ドラゴンは滅びない




出撃前夜



 宴の後始末をしながら、ジョセフィーヌは鼻歌を歌っている。
 肉汁やソースに汚れた皿を一枚一枚積み重ねているが、いずれの皿も綺麗に舐めたように食べ尽くされている。
ラミアンからしてみれば大量の羊肉の料理やサラダやパンも、腹を減らした男達には足りないほどだったようだ。
 無理もない。早朝に訪れた招かれざる来訪者、魔導兵器三人衆との戦闘とその後の出撃準備に忙しかった。
ラミアン自身も、ギルディオスらが乗ってきた魔力機関式蒸気自動車の整備や自身の肉体の整備に終始した。
他にも、長距離移動が予想されるので保存食や水の調達、入り用かもしれない強奪品の小銃の整備などをした。
様々な種類の魔法薬も荷物に入れた。異能者達に欠かせない魔力鎮静剤や、逆作用のある増強剤も入れた。
現時点では正体不明の巨大な飛行物体、ブリガドーンを攻めるために必要であろう魔導書も、書庫から出した。
不要かもしれないが、何が起きるか予想も付かない。どこで何が役に立つか、蓋を開けないことには解らない。
 今日ばかりは、ゼレイブはのんびりしていなかった。日常生活の仕事もするにはしたが、必要最低限だった。
こんな時なのだから少しは大目に見てくれても良いはずだ、と言い訳をしながら、戦いに赴くために走り回った。
 忙しくしていると、戦いに赴くという現実と子供達が目の前で攫われたという情けない事実が少しだけ薄らいだ。
無論、薄らぐだけで失態の悔しさは消えない。ふとした瞬間に訪れる静寂に、悔しさが蘇り、じりじりと魂を焼いた。
 魔導兵器三人衆は、許せない。だが、彼らの侵入をあっさり許してしまった自分の力のなさが、もっと許せない。
ゼレイブを覆う魔力の蜃気楼は、何のために作ったのだ。何のために、その魔法の原動力を己の魂にしたのだ。
ゼレイブとその平和を命懸けで守ることが、十年前に犯した大量殺人の贖罪になると勝手に思い込んでいた。
 だが、それすらも出来なかった。丹念に作り上げた魔法は呆気なく破られ、村は破壊され、子供達は奪われた。
何のために自分が存在していたのか、何のために魂を削る覚悟をしたのか、何のために機械の体を得たのか。
ラオフーの金剛鉄槌を弾けなかった責任は、ラミアンにある。その責任を果たすためにも、今、戦わなければ。
 ジョセフィーヌは皿を片付け終わると、今度は大きな盆を持ってきて、ワインを入れていたグラスを運んでいった。
台所と食堂の往復を繰り返していたが、その手を一旦止めると、窓枠に腰掛けているラミアンの傍に近寄った。

「らーみあーんっ」

 ジョセフィーヌは、ラミアンの目の前に身を乗り出した。

「どーしたの?」

「ああ、ジョー」

 ラミアンは手を伸ばし、ジョセフィーヌの髪を撫でた。

「しばらく留守にするが、その間いい子にしているのだよ」

「うん。ジョー、いいこにするね。だから、ラミアン、はやくかえってきてね」

 ジョセフィーヌはラミアンの体に腕を回し、しがみ付いてきた。ラミアンは頷く。

「事が済んだら、真っ直ぐ帰ってくるとも。敵は厄介だが、私達やギルディオスどのが負けるわけがない」

「うん。ラミアンも、たいちょーさんも、ブラッドも、みんなみんなすっごくつよいもんね」

 屈託のない笑みを浮かべるジョセフィーヌを、ラミアンは胸元に引き寄せた。

「何か、視えたかい」

 それは、ジョセフィーヌの予知を指していた。ジョセフィーヌはラミアンの冷たい胸に頬を当て、目を伏せる。

「みえた」

「それは、どんなことなんだい?」

 ラミアンは、柔らかな口調で問い掛けた。ジョセフィーヌは腕に力を込め、ラミアンに縋る。

「あのね」

 ジョセフィーヌは、重たく口を開いた。

「かえってこない、ひとがいるよ」

 それは、誰だ。ラミアンは嫌な予感がしたが敢えて深く聞かず、ジョセフィーヌの背に手を回して抱き寄せた。
ジョセフィーヌは不安げな顔をしていたが、目を閉じた。ジョセフィーヌも、それが誰なのか言いたくないのだろう。
ラミアンも、今ばかりは予知を聞きたくはない。これから戦う相手は、これまで相手にしてきた者達とは訳が違う。
 だが、負けられない。負けてはならない。三人の子供達を奪還して、生きてゼレイブに帰ってこなくてはならない。
積み重ねた罪からは逃れられない。三人の子供を助けたぐらいで、過去に犯した罪が償えるとは思っていない。
しかし、戦わなければならない。ラミアンは仮面を付けた顔をジョセフィーヌの髪に当て、内心で目を伏せていた。
 息子の恋も気に掛かるが、押さえ付けては余計に燃え上がるのが容易に想像出来たので、何も言えなかった。
かつてのラミアンがそうであったように、恋とは不思議なもので、障害が多ければ多いほど深入りしてしまうのだ。
 今のブラッドも、そうに違いない。日が経つに連れて虚ろになる時間が増え、話し掛けても反応しない時もある。
このままでは、ブラッドはルージュに殺される。彼女とは先程の戦闘で初めて会ったが、過激な性分の女だった。
冷静に振る舞っていたが、理性のタガが緩めば主砲から力任せに砲撃を放ち、手当たり次第に物を吹き飛ばす。
仲間の存在も無視し、己の感情だけで動いていた。ある意味では、好戦的なフリューゲルより危険かもしれない。
 ブラッドとルージュを戦い合わせてはいけない。魔導師としても吸血鬼としても未熟な息子に、勝ち目はない。
ブリガドーンでは、自分がルージュと戦おう。ブラッドを死なせないためには、あの女をいち早く破壊するしかない。
ブラッドは、掛け替えのない息子だ。この世の誰よりも愛する女性、ジョセフィーヌとラミアンの血を分けた存在だ。
 彼を死なせるぐらいなら、喜んで盾となろう。




 久々に飲むワインの味は、格別だった。
 肩に頭を預けている妻は、愛おしげな手付きで下腹部を撫でている。まだ膨らんでいないが、命が宿っている。
リチャードはその仕草を眺め、目を細めた。鉱石ランプに照らされた妻の横顔は穏やかだが、悲しげでもあった。
手にしているワイングラスを傾けてワインを口に含み、味わってから飲み下した。軽い酔いが、体を温めている。
 ブリガドーンに戦いに行く、と伝えた時、キャロルは静かに涙を落とした。またなんですね、と細い声で呟いた。
十年前に、リチャードが共和国軍に徴兵された時のことが忘れられないのだ。それは、リチャードも同じだった。
あの時は、特務部隊を率いていたサラ・ジョーンズ大佐ことキース・ドラグーンの手に堕ち、魔法で従わせられた。
その結果、リチャードは魔法で大量に両軍の兵士を殺戮し、戦争犯罪人となって連合軍から追われる身となった。
十年前に始まった悪夢は、未だに終わる兆しすら見せない。いや、現実なのだから、元より終わりなどないのだ。
 二人にあてがわれている部屋は今まで一度も使われたことのなかった客間で、半ば倉庫と化していた部屋だ。
だから、部屋の隅には不要な食器の詰まった木箱や整理途中らしい本が積み重ねられ、掃除をしても埃っぽい。
テーブルに置いた鉱石ランプは、リチャードの魔力を注ぎ込んで光らせているので光量が多く、二人の影も濃い。

「本当なら、御夕食を一緒に頂きたかったんですけど、どうしても起きられなくて」

 残念そうなキャロルに、リチャードは笑む。

「仕方ないよ。まだ、君と子の体は落ち着いていないんだから」

「あの」

「なんだい」

 リチャードが尋ね返すと、キャロルは手を当てている下腹部を見下ろした。

「この子の名前、何にしましょうか」

「そうだねぇ…」

 リチャードはワイングラスを揺らしていたが、止めた。

「ウィータ。女の子ならね」

「うぃーた?」

「そう、ウィータ。別の国の言葉でね、生命って意味」

 リチャードはワイングラスをテーブルに置くと、キャロルの下腹部に優しく手を触れた。

「男だったら、別のにしなきゃならないけどね」

「私も、素敵な名前だと思います」

 キャロルはリチャードの手の上に、自分の手を重ねた。指輪を填めた薬指で、夫の骨張った指をなぞった。

「なんだか、私、凄く我が侭になってしまいそうです」

「それはまたどうして?」

 キャロルに顔を近寄せ、囁いた。キャロルは夫の手を両手で包み、握った。

「リチャードさんがどれだけの人を殺してもいいから、どうかリチャードさんだけは死んで欲しくないって思ってしまうんです。そんなことを考えるのはいけないことだって解っているんですけど、考えてしまうんです。リチャードさんは良くないことを沢山したけれど、私にとって一番大事な人ですし、この子にも父親は必要ですし、ここまで生きてこられたのだからこれからもずっと一緒にいたいんです。だから、そんなひどいことを考えてしまうんです」

 キャロルは涙で潤んだ目で、リチャードを見上げた。

「私は、残酷でしょうか?」

「そうだね」

 リチャードは、キャロルを抱き締めた。

「でも、誰だってそんなものだよ。少なくとも、僕はそう思う」

「そうでしょうか?」

「そうさ。だって考えてもみてごらんよ、ここの皆を。その状況の不自然さと、異様さを」

「え…」

 異様、と形容されてキャロルは言葉に詰まった。リチャードは体を傾け、壁に背を当てた。

「ゼレイブが異様じゃなかったら、何が異様だって言うのさ。弟夫婦もそうだけど、一番おかしいのはここの一家だ。ラミアンさんがまともすぎるからたまに忘れてしまいそうになるけど、あの人は十年前に旧王都で未曾有の大事件を起こした張本人、アルゼンタムなんだよ。歌劇場での一件はキャロルも覚えていると思うけど、あの事件での死傷者は四十人を超えているし、アルゼンタムが旧王都で殺害した人間の数は百なんてものじゃなかった。資料をちゃんと洗えば被害者の数はかなり増えたんだろうけど、国家警察の事件資料も燃えちゃっているから、今は調べようがないけどね。ジョーさんだってそうだ。あの人は今でこそああだけど、ちょっと前までは僕を始めとした罪のない兵士を弄んで蹂躙し、好き勝手に両軍の兵士を殺しては馬鹿笑いしていたサラ・ジョーンズ大佐本人さ。たとえその体にジョーさんの意志がなかったとしても、肉体はジョーさんのものなのだからジョーさん本人には違いない。その二人に愛されている息子のブラッドも、二人の過去を知りながらちゃんと家族をしている。普通では考えられないことだ」

「でも、それは皆さんがそうなることを望んだからで」

「そう。でも、望んだからと言って簡単に出来上がるわけじゃない。そうであることが不自然でないように思える空気を作り出し、そうであることが当たり前の世界を完成させ、そうであることを壊さないための防御策を張らなければ出来ない。けれど、その世界を作って保っていくためには、内側の秩序も完璧に守らなければならないんだ。誰かが異常だと叫べば、すぐに不安が蔓延するからね。その危うい秩序を滞りなく守るためには、レオとフィオちゃんは打って付けの存在だ。二人ともまともに生きていたわけではないし、まともでないことには慣れすぎてしまって感覚が大分鈍っている。だから、この世界は至極当たり前のもので、どこにでもある世界だと思っているのだろうね。実際は、こんなにもイカれた世界はここだけだし、ここ以外の場所に作ることは出来ない。ゼレイブは地形的に見ても、閉鎖的な場所だ。背後は山、手前には湖、都市部は遠く、線路も敷かれていない、挙げ句に連合軍の手も及んでいない。普通の人間さえじわじわと追い出していけば、完璧な秩序が完成する。いや、完成していたんだ。魔導兵器三人衆が襲撃するまではね」

 リチャードはキャロルの髪に頬を寄せ、心地良さそうに目を細めた。キャロルは、夫の腕を掴む。

「でも、他の住人が出ていったのは出征をしたり、大きな街に行ってしまったからだって」

「半分本当で、半分嘘だと思うな。ラミアンさんはあのフィルさんの側近をしていたんだよ、一筋縄で行く男じゃないと思うね。あの人ぐらいの腕なら公文書を偽造するのも簡単だろうし、簡単な魔法と魔法薬を使って操れば自分から外へ出ていってくれるだろう。これもまた普通に考えれば、閉鎖的で狭いけど食料事情が豊かなゼレイブを離れる利点なんてどこにあるのさ? 外へ出てしまえばいつ連合軍に襲われるかも解らないし、大きな街に行ったところで待っているのは瓦礫と死体の山だし、明日からどうやって生きていけばいいのか解らないまま野垂れ死ぬか、連合軍か他の何かに殺されるだけでしかない。少なくとも、僕は出ていかない。むしろ、出ていく方の神経を疑うよ。都市部が現存していて出稼ぎの出来る環境があるならまだしも、それらが全くないんだから」

「それは、本当のことなんですか?」

 少々戸惑いながら、キャロルは夫に問うた。リチャードはにやりとする。

「確証がないから僕の推測に過ぎないけど、十中八九そうだと踏んでいるよ。でも、言わないことにするんだ」

「どうしてですか?」

「決まっているじゃないか。僕だってね、多少イカれてても平和な世界で生きたいからだよ」

 リチャードは、穏やかに話す。

「人をどれだけ殺していても子供は欲しいし、死ぬのは嫌だし、君とずっと一緒に暮らしていたいし、食べる物に困る生活はしたくないんだ。それこそ、君以上の我が侭だ。僕だって人間だからそういうことを考えると罪悪感みたいなものはちょっとだけ感じるけど、でも欲望の方が余程強いんだ。一度失ったことがあるから、尚更にね。安心して、キャロル。残酷なのは君だけじゃない。ここに住んでいる全ての者が、残酷で非情で身勝手で独善的で、ついでに情けないんだ。呆れるくらいにね」

「それでいいんでしょうか」

「いいのかって訊かれたら、よくないって答えるしかないよ。でも、仕方ないじゃない。僕達は悪党なんだから」

 リチャードは、苦笑いを浮かべた。キャロルはあまり納得が行かなかったが、なんとなく笑い返していた。

「そうですね」

「キャロル。まだ、起きていられる?」

 リチャードに問われ、キャロルは頷いた。

「リチャードさんが戻ってこられるまでずっと眠っていたので、まだ眠たくないです」

「じゃ、どっちも眠るまで話していようか。そうすれば、少しは夜が長引くような気がするから」

 リチャードの穏やかな笑みは、陰った。キャロルは彼の不安を肌で感じ、頷いた。

「朝が来るのが、遅くなればいいですね」

 リチャードは妻の返事に嬉しくなりながらも、切なくもなった。本心で言えば、引き留めたくてたまらないのだろう。
リチャードも、本音で言えば行きたいわけがない。だが、魔導兵器三人衆が平穏を破壊したのが許せなかった。
これから我が子が産まれてくる身だからこそ、我が子を奪われた者達の痛みや辛さが手に取るように解るのだ。
 リチャードは、何を話そうかと話題を選んでいるキャロルを見下ろしていると、愛しさが胸中に込み上げてきた。
ここまでキャロルを守り切ったのだ、これから先も守っていってやりたい。そして、我が子も守らなければならない。
 愛する魔法を、戦いに使いたくはない。本来、魔法とは学問であり技術であり、ひいては芸術でもあるものだ。
しかし、それを使わなければ何もかもを失ってしまう。手の中に残ったほんの僅かな幸福が、砕け散ってしまう。
使えるものは使わなくては。利用出来るものは充分に利用しなくては。それで守れるのであれば、守らなくては。
 キャロルが身を捩ったので、リチャードは腕を緩めてやった。キャロルは恥ずかしげにしていたが、腰を上げた。
リチャードの首に腕を回して顔を近寄せ、唇を重ね合わせた。リチャードは敢えて何もせず、されるがままにした。
 キャロルは照れのせいか躊躇い混じりではあったが、舌を滑り込ませてリチャードを愛おしみ、体を寄せてきた。
リチャードは妻の背中の上で手を組むと、目を閉じた。キャロルの切なげな愛らしい喘ぎが、間近から聞こえる。
 愛しています、と囁かれ、愛しているよ、と囁き返した。キャロルは長く深い口付けを終えると、しなだれかかった。
泣き出してしまいそうな妻を支えてやりながら、リチャードは穏やかな気持ちになっている自分が不思議だった。
不安もあり、躊躇いもあり、戸惑いもあり、後悔もある。しかし、愛されていることを知っていると柔らかく溶ける。
 大丈夫。今度もまた、生きて帰ってこられる。リチャードは根拠のない確信をしつつ、妻の顔を上げさせた。
キャロルは目元から零れ落ちてしまいそうな涙を拭おうとしたが、その手を取って止めさせ、彼女の涙を舐めた。
 塩辛い、幸福の味がした。





 


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