ラミアンは、見張りに立っていた。 刃物のように鋭利な両足の爪で、石造りの十字架を鷲掴みにして直立し、屋根の上から夜景を見渡していた。 今のところ、敵影は見えない。地上にも上空にも連合軍と思しき姿はなく、魔性の存在の気配を感じることもない。 一方向だけを見続けているわけにはいかないので、時折頭を反対側に向けて、闇に沈んだ地上を凝視していた。 ひゅるひゅると吹き抜ける弱い風が、廃墟に散らばる瓦礫を寂しく鳴かせ、ラミアンのマントをかすかに揺らした。 魔導金属糸製のマントは普通の布製のマントに比べるとかなり重たいので、揺れると言ってもほんの少しだった。 頭上から注がれる月明かりが影を作り、骸骨そのものであるラミアンの影絵を傾斜のきつい屋根に落としていた。 今夜、ヴァトラス小隊が宿営地に選んだ建物は、破壊されずに残っていた建物の一つである礼拝堂であった。 魔導師教会支部の建物は魔導兵器三人衆によって既に破壊されてしまっており、ただの瓦礫の山と化していた。 他の家々も共和国戦争でやられたままになっており、生き物の気配もなく、あるのは乾燥した死体ぐらいだった。 だが、油断してはいけない。目的地であるブリガドーンに到着し、子供達を救出して帰還するまで気を抜けない。 真下に見える礼拝堂の正面の扉から、鉱石ランプの発する青白い光が零れていたが、絹糸のように細かった。 すると、その細く頼りない光が遮られ、縦に長い扉が内側から開かれた。扉の軋みと共に、重たい足音もする。 「らーみあーん」 幼い口調で呼ばれて下を見ると、礼拝堂から出てきたヴェイパーが大きな腕を振り上げていた。 「見張り、そろそろ僕の番じゃない?」 「おや、もうそんな時間か」 ラミアンは組んでいた腕を解き、身を乗り出してヴェイパーを見下ろした。巨体の魔導兵器は頷く。 「うん。だから、交代してね」 「ならば、そちらへ戻るとしよう」 ラミアンは身を傾げて、十字架の上から脱した。そのまま真っ直ぐに落下し、ヴェイパーの目の前に着地する。 曲げていた膝を伸ばして直立すると、敬礼しているヴェイパーに向けて手を挙げてから、礼拝堂の中に向かった。 正面入り口である幅広い階段の手前には、ヴァトラス小隊が移動に使っている黒の蒸気自動車が停車してある。 ゼレイブを出発してからというもの、ほぼ休みなく進んできたため、蒸気自動車の蒸気機関にも負担が掛かった。 万が一、蒸気機関が故障を起こしてしまっては、ブリガドーンに迅速に到着することが出来なくなってしまうのだ。 馬を手に入れるのが難しい今、蒸気自動車は男達の大事な足であり、引いてはヴァトラス小隊の一員でもある。 空間移動魔法を使うことは容易いのだが、それでは魔導師であるリチャードにばかり無理を強いることになる。 他の者も魔法は使えるのだが、ブラッドの魔法はまだまだ荒く、レオナルドの魔法に至ってはかなり力任せだ。 ダニエルも覚えてはいるが使った経験が少ないので精度が甘い部分があり、ラミアンもそれほど無理は出来ない。 ゼレイブを守っている魔力の蜃気楼を再び形成させてから旅立ったため、魔力は常に削られている状態だ。 距離が離れれば離れるほどその消費量は増え、魔力中枢はおろか魂も消耗させ続けていなければならない。 そんな状態で大掛かりな魔法を使っては、魂が消滅してしまう危険性が高く、そうなっては戦力が大幅に下がる。 今避けるべきは消耗だ、戦う前にくたばってどうする、と隊長のギルディオスは、何度となく皆に言い聞かせた。 我が子を攫われたという一大事に焦っているレオナルドとダニエルや、落ち着きのないブラッドを諫めていた。 その通りだと思う。一刻を争う事態であることは重々承知しているが、焦るあまりに状況を見誤ってはいけない。 ギルディオスは、他の誰よりも落ち着いていた。場慣れしているからなのだろうが、取り乱すことはなかった。 その場凌ぎの寄せ集め小隊と言えど、隊長である以上、隊員の命をその両肩に預かっていることに変わりない。 冷静さを失えば、即座に命を落とす。これから向かう場所はそういう場所なのだと、彼の態度で改めて実感する。 ラミアンは礼拝堂の扉を押し開け、中に入った。礼拝堂の奥にある祭壇の手前では、男達が車座になっていた。 ギルディオスを中心にし、レオナルド、リチャード、ダニエル、ブラッド、そして伯爵が、地図を囲んで話している。 「ここもダメ、ここもダメとなると、あーこりゃまずいなぁ」 リチャードは人差し指を伸ばし、共和国領土内の地図をなぞった。地図の傍では、鉱石ランプが輝いている。 「まともな道は、ほとんど連合軍の進行経路か補給経路になっちゃっているから、かち合うのは間違いないねぇ」 「かといって、下手に脇へ逸れると、道が悪くなって車が立ち往生してしまう」 ダニエルは胡座を掻いて腕を組み、地図を見下ろしている。リチャードは、眉を下げる。 「そうなんだよねぇ。あの蒸気自動車は連合軍からの強奪品だけど、単純な移動用であって輸送用とか戦闘用じゃないから出力がイマイチ低いんだよねぇ。僕としてはもう少し速度を上げて進みたいんだけど、機械相手に無理は言えないんだよねぇ。この顔触れじゃ、壊れても直せないしね。だけど、出来れば急ぎたい。でも、敵がわらわらいる中に突っ込めるほど重装備じゃない、と。どうします、隊長どの」 リチャードがギルディオスに話を振ると、ギルディオスは上体を反らして唸った。 「そうだなぁ…。リチャードの言うように、前を探らずにこれ以上進むのは無謀なだけだ。斥候でも出さなきゃ、どうにもならねぇ」 「セッコーって、ああ、偵察のこと?」 前のめりになり、ブラッドはギルディオスの前に顔を出した。ギルディオスは、太い腕を組む。 「そうだ。こういう時にフローレンスとかポールみてぇなのが役に立つんだが、生憎だが今やどっちも天上の住人だ。ヴァルハラの女神さんのお膝元でぐっすり休んでいる部下共を地上に引き摺り出せるほど、オレは殺生な人間じゃねぇし、だからっつってこのまま進んで玉砕するほど馬鹿じゃねぇ。ダニー」 「はい」 すかさず、ダニエルが答える。ギルディオスは顔を上げ、ダニエルを指した。 「明日から、斥候を任せる。オレ達の前を進んでくれ。連合軍を発見したら、合図して教えてくれ」 「了解しました」 ダニエルは、素早く敬礼をした。レオナルドは金属製のコップを取って水を呷り、飲み干した。 「妥当な人選だ。斥候ってのは、充分な判断力と実力がなきゃ務まらん任務だからな」 「僕達は所詮後衛だからね。魔導師なんてものは、最前線に立つと弱いんだよねぇこれが」 懐に入られたらお終い、とリチャードはちょっと肩を竦めた。地図の端を押さえていたフラスコが、ごとりと動く。 「はっはっはっはっはっはっはっはっは。魔法とは万能にて不能、長所の数ほど短所があるものなのである」 「伯爵さんは解っていらっしゃる」 リチャードは杖を抱き、頷いた。ラミアンが彼らの傍に歩み寄ると、ギルディオスが腰を上げた。 「おう、ラミアン。で、どうだった」 「今のところ、敵の気配はございません。ですが、油断ならない状況であることは変わりません」 ラミアンは胸に手を当て、深々と頭を下げた。ご苦労、との声がギルディオスから掛けられたので、顔を上げる。 鉱石ランプの光を浴びた男達の影が長く伸び、宗教画の描かれた壁やずらりと並んだ長椅子に掛かっていた。 ふと、息子に目が付いた。彼も作戦会議に参加しているはずなのだが、その視線は地図からは外れている。 一応地図を見る格好だけはしているが、目には映っていない。胡座を掻いて頬杖を付き、空虚な表情をしている。 明らかに、上の空だった。ラミアンが近付いてもまるで反応せず、他の者達の言葉も上滑りしているようであった。 「ブラッディ」 ラミアンが名を呼ぶと、ブラッドはようやく気を戻して父親に向いた。 「あ、何?」 「お前は、何を考えていたのだね」 ラミアンが静かに問うと、ブラッドは目を伏せた。 「別に」 「私の目を見て言わないか、ブラッディ。言えぬようなことでもあるまい」 「言えるかよ、こんなこと」 小声ではあったが、ブラッドは反論した。ラミアンは、ブラッドとの間を詰める。 「大方、あの女のことなのだろうが、お前が悩まずとも良い。あの女は、私が仕留めよう」 その途端、ブラッドは大きく目を見開いて父親を仰ぎ見た。 「なんだよそれ!」 「聞いた通りだ、ブラッディ。あれの相手が務まるのは、ギルディオスどのかヴェイパーか、私だけであろう」 ラミアンは、ゆっくりと首を横に振る。 「お前はもう子供ではない。それぐらいの判断は付くだろう」 ダニエルは、少々煩わしげな目で諫めてきた。 「大体、どうしてそこで怒るのさ、ブラッド? 普通だったら、感謝ぐらいしない?」 杖を肩に載せたリチャードは、ブラッドを見やる。 「あんな化け物は、早いうちに仕留めておかなきゃいけない。ブリガドーンとか連合軍とかそういうことを差っ引いて考えたとしても、そういう結論に至る。それは他の二体にも言えることで、過剰すぎる破壊力を持った連中が三体もいたらこの国はもっとごたごたしちゃう。ただでさえボロボロになっちゃっているんだから、出来ればこれ以上は勘弁願いたいよ。まあ、僕は復興が始まる前に処刑か戦死するのがオチだけどね。それに、話して解るような連中じゃなさそうだしね」 「まさかとは思うが、ブラッド。お前、あれの相手をしようとか思っていたんじゃないだろうな」 レオナルドが怪訝な顔をすると、ブラッドが目を逸らしたので、レオナルドは呆れ混じりにため息を吐いた。 「だったら、お前はとんでもない馬鹿だ、ブラッド。ルージュとかいう魔導兵器に思い入れるのは結構だが、それだけにしておけ。どう見積もっても、お前の実力ではあれには勝てない。オレもだがな。死にたくなかったら、魔導師らしく後方支援に回ることだ。惚れた女に少しでも近付きたい気持ちはオレにも解らないでもないが、それは今やるべきことじゃない。事が終わったら、あの女を口説くなり噛むなり押し倒すなりすればいい。だが、今だけはやるな」 「はっはっはっはっはっはっはっはっはっは。貴君の思い上がりで誰か死んだ場合に、貴君はその責任を取れるというのかね? 第一に、貴君はこの中でも最も経験が浅い。魔導師としての腕も足りなければ、戦闘経験もないのである。すなわち貴君は従わされる立場の存在であり、それは貴君の暴走を抑制するためでもあるのである。無用な犠牲を避けるためにも、私情を押し殺すのが戦闘員というものである。それが解らなければ、貴君だけでも帰るが良い。戦いに持ち込むべきは武器と戦意であり、恋情ではないのである」 伯爵の長々とした語りが終わったと同時に、ブラッドは立ち上がった。 「そんなこと、言われなくても解ってんだよ」 「ならば、なぜラミアンに噛み付く必要があるのかね?」 煽り立てるように、伯爵は口調を上擦らせる。ブラッドは黒いマントを翻し、彼らに背を向ける。 「どうだっていいだろ、そんなの!」 「いや、良くねぇな」 今まで黙っていたギルディオスが、不意に声を張り上げた。ぎしりと膝関節を軋ませながら、立ち上がる。 「ラッド。レオの言う通りだとしたら、オレも色々と言っておかなきゃならねぇことがある。違うんだったら、ちゃんとそう言ってくれ。だが、そうじゃねぇんだったら、覚悟しておけよ」 「ブラッディ」 ラミアンはブラッドの背後に近寄る。ブラッドは誰とも目線を合わせないようにしていたが、顔を歪めた。 「…うるせぇな」 「ラッド!」 空気が震えるほどの声量でギルディオスは叫び、ブラッドの両肩を強く掴んで向き直らせた。 「ちゃんと答えろ、ラッド!」 「言ったって、解るわけねぇだろうが!」 ブラッドはギルディオスの手を振り解き、ギルディオスに負けぬほどの声を上げた。 「あの女がやばいのはオレだってよく解ってる、解ってるはずなんだ! でもな、自分でも訳解らねぇくらいにあの女が気になってどうしようもなくて、頭がおかしくなっちまいそうなんだよ! あの女のことは、オレに決着を付けさせてくれよ! そうしねぇといけねぇんだ!」 叫ぶだけ叫んで息を荒らげたブラッドは、ギルディオスを睨み上げた。 「ルージュはオレが殺す! 誰も邪魔しないでくれ、これはオレの問題なんだ!」 「生意気言いやがって」 ギルディオスは辟易したように首を振ってから、ラミアンに向いた。 「ラミアン、後は任せる。但し、やりすぎるな」 「それでいいんですか?」 若干戸惑い気味に、レオナルドが言った。ギルディオスは両手を上向け、肩を竦める。 「お前らにも、ちったあ身に覚えがあるだろうが。一度女に目が眩んじまうと、なかなか目が覚めねぇんだよな。外野がどうこう言ったって、聞こえやしねぇ。だが、身内の声ならちぃとは届くだろうし、何より言わねぇよりはマシだ」 「ああ、若気の至り、ってやつねえ。僕にも思い当たる節はないわけじゃないけど」 苦笑したリチャードは、ねえ、とレオナルドに向いた。レオナルドは、兄の目線から顔を逸らした。 「まあ…な」 「ないわけでは、ないが」 ダニエルもまた、眉根を歪めていた。ギルディオスは二人に背を向けると、手を振った。 「オレらは作戦会議の続きをやる。お前らの続きは、外でやってくれ。じゃねぇと寝床がなくなっちまう」 「心得ております」 ラミアンはギルディオスの背に再び頭を下げた。姿勢を戻すと息子に向き直り、仮面の奥の瞳で見据えた。 「ブラッディ。表へ出たまえ」 「言われなくたって、出てやるよ」 ブラッドは黒いマントと上着を脱ぎ捨てて長椅子に放り投げると、シャツの襟を緩めてタイも引き抜いてしまった。 ラミアンが咎めるよりも先に、ブラッドはシャツも脱いでしまうと、背中の皮を肩胛骨で押し上げ、骨を軋ませた。 皮の内側、肩胛骨の付近から迫り出してきた細長い骨は、背中の皮膚を引き延ばしながら次第に伸びていく。 二本の細長い骨が生え揃うと、その先端から更に細い骨が三本ずつ生えて下へ伸び、その間に皮が張った。 皮が広がり厚みを増すのと同時に薄い体毛が生え、コウモリのそれに似た白銀色の翼が一対出来上がった。 ブラッドは爪も伸びた指先を曲げ、関節を鳴らした。横目に父親を窺うと、ラミアンはじっとこちらを見ていた。 怒っているのか、それとも呆れているのか。だが、そんなことはどうでもいい。力が有り余って、仕方ないのだ。 無事に進めていることは良い。それは何よりだ。しかし、戦うために出てきたのにその相手がいないと溜まる。 ルージュと戦って勝てる自信など微塵もない。実戦経験がないことは事実であるし、魔法が荒いのも解っている。 彼女と真正面から戦えば、一撃も当てられずに負けるだろう。だが、戦いたい。そうしなければ、いけないのだ。 ルージュに対する愛情がねじ曲がった末に溢れ出す戦意は、止まるところを知らず、衝動にすらなっていた。 生まれて初めて、誰でもいいから戦いたいと思った。少しでも外に吐き出さなければ、破裂してしまいそうだった。 だが、敵がいなかった。そのせいもあって日に日に衝動は蓄積し、押さえ込むのに気力と体力を消耗するほどだ。 だから、丁度良い。相手が父親であろうとなんであろうと、構うものか。落ち着くことが出来るなら、それでいい。 体内で、吸血鬼の血が滾るのを感じた。 何が始まるのだろう、とヴェイパーは内心びくびくしていた。 礼拝堂から出てきたラミアンとブラッドは雰囲気がかなり険悪で、ブラッドに至っては背から翼を生やしている。 ラミアンもまた、両手をだらりと下ろして爪を広げている。どちらも、戦闘を始められるようにしているようだった。 礼拝堂の中が騒がしいと思っていたが、ケンカでもしたのだろうか。だとしたら、止めなくてはいけないと思った。 二人は無言のまま歩き続け、廃墟の街の中でも瓦礫が割と少ない広い場所に出ると、ようやく立ち止まった。 ヴェイパーは見張りの立ち位置から離れないように気を付けながら、ラミアンとブラッドに向け、声を張り上げた。 「ねえ、二人共、どうしたの!」 「邪魔すんじゃねぇ、ヴェイパー!」 ブラッドから怒声が返され、ヴェイパーはぎょっとした。 「え?」 なんだか、ブラッドらしくない。目付きも殺気立っていて、ヴェイパーを貫かんばかりに睨み付けてくる。 「え、えっと…」 ヴェイパーが言葉に詰まっていると、礼拝堂の扉が開き、ギルディオスが出てきた。 「ヴェイパー、あいつらのことは放っておけ。命令だ」 「ですけど、少佐」 ヴェイパーが振り向くと、ギルディオスは正面玄関の階段に腰を下ろして足を組んだ。 「命令だ」 「了解」 二回も繰り返されては、従わないわけにはいかない。ヴェイパーが敬礼すると、ギルディオスは頷いた。 「お前もよーく見とくんだぞ。若いってのは、こういうことなんだ」 「それって、どういう意味ですか?」 ヴェイパーは、首をかしげた。ギルディオスは膝の上に肘を載せて頬杖を付き、剣を担いだ背を丸める。 「要するに焦れてんだよ、ラッドは。ちゃんとガス抜きしてやらねぇと、変な方向に暴発しちまうからな」 ほれ始まるぞ、とギルディオスは左手で広場に立つ二人を指した。ヴェイパーもそれに従って、そちらに向いた。 ギルディオスが何を言いたいのかちゃんと理解出来ていなかったが、それでもなんとなく掴めたような気はした。 つまりブラッドは、過熱しているのだ。冷却装置が上手く働いておらず、蒸気の噴射口も開いていないのだろう。 彼の場合は、それが蒸気ではなく感情なのだ。たぶんそういうことなんだ、とヴェイパーは自分なりに納得した。 吸血鬼の親子の戦いは、既に始まっていた。 07 6/16 |