 ルージュやフィフィリアンヌのような、つんけんとして気の強い女は苦手だ。二人とも顔は美しいが、それだけだ。 けっ、と嫌悪感のままに吐き捨てたフリューゲルは、意味もない敵意を撒き散らしながら、上下逆さになった。 その姿勢のまま、地上へ向けて降下する。遠く離れていた新緑の地表が近付いてきて、視界一杯に緑が広がる。 激突する寸前で顔を上げて身を翻し、地面とのすれすれを飛んでいく。こうすれば、目標が見つかるかもしれない。 偵察目標の名はゼレイブ。共和国領土の片隅に存在する街で、地図で見ると針の一差しのように小さい街だ。 上から見れば、見つけられないはずはない。フリューゲルの今までの経験ではそうなのだが、まだ見つからない。 ならば、下から見てみれば見つかるのではないか。そう思い、また目を凝らしてみるが、見えるのは草原だけだ。 実は、フリューゲルはゼレイブを見つけていないわけではなかった。魔力の蜃気楼も、魔物の目には通じない。 最初に上空から見下ろした時に、ゼレイブの町並みは東側にあった。だが、降下する方向を西側にしてしまった。 見えていたはずなのに見たことすら忘れてしまったので、未だに見当違いの方向を進んでしまっているのだった。 なので、フリューゲルはゼレイブからどんどん遠ざかっていった。振り返れば見えるのだが、それすらもしなかった。 真正面に、森が現れた。フリューゲルはぐいっと頭を上げて高度を上げると、森の上空のすれすれを飛んだ。 地上のすぐ傍を飛ぶ時もそうだが、この切迫感がたまらない。開放感のある高い空も好きだが、こちらも好きだ。 針葉樹に混じって広葉樹も葉を広げている森の上を進んでいくと、不意に途切れ、森の中に空間が出現した。 木々が、そこだけ分かれている。円形に近い形状の森の空白の中心には、青空を映し込んだ円い池があった。 その池の側に、小さな人影を見つけた。暇を持て余していたフリューゲルは興味を持ち、身を翻して戻った。 木々の枝に翼を引っかけないようにしながら降下し、くるりと回って更に高度を落とし、着陸する態勢を取った。 フリューゲルは地面に両足を引き摺って減速し、停止した。足の下で大量の雑草が潰れ、青臭い匂いを放った。 「あぁー!」 急に響いた甲高い声にぎょっとし、フリューゲルは慌てて飛び退いた。 「なんだ、なんだ、やんのかこの野郎ー!」 「そこのお花、もうすぐ咲きそうだったのに!」 声の主は、小さな人影だった。身長はフリューゲルの膝よりも低く、朱色のエプロンドレスを身に付けている。 頭にはネッカチーフを被り、小さめの手提げカゴを足下に置いていた。大きな青い瞳が印象的な幼女だった。 「なんてことするの、ひどいじゃない!」 愛らしい目を吊り上げて、丸みのある頬を張っている。フリューゲルは彼女に言い返そうとしたが、ぎくりとした。 幼女の瞳孔は、縦長だった。フィフィリアンヌのものとは色こそ違っているが、縦長の瞳孔を持つのは竜族だ。 となれば、この幼女は竜族なのか。フリューゲルは、フィフィリアンヌから感じている威圧感を思い出してしまった。 あの刃物みたいな視線で見られると、背中がぞくぞくして魂が縮み上がる。戦う前に、戦意を失ってしまうほどだ。 この幼女も見た目こそ矮小で可愛らしいが、フィフィリアンヌのように強大な力を隠し持っているのかもしれない。 だとすれば、分が悪い。さっさと立ち去るに限る、とフリューゲルが飛び上がろうとすると、幼女が声を張り上げた。 「あ、待って!」 「なんだよこんちくしょうこの野郎!」 恐ろしいのと情けないのとでフリューゲルが喚き散らすと、幼女は興味深げに尋ねてきた。 「ねえ、鳥さん、あなたってもしかしてマドーヘイキ?」 「あー、うん、そうだな。オレ様は世界一速く空を飛べる男、フリューゲル様だぜこの野郎!」 フリューゲルは幼女に向き直ると、両翼を広げて己を鼓舞した。すると幼女は、わあ、と歓声を上げた。 「お空を飛べるの? それって凄いね!」 「さっき降りてきたところ、見なかったのかよこの野郎」 「だって、私、さっきまでお花を摘んでいたから見えなかったんだもん。ごめんなさい」 「花ってこれか?」 フリューゲルは足を上げて、先程踏み潰してしまった野草を見下ろした。幼女は、残念そうに眉を下げる。 「うん。一昨日亡くなった、ポール小父さんのお墓にお供えしようと思って」 「へー」 フリューゲルは幼女の足下に置かれている、編みかけの花輪に気付いた。 「それって面白ぇのかこの野郎?」 「鳥さんはお花を編んだことないの?」 幼女はちょっと意外そうにしたが、すぐに笑った。 「じゃあ、教えてあげるね!」 「教えてくれんの? なぁなぁ、それってヨミカキケーサンよりも楽しいのかこの野郎?」 フリューゲルは腰を曲げ、幼女と視線を合わせた。幼女は頷く。 「私はお勉強よりもこっちの方が好きだな。鳥さんも、お勉強をしているの?」 「タシザンはちょっと出来るぞ! 後な、タンゴだって書けるようになったんだぜ! どうだ凄ぇだろこの野郎!」 フリューゲルが胸を張ると、幼女は少し得意げにした。 「私は引き算も出来るよ。お母さんから教えてもらったから」 「え、あれが出来んの?」 へー、とフリューゲルは心底感心して、幼女を眺め回した。 「凄ぇな、てめぇは! ちっこいくせになかなかやるじゃねぇかこの野郎!」 「女の子に野郎とか言っちゃダメなんだから。あと、てめぇってのもやめてよ。私にはちゃんと名前があるんだもん」 幼女は、不愉快そうに膨れた。フリューゲルは思い掛けない反応に戸惑ってしまったが、言い返した。 「じゃあ名乗ってみせろよ、オレ様はもう名乗ったんだからな!」 「あ、ちょっと待ってね」 幼女は綺麗に切り揃えられた前髪を指先で整え、エプロンとスカートを払って直してから、その両端をつまんだ。 両膝を曲げながら腰を落とし、頭を下げてきちんと礼をしてから顔を上げると、にっこりと明るく微笑んでみせた。 「リリ・ヴァトラスと申します。どうぞ、お見知りおきを」 「あ、おう…」 フリューゲルは、今まで見たこともない仕草をする幼女、リリに再び困惑した。 「それ、なんだ?」 「これも、お母さんから教えてもらったの。女の子なんだから礼儀正しくしなさい、って言われて」 リリは、照れくさそうに頬を染める。 「ちょっと、恥ずかしいけど」 「リリ。リリ、リリ、リリ…」 言いやすい、簡単な名前だ。フリューゲルはその名を何度も口に出していくうちに、やけに気に入ってしまった。 「リリ! うん、なんかいいな、いいな! 覚えたぞ、オレ様は覚えてやったんだからなこの野郎!」 フリューゲルがリリを指差すと、リリは嬉しそうに笑む。 「本当? じゃ、私もあなたのお名前を覚えるね! フリューゲル、だったよね?」 「おう! オレ様の名はフリューゲル、最強最速最悪最高の魔導兵器だぁあああっ!」 フリューゲルが両手を高々と突き上げて叫ぶと、リリはぱちぱちと手を叩いた。 「なんかよく解らないけど、なんかいいね!」 くけけけけけけけけけ、とフリューゲルは上機嫌に笑い声を上げた。他人から褒められるのは、悪い気はしない。 リリはくりっとした目で、フリューゲルをまじまじと見つめている。その瞳孔は縦長だが、もう恐ろしいとは感じない。 まず、リリからは竜族の圧迫感のある気配をまるで感じないのだ。それに、態度も親しげで明るく、可愛らしい。 フィフィリアンヌは竜である以上にあの性格だから、苦手なのかもしれないと思った。相手によって、随分と違う。 リリなら怖くない。フリューゲルは無意識に張り詰めていた気を緩めると、安心しながら、リリに歩み寄っていった。 「ねえ、フリューゲル」 フリューゲルが声を掛けるよりも先に、リリが話し掛けてきた。 「フリューゲルは、お外から来たんだよね?」 「ソト?」 「私ね、お外に出たことないんだ」 「ソトってソトだろ。屋根も壁もねぇ場所のことだろ。だから、ここもソトだと思うぜこの野郎」 「えっと、あのね、そうじゃなくって。私は、街から離れた場所に出かけたことがないの」 「街? そんなもん、どこにもねぇぞこの野郎?」 「あるんだけど、どこにあるかは内緒なんだ。誰にも教えちゃいけないって、お父さんもお母さんもブラッド兄ちゃんも言っているから教えられないの。ごめんね。お父さんもお母さんもブラッド兄ちゃんも、街から離れた場所には連れて行ってくれないの。だから、私、お外に行ってみたいんだ」 「そんなもん、一人で行けばいいじゃねぇか」 「ダメだよ、一人でお出掛けしちゃいけないんだから! 迷子になっちゃうんだから!」 「それ、なんかおかしくねぇかこの野郎?」 フリューゲルの呟きに、そうかな、とリリは首をかしげる。言いつけを破りたい傍らで、ちゃんと守ろうとしている。 それが、おかしくないわけがない。どうせ破ってしまうなら、いっそのこと全部破ってしまってもいいのではないか。 だが、リリはそうは思っていない上にどこがおかしいのかすら今一つ解っていないらしく、真剣に思い悩んでいる。 「お外には行きたいよ、行けるなら行きたいけど、でも迷子になるといけないし、お夕飯までには帰らないと…」 「んで、どーするんだよ。行きたいのか行きたくねーのかはっきりしやがれこの野郎」 フリューゲルは、次第に焦れったくなってきた。リリはしばらく迷っていたが、上目にフリューゲルを見つめた。 「それに、知らない人には付いて行っちゃダメって…」 「けっ! だったらもうどーでもいいや、暇潰しにもなりゃしねぇやこんちくしょうこの野郎!」 フリューゲルはリリに背を向けると、だん、と地面を踏み切って上昇した。あ、とリリは追い縋ろうと手を伸ばす。 だが、その手を下げた。リリはかなり惜しげにしていたが、迷いを振り切るために妙に明るい笑顔を浮かべた。 「うん、そうだよね。ごめんね、フリューゲル」 彼女の声からは先程までの溌剌さは失せ、沈んでいた。フリューゲルは、変に居たたまれない気持ちになった。 フリューゲルには感情の名称は解らなかったが、とにかく居心地は悪いと思ったので、すぐに飛び立とうとした。 が、足を止めて顔を上げた。ざざざざざざざ、と草を掻き分けて進んでくる何者かの足音が、近付いてきている。 フリューゲルは反射的にその音源へと視線を定めた瞬間、背の高い雑草の間を駆けてきた影が飛び出してきた。 二つの影は、日差しの下に出た途端に動きを止めた。それは、連合軍の戦闘服を身に付けている男と女だった。 「敵影、確認。識別名称、高速飛行型魔導兵器三号機、確認。攻撃目標として認識」 女は口を開き、抑揚のない言葉を並べた。男は戦闘服の袖をまくり上げると、その腕を突き出した。 「殺害目標、確認。リリ・ヴァトラス」 男の腕の皮が裂け、そこから血と体液の絡んだ白い刃が飛び出した。ばきばきと音を立て、腕が変化していく。 白い刃はウロコのように細かくなりながら男の腕を覆い尽くし、肩までも包み込むと、甲冑に似た形状と化した。 爪先は鋭く伸び、手の甲には白目のない巨大な眼球が現れている。その目が動き、ぎょろりとリリを睨み付けた。 リリは一瞬呆気に取られたが、恐怖を感じ、悲鳴を上げて後退った。男の足が前に進み、リリとの距離を狭める。 「任務、遂行」 「い…いや、こわいよ、こわいよ」 リリはがくがくと震えていたが、目を閉じて頭を抱え、叫んだ。 「怖いよう、お父さん、お母さああああん!」 幼女を中心に、熱と光が溢れ出した。朱色のエプロンドレスは、それを上回る赤い炎の中に隠されてしまった。 リリから発せられた、強烈な熱と魔力を含んだ風が花畑を覆い尽くす。その衝撃を受け、フリューゲルはよろけた。 風が収まったかと思うと、次は炎が絶え間なく襲いかかってきた。リリの泣き声が上がるたびに、熱が増していく。 おとうさん、おかあさん、にいちゃん、ぶらっどにいちゃん、とリリは助けを乞うように誰かの名を呼び続けている。 声が強くなればなるほど、火炎は激しくなり、熱の圧力は跳ね上がる。フリューゲルも、立っているのがやっとだ。 「たすけてえ、おとうさん、おかあさん!」 リリの絶叫が、更なる烈火を生み出した。 「こわいよお!」 今までのものよりも遥かに強い熱と炎が、駆け抜けた。フリューゲルは防ごうと身構えたが、防ぎきれなかった。 「ぎいっ!」 熱の圧力を全身に浴びて、堪えきれずに跳ね飛ばされた。飛び上がろうとしたが、気流が乱れすぎている。 そのまま後方に飛ばされ、池に落下した。その直前に、戦闘服姿の二人を見たが、二人も炎に包まれていた。 蛋白質の焼ける嫌な匂いが立ち上り、骨の外装の付いていない腕や足からどろりと溶けた脂肪が流れている。 ありゃあ死んだな、とフリューゲルは確信した。そう思った直後に水面に没し、全身の熱が水に奪い取られた。 過熱した体が一気に冷やされ、少しだけ落ち着いた。体勢を立て直すために、一旦水面下に潜ることにした。 池の底は比較的浅く、フリューゲルのつま先が着いた。泥溜まりを踏み切って上昇し、水面を割って飛び出した。 また衝撃が来ると身構えていたが、来なかった。リリはまだ泣いていたが、炎の量はそれほど出ていなかった。 一面、焼け野原になっていた。リリの足下にあった花輪や手提げカゴは真っ黒に焦げ、ただの灰と化していた。 雑草や花は一本残らず焼かれ、ぶすぶすと煙を上げている。周辺の木々も幹や枝が焼かれ、黒くなっていた。 ルージュの砲撃みたいだ、とフリューゲルはちらりと思った。リリはぐずぐずと泣いていたが、はっと顔を上げた。 青い瞳が最大限まで見開かれ、縦長の瞳孔も開いていた。彼女の幼い目に、焼け焦げた二つの人間が映る。 「あ、あああ…」 リリは浅く息を吸い込むと、顔を両手で押さえて喚いた。 「いや、いや、いやあああああああ!」 「リリ」 フリューゲルが歩み寄ると、リリは後退った。息を激しく荒らげ、流れる涙を拭かないまま首を横に振る。 「こないで、きちゃだめ、だめなんだよお!」 「ソト、連れてってやる。リリって面白ぇから、暇潰しにはなりそうだぜ」 フリューゲルはリリの襟首を掴んで持ち上げようとしたが、あまりの熱さに一瞬手を引っ込めてしまった。 「あちゃっ!」 「さわらないでぇ…。ふりゅーげるも、やけちゃう、ぜんぶ、やけちゃう」 リリは首を横に振り、しゃくり上げている。フリューゲルは熱の残った手を振り回していたが、再度伸ばした。 「オレ様は不死身だってーの」 フリューゲルはリリを両手で持ち上げると、首の後ろに乗せて座らせて肩車のような状態にした。 「くけけけけけけけけけけっ!」 なんだか面白いことになってきた。フリューゲルは退屈が紛れる心地良さを味わいながら、リリを連れて飛んだ。 リリの泣き声が頭のすぐ後ろから聞こえることと、焼けた鉄のような彼女の体温には、少々辟易してしまったが。 森から遠ざかろうとしたが、ふと二人の死体を見下ろした。倒れた拍子に崩れてしまい、原型を止めていない。 泡立つほど煮え滾っている脂の中に黒ずんだ骨が沈んでいるが、その骨が、僅かばかり動いたように見えた。 まさかな、とフリューゲルはまた前を向いた。あれほど焼け爛れた状態から蘇られる者など、存在しないはずだ。 あの二人は人間ではないようだったが、もう死んでしまった。だからフリューゲルは、すぐに興味を失ってしまった。 リリの泣き声は、苦しげだった。 07 5/24 |