ドラゴンは滅びない




出撃前夜



 ブラッドは、鏡と向き合っていた。


 鉱石ランプの淡く青い光を浴びた長身の青年が、年代物なので鏡面が少々歪んでいる姿見に映り込んでいる。
足元近くまである長く黒いマントを羽織り、同じく黒の上下を身に付け、やはり黒の革靴を履いている自分の姿だ。
仕立ての良い白いシャツの襟元には赤いタイを結んでおり、一見すれば育ちの良い紳士の正装のようであった。
だが、この格好はそんなものではない。吸血鬼が闇夜に身を潜め、人の生き血を啜るための格好なのである。
言うならば、狩りへ向かうための服装だ。相手に警戒心を抱かせないために用いる、体のいい道具に過ぎない。
 マントの端を掴んで体を覆ってから、マントを指から離した。革靴のかかとを鳴らしながら身を翻すと、闇も舞う。
ブラッドの動きに合わせて広がったどす黒い闇は、ブラッドが鏡の正面で止まると、ふわりと背中に降りてきた。
鏡に映る横顔は、強張っている。ブラッドは片膝を付いて胸の前に手を置き、うやうやしげな仕草で頭を下げた。

「麗しき鋼の貴婦人」

 ブラッドは思いを寄せる彼女に向けて、言葉を並べた。

「その瞳は紅玉よりも深く、その肌は絹よりも滑らかで、その髪は夜空に渡る星の運河よりも美しい」

 瞼の裏には、ルージュの冷徹な表情が蘇る。

「あなたの腕は全てを貫く光を生み出し、あなたの眼差しは全てを凍らせるほど冷ややかで、あなたの声は鈴の音のように澄み切り、あなたの力に屈さぬ者はございません」

 項垂れていた頭を上げ、ブラッドは唇を歪めて牙を剥いた。

「この私も、屈した一人にございます」

 ルージュ。鋼の女。魔導兵器。思いを寄せてはならない相手。

「これから私めは、人ならざる同胞と共に、あなたがおられる天空の山へと向かう次第にございます」

 一度目は心を奪われた。二度目は想った。三度目は愛してしまった。

「あなたが私めに下さった火傷は未だ癒えておらず、私めの心を焼け焦がせております」

 片膝を床に着き、ゆっくりと右手を前に差し伸べる。

「次にお会いする時は」

 その右手を握り締め、床に力一杯振り下ろした。

「あなたの魂を、喰らって差し上げましょう!」

 結末は、それしかない。

「なあ、ルージュ。その方が楽になるよな? オレも、お前もさ」

 ブラッドはいつも通りの口調に戻るとベッドに腰掛け、窓の外を見上げた。夜空では、無数の星が瞬いている。

「どうせ、報われねぇ恋なんだ。いっそのこと、木っ端微塵に玉砕しちまった方がいいんじゃね?」

 夜は、ブリガドーンの姿は見えない。太陽と月では圧倒的に光量が違うので、遠方のものは闇に包まれてしまう。
今頃、ルージュはどうしているのだろう。ブリガドーンに帰還し、三人の子供と二体の仲間と共にいるのだろうか。
或いは、夜空を見上げているのか。または、休んでいるのか。その思考に、少しでも自分が在ればなんと幸せか。
苛立ち紛れに思い出すどうでもいい記憶でもいい、夢うつつに見る現実の切れ端でもいい、覚えていてくれれば。
だから、妬かれた、などというのはただの妄想だ。ブラッドが勝手にこじつけたことであり、それは事実とは違う。
 ルージュはブラッドに殺意を抱いている。邪魔者だと考えている。だから殺そうとした。そう考えるのが自然だ。
殺意を持たれる理由としては、禁書の一件に違いない。彼女の仕事の邪魔をしたから、鬱陶しがられているのだ。
殺意を向けられるのならば、それに真っ向から答えよう。ブラッドとて、半分は人間でもれっきとした吸血鬼族だ。
並みの人間よりも遥かに強い。ただ殺されてしまっては、吸血鬼の名折れだ。戦って戦って、戦い抜いてみせる。

「あーあ」

 ベッドに仰向けに横たわり、頭の後ろで手を組んだ。

「なんでオレ、あんなタチの悪い女に惚れちまったんだろうな」

 ブリガドーンへ戦いに向かう理由の最も大きなものは、当然ながら、リリとロイズとヴィクトリアの救出である。
だが、もう一つの理由がだんだんと膨らんで熱を帯びてくる。ブリガドーンに行けば、ルージュに会えるからだ。
会えると行っても、世間一般の男女のように待ち合わせて愛の言葉を交わすような、穏やかなものではない。
会った途端に、二人は攻撃を放つだろう。言葉の代わりに魔力を撃ち合い、微笑みの代わりに殺意を向け合う。
 それでもいい。会えるのなら、なんでも構わない。ブラッドはつくづく自分が重傷だと知り、自嘲気味に笑った。
初めての恋にしては、随分と障害が多く敵も手強い。だが、そうこなければやりがいがない、とも思ってすらいた。
目の前に転がる様々な障害を手当たり次第に打ち砕いて彼女の元へ辿り着き、その心を手に入れてしまいたい。
ルージュの体に血が流れているとしたら、迷わずに首筋に牙を突き立てて、彼女の血を啜り上げていただろう。

「喰いてぇよ、本当に」

 ブラッドは迫り上がってくる吸血の衝動を抑え込もうとしたが、出来なかった。強烈な飢えが、喉を焼け付かせる。
彼女の血は、どんな味がするのだろうか。同族の血は、父親のラミアンのそれも舐めたことがないので解らない。
人間の血は少し渋く粘り気があり、竜族の血を引くフィリオラの血は濃厚で強く、動物や家畜の血は喉越しが良い。
きっと、ルージュの血の味はそのどれにも当て嵌まらない。舌の上に作り上げた想像の味は、甘く、優しかった。
 堪えきれず、喉を鳴らして唾を飲み下してしまった。ブラッドは急に沸き上がった彼女への欲情を、持て余した。
適当な血でひとまず吸血衝動を抑えよう、と起き上がってみたものの、ルージュの姿がちらついて頭を離れない。
特に、湖で会った時のものが多い。湖水を全身に浴びていて、大きな胸や艶やかな太股に水を滴らせていた。
滑らかな銀色の肌に湖水が伝っている様はいやに官能的で、たまにではあるが、夢にも出てきてしまうほどだ。

「あー、くそー」

 そんなことを考えている場合ではないのに。ブラッドは再びベッドに寝転がり、身悶えた。

「誰かオレを殺せぇー…」

 他のことを考えて気を紛らわそうとしても、思い出すのはルージュのことばかりで、それ以外は思い付かない。
こんなにも気が立ってしまうのは、母親のジョセフィーヌが振る舞ってくれた豪勢な夕食のせいかもしれない。
普段は食卓に上らない羊の柔らかい肉を貴重な香辛料で味付けし、酒も振る舞われ、量もたっぷりと多かった。
ブラッドも酔えはしないが飲めるので酒は飲んだし、肉料理は好きなのでここぞとばかりに目一杯詰め込んだ。
それは、戦いで死ぬかもしれない男達への贈り物であり、ジョセフィーヌなりの励ましだと解り、少し物悲しかった。
 今まで、ブラッドは残される立場だった。十年前の出来事の際は、まだ十歳の生意気な少年でしかなかった。
戦おうにも満足な力を持っていないので戦えず、常に誰かから守られる立場であり、それが非常に歯痒かった。
だが、今回は違う。ブラッドの体は大きくなり、魔力量も格段に増え、魔導師としても吸血鬼としても成長した。
 今、戦わねば絶対に後悔する。リリ達を助けに行かなければ、そして、ルージュと戦い合わなければ、きっと。
ブラッドは天井を睨み付けていたが、目を閉じた。まともに戦うのは初めてだ。恐ろしいが、逃げてはいけない。
 この恋を、貫くためにも。




 ブラドール家の屋敷の客間で、フィリオラが俯せに眠っていた。
 その背からは一対の翼が生えているが、右側の翼の付け根には包帯が何重にも巻かれて添え木がされていた。
裸身の上半身と翼の根本は薄い掛布に覆われていて、彼女の静かな呼吸に合わせて翼はゆっくり上下していた。
フィリオラの翼の再結合は、翼が切り離されてからあまり時間が経たないうちに繋げたので、今のところは成功だ。
だが、フィリオラ自身の体力と魔力が消耗しているので気を抜けない。下手をすれば、繋がった翼が腐り落ちる。
翼がダメになってしまっては、フィリオラは、翼を成すために使った肩胛骨や背骨の一部や背筋も失ってしまう。
竜族の血を引く彼女は再生能力こそ高いが、一度失ったものを補填するためにはかなりの時間が必要になる。
 このまま、元通りにくっついてくれ。そう願いながら、レオナルドはベッドに俯せになっている妻の傍に座った。
手を伸ばし、右の翼にそっと触れてみた。爬虫類の皮が張り詰めている翼は、ほんの少しだが反応し、動いた。

「あ…」

 すると、枕に顔を埋めていたフィリオラが顔を上げた。レオナルドは、手を下げる。

「悪い、起こしたか?」

「感覚、戻ってきました。さっき、骨がちゃんと繋がったから、神経もきっと」

 フィリオラは虚ろな目をしていたが、レオナルドに焦点を合わせた。ん、と眉間をしかめて背中に力を込める。
だが、翼は動かず、フィリオラの額からは脂汗が滲み出た。フィリオラは深く息を吐くと、ぐったりと力を抜いた。

「まだ、ダメみたいです…」

「無理はするな」

 レオナルドは布を取り、フィリオラの汗を拭ってやった。フィリオラは、情けなさげに呟く。

「ごめんなさい、レオさん。私が無茶をしたばかりに、こんなことになってしまって。小父様に止められたんですけど、私も無闇に突っ込んじゃいけないって頭では解ってはいたんですけど、収まらなかったんです。あの鳥の魔導兵器がリリのネッカチーフを付けていたのを見たら、あれにリリは連れ去られたんだって思ってしまって。どうにも、抑えが効かなくなってしまったんです。なんとか竜には変化せずに済んだんですけど、変化をしたのは久々でしたから、竜の力を上手く制御出来なくて、負けちゃいました。弱いですね、私は」

「馬鹿が」

「もっと、怒ってくれてもいいんですよ。そうじゃないと、私の気が済みません」

「怒るわけがないだろう。弱っている時にいたぶったところで、面白くもなんともないからな」

 レオナルドがにやりとすると、フィリオラは顔を横に向けてレオナルドを見上げてきた。

「レオさん」

 フィリオラが上体を起こそうとしたので、レオナルドは身を屈めて近寄った。

「なんだ」

「ついでに言えば、抱いてくれてもいいんですよ? 傷は痛みますけど、出来ないこともないですし」

「馬鹿」

 レオナルドは指を立て、フィリオラの額を弾いた。

「お前がそこまで無理をする必要がどこにある」

「だって…」

 フィリオラは弾かれた部分を押さえ、拗ねたように目を逸らした。

「私、何も出来ないんですもん。レオさん達がブリガドーンに戦いに行くって言うのに、お料理も作れないし、準備のお手伝いも出来ないし、寝ているだけなんて悔しいんです。だから、今の私にも出来ることって何かなって思ったら、それだけだったんです」

「お前らしくないことを言うな。まあ、帰ってきたら、足腰立たなくさせてやるつもりだがな」

 レオナルドはフィリオラの細い顎を掴むと、顔を近付けた。フィリオラは、少し身を乗り出す。

「スケベ」

「どっちがだ」

 レオナルドはフィリオラの唇を塞いだ。舌を滑り込ませて彼女の口に入れ、歯をなぞると牙が少し伸びていた。
元に戻すために翼を出しっぱなしなので、他の部分にも影響が出ているのだ。細い肩に腕を回し、抱き起こす。
服を着ていないので、少し冷えているすべすべした肌の感触が手や胸に伝わり、控えめな乳房が胸に当たる。
しばらく唇を味わってから離し、細い首筋に唇を当てて舌を這わせた。ん、とフィリオラはレオナルドの肩を掴む。

「結局、その気なんじゃないですかあ」

「前哨戦だ。ちゃんと手加減してやるから、安心しろ」

 妻の首筋から顔を上げ、レオナルドは笑った。フィリオラは、血の気の失せた頬を紅潮させる。

「言うんじゃなかった…。あんなこと、言うんじゃなかったよお…」

「もう遅い」

 レオナルドが低く笑い声を漏らすと、フィリオラは左側の翼だけを折り畳み、身を縮めて夫の腕に収まった。

「そういえば、まだ聞いてませんでしたね」

 フィリオラはレオナルドの背に腕を回し、ぎゅっと服を握り締めた。

「レオさんって、私のどこが好きなんですか? 今度こそ、ちゃんと答えて下さいよ」

「いや、それは、別に」

 レオナルドがぎくりとすると、フィリオラは不満げに見上げてきた。

「答えてくれなきゃ、噛んじゃいますからね? 今の私はいつもより牙が長いですから、凄ーく痛いですよー?」

「…何を噛む気だ」

「そりゃもちろん、アレに決まっているじゃないですか」

 しれっと言い放つフィリオラに、レオナルドは辟易した。

「お前も性格悪くなってきたなぁ…」

「誰の影響だと思います、レオさん? 十年も付き合えば、性格も移るってもんですよ」

「解った、解ったから、噛むのはやめろ。それだけは勘弁してくれ、フィリオラ」

「じゃ、話してくれるんですね?」

「ああ。だから、絶対にアレだけは噛むんじゃない。それと、笑うなよ? お前からすれば物凄く下らないだろうから」

「あと、こっちをちゃんと見て下さい。ちゃーんと」

「解ったから、それ以上言うな」

 レオナルドは仕方なく、フィリオラと向き合った。フィリオラは意地の悪い目をしていたが、それがふと和らいだ。
傷の痛みがあるために顔色は青ざめていて表情も弱々しかったが、愛おしげにレオナルドの言葉を待っていた。
目を合わせては、照れ臭すぎて言えるものも言えない。だが、愛情の詰まった視線から目を逸らすのは惜しい。
僅かに迷った末に、レオナルドはフィリオラの目を見つめ返した。瞳孔が縦長の青い瞳には、自分が映っている。

「まあ、その、なんだ」

 レオナルドは言葉を選びながら、言った。

「今もそうだが、若い頃は呆れるほど可愛かったってのもあるし、その、お前の作るメシが旨いのもあってな」

「それだけですか?」

「他に、何があると思っていやがったんだ。それに、今更、惚れた理由なんていちいち思い出せるか」

 レオナルドが毒突くと、フィリオラは笑んだ。

「それだけ言って下されば充分です。気が済みました」

 フィリオラは体を傾けると、レオナルドの胸に顔を埋めた。

「ちゃんと、帰ってきて下さいね。一杯、お料理を作りますから」

「ああ」

 レオナルドはフィリオラの後頭部を押さえ、そのツノに口付けを落とした。

「リリと一緒に帰ってくる。だからそれまで、留守番を頼む」

 だが、返事は返ってこなかった。見下ろすと、フィリオラはいつのまにか眠ってしまい、小さく寝息を立てていた。
レオナルドは寝入ったフィリオラを抱き留めたまま、ため息を零した。この分では、今夜はお預けになりそうだ。
 最初は本当にやる気でいたのだが、その方がいい。彼女に無理をさせて、傷を深めてしまってはいけない。
フィリオラは、もうレオナルドだけの恋人ではない。リリの母親であり、ゼレイブに住まう者達の家族なのだから。
だから、一層大事にしなければいけない。竜へ変化したために腰近くまで伸びてしまった妻の髪に、指を通した。

「それとな」

 レオナルドは彼女の髪を一房持ち上げ、口元に寄せた。

「髪が長かったからってのも理由だ。短いのよりも、長い方が好きなんでな」

 手触りの良い髪を手放すのが少し惜しかったが、下手に引っ張って千切れてしまってはいけないと思い離した。
フィリオラは、戦闘の疲労と負傷による消耗からか熟睡している。レオナルドの体に、彼女の体重が掛かってくる。
妻は小柄だが、出産を経験したためと年齢が増したので多少体重が増えたようで、昔よりは少々重くなっていた。
 ベッドに寝かせ直してやろう、と思ったが、手に触れている肌が離れてしまうのが無性に惜しくなってしまった。
寝かせるのは、もう少し後でもいいだろう。レオナルドは妻を起こさないように気を付けつつ、再度唇を重ねた。
 愛する家族を守るためなら、命すら厭わない。







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