ドラゴンは滅びない




破滅の夜明け



 ひどすぎて、声も出せなかった。
 ロイズは窓が割れた空き家の中から、街の入り口付近を凝視していた。ほんの数分の間に、全て破壊された。
家々と道を隔てる柵や苔の付いた古い井戸、野生の魔法植物や花々が生えている道ばた、主が出ていった家々。
草木を濡らす朝露や昼下がりののどかな時間、採れたばかりの野菜の匂い、温かな土、そして、暖かな住人達。
そのどれもが、好きだった。ゼレイブにある全てのものは、荒涼とした世界しか知らないロイズには眩しかった。
それらが、破壊されていく。ロイズは膝ががくがくと震え、嫌な汗が噴き出し、強い恐怖で吐き気すら感じていた。
 魔導兵器三人衆が現れてから、まだほんの少ししか経っていない。強いはずの皆が、呆気なく倒されていく。
父親も、ギルディオスも、ラミアンも、竜と化したフィリオラも、ブラッドも、ヴィクトリアも、皆が、皆が、皆が死ぬ。
リリは、あのおかしな鳥に捕まってしまった。彼女も殺される。リリが、可愛らしい彼女が、冷たい死体になる。

「いやだ…」

 死体になる。母親のように、物言わぬ冷たい物体になる。母親のように、血を流して倒れたまま、動かなくなる。
母親のように、笑顔を向けてくれなくなる。母親のように、言葉を掛けてくれなくなる。母親のように、いなくなる。
母親のように、二度と会えなくなる。母親のように。母親のように。母親のように。ロイズは、喉が痛いほど乾いた。

「嫌だ」

 おはよう、ロイズ。今日もいい天気だねぇ。あ、今日はご機嫌みたいだね。楽しい夢でも見た?

「嫌だ」

 ヴェイパーとケンカしたのか、そっかあ。あの子もかなり頭が良くなったからだねぇ。嬉しいなぁ。

「嫌だ」

 なんでそんなことで喜ぶのかって? そりゃあ決まってんじゃないの、あの子もあんたもあたしの子だから。

「嫌だ!」

 え? あたしの料理、そんなにしょっぱいかなぁ? ダニーはおいしいって言うんだけど。

「嫌だあ!」

 おやすみ、ロイズ。明日も早いから、ゆっくり寝なさい。見張りが終わったら、一緒に寝てあげる。

「殺しちゃ嫌だああああ!」

 フローレンスは死んでしまった。死んでしまったから、ロイズの目の前で土に埋められて、世界の一部に還った。
完全な別れではない、と誰かが言っていた。異能部隊の誰かが、今はもう死した隊員が言っていたがそれは嘘だ。
フローレンスとは別離したわけではない、彼女はいつも皆を見守っている、との言葉は、子供騙しにもならない。
何度願っても母親は夢にも現れてくれないし、会いたいと思っても会えないし、愛して欲しいと思っても愛されない。
それは、母親が死体と化したからだ。死体と化した者はただの物体に成り下がって、人間ではなくなってしまう。
 死体は山ほど見てきた。物心付く前から、頭が割れて脳漿が吹き出した者や内臓が散った者を、目にしてきた。
つい先程まで可愛がってくれていた隊員や、今し方擦れ違った者や、交戦相手の連合軍兵士が死体と化す様を。
だから、知っている。死体は死体だ。何も言わないし、見守ってもくれないし、土に埋まれば二度と会えなくなる。
 それだけは、嫌だ。ロイズは感情の衝動に任せて壊れた扉を睨み、念動力で強引に外へ押し開けてしまった。
無理に開かれて軋む扉の先には、ルージュの主砲を突き付けられ、頭を撃たれる寸前のブラッドの姿が見えた。

「空間、湾曲!」

 ヴェイパーが傍にいないから、照準など全く定まっていなかった。だが、このままではいけないと強く思っていた。
何もしないまま、目の前で誰かが死んでいく様は見たくない。母親のように、物言わぬ者になってほしくなかった。
 ロイズが乱暴に放った力はやはり照準が大きくずれてしまい、ルージュの砲口ではなく右腕の付け根を曲げた。
心臓は畏怖で縮み上がり、鼓動は痛く、喉は引きつり、涙が出そうだ。だがロイズは、懸命に己の異能力を操る。

「空間、延長!」

 ロイズが右手を振り上げると、ルージュの右肩から先が森の奥へ吹っ飛んだ。ルージュは、ロイズに振り向く。

「私の邪魔をするな」

 ルージュの副砲が上がり、ロイズを狙った。ロイズは逃げようと思ったが膝が震えてしまい、後退れもしなかった。
重たい足音がこちらに近付き、ヴェイパーが名を呼んでいる。だが、彼が助けに来るよりも撃つ方が絶対に速い。
間違いなく殺される、とロイズが顔を逸らした時、金剛鉄槌が持ち上げられた。それが、副砲とロイズを遮った。
 なぜか、ラオフーが二人の間に立ち塞がっていた。ロイズはその様にぎょっとして、力の制御を忘れてしまった。
途端にルージュの右肩を歪めていた力が消え、彼女の主砲は元に戻ってしまった。まずい、と思ったが動けない。
ラオフーが立ち上がったことで、こちらにやってきていたヴェイパーも足を止めて身構え、拳を放とうとしている。
一同の視線が、ラオフーに集まった。ラオフーは金剛鉄槌をぎちりと横にし、ロイズに分厚い底面を見せつけた。

「まあ待て、ルージュ。この場で全員屠るのは容易いが、それではちいとも面白うないわい」

 ルージュは苦々しげに口元を歪め、ラオフーを睨む。

「何をする、ラオフー!」

「弱者をいたぶるんは強者の快楽じゃ。一方的に攻め立ててしまうんは、儂の趣味ではないわい」

 ラオフーは金剛鉄槌を下ろし、ギルディオスらを見定めた。

「時と場所を、変えようぞ」

「何が言いたい」

 ギルディオスがラオフーを睨み返すと、ラオフーはにやりと赤い目を細めた。

「なあに。おぬしらにちいとばかり猶予をやろう、と言うとるんじゃ。せいぜい、ありがたく受け取るが良いぞ」

「ソォンナモン、オイラ達にはイィラネェーゼェー! うかかかかかかかかかか」

 吹き飛ばされた際に空き家に突っ込んだアルゼンタムは、瓦礫の中から起き上がってげたげたと笑い転げた。

「そうだそうだ! 大体、オレ様達は超優勢なんだから、このまま全員やっちまおうぜこの野郎!」

 アルゼンタムに同調するように、フリューゲルが喚き散らした。ルージュはブラッドを見やってから、吐き捨てた。

「当たり前だ! 私達がこの連中に情を掛ける意味などない!」

「ルージュ。おぬしも頭を冷やさんかい。その半吸血鬼の若人が、他の女とおるのがそんなに面白うないんか?」

 ラオフーが呆れ混じりに漏らすと、ルージュは苦しげに顔を歪め、背けた。

「…下らんことを言うな」

「図星カヨゥー、オゥイエー!」

 さも可笑しげにアルゼンタムが笑ったので、ルージュは牙を剥いて主砲をアルゼンタムに向けた。

「黙れ!」

「まあ、そういうわけじゃ。今回はどっちも冷静ではない、これではまともな戦いになりゃあせん」

 ラオフーはうんざりしたように、首を横に振った。ギルディオスは、その態度を訝しむ。

「てめぇ、さっきから何のつもりだ? 悪党のくせに、オレ達とまともにやり合おうって腹なのか?」

「悪党なのはお互い様じゃろうが、ギルディオス。それに儂は、おぬしらと戦いたいわけじゃが、真っ向勝負をしたいっちゅうわけではないんじゃ。増して、儂はおぬしらのことを好いとるわけでもなければ、おぬしらの味方でもない。儂はおぬしらを殺したい。叩いて叩いて叩きのめして、喰うてしまいたい。じゃが、おぬしらはどうも一筋縄では行かない連中のようじゃ。じゃから儂は、おぬしらを徹底的にいたぶってから喰うてしまいたいんじゃ」

 ラオフーの眼差しに、凶暴な野性の光が宿った。

「狩りは楽しい方がええんじゃ。どんなに小さいウサギじゃろうと、その場で喰らうよりも追い詰めてから喰うた方が味がええ。恐怖っちゅうもんは、どんな動物でも持っちょる本能じゃ。そいつを煽っちょった方が、血も濃くなって肉も歯応えが出る。どうせなら、旨い方が良かろうて」

 巨体の魔導兵器からは、肉食動物の放つ威圧感が溢れていた。体こそ機械だが、その魂は荒々しい野獣だ。
ずんぐりとした体格と頭部に付いている耳で、ラオフーはどこか滑稽にも思える印象を持っている魔導兵器だった。
穏やかな物言いと年齢を重ねているがために貫禄がある態度も、彼の雰囲気をどことなく柔らかく見せていた。
 しかし、ラオフーは虎だ。獣を追い、喰らう、森の王者とも言うべき獣が変化した魔物、ワータイガーだった者だ。
太い牙と鋭い爪を持った、肉を喰らう猛獣。その荒ぶる本性が、今まで表に現れていなかっただけに過ぎない。
ラオフーの円筒を連ねた尾が振られ、空気が唸った。赤い瞳はぐるりと辺りを睨め回したが、ロイズに定まった。

「狩りには、餌が入り用じゃのう」

 ラオフーは少年に歩み寄ると、その襟首を掴んで持ち上げた。

「フリューゲル、おぬしは黒髪の小娘を連れてこい。ルージュに渡すとその場で撃ち殺してしまいそうじゃからな」

「放せ!」

 ロイズはラオフーの手から逃れようと暴れたが、ラオフーはロイズを目の前まで持ち上げて顔を寄せた。

小童こわっぱ、おぬしは黙っとれ」

 ごきっ、と鈍い音がし、ラオフーの額とロイズに額が衝突した。途端にロイズは気を失ってしまい、頭を落とした。
すると、ヴェイパーが拳を突き出すべく肘から蒸気を噴き出したので、ラオフーはヴェイパーにロイズを向けた。

「おぬしも動くでない。おぬしが拳を放てば、儂はこの小童を盾にしてしんぜよう」

「汚ぇことしやがって」

 ギルディオスは毒突きながら、倒れているダニエルとピーターを窺ったが、二人とも頭を押さえて苦しげだった。
恐らく、ルージュの砲撃の衝撃波に含まれていた魔力が強すぎて、念動力を放とうにも制御が乱れるのだろう。
そうでもなければ、二人が何もしないままでいるはずがない。ギルディオスは悔しくなりながら、剣を握り締めた。
斬り掛かろうにも、間が空きすぎている。一歩踏み込んで攻められる距離ではないから、相手も応戦しやすい。
その上、ラオフーの手にはロイズがいる。ロイズを盾にして隙を作り、反撃されてしまうのは容易に想像が付いた。
まかり間違ってロイズを傷つけることになってしまっては、最悪だ。だが、このままでは二人までも連れ去られる。

「ん、これでいいのか?」

 フリューゲルは気絶しているヴィクトリアを肩に担ぎ、ラオフーに向いた。ラオフーは頷く。

「まあ、そんなところじゃな」

「禁書は? 持っていかねーのかこの野郎?」

 フリューゲルが地面に散らばった禁書を指したので、ラオフーは空いている方の手で顎をなぞった。

「そうじゃのう…。このまま持って行ってもええが、それじゃちいと面白味に欠けるのう。そんなら、その禁書と子供らを引き替え、っちゅうんはどうじゃ?」

「あ、いいかもな、それなんか面白そー!」

 くけけけけけけけけ、とフリューゲルが笑った。ラオフーは体を曲げて、顔を背けているルージュを覗き込む。

「異存はないようじゃな」

「勝手にしろ」

 ルージュは苛立ち紛れに言い捨て、一人だけ先に飛び立ってしまった。銀色の髪を靡かせながら、遠ざかる。

「そんなら、儂らはこの辺で下がるとしようかのう。ブリガドーンで会おうぞ、皆の衆」

 片手にロイズを持ち、もう一方の手で鉄槌を担いだラオフーは地面を蹴って浮上した。

「くけけけけけけけけけけ! ブリガドーンまで来やがれってんだぞこの野郎ー!」

 ヴィクトリアを肩に担いだフリューゲルは飛び上がり、薄暗い空に消えた。その後ろ姿を、ラオフーが追っていく。

「ラミアン、いや、アルゼンタム! 追えるか!」

 ギルディオスは瓦礫の中に立つ銀色の骸骨に声を荒げたが、彼はひょいと大きな両手を上向けた。

「ソイツァー無茶な注文ダッゼェエーイ…。オイラの翼は連中のとは違うタダの滑空翼、風に乗ってヒラヒラ進むのが精一杯ッテヤツダァー。推進用の加速器がアリャア別ダァガァー、ソンナモンハ付いてネェンダヨォオオオオ」

 ギルディオスは焦る気持ちを抑えながら、皆を見渡した。

「ダニーも、ラッドも、フィオも無理だな…」

 ダニエルは頭を押さえている。ブラッドは気を失っている。そして、主から切り離された竜の翼が、落ちている。
戦地から離れた場所でレオナルドの腕に抱かれているフィリオラは青ざめていて、当分変化は出来ないだろう。
翼は、彼女自身の肉体を変化させて作っているものだ。それを切り落とされた今、フィリオラはかなり消耗した。
骨と肉と筋と血だけでなく、変化した際に魔力と体力も大分失った。回復するまでは、相当な時間を有するだろう。
 ヴェイパーは膝から崩れ落ち、頭を抱えて泣き喚いている。ロイズを守れなかったことが悔しくてたまらないのだ。
レオナルドもまた、悔しげだった。自分ではなくフィリオラが戦い、傷を負ってしまったことが腹立たしいのだろう。
唯一無傷だったリチャードも、不愉快さを露わにしていた。杖を抱きかかえて腕を組んでいたが、口を開いた。

「ブリガドーンに、行くしかなさそうだねぇ」

「当たり前だ。そこにリリがいるなら、助けに行かなくてどうする。あの子は、オレとフィリオラの宝なんだ」

 レオナルドは傷付いたフィリオラを抱き締め、声を震わせた。

「体制を立て直しましょう。さすれば、我らに敵う者などこの世にはおりません」

 本能を剥き出しにしたアルゼンタムから元に戻ったラミアンは、ギルディオスに向いた。

「敵にお膳立てされたってのは腹が立つが、子供らの命には替えられねぇからな。下らねぇ意地なんざ、この際切り捨てちまおうぜ。オレも、お前らもな」

 ギルディオスはバスタードソードを持ち上げ、背中の鞘に滑り込ませた。

「出撃は明朝、今夜中に準備を整える。事は早い方がいい。リチャード、お前も来るか」

「そりゃ、行くしかないでしょうね。思い切り巻き込まれたわけですし、可愛い姪っ子の命の危機ですから。それに、手を貸さなかったら僕がレオに殺されますよ」

 リチャードは、辟易したように眉根を曲げている。

「しかし、ブラッドも面倒な相手を好きになったもんですね。あれなら、フィルさんの方がいくらかマシに思えます」

「ああ、嘆かわしや…。ブラッディの目が覚めることを祈りたいものです」

 ラミアンは悲痛な呟きを漏らし、項垂れた。ギルディオスも、それには同意せざるを得ない。

「気の強い女はどちらかって言えば好みだが、あそこまで行くとそそらねぇなぁ。むしろ、縮こまっちまうぜ」

「とりあえず、フィリオラさん達を屋敷に運びましょう。隊長達も放っておけませんし」

 レオナルドらの近くに立っていたアンソニーはフィリオラに近寄ると、その肌に手を触れた。

「命には別状はないようですが、当分目覚めないでしょうね。魔力と体力をひどく消耗していますから」

「大事な女房なんだ、そう簡単に死なれてたまるか」

 レオナルドは立ち上がり、フィリオラを連れてブラドール家の屋敷に向かった。

「後片付けは、ブリガドーンから帰ってきてからにしましょうか」

 辺りの惨状を見回し、リチャードが苦笑した。ギルディオスはばつが悪そうに、がりがりとマスクを引っ掻いた。

「まあ、な」

「彼らは、遠慮というとても大切な言葉を魂に刻み込んではいないようですね。かつての私のように」

 やれやれ、とラミアンはうんざりして首を横に振った。東の空から朝日が昇ると、惨状がはっきりと見えてきた。
ゼレイブの家々と畑を繋げる太い一本道は、ルージュの放った砲撃によってかなり深い穴が出来上がっていた。
それは家一軒が丸々埋まってしまうほどの深さで、うっかり覗き込んで転げ落ちれば、出てくるのは大変そうだ。
その周囲には、敵と味方が落下した際に出来た人型の穴がいくつもあり、ダニエルの念動力による抉れもある。
道沿いにあった空き家も全て吹っ飛ばされていて、折れた木材と砕けたレンガの山と化しており、無惨である。

「戦う時って、後のことを考えねぇからなぁ…」

 ギルディオスはこれから生じるであろう重労働を想像し、ため息を零した。リチャードは、顔をしかめている。

「僕らが頂こうと思っていた家も、ただの瓦礫と化しちゃってるよ。全く、やってらんないねぇ」

「やってらんねぇなぁ…」

 この場で死人が出なかっただけでも良しとしなければ、とはギルディオスは思ったが、それでも愚痴は出てしまう。
とりあえず、フィリオラの翼を持っていってやらなければ。あれほど大きな体組織を失うと、再生も追いつかない。
ギルディオスは戦塵と血に汚れた竜の翼を、慎重に持ち上げた。翼を広げると、人二人ほどの長さになりそうだ。
腰までの長さしかない赤いマントを外して傷口を覆ってやり、担いだ。切り離されても、まだ低い体温が残っている。
これなら、フィリオラの背にくっつければまた彼女の体に戻るだろう。竜族の再生能力は、恐ろしいまでに高い。
 戦場はブリガドーンに移された。その意図は掴めないが、良からぬことが起きようとしているのは確かだろう。
ギルディオスはフィリオラの翼の傷口から漂う血臭を感じ、決意を固めた。敵の考えがなんであろうと、戦うのだ。
魔導兵器三人衆が何を目論んでいようとも、その暴力の矛先が愛する者達に向かうのならば、それを遮るのみ。
 我が身を挺し、剣を振り翳し、残り少ない魂を燃やし尽そう。




 頭が痛い。そして、胸が苦しい。
 目を開くと、薄暗い天井が見えた。心地良い微睡みと抗いがたい気怠さを感じ、瞼を閉じようとして、見開いた。
底に沈んでいた意識を一気に引き上げ、飛び起きた。その勢いで、額に載せられていた濡れた布が吹っ飛んだ。
 ルージュは。フィリオラは。ヴィクトリアは。皆は。戦闘は。ブラッドは急いで目線を動かすが、外ではなかった。
見慣れた、屋敷の居間だった。一角にあるソファーに寝かされていたらしく、腹の上には掛布が掛けられていた。
居間の扉が開いたので反射的に振り向くと、キャロルが入ってきた。その手には、水を張った洗面器があった。

「大丈夫ですか、ブラッド君?」

「オレ…」

 ブラッドは状況が今一つ把握出来なかったが、必死に記憶を手繰り、青ざめた。

「そうだ、ルージュ! フィオさんは、ヴィクトリアは、禁書は、大丈夫なのか!」

「それが…」

 キャロルは洗面器をテーブルに置くと、ブラッドの傍に落ちていた濡れた布を拾って洗面器に浸し、絞った。

「ヴィクトリアさんは、ロイズ君と一緒に攫われてしまったんです。魔導兵器三人衆に」

「え…」

 その言葉に、ブラッドは絶句した。キャロルの横顔は、不安げだった。

「禁書と引き替えに返してやるからブリガドーンに来い、だそうで。リリさんも、ブリガドーンにいるんだそうです」

 洗面器の傍には、ヴィクトリアが大事にしていた禁書が四冊積み重ねられている。

「なんで、そんなことに」

 ブラッドが呆然としながら呟くと、さあ、とキャロルは視線を彷徨わせた。

「私にはよく解りません。リチャードさんが来るまで、ずっとお屋敷の地下室に隠れていましたから。でも、皆さんの話だと、戦闘が始まった当初はある程度は優勢だったんですが、ルージュという名の魔導兵器が急に暴れ出したせいで、一気に劣勢になってしまったんだそうです。それから後はもう、三人衆がやりたい放題だったんだそうです。ですから、皆さんが大して反撃出来ないうちに子供達を攫われてしまったんですって」

「どういう、ことだよ」

 ブラッドが僅かに声を震わせると、キャロルは目を伏せた。

「ですが、それが事実なんです」

 心臓を鋭利な刃物で抉られたような痛みが起きた。脳裏に過ぎったのは、二度目に会ったルージュの姿だった。
あの時、彼女はなんと言っていた。ブラッドと会う前に、一人で何かを叫んでいた。有り得ない。お前のことなど。
それを好意的に解釈したことは、幾度もある。下らない想像だ、年頃の男につきものの妄想だ、と自分で笑った。
 彼女が照れた理由が自分だと、自分であればいいと何度も思いを巡らせ、何度も振り切り、何度も蘇ってきた。
万に一つの可能性があったとしても、有り得るはずのないことだと思って忘れようと思っても、忘れられなかった。
 本来、あるはずがない。気高くも美しい鋼の女吸血鬼、ルージュがブラッドに気を寄せているなどということは。
だが、ヴィクトリアと一緒にいたところを見た途端にルージュが攻撃的になったことを含めて考えれば、変わる。
それは、嫉妬ではないのか。ルージュは、ヴィクトリアに妬いたから攻撃したのではないか。だとすれば、彼女は。

「そんなわけ、ねぇよな…」

「何がですか?」

 キャロルに聞き返され、ブラッドは顔を逸らした。

「なんでもねぇよ。で、父ちゃん達はどこにいるんだ?」

「ああ、ラミアンさんなら、ギルディオスさんと一緒に屋敷の裏手にいます。蒸気自動車の調整を行うとかで」

「フィオさんは、大丈夫なのか?」

「あ、はい。傷はかなり深かったですけど、切り落とされた翼もくっついたので、時間は掛かるけど回復しそうだってアンソニーさんが言っていました。今は、ジョーさんが付きっ切りで看病していますよ。他の皆さんは、出撃するための準備を」

「父ちゃんのところに行ってくる」

 キャロルが引き留める声が聞こえたが振り切り、ブラッドは居間を出た。だが、少し歩いただけで頭がふらつく。
壁に手を当ててじっとしていると、目眩が落ち着いた。ブラッドは深呼吸をしてから歩き出したが、また足を止めた。
今度は、目眩ではなかった。どうしようもないほどの嬉しさと、それを嬉しいと感じてしまう自分への嫌悪からだ。
 ルージュに妬かれた。それのどこが嬉しいのだ。ルージュが暴れた原因を、ひいては敗因を生み出しただけだ。
そのせいでヴィクトリアとロイズが攫われ、戦いが始まってしまった。本来なら、戦い合う必要のない相手同士で。
嬉しく思っていいはずがない。嬉しいなど感じるわけがない。だが、いくら否定を繰り返しても、感情は弱まらない。

「やってらんねぇよ」

 ブラッドは自虐し、口元を歪めた。

「あんな女の、どこがいいんだよ」

 ルージュ・ヴァンピロッソ。女性型人造魔導兵器。吸血鬼であった女。美しい女。強い女。そして、惚れた女。

「どうしてこう、オレは馬鹿なんだ」

 妬かれた。それはつまり、好かれているということになる。もしもそれが妄想ではなく真実ならば、戻れなくなる。
ブラッドの片思いだけであったなら、いつか忘れることの出来た恋だ。馬鹿だったと笑い飛ばせるような恋になる。
だが、ルージュの思いがこちらに向いているとなれば、訳が違う。目を逸らそうと思っても、彼女を見つめてしまう。
 もしもまた目線が交われば、もしもまた言葉を交わしたならば、もしもまたルージュが目の前に現れたのならば。
きっと、心の底から惚れてしまう。ブラッドは壁にもたれると、自虐的な笑いを頬に貼り付けたまま、項垂れた。
 こんな時に、何を考えているのだ。愛しい者達の一大事に、自分の恋の心配などしている場合ではないのに。
廊下の窓から、鋭い朝日が差し込んでいる。晴れやかなはずの朝焼けの光景が、今日ばかりは毒々しく感じた。
 破滅は、夜明けと共に訪れた。




 人ならざる者の平和な日々は、魔導兵器三人衆の手によって砕かれる。
 綻びは傷を生み、過ちは絶望を招き、恋心は判断を迷わせる。
 永遠に続くと思われた平穏が失われた後に、始まるのは。

 苛烈な、戦いなのである。







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