遂に、戦いが始まった。 「我が名は、ルーロン」 本島の連合軍基地より放たれた砲弾が、ブリガドーンに接する直前で弾かれ、爆砕する。 「永き眠りより、今、目覚めん」 一列に並べられた高射砲が火を噴き、追撃を行ったが、その砲弾はただの一つも届かなかった。 「愚かしい。小賢しい。…苛立たしい」 砲弾がブリガドーン下部の岩盤へ触れるかと思われた瞬間、空間が歪む。そして、呆気なく軌道が曲がった。 発射したままの勢いを保ったまま反転した砲弾は、高射砲へと向かい、巻き戻すようにして砲口に吸い込まれた。 高射砲兵が逃げる間もなく高射砲は内部から爆発し、その周囲に配置されていた後続の砲弾を巻き添えにした。 指揮官が追撃を命じるが、有り得ない出来事の動揺した兵士達の混乱は、そう簡単に収まるものではなかった。 統率の乱れた地上部隊の代わりに艦隊が攻撃するも、全く同じことが起こり、あっという間に二隻がやられた。 炎に包まれた軍艦からは水兵達が逃げ惑い、次々に海に飛び込むが、落ちた場所に船体が崩れ落ちてきた。 戦闘を開始して間もないにも関わらず、辺りには無惨な死体が山ほど転がり、焦げ臭く、生臭い匂いがしていた。 かつての魔導師協会本部であった廃墟に、白ネコが座っていた。澄んだ青の目は、じっと戦場を見つめていた。 魔法が施されているおかげで崩れ去らなかった壁の一番高いところにちょんと腰掛けて、この戦いを眺めていた。 絶え間なく爆発が起き、爆風が発生する。そのたびに熱の固まりがぶわっと通り抜け、長いヒゲが縮れてしまった。 「あんれまぁ、なんて熱ですかい」 ヴィンセントは前足で縮れたヒゲを撫で付けながらも、状況を楽しんでいた。 「さあて、どうなりやすかねぇ」 こつ、と硬い足音が背後から聞こえた。ヴィンセントが振り向くと、崩れた壁の上に二人の軍人が立っていた。 それは、アレクセイとエカテリーナだった。相変わらず無表情な二人を見上げたヴィンセントは、目を細めた。 「お二人も、戦闘準備をしておいた方がよろしゅうごぜぇやすよ。じきに出番が来やすからねぇ」 だが、二人は一言も答えることはなく、爆発と共に生じた激しい炎に包まれている連合軍基地を見つめていた。 ヴィンセントはレンガで組まれた壁の上に横たわると、二股の尾をぱたぱたと振った。なかなか面白くなってきた。 大地と海を揺るがす、低く重たい声が響いている。ルーロンと名乗る者の声は、ブリガドーンから聞こえていた。 声がするたびに壁がびりびりと震え、空気が張る。声には恐ろしいまでの魔力が含まれ、耳を塞いでも無駄だ。 感覚そのものに語り掛けているから、頭でも吹き飛ばさない限りは聞こえ続けてくる。そう、これは呪いなのだ。 禍々しき呪いだ。 その名を聞いた瞬間、皆が皆、戦慄した。 ルーロン・ルー。遥か昔に死したはずの呪術師。大魔導師たるヴァトラ・ヴァトラスと敵対していた、古の魔導師。 魔導を志した者ならば一度は聞いた名であり、グレイス・ルーと一度でも関わったのならば魂に刻まれる名だった。 地震のように激しく重たい、抗えない声が続いている。そのたびに感覚が揺さぶられ、魂すらも圧倒されそうだ。 その声が止むまで、皆が皆、体が竦んで動けなかったが、ヴァトラス小隊の面々は自身を叱責して奮い立った。 だが、状況は敵も同じようだ。ルージュは目を見開き、ラオフーは頭を押さえ、フリューゲルは立ち尽くしている。 何が起きたのか解らない、とでも言いたげな様子で、三人の目は砲撃を受けているブリガドーンを凝視していた。 「ルーロン、だと?」 最初に声を発したのは、ルージュだった。 「だが、そんなことは、一度も」 「じゃが、あの女ならやりかねんのう」 ラオフーは、ええいやかましい、と頭を振った。フリューゲルははっと意識を戻し、ばたばたと羽ばたいた。 「それってやばいのか、それってどんなのなんだ、ルーロンってなんだ、なあ!」 「疑問は尽きないが、状況がますます悪くなったのは確かだな。ごちゃごちゃしすぎてる気もしねぇでもねぇが」 苦々しげにギルディオスは漏らしたが、すぐに切り替えてバスタードソードを振り翳して声を張り上げた。 「全員、直ちに戦闘を開始しろ!」 「了解、隊長どの!」 真っ先に飛び出したのは、ブラッドだった。翼を広げたブラッドは真っ直ぐにルージュへ向かい、掴み掛かった。 「ちょっと海水浴に付き合ってもらうぜ!」 ルージュが抵抗するよりも前に、ブラッドは大きく羽ばたいて押し切った。不安定になった足元が揺らぎ、倒れる。 そのまま、二人の姿は海面に飲み込まれて水柱が上がった。ラミアンは頷いてから、力強く、地面を踏み切った。 「ならばこちらも、命を削り合うといたしましょう!」 視界の隅で、ヴェイパーとギルディオスがラオフーに向かう様を確認してから、もう一度踏み切って加速した。 向かうは、フリューゲル。真正面にいるフリューゲルが飛び立とうと膝を曲げた瞬間に、その顔を鷲掴みにした。 ぐげっ、と驚いた声を漏らしたフリューゲルの頭を力一杯握り締めたラミアンは最大限の力で地を蹴り、跳ねた。 ここでは戦闘を行うには狭い。他の者達が傍にいては遠慮してしまうし、何より味方同士でぶつかる危険もある。 ひとまず、距離を開けなければ。ラミアンは廃墟の港町の上空に浮上してから、フリューゲルの頭を放り投げた。 勢い良く投げ飛ばされたフリューゲルが一回転して姿勢を整えようとした瞬間、その背に回り込み、蹴りを入れた。 「はっ!」 フリューゲルは中途半端に腰を捻った状態で、落下した。直後、真下の建物が砕け散り、粉塵が舞い上がった。 ラミアンはフリューゲルを落とした場所へ向けて、降下を始めた。銀色のマントに風を孕ませ、方向を調節した。 地上が近付いてきた頃、瓦礫の中から閃光が迸った。ラミアンが身を翻した瞬間、無数の魔力弾が飛び抜けた。 魔力弾は朝靄の残る空気を切り裂き、炸裂した。すると、その魔力弾が放たれた場所から、銀色の影が現れた。 「くけけけけけけけけけけけっ!」 理性の欠片もない叫声と共に、フリューゲルはラミアン目掛けて飛んできた。 「痛くも痒くもねぇんだよこの野郎っ!」 「そうかもしれないな。だが、速いだけでは」 ラミアンはフリューゲルの突撃を避けると、ぐにゃりと姿勢を歪めた。 「勝てるワケがネェンダヨォオオオオオオオッ!」 仮面の前に突き出された三本指の拳を右手で受け止め、左手の爪を大きく開き、鳥の顔面へ振り下ろした。 「うけけけけけけけけけけっ!」 激しい火花を飛び散らせながら顔の前面を切られたフリューゲルは、思わず顔を押さえて後退した。 「何しやがんだてめぇこの野郎! ていうか何なんだよ、てめぇは!」 だが、銀色の骸骨の姿は消えていた。どこへ、と辺りを見回そうとすると、フリューゲルの頭に重みが掛かった。 後頭部に、ぎぢりと爪がめり込む。フリューゲルが振り払おうとすると、すぐ目の前に仮面の付いた顔が現れた。 それは、背後からだった。銀色の骸骨は器用にフリューゲルの背に乗っていて、頭と首をきつく握り締めていた。 「うくくくくくくくく。聞きテェーカァー聞かセテヤロウカァー聞きヤガレッテンダヨォオオオオオ!」 フリューゲルよりも甲高く、狂気が滲み出た叫びだった。銀色の骸骨は、不気味な笑みの仮面を近寄せる。 「オイラの名はアルゼンタム! 超イカして超イカれた超超超ヤバすぎの旧王都の殺人鬼ィイイイイイイイ! 解ったンナラァその足りネェ頭に叩き込ンドケッテンダヨォオオオオオオ!」 「あ、あるぜ、んたむ?」 あまりにも甲高い声を至近距離で喚かれたため、フリューゲルは聴覚が痺れてしまい、反応が遅くなった。 「オウサオウサネオゥイエェエエーッ!」 「え、だけど、てめぇ、さっきまでスカした野郎だったはずじゃ」 「ハッハッハッハァーン。ラミアン・ブラドールってぇのハナァー、まともな方のオイラダァー。アルゼンタムってぇのはナァー、まともジャネェイカレポンチの人喰い野郎、つまりはこのオイラッテコッタァアアアアアア!」 「え、え、え、えええ?」 さっぱり訳が解らず、フリューゲルはきょとんとした。 「でも、なんか、マジで色々と違ってねぇかこの野郎? ていうか、別人っぽくない?」 「オイラはオイラ、ラミアンはラミアンなんだヨォオオオオオオオ! ラミアンがオイラなら、ラミアンもオイラなんダゼオゥイェエエー! ツゥマリダァアアアアア、オイラとラミアンは表裏一体の存在ってコッタァアアアアアア!」 「つーか、すげぇうるさい…」 「うかかかかかかかかかかかかかかかかっ!」 銀色の骸骨、アルゼンタムはフリューゲルの頭と首から手を離すと、その背中に両足を思い切り叩き込んだ。 「地面で会オウゼェー兄弟ィイイイイイイイイ!」 「てめぇなんかぁ」 兄弟でもなんでもねぇー、との声を残しつつフリューゲルは真っ逆さまに落ちて屋根に突っ込み、砂埃が舞った。 アルゼンタムはそれを追うために、フリューゲルの形に屋根がぶち抜かれた廃屋の中に、真っ直ぐに飛び降りた。 民家であったと思しき建物の中には、無惨にへし折れた椅子やテーブル、割れた窓の破片などが散乱していた。 粉塵で視界は失われているが、相手の気配はあった。アルゼンタムが様子を窺っていると、背後で風が唸った。 「くけけけけけけけけけけけけっ!」 真後ろから、けたたましい笑い声がした。振り向くよりも前に身を捻って膝を曲げ、ぐんっ、と上半身を反らす。 途端に、上半身のあった場所が銀色の翼で切り裂かれ、埃が散った。反り返った姿勢のまま、両手を床に付ける。 もう一度翼を振り回そうとしたフリューゲルの腹に、体を思い切り伸ばして両足の底を叩き付け、吹っ飛ばした。 「ぎいいっ!」 フリューゲルの姿は遠のき、壁を粉砕しながら倒れ込んだ。アルゼンタムは起き上がり、こきっと首を曲げる。 「うけけけけけけけけけけけ。オイラもそうダガァアアアアアア、テメェもそうナンダァヨナァアアアアアアア!」 「何がだよこの野郎!」 苛立たしげなフリューゲルに、アルゼンタムは飛び掛かった。 「狭ぇところは苦手ナンダヨナァアアアアアアアア!」 銀色の翼が開くよりも先に、その胸に体当たりした。穴の空いた壁の中を抜けると、すぐに別の壁に当たった。 フリューゲルごと隣家に突っ込んだアルゼンタムは、フリューゲルの上に立ち、胸部の魔導鉱石を踏み付けた。 足首を捻ると足の裏と魔導鉱石の間で砂が擦れ、耳障りな音を立てた。その足を、フリューゲルが掴んでくる。 「何しやがんだこの野郎!」 「うかかかかかかかかかかか。材質はチィート違ウカァモシンネェーガァー、そいつもオイラ達と同じ魔導鉱石には違イネェェエエエエエエ。ダァカラァー、テメェらの弱点はオイラ達と同じッテコッタァアアアアア!」 「うるせぇなこの野郎!」 フリューゲルはアルゼンタムの足を離し、両翼を広げてその先端を銀色の骸骨に突き付けた。 「吹っ飛べってんだよ!」 翼の先端に魔力が集束し、放たれた。アルゼンタムが上体を反らして避けると、背後の壁が吹き飛ばされた。 悔しいのか、フリューゲルは翼を全て開き、魔力を高め始めた。アルゼンタムが身を引いた瞬間、閃光が迸った。 「邪魔くせぇんだよ、てめぇは!」 フリューゲルの叫声と同時に、彼を中心にした爆発が起きた。高温の白い閃光が走り、円形に物が焼かれる。 爆音の直後に訪れた爆風を浴びたアルゼンタムは上空へ吹き飛ばされたものの、マントを広げて風を孕ませた。 円を描いて滑空しながら爆心地を見下ろすと、半球状の深い抉れが出来ており、熱く白い煙が立ち上っていた。 抉れの底に立ち尽くしているフリューゲルは肩を上下させていたが、アルゼンタムを見定めると、急に飛び出した。 「死ね死ね死ね死ね死ねぇええええええっ!」 怒りのあまりに上擦った叫びを上げたフリューゲルは、感情に煽られて加速した速度でアルゼンタムに迫った。 アルゼンタムが身構える間もなく、フリューゲルの長い足はアルゼンタムの胸部に滑り込み、蹴りを叩き込まれた。 その蹴りの予想以上の重さに、アルゼンタムは内心で顔を歪めた。細身だからと、心の片隅で侮っていたようだ。 胸部装甲の内側で部品が軋む音を聞いた。アルゼンタムは、体全体に広がる打撃の衝撃を感じながら落下した。 「死ねっつってんだろうが馬鹿野郎!」 落下を始めた背部に素早く回り込んだフリューゲルは、右側の翼を真っ直ぐに伸ばして、その背に振り上げた。 銀色のマントと翼が擦れ合い、火花が飛び散った。が、その火花が途切れ、銀色のマントに裂け目が出来た。 アルゼンタムの視界の隅に、布切れのように千切れた魔導金属糸製のマントの下半分が漂い、落ちていった。 その直後、今度は背部装甲が斬り付けられた。その勢いに負けたアルゼンタムは、ぐるりと身を回転させた。 空中で、フリューゲルと向き直る格好になった。フリューゲルの赤い瞳は爛々と輝き、顔の装甲に反射していた。 「死ぃ」 フリューゲルの上半身が大きく捻られたかと思うと、魔力の光を帯びた左翼が目の前に迫ってきた。 「ねぇえええええー!」 鋭い斬撃が、胸部装甲を歪ませる。閃光が炸裂すると先程のものと同じ爆発が発生し、それをまともに受けた。 熱と圧で胸部装甲が更に傷んでしまったことが気になったが、至近距離で爆発を浴びたため意識が薄らいでいた。 このままでは、また同じ目に遭う。アルゼンタムは少々煤けた狂気の笑みの仮面をぐいっと押さえ、被り直した。 弱点は、どちらも同じ。機械仕掛けの体の中で唯一剥き出しになっている生身の部分は、魂を入れた魔導鉱石。 そこに痛みを与えれば、なんとかなるだろう。アルゼンタムは爪を振り上げると、自身の魔導鉱石に突き立てた。 爪先が魔導鉱石の表面を貫いた瞬間、生身の頃に感じていたような生々しく激しい痛みが、全身を駆け巡った。 「うけけけけけけけけけけけけけっ!」 痛みと共に迫り上がってきた吸血鬼の本能に、アルゼンタムはがくがくと身を揺さぶりながら笑い声を上げた。 その笑い声にびくりとしたフリューゲルが、一瞬動きを止めた。アルゼンタムは魔力を込めた足で、宙を蹴った。 「うかかかかかかかかかかかかかかかかっ! 喰うゼ喰らうゼ喰っチャルゼェエエエエ!」 「わあっ」 フリューゲルは、アルゼンタムに飛び掛かられて顔に膝を打ち込まれた。その衝撃で、上半身を大きく逸らした。 腰に、何かが巻き付いてくる。見ると、アルゼンタムは骨のような両足で、フリューゲルの胴体に抱き付いていた。 「離れねぇかこの野郎!」 フリューゲルがアルゼンタムの足を離そうとしても、びくともしない。それどころか、ぎりぎりと強く締め上げてくる。 装甲が歪みそうなほどに締め上げられると、苦しくなってくる。なんとかして、アルゼンタムを引き剥がさなければ。 フリューゲルが翼を広げようと腕を上げた途端、左肩が止まった。ばちり、と視界の隅で魔力の電流が走った。 一拍置いて、震えるほど強い痛みが背筋を貫いた。肩関節の隙間には、アルゼンタムの爪が差し込まれている。 「あぐ、あぎ、うぐぁがあああ」 痛みで力の入らない手でアルゼンタムの手首を掴もうとすると、右手首も爪で貫かれ、新たな痛みに襲われた。 「うぐ、げ、げげげげげぇええ」 アルゼンタムの爪が捻られると、痛みは更に増した。最早言葉ではない音声を発しながら、鋼の鳥は震えた。 なんとかして飛ばなければ、引き剥がさなければ、と思うが、痛みに全てを支配されて身動きすら出来なかった。 体内に充ち満ちていた魔力が、電流と化して外へ流れ出してしまう。止めなければ、いずれ機能停止するだろう。 戦わなくては。アルゼンタムを倒さなければ。だが、痛い、痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。 気が狂いそうなほどの痛み。魂すらも抉り抜きそうな痛み。痛み。生き物ならば誰しも感じる、畏怖が生まれる。 「あ、あ、うあああああああああ」 死ぬ。 「嫌、嫌だ、死にたくない、死にたくねぇよ、死にたくねぇよ、死にたくねぇ死にたくねぇ死にたくねぇ死にたくねぇ!」 肩関節の内側に差し込まれた爪が奥を抉ると、痛みの量は跳ね上がった。 「がぼぁっ」 出ないはずの血が喉から迫り上がる。殺される、という恐怖が起きた途端に戦意が萎み、怯えが起きた。 「やだ、やだよ、やだやだ、やだ、死ぬのは嫌だ!」 アルゼンタムは肩関節に突っ込んでいた爪先を、引き摺り出した。そこには、魔導金属糸が引っ掛かっていた。 それは、生き物で言うところの神経の役割をしている魔導金属糸であった。潤滑油にまみれ、艶々と輝いている。 「うくくくくくくくくくく」 アルゼンタムは魔導金属糸をぎりぎりと限界まで引っ張ると、仮面の口元に差し込み、その中に引っ掛けた。 「死ぬノガ怖ェノカァアアアー…。うけけけけけけけけけけ。怖がれ怯えろ震えヤガレェエエエエエ!」 アルゼンタムの頭が、大きく振られた。肩から引き摺り出された魔導金属糸は長く伸び、魔力の電流が絡む。 その魔力が、吸い上げられる。あれほど激しかった痛みがほんの少しだけ薄らぎ、そして、感覚が変わった。 視界がぼやける。手足から力が抜ける。意識が霞む。痛みが消える。これが死だ、とフリューゲルは直感した。 「やだ」 魔導金属糸を喰っているアルゼンタムは、潤滑油を仮面の口元に滴らせていた。それはまるで、血のようだ。 このままでは終われない。リリを奪われてしまう。せっかく出来たトモダチが、遊び相手が、いなくなってしまう。 だが、戦おうにも力が入らない。リリの屈託のない笑顔が蘇る。彼女への申し訳なさと、悔しさが胸中を占めた。 アルゼンタムの鋭利な爪で貫かれている右手首では、リリのネッカチーフが、潮風を浴びて優しく揺れていた。 「リリ…」 彼女の名を呼んだのを最後に、意識が途切れた。フリューゲルは浮遊するための集中力を失って、落下した。 程なくして、アルゼンタムに抱き付かれたままのフリューゲルは背中から地面に叩き付けられ、完全に気絶した。 アルゼンタムに魔力を吸い尽くされたために赤い瞳からも光を失い、胸部の紫の魔導鉱石も輝きが鈍っていた。 もうもうと立ち込める砂煙の中、アルゼンタムはフリューゲルの魔導金属糸を爪で引っ張り上げ、ぱんと切った。 切られた瞬間、フリューゲルはびくりと痙攣したが意識は戻らなかった。アルゼンタムは、仮面の口元を拭った。 「うかかかかかかかかかか」 爪を突き立ててヒビを入れた魔導鉱石が、回復している。恐らく、フリューゲルから魔力を吸い上げたからだ。 都合がいいと言えばいいが、気分はあまり良くない。久々に魔力を喰ったので、腹の中がずしりと重たかった。 破損した外部装甲も回復し、内部の部品も元通りになっているらしく、体の調子は前よりも良くなったほどだった。 アルゼンタムは辺りを見回し、瓦礫に引っ掛かっていた銀色のマントの切れ端を見つけると、拾って握り締めた。 それを振り回しながらフリューゲルの元に戻ってくると、その上に跨った。止めを刺しておかなければならない。 魔力を失ったからか、あれほど硬かったはずの翼はぐにゃりと柔らかくなっていて、簡単に折り曲げられそうだ。 この分だと、魔導鉱石も硬度が下がっているだろう。魔導鉱石は魔力さえなくなってしまえば、ただの石となる。 フリューゲルの右手首に結び付けられているリリのネッカチーフは、砂に汚れ、戦闘のせいでひどく傷んでいた。 アルゼンタムは僅かに躊躇ったが、目を逸らした。こんな輩に情を掛ける意味はない。何のために、戦ったのだ。 「アバヨォオオオ、鳥野郎ォオオオオ!」 アルゼンタムは渾身の力で、フリューゲルの本体である魔導鉱石を貫いた。五角形の石にヒビが走り、砕けた。 その瞬間だけフリューゲルの瞳に光が戻ったが、間もなく失せた。ごとり、と頭を横たえたフリューゲルは呻いた。 「リリィ…」 彼の声はとても幼く、頼りなかった。そのひどく寂しげで悲しげな声色は、アルゼンタムの耳の奥にこびり付いた。 アルゼンタムはそのまま立ち去ろうとしたが、一度振り返ってしまった。そんな己の甘さに腹が立ち、舌打ちした。 恐ろしい魔導兵器ではなくなり、ただの機械人形となったフリューゲルは、長い四肢をだらしなく投げ出していた。 「死にたくネェンダッタラヨォオオオオオ」 アルゼンタムは、独り言のように呟いた。 「せいぜい強くなりヤガレェエエエエ」 いつまでもここにいるわけにはいかない。アルゼンタムはフリューゲルの傍から立ち去るべく、高々と跳躍した。 海面では、ブラッドとルージュの戦闘が行われているらしく、ひっきりなしに水柱が上がって魔法が炸裂している。 港では、ラオフーとヴェイパーらが競り合っているようで、彼らの壮絶な攻撃によって倉庫街が破壊されていた。 アルゼンタムは背の高い建物の上に着地すると、背を伸ばした。空気に混じる魔力の濃度が、上がっている。 リチャードらの援護にでも行くべきか、と考えていると、魔法が発生した気配を感じ、反射的に背後に振り向いた。 「よっ、と」 軽い足取りで瓦礫の上に着地したのは、軍服を着込んだ男だった。その肩には、黒い三つ編みが載っている。 丸メガネを掛け、腰には軍用サーベルを下げている。その腕には、同じく軍服を着た黒髪の女が抱かれていた。 「おう、久し振りぃ!」 それは、グレイス・ルーだった。アルゼンタムは、けっ、と顔を逸らした。 「グゥレイスゥウウウウ…。何しに来ィヤガッタァァアアー」 「暇なんだよ。ブリガドーンとのドンパチは連合軍に任せっぱなしだから、その間オレがやることってねぇんだよ」 「その格好ダト、テメェは指揮官ナンジャネェノカアアアア。ダッタラナァ、きっちり指揮シヤガレッテンダヨォオオオ」 「いいのいいの。その辺のことは、もうどうでもいいから」 でも、とグレイスはロザリアの腰に手を回すと、もう一方の手をブリガドーンへと向けた。 「頼まれた分の仕事は、きっちりやらねぇとな」 グレイスは僅かに目を細めてブリガドーンを睨み付けると、人差し指を伸ばして空中に六芒星を描き、唱えた。 「歪められし理よ、乱されし秩序よ、崩されし安寧よ。我が言霊に戒められ、古よりの定めに従いたまえ」 一瞬、ブリガドーンの巨大な影が揺れた。グレイスはもう一度六芒星を描き、声を張った。 「落ちやがれぇ、ブリガドーン!」 呪文とは言い難い言葉が、放たれた。だが、それは魔法と成り、ブリガドーンの巨体が僅かずつ下降を始めた。 蜃気楼に包まれているかのように揺らいでいた空間が定まり、通常空間へ戻ったらしく、砲撃が当たり始めた。 砲弾が当たるたびに岩盤が砕け、対岸の海面へ落下するのが見えた。グレイスは顔を歪め、息を荒げている。 「力業、ってのは、好みじゃねぇな」 アルゼンタムは、いや、ラミアンは内心で目を剥いていた。ごく単純な魔法で、よくこんなことが出来るものだ。 ブリガドーンの空間を定め、その高度を下げるためには、ブリガドーンを押さえ付けるほどの魔力が必要となる。 それは、膨大などというものではない。何らかの補助を使っているとしても、グレイス自身の才がなければ無理だ。 改めて、この呪術師の底知れなさに驚いた。グレイスは額に滲んだ汗を拭うと、胸元を探り、何かを取り出した。 細い鎖の先に繋がれていたのは、四角い金色の金属板だった。確か、魔力充填板というものではなかったか。 魔力充填板はその名の通り、膨大な魔力を蓄積する機能を持った魔導機械であり、グレイスの兄が造った物だ。 だが、その魔力充填板は、グレイスの手の中で粉々に砕けた。グレイスはちょっと肩を竦めたが、手を払った。 「まさかこれが壊れるとは思ってなかったが、まあいいか」 「凄いわ、グレイス。あんなことが出来るのは、あなただけね」 ロザリアはグレイスにしなだれかかり、微笑んでいる。グレイスは、にやけながら尋ねてきた。 「ありがとな、ロザリア。んで、アルゼンタム。オレの愛しの男はどこにいる?」 「すまないが、その問いに答えられない。今の私は、彼の部下なのでね。部下たるもの、上官を守らねばならない」 理性を取り戻したラミアンが言い返すと、グレイスは眉を下げた。 「ケチ。あんなに良くしてやったのに冷てぇのー。でも、すぐに見つけられるから、別に答えてくれなくてもいいや」 じゃあな、とグレイスはラミアンに背を向けると、瓦礫の上から飛び降りた。だが、着地音は聞こえなかった。 空間転移魔法を使ったらしく、グレイスの姿は消え失せていた。実力もさることながら、魔力の底が知れない。 あれほどの魔法を使った直後にも関わらず、平然としている。グレイスは、人間はおろか人外も超越している。 ラミアンは過去を思い出し、あんな男に関わってよく長らえられたものだ、と安堵と同時に寒気も感じていた。 一人残されたロザリアは悠長に瓦礫の上に腰を下ろすと、長くしなやかな足を見せ付けるように足を組んだ。 「あんたの戦いは終わっちゃったのね、アルゼンタム」 少し残念そうに、ロザリアは魔導鉱石を砕かれたフリューゲルを見下ろした。ラミアンは、彼女を見上げる。 「私にはラミアン・ブラドールという真の名がある。出来れば、そちらで呼んで頂きたいのだが」 「でも、さっきまではそのアルゼンタムだったじゃないの。どっちで呼んでも同じでしょうが」 「そうではない。違うものは違うのだよ」 「ふぅん」 ロザリアの返事は、気が抜けていた。そのやる気のない態度に、ラミアンは引っ掛かりを感じた。 「ロザリア。君は、ブリガドーンにヴィクトリアが捕らわれている事実を存じているのか」 「知らないわけがないわ」 「存じているのであれば、なぜ憂わないのだね」 「あの子は父親似だもの。心配するだけ無駄だわ」 ロザリアの表情が、少しばかり和らいだ。ラミアンは彼女の穏やかな横顔を見ていたが、海に向いた。 「そうか」 ブリガドーンへの砲撃は絶え間なく、圧倒的に連合軍の優勢だった。これでは、ダニエルの突入は遅れそうだ。 やはり、後で三人の援護へ向かおう。倒すべき敵を倒したのだから、苦戦しているであろう仲間を助けなくては。 「これで」 ロザリアは、とても穏やかに呟いた。 「あの人は、終われるわ」 落ち着いた、温かな言葉だった。ほんの少しばかり寂しさも混じっていたが、それ以上に嬉しそうでもあった。 その言葉にも引っ掛かるものを感じつつも、ラミアンは跳ねた。フリューゲルを撃破しても、まだ安心出来ない。 魔導兵器三人衆を全て倒し、ブリガドーンから子供達を助け出し、生きて帰ることこそがヴァトラス小隊の任務だ。 高く跳んでいると、海上を飛ぶ息子と、鋼鉄の女吸血鬼の姿が見えた。息子の横顔は硬く、畏怖に強張っている。 だが、笑っている。愉悦と快楽に、死の恐怖と破壊の絶望からの逃避のために、口元を歪め牙を覗かせている。 吸血鬼らしい顔だ。 07 6/23 |