煙は、とっくに消えていた。 だが、離れる気は全く起きなかった。焼け焦げた板や廃材の下には、骨だけになった父親がいるのだから。 焼き尽くされてどす黒く乾燥した炭と化した材木の周辺は、魔法陣で囲んであり、そこから外は焦げていない。 父親の死体を火葬した炎も、魔法のものだ。レオナルドの炎の力を借りるのは、さすがに憚られたからだった。 死体とはいえ、友人を焼くために力を使わせたくない。自分の手で友人の死体に火を付けるのと、同じだからだ。 ロイズは、まだ涙が出てくる自分に内心で少し驚いていた。体中の水分が、涙になって流れたと思ったのに。 勧められた水もほとんど飲まないで、焼き尽くされる父親の傍にいた。絶対に届かないが、話し掛け続けていた。 父親と一緒にいられるのは、今日だけだ。火葬した後の遺骨はゼレイブに持ち帰るが、墓に埋められてしまう。 土の中と外では、離れすぎている。それに、こうして傍にいると、逃れようとしても現実が体に染み込んでくるのだ。 涙で濡れた顔に貼り付いている煤や、鼻や口に入った灰の苦い味で、父親が死したことを心に強く刻み込ませる。 そうしなければ、いけないのだ。現実から逃れないことも戦いなのだから、ちゃんと向き合わなければいけない。 ロイズの傍らには、両腕を失ったヴェイパーが座っていた。両足も上手く動かないらしく、歩行もぎこちなかった。 ラオフーとの激しい戦闘で左腕を破損し、右腕で金剛鉄槌を貫いたために右腕も内部機関がいかれてしまった。 リチャードが応急処置を施してくれたのでヴェイパーの魂に別状はなかったが、物体修復魔法が効かなかった。 魔法といえど、直せるものには限界がある。ヴェイパーの破損は、その限界を遥かに超えるほど凄まじかった。 ゼレイブに帰還すれば、フローレンスほどではないが機械技術を持っているピーターがいるので、直せるだろう。 だが、それまではヴェイパーには我慢してもらわなくてはならない。彼も苦しいだろうが、苦しいのは皆が同じだ。 ヴェイパーの足が、ロイズの背中を支えている。ロイズはヴェイパーの冷たくも太い足に縋り、肩を震わせた。 ヴェイパーは肘から先のない腕を伸ばし、ロイズに触れた。剥き出しにされた関節部品が、少年の背をさする。 「ダニーは立派だったよ。本当に、立派だった」 噛み締めるように、ヴェイパーが呟いた。ロイズは固く握りしめていた父親の軍帽を見下ろし、頷く。 「うん」 「ダニーが死んだのが悲しくて辛いのは、僕達だけじゃない。でも、やっぱり、悲しくて辛い。フローレンスの時もそうだったけど、物凄く悔しいよ。空爆をされた時は、僕はまだ過熱していて戦うどころか歩けもしない状態だったけど、そんなのは言い訳にならない。僕は魔導兵器だ。異能部隊だけじゃなくて、僕が大好きな皆を助けるためなら鉄屑になったって構わない。フローレンスの助けになれなかったんだから、ダニエルだけはちゃんと助けてあげなくちゃいけなかったのに、僕はそれが出来なかった。兵器失格だよ」 「そんなことないよ。ヴェイパーは、一生懸命戦ったんだから」 ロイズが小さく首を横に振ると、ヴェイパーは外装の歪んだ顔で見下ろしてきた。 「ありがとう。でも、あんまり慰めないで。僕はもうしばらく、自分の弱さを責めていたい」 「どうして」 「悔しいからさ。僕はロイズと違って涙を一滴も流せないし、今は両腕がないからダニーの灰を掬い上げてやることも出来ないし、ロイズを抱き締めてやることも出来ない。今の僕が出来ることと言ったら、ロイズの盾になってあげることと、ロイズと一緒にいてやることだけだから。本当だったら、もっと色々なことをしてあげたいけど、何も出来ないから。ごめんね、ロイズ」 「なんでヴェイパーが謝るの。ヴェイパーは何も悪くないよ」 「悪くなくたって、謝りたくなる時ってあるんだよ」 ヴェイパーはぎしぎしと鈍く軋む腰を曲げて、ロイズに顔を近付けた。 「ロイズ。ここから離れて気持ちが少し落ち着いてきたら、色々なことを考えるようになるだろうし、誰が悪かったとか考えちゃうかもしれない。でもね、誰も責めちゃいけない。ダニーが死んだ原因を作ったのは、あのアレクセイとエカテリーナとかいう化け物なんだから、他の皆は悪くない。解るよね」 「うん。解ってるけど」 「責めちゃいけないよ。この中で辛くない人なんて、いないんだから。だけど、どうしても気持ちが収まらなかったら、僕が付き合ってあげる。僕は殴られたってちっとも痛くないし、怒られるのにも慣れているし、何よりロイズの部下でお兄ちゃんなんだから。だから、僕を使って」 「そんなの、ヴェイパーに悪いよ」 ロイズが項垂れると、ヴェイパーはかすかに笑った。 「僕は、それでいいんだよ。僕は兵器のくせに、フローレンスもダニーも守れなかった。だから、ロイズだけは絶対に守ってみせる。どんなことをしてでも、ロイズだけは生かしてあげたいんだ。ロイズのためなら、なんだって出来る」 「ヴェイパー…」 悲しみとは違う切なさが込み上げ、ロイズはまた涙を滲ませた。ヴェイパーは、腕の側面でロイズを撫でる。 「愛しているよ、ロイズ。フローレンスとダニーの次ぐらいに」 ロイズは泣き喚きすぎて喉が嗄れたことも忘れ、泣いた。こんなにも皆に愛されているのに、なぜ目を逸らした。 父親は怖かった。でも、嫌いじゃなかった。好きになってほしかった。褒めてほしかった。もっと一緒にいたかった。 最期に抱き締めてくれた腕は、父親のものとは思えないほど弱々しかったが、久し振りに父親の体温を感じた。 笑いかけてくれた。褒めてくれた。命を賭けて守ってくれた。果たすことの出来ない約束だが、約束してくれた。 だが、気付くのが遅すぎた。もっと早くに気付いていれば、とロイズは後悔したが、胸が重たく詰まる一方だった。 黒く焦げた炭の山が、乾いた音を立てて崩壊した。 娘は、異形の鳥から離れようとしなかった。 リリは胸の魔導鉱石を砕かれているフリューゲルの傍に座り込み、話し掛けながら、小さな手で頭を撫でていた。 アルゼンタムと化したラミアンとの戦闘で負傷したフリューゲルの肩関節は壊されて、内部機関が露出していた。 右手首にも貫通痕があり、そこに巻き付けられているリリのネッカチーフは機械油に黒く汚れて、千切れていた。 このネッカチーフは、フィリオラがリリの八歳の誕生日に贈ったものだ。これをもらった時は、とても喜んでいた。 それからは毎日のように被り、明るい笑顔を見せていた。娘のはしゃぐ姿に、フィリオラも娘以上に喜んでいた。 リリは知らないだろうが、フィリオラは夜眠る前にネッカチーフに花の刺繍を施しながら、幸せそうに話していた。 産まれないと思っていた子供が生まれて、日に日に大きく育っていく姿を見るのが楽しくてたまらないのだ、と。 フィリオラは、先祖返りの影響で子供が出来ない体だった。だが、十年前の出来事で、子供が出来るようになった。 フィリオラは家柄こそ裕福だったが、ツノが生えているために子供時代は家族から腫れ物のように扱われていた。 だからこそ、娘を大事にしている。自分自身が求めていたことを、リリに対して行い、深い愛情を注ぎ込んでいる。 なのに、リリはその母親ではなく異形の鳥を選んだ。レオナルドは悲しくなりそうなほどの空しさに苛まれていた。 帰りたくない、とリリは言い張り、フリューゲルも一緒じゃなきゃ嫌だ、と駄々をこね、怒鳴っても変わらなかった。 元気がないのは仕方ないとしても、歯切れもやたらと悪かった。だからリリは、何かしら隠し事をしているはずだ。 それを、未だに聞き出せなかった。いや、聞き出したくなかった。何があったのか、レオナルドには想像が付いた。 レオナルドは、リリと同じ念力発火能力者だ。あの焼き尽くされた池の畔を見れば、おのずと状況が解ってしまう。 真っ黒に焼けた地面には、明らかに人の形の焼け跡が二人分あった。それだけあれば、物的証拠には充分だ。 「リリ」 レオナルドは、リリの傍に膝を付いた。 「人を、焼いたんだな?」 その言葉に、リリは浅く息を吸い込んだ。リリは後退ろうとしたが父親に腕を掴まれ、引き留められた。 「そうなんだな、リリ」 「あ、う、あああ…」 リリはがくがくと震えていたが、裏返った声で喚いた。 「ごめんなさい、ごめんなさい、そんなつもりはなくて、でも、すごくこわかったから、いっぱい、ほのおが」 「誰に殺されかけたんだ」 穏やかに、だが威圧的にレオナルドは問い掛けた。リリは激しく動揺していたが、震える声で答えた。 「さ、さっき、ヴィクトリアねえちゃんのおかあさんとおとうさんを、ころしてた、あの、へんなひとたちを」 「アレクセイとエカテリーナか」 レオナルドが二人の名を出すと、リリはその場に崩れ落ちてぼたぼたと涙を落とした。 「で、でも、わたし、ほんとうに、あのひとたちを、やいちゃった。ころしちゃったの。だけど、あのひとたちは」 「生きていた」 「だけど、だけど、でもね、ほんとうに、わたし、まっくろになるまで」 「焼いたんだな」 「お、おさえようと、おもったんだけど、ころされそうになったから、こわくて、こわくて、こわくって」 「それで、そこにフリューゲルがいたんだな」 「ふりゅーげるはね、わるくないの。ふりゅーげるは、いいこなの。だって、わたしを、ぶりがどーんに」 「つまり、リリ。お前は、オレとフィリオラじゃなくてフリューゲルに助けを求めたんだな?」 「だ、だって、あんなことしちゃったら、わたし、おこられるし、それに、ぜったいおうちに」 そこまで言ったが、リリの言葉は泣き声で掻き消された。レオナルドはリリの腕を放すと、抱き寄せた。 「ああ、怒るね。リリが力の制御を失ったこともそうだが、まず最初にリリがオレ達に頼らなかったことを怒る。オレ達はリリの親なんだぞ。リリのことは、一番解っているつもりだ。それに、オレはリリと同じ力を持っているんだ。リリがやっちまったことは、オレも全部やっちまっているんだ。不注意で火事を起こしかけたことも一度や二度じゃねぇし、自分の力で火傷したことだって沢山ある。それに、オレも」 レオナルドは、声を低めた。 「自分の炎で、人を焼いた」 「おとうさんも…?」 父親の腕の中で、リリは大きく目を見開いた。レオナルドは頷く。 「今のリリよりもずっと小さかった頃に、共和国軍の連中に命令されてな。一人や二人じゃない」 初めて聞く父親の重たい過去に動揺し、リリは言葉を失ってしまった。 「今でもたまに夢に見るぐらいに、嫌な思い出だよ。その時のオレは家族と仲が良くなかったし、友達がいなくてな。ダニーは歳こそ離れていたが、大事な友達だったんだ。もしもダニーがいなかったら、オレはきっともっとひどいことをしていただろうし、ダニーの力を借りて軍の基地から逃げ出していなかったらオレはフィリオラにも出会えなかっただろうし、リリが産まれてくることもなかったんだ。それが出来たのは、ダニーがいてくれたからだ。一人きりだったら、いずれ自分の炎で焼け死んじまっていただろう。だが、リリは違う。オレもいるし、フィリオラもいるし、ブラッドもいるし、ロイズもヴェイパーもいるじゃねぇか。だから、一人で抱え込もうとしないでくれ。お願いだ、リリ」 レオナルドは、小さな娘の体を抱き締めた。 「お前は幸せなんだ。だから、家に帰ってきてくれ」 「かえっても、いいの?」 「自分の家に帰っちゃいけないなんてことはない。帰ってきてほしいんだ、リリ」 「だけど、わたし」 「いいんだ」 レオナルドはリリを離すと、娘の柔らかな薄茶の髪を優しく撫で付けた。 「もう、何も言うな」 リリは、父親の手の熱さを感じた途端、胸を占めていた不安や悲しさが瞬く間に溶けて崩れ落ちてしまった。 それと共に、薄膜のような意地も破れてしまった。リリはわあわあと泣き声を上げて、レオナルドに縋り付いた。 レオナルドはリリを壊れ物を扱うかのような手付きで愛おしんでいたが、身動き一つしない機械の鳥を見やった。 「リリ。フリューゲルは、そんなに大事か?」 父親の言葉に、リリは必死に何度も頷いた。 「友達だもん」 「リリがいれば、こいつは暴れないのか?」 「うん。めってすると、ちゃんと聞いてくれるもん」 「本当だな?」 「本当だもん、嘘じゃないもん!」 しゃくり上げながら、リリはレオナルドを見上げた。その眼差しは真剣で、小さな手は父親の服を固く握っている。 「荷物は増えるが、一応連れて帰るだけ帰ってみるか」 「じゃ、フリューゲルと一緒に暮らせるの?」 期待を膨らませたリリに、レオナルドは敢えて厳しく言った。 「そうは言っていない。フィリオラにも判断してもらわなきゃならん」 「フリューゲルはとっても良い子だもん!」 リリは父親に負けないように、声を張った。レオナルドは、娘の頭に手を置く。 「お前にとってはそうかもしれないが、こいつはフィリオラの翼を切った野郎だ。少なくとも、オレはこの鳥野郎を許す気はない。また、今回のような事件が起きないとも限らない。知っての通り、ゼレイブはオレ達のような存在が平和に暮らすための場所だ。平和を守るためにはそれなりに約束事もあるし、ゼレイブの長とも言えるラミアンさんにも許可をもらわなきゃならない。リリの独断で、ゼレイブの平和を壊すわけにはいかないんだ。解るな」 「でも、フリューゲルのおうちはもうないんだもん! 壊れちゃったんだもん!」 「このことについては、ゆっくり話し合おう。オレもまだ、頭が冷えていないからな」 「だけど…」 リリはフリューゲルの傍に駆け寄り、座り込んだ。レオナルドは腰を上げ、蒸気自動車の方を指した。 「とりあえず、今日はもう休もう。何か喰わなきゃ、オレもリリも保たん」 「お腹、空いてない」 リリが首を横に振ると、レオナルドは渋い顔をした。 「それでも喰え。解ったな」 「はあい」 力なく返事をして、リリは蒸気自動車へ向かう父親の背を見送った。本当に、空腹はあまり感じていなかった。 目の前で人が殺される様を、見てしまったからだ。だが、それが初めてではないと思うと、胸の奥が痛くなった。 リリの炎で焼き尽くされたはずの二人は生きていた。けれど、その二人は、ヴィクトリアの両親を殺してしまった。 焼き殺したはずの二人が生きているという事実に激しく混乱しながらも、二人が生きていたことに安堵もしていた。 これでヒトゴロシじゃなくなる、と思ったが、ヒトゴロシではなくなったとしても力の制御を失った事実は変わらない。 炎を発する念力発火能力は、誰にとっても危険だ。だからこそ、能力を押さえるための練習を繰り返してきた。 読み書き計算と魔法の勉強は母親が教えてくれるが、力の制御については同じ力を持つ父親が教えてくれた。 失敗すると怒られたが、上手く出来ると褒めてくれた。あまり笑わない父親に笑いかけられると、とても嬉しくなる。 母親とは別の意味で、父親のことは尊敬している。大好きだ。だから、失望させてしまったことが情けなかった。 逃げ出さずに向かい合っていれば、こんなことにはならなかったかもしれない。そう思うと、また泣きそうになる。 どうして、両親を信じられなかったのだろう。リリは身を屈めてフリューゲルに縋り、その胸の魔導鉱石に触れた。 「ごめんなさい」 金属の体と同じく冷えていた魔導鉱石が、かすかに温もりを帯びた。ぎ、とフリューゲルの首が僅かに動いた。 リリが魔導鉱石を両手で包むと、フリューゲルは鈍い唸り声を漏らした。赤い瞳を点滅させて、視線を動かす。 「う、ぐぅ」 「フリューゲル、痛いの?」 「いてぇよ…いやだ…しにたくねぇよ…」 絶望に震える声で、フリューゲルは恐怖を吐き出した。リリは、フリューゲルの右手を取って握る。 「フリューゲル、お願いだから死なないで。フリューゲルまで死んじゃったら、嫌だよ」 リリの手の中で、フリューゲルの平たい指がぎこちなく曲がり、リリの指を握ってきた。 「リリぃ…」 「一緒におうちに帰ろう、フリューゲル。お父さんとお母さんに怒られるのは怖いけど、頑張る。だって、いけないのは私だから。ごめんね、フリューゲル。私の我が侭のせいで、こんなことになっちゃって。そんなの、お友達じゃないよね。私、最初から凄く悪い子だった。自分のことばっかりで、フリューゲルのことも、お父さんとお母さんのことも、ブラッド兄ちゃんのことも、ロイのことも、皆のことも忘れちゃってた」 リリはフリューゲルの汚れた手を頬に押し当て、肩を震わせる。 「ごめんね。フリューゲル」 フリューゲルは左手を伸ばし、リリの小さな肩に触れた。 「さっきの話、聞いた。聞こえたから、聞いた」 リリの手から伝わってくる魔力を全て魂に回し、意識を明瞭にさせ、フリューゲルは彼女に尋ねた。 「けど、なんでリリは、オレ様を連れて帰りたいんだ?」 リリの手から注がれる熱い魔力は、ブリガドーンの魔力よりも馴染みが良く、死への不安さえも溶かしてくれた。 リリはフリューゲルの手に自分の手を添えると、少しばかり起きた照れ臭さを振り払って、はっきりと言い切った。 「だって、私はフリューゲルが好きなんだもん」 「うん」 フリューゲルは、赤い瞳をゆっくりと細めた。 「オレ様も、リリが好きだ」 「好きだから、一緒にいたいって思うのは当たり前じゃない。フリューゲルも、そうでしょ?」 「ん」 威勢良く、フリューゲルは頷いた。リリは、嬉しさでほんのりと頬を染めた。 「じゃあ、私とまだお友達でいてくれる?」 「当たり前だこの野郎。リリと一緒にいると、すっげぇ楽しいんだからな」 くけけけけけけけけけ、と普段よりも抑え気味ながらもフリューゲルは笑った。リリは、彼の手に頬を擦り寄せる。 「ありがとう、フリューゲル。大好き」 「あ、おう」 そこまで言われるとさすがに照れてしまい、フリューゲルは少し目を逸らした。すると、レオナルドが戻ってきた。 レオナルドは保存食を入れてある箱と真水の入った水筒を下げていたが、あからさまに不機嫌な顔をしていた。 リリが戸惑いながらも、父親の傍に寄った。レオナルドは近くの瓦礫に腰を下ろすと、箱を開けて保存食を出した。 二度焼きしてからからに乾かしてある硬いパンを渡されたリリは、それを囓った。レオナルドも、同じくパンを囓る。 レオナルドは味わうのではなく詰め込むように食べてしまうと、硬いパンと格闘している娘と魔導兵器を見比べた。 「せめて、生身の生き物にしてくれないか」 「何が?」 リリがきょとんとすると、レオナルドはリリを咎めた。 「それに、色気のある言葉をほいほい口にするんじゃない。危なっかしいじゃないか」 「だから、何?」 訳も解らずにリリが首をかしげていると、暗がりの中から魔法の杖に光を灯したリチャードが現れた。 「つまりだね、君のお父さんは君がこの鳥に嫁ぐんじゃないかって心配しているんだよ」 「あ、リチャード伯父さん」 リリが振り向くと、リチャードは片手を挙げた。 「やあ、リリ。だけどレオ、その心配はいくらなんでも早いと思うよ? リリはまだ八歳じゃないか」 「十四の小娘に手を付けた男に言われたくないな」 レオナルドが言い返すと、リチャードは一笑した。 「それは違うよ。ちゃんと手を付けたのは十七歳になってからだよ」 「なーなー、トツグってなんだ、喰えるのか?」 興味津々に問い掛けてきたフリューゲルに、リチャードは答えた。 「食べられないけど、別の意味では食べられるかなぁ」 「意味解んない…」 不可解げなリリに、レオナルドは苦笑いした。 「まだ解らなくていい。一生解ってほしくない気もするが」 「リチャード伯父さん。ヴェイパーとヴィクトリア姉ちゃんは大丈夫なの?」 リリは、心配げに眉を下げる。リチャードは膝を曲げて、リリと目線を合わせる。 「ヴェイパーは機体の破損がかなり激しいけど、魂に重大な損傷はなかったから命に別状はないよ。ヴィクトリアも、深く眠っているだけで後はどこにも問題はない。そのうちに起きるよ」 「良かったあ」 嬉しそうに顔を綻ばせ、リリはまたパンを食べ始めた。安心したために、忘れていた空腹感が戻ってきたのだ。 急いで食べたせいでむせたが、父親が渡してくれた水を飲んで喉を潤した。しばらく、食べるのに夢中になった。 レオナルドは、戦闘で紺色の礼服が大分汚れてしまった兄に向いた。リチャードは、魔法の杖を抱いている。 普段から表情があまり見えない男だが、今回は特に表情が見えなかった。暗さも手伝って、察しづらくなっている。 「兄貴」 レオナルドが声を掛けると、リチャードは弟へ振り向かずに返した。 「ねえ、レオ」 リチャードは、夜空を仰いだ。 「僕は、ここに来るべきじゃなかったよ」 「今更、何を言いやがる。兄貴は自分から志願して、戦ったんだろうが」 「うん、そうなんだけどね。相変わらず、僕は気付くのが遅いみたいだ。僕が本当に戦うべき相手は、ブリガドーンでも魔導兵器三人衆でも連合軍でもなかったんだ」 リチャードは夜の色によく似た紺色のマントを翻し、歩き出した。 「もう、逃げるのはお終いだ」 兄の後ろ姿は、闇の中に消えた。その言葉には重みが含められ、いつものような人を食った態度はなかった。 彼なりに、この戦いで思うところがあったのだろう。レオナルドは兄の去った方向に背を向け、リリに向き直った。 レオナルドはふと思い立って、箱からジャムの詰まったビンを取り出した。フィリオラの手製なので、甘ったるい。 一度に食べられる量は決まっている、と言い聞かせてから、レオナルドはリリの囓りかけのパンにジャムを塗った。 リリは心底嬉しそうに頬を緩めて、大事そうにジャムを舐めた。レオナルドも、手に付いたジャムを舐め取った。 待ち遠しい、家庭の味がした。 07 7/11 |