ドラゴンは滅びない




暗闇の牢獄




 ギルディオスは、少女を眺めていた。


 クマのぬいぐるみをしっかり抱き締めて、ヴィクトリアは眠っている。その寝顔は険しく、心地良さそうではない。
近頃、彼女は眠ることを拒む。言葉の代わりに文字を操って、眠りたくない、薬もいらない、とばかり繰り返す。
だが、眠らせなければ心と体は休まらない。だから、最近では、食事や飲み物に鎮静剤を混ぜて与えていた。
その投薬量は医者であるファイドが決めているので、多すぎることも少なすぎることも全くなく、常に適量だった。
ごく普通の子供のように良く眠り、ごく普通の子供のように朝には目を覚ましてくれるので、こちらもやりやすい。
魂が衰え始めてからというもの、ギルディオスの精神力も大分削られており、夜通し起きているのは難しくなった。
肉体がないので感じないはずの疲労もしばしば感じていて、倦怠感で手足が重たくなることも頻繁に起きていた。
なので、ヴィクトリアを一晩中見守ってやることは出来ない。だから、彼女がよく眠ってくれるのはありがたかった。
 どろりとした重たい眠気が、意識に覆い被さってくる。ギルディオスはバスタードソードを抱き、壁に背を預けた。
視界を塞げば、即座に眠りに落ちてしまいそうだ。だが、窓の外から聞こえてくる羽音が、そうさせてくれなかった。
ギルディオスは少々面倒に思いながらも、顔を上げて窓の外を見た。眼球のない目は、暗がりでも良く見える。
月明かりの少ない藍色の空の下を、翼を生やした人影が飛んでいた。彼の端正な横顔は険しく、強張っている。

「またか」

 ギルディオスは、独り言を呟いた。翼を生やした青年、ブラッドが夜中に外出するのはこれが初めてではない。
ブリガドーンの戦いで、愛する女性であり強大な敵であったルージュを手に掛けたブラッドは、心に傷を負った。
彼が望んで行った戦いであっても、現実は苛烈である。日が経つに連れて、彼は己の犯した罪の深さを知った。
ルージュの魂を納めていた魔導鉱石の破片と禁書争奪戦で自切した左腕と推進翼を埋め、彼女の墓を作った。
ブラッドは毎日のようにその墓に参り、語り掛けている。その内容は自虐と後悔に満ちていて、陰鬱なものだった。
子供達や家族には明るく振る舞って笑っているが、笑顔は時折陰る。ブラッドが無理をしているのは、明らかだ。
相手は既に死していた者であり、魔導兵器だったとはいえ、殺してしまった罪の意識に耐え切れていないのだ。
ルージュの墓に赴いて心の重荷を吐き出さなければ、彼はとっくに壊れていただろう。それほど、深刻だった。
夜中に無断で外出するのも、苦しみを紛らわすためだ。ラミアンが咎めないのは、理由を承知しているからだ。
 辛いのは、皆が同じだ。それを無闇に表に出さないのは、自分と相手の傷口を深めてしまいたくないからだ。
その気持ちは、ギルディオスにもとても良く解る。だから、ヴィクトリアが腫れ物扱いされていても責められない。
以前は親しくしていたリリとロイズからも敬遠されているのは哀れだとは思うが、子供達に無理強いは出来ない。
特に、ロイズは無理だ。ロイズはヴィクトリアと同じように、すぐ目の前で父親が命を落とす様を見てしまった。
二人の傷口はあまりにも深く、新しい。今、顔を合わせても、お互いの傷を深め合うことにしかならないだろう。
 ブリガドーンでの戦いは、ゼレイブの日常を破壊し尽くした。その景色も、三ヶ月と少し前の襲撃で変わった。
手の中に残された僅かな欠片を拾い集めて、以前と同じような、だが大きく違う日常のような日々を作っている。
だが、それはあくまでも日常のような日々に過ぎない。作られたものである以上、そこかしこがぎこちなかった。
欠片は欠片だ。無理矢理手の中に握り締めても、皮が切れて血が流れるだけで、決して元通りにはならない。
けれど、それでも手の中に納めていたい気持ちも解る。不自然であっても、ぎこちなくとも、平穏が愛おしいのも。
 いい加減、眠ってしまおう。そう思ったギルディオスが顔を伏せた瞬間に、窓が何かに遮られて真っ暗になった。
巨大な鳥が、赤い瞳を輝かせて見下ろしていた。ギルディオスは正直うんざりしながらも、夜中の来客を睨んだ。
 睡眠は、当分お預けになりそうだ。




 夜中の散歩というのも、悪くない。
 但し、それはその相手が好ましかった場合のみで、今回の相手は夜中の散歩に相応しいとは思えなかった。
まず最初に、騒がしい。夜であろうとも構わずに喚き散らし、例の甲高い声を上げてぐるぐると飛び回っている。
フリューゲルは器用に飛んでギルディオスにまとわりついているが、一度も羽ばたかずに浮遊し、維持している。
浮遊魔法を放ちながら行動しているのだろう、ほとんど空気を動かさずに、するりと滑らかに頭上を巡っている。
それだけで、このやかましい鳥がどれだけ高性能な魔導兵器なのか解るが、言動のせいで全てが殺されている。

「なぁなぁなぁなぁなぁー!」

 急降下したフリューゲルはギルディオスの前に顔を突き出すと、ばさばさと翼を振り回した。

「どこ行くんだこの野郎ー!」

「近所迷惑にならねぇところだ。お前、ちったぁ静かにしやがれ」

 ギルディオスはフリューゲルの頭部をぐいっと押しやったが、フリューゲルは即座に身を翻した。

「えー、そんなんつまんねーんだぞこの野郎」

「で、お前は何の用事があってオレのところに来たんだ。つうか、夜でも目が見えるのか?」

 鳥なのに、とギルディオスが訝ると、フリューゲルはギルディオスの頭飾りをおもむろに引っ張った。

「見えないわけがねぇだろうがこの野郎。つうか、てめぇは飛べないのか? 鳥なのに? ニワトリ頭なんだろ、ニワトリってのは鳥なんだろ?」

「飛べるんだったらとっくに飛んでらぁな。それにオレはニワトリ頭なんかじゃねぇ、そりゃフィルの付けた渾名だ」

 好きじゃねぇけど、とギルディオスはぼやきながらフリューゲルの手を払った。フリューゲルは、首を曲げる。

「鳥じゃねぇのか?」

「だーから、違うっつってんだろうが」

 ギルディオスはフリューゲルの頭を押さえ、顔を近寄せた。どちらの顔も金属なので、色気もへったくれもない。

「んで、お前はオレと遊びてぇのか、そうじゃねぇのか?」

「うん、あのな」

 幼子のように無邪気に、フリューゲルは笑った。

「オレ様、ヴィクトリアを殺しに来たんだぞこの野郎」

「ほう」

 ギルディオスは、内心で目を細めた。そして、声を低めて威圧感を作る。

「そりゃ、どうしてだ?」

「だって、リリ、あいつが嫌いなんだぞ」

「嫌いだから殺すのか?」

「うん。それに、オレ様も嫌いなんだぞこの野郎。だってあいつ、気味が悪いだろ?」

 フリューゲルの口調は全く変わらず、どこか楽しげでもあった。

「急に喋れなくなったなんて、すっげぇ変だ。あんなに強かったのに、魔法が使えなくなるのもすっげぇ変だ。たまに無茶苦茶暴れるけど、そうじゃない時は人形みたいに動かないのもマジ変なんだぞこの野郎。それに、皆はあいつが嫌いなんだろ? 嫌いだから、一緒に遊ばないし仕事もしねーんだろ? そうなんだろ、ニワトリ頭?」

「それはちょいと違うぜ」

 ギルディオスはフリューゲルの頭から手を離し、解放した。フリューゲルは着地し、目を点滅させて瞬きした。

「嫌いって、そういうんじゃないのか?」

「嫌いなのと、怖いのは違うんだよ」

 ギルディオスはフリューゲルに背を向けると、歩き出した。

「前にもラッドとこんなことをしたような気がするが、まぁいい、付いてこい」

「どこ行くんだよ、ニワトリ頭ー」

「ニワトリ頭って呼ぶな、この鳥頭! お前にだけは言われたくねぇ!」

 ギルディオスはむくれながら、歩調を早めた。フリューゲルはまた浮かぶと、するりと空中を滑って後に続いた。

「くけけけけけけけけけけけけ。トリアタマってなんだ、ニワトリ頭と同じなのかこの野郎?」

「違う!」

 ギルディオスは強く言い返し、ずかずかと進んだ。その間も、くけけけけけけけけ、とフリューゲルは笑っている。
この笑い声は、アルゼンタムのそれ以上に耳障りだ。リリは良く耐えられるものだ、と妙なところに感心してしまう。
夜のゼレイブは、意外と騒がしい。夜行性の鳥や虫の鳴き声が聞こえ、時たま吹く風に木々が揺さぶられている。
しかし、昼間とは明らかに違う。重たい湿り気が降り注ぎ、金属で出来た体に死人と同等の冷たさを与えてくる。
 夜は、死者の時間なのだ。




 二人が向かった先は、ゼレイブを一望出来る高台だった。
 畑が作られている山の斜面を登り切った先にある広場で、人の通った証拠である細い道がそこまで続いていた。
野草を取るために、または子供達が遊ぶために訪れているのだろう。雑草が、小さな足跡に踏み潰されていた。
中には、やたらと大きく深い足跡もある。それは、ロイズらに付き合って遊んでいるヴェイパーのものであった。
 ギルディオスとフリューゲルは、真っ暗な夜景を見下ろしていた。ゼレイブに住まう者達は、全て寝静まっている。
そのため、街全体がずしりと重たい静寂に支配されていた。ギルディオスは地面に腰を下ろすと、胡座を掻いた。
フリューゲルもギルディオスの真似をして座ったが、骨のように細い足が長すぎるので両膝を抱える格好をした。

「なー、これってさあ」

 フリューゲルは、抱えている膝の上に顎を載せた。

「アイビキって言うんだよな?」

 思わず、ギルディオスは吹き出してしまった。笑いを堪えながら、フリューゲルに向く。

「なんでそんな言葉を知っているんだ、お前は」

「フィリオラがな、言うんだ。オレ様とリリが一緒に遊びに出かけると、ナカヨシですねー、オツキアイしているみたいですねー、アイビキですねー、って。で、そのたびにレオナルドが変になるんだ。なんでなんだこの野郎?」

「フィオがお前をダシにしてレオをからかってんだよ」

「へー。そうだったのか。でも、オレ様とリリが一緒にいると、なんでレオナルドはいちいち怒るんだこの野郎?」

「そりゃ、自分の娘が嫁に行っちまったみてぇで寂しいからさ」

「ヨメ? ケッコンしたら喰えるんだよな、ヨメってのは」

「それは誰から聞いた」

「リチャード」

 フリューゲルの答えに、ギルディオスはげんなりした。

「そういうひねくれた冗談を言うのは、リチャードしかいねぇよな、うん」

「なあ、ヨメって旨いのかこの野郎?」

「その辺のことは、お前とリリがもうちょっと大人になったら教えてやるよ。まだ早すぎる」

「えー、つまんねー! 今がいいー!」

 途端に不機嫌になったフリューゲルは、ギルディオスに顔を突き出してきた。

「教えろよニワトリ頭ー! オレ様が命令してんだぞこの野郎!」

 ギルディオスは、フリューゲルの頭を押しやった。彼への文句が口から出そうになった時、足音を聞き取った。
枯れた草を踏み分ける、乾いた葉音が近付いてくる。その歩調はかなり遅く、浅い呼吸の気配も混じっていた。
足音は、真っ直ぐこちらに向かっていた。足音に混じって、何か重たいものを引き摺るような音も聞こえていた。
引き摺られているものが石にでも当たったらしく、がつっと硬い音を立てる。だが、足音は止まらずにやってくる。

「おう、起きちまったか」

 ギルディオスは腰を上げ、彼女を出迎えた。傾斜のきつい斜面を登ってきたので、彼女の息は上がっている。
寝間着のワンピースは裾が乱れて襟元はずれ、肉の薄い首筋の下には痛々しいほどに鎖骨が浮き出ていた。
足には何も履いておらず、枯れ草や石で足の裏の皮を切ったらしく、足の指の間には赤黒い血と泥が付いている。
長い黒髪は艶がなく、櫛も入れられていない。伸び放題の前髪の間から上げられた灰色の瞳は、光がなかった。

「ヴィクトリア」

 虚ろな灰色の目は、ぎょろりと動いてギルディオスを捉えた。彼女は片手に斧を引き摺りながら、歩み寄ってくる。
ぺたぺたと水っぽい足音を立てながら甲冑の傍に立った少女は、糸の切れた操り人形のように首を急に曲げた。
青白く痩けた頬は乾いており、唇も血の気が失せていた。かつての美しかった少女の面影は、どこにもなかった。
 フリューゲルは、身動いだ。以前のヴィクトリアの姿を知っているため、余計に驚いてしまい、目を剥いていた。
たったの三ヶ月で、こうも変わるものか。以前のヴィクトリアは気位が高く生意気だが、紛れもない美少女だった。
顔付きも整っていて眼差しも涼やかで、態度もたおやかだった。だが、今はどうだ。死体と見間違えそうになった。

「こいつ…」

 フリューゲルは戸惑いながら、変わり果てた姿のヴィクトリアを指した。

「本当に、あのヴィクトリアなのか? オレ様の知っているヴィクトリアとは、全然違うぞ?」

「ヴィクトリアはヴィクトリアだ。なあ、ヴィクトリア?」

 ギルディオスが再度名を呼ぶと、ヴィクトリアはかくりと首を曲げた。頷いたらしい。

「な?」

 ヴィクトリアとは正反対にギルディオスの声が明るいので、フリューゲルはなんだか気味が悪くなってきた。

「ニワトリ頭、お前も変だ! こんなおかしなのと一緒にいられるなんて変だ! やっぱりオレ様はこいつが嫌いだ、だから殺す、リリも嫌いだから絶対に殺してやるんだぞこの野郎!」

 ギルディオスは、フリューゲルを制する。

「まあ落ち着けよ、フリューゲル」

「こんなの、気持ち悪いだけだなんだぞこの野郎!」

 フリューゲルは生理的な嫌悪感に任せ、更に喚いた。ヴィクトリアは焦点の定まらない目で、鳥を見つめている。
するとその目と合ってしまい、フリューゲルは後退った。だが、ギルディオスに背中がぶつかり、下がれなくなった。

「い、嫌だぞ、オレ様はお前とトモダチじゃないからな、お前となんて遊びたくないんだからな!」

「遊んでやれよ、フリューゲル」

 とん、とギルディオスの手がフリューゲルの肩を軽く押した。フリューゲルはつんのめり、よろけた。

「嫌だっつってんだ!」

「でも」

 ギルディオスは内心で笑みながら、ヴィクトリアを指した。

「ヴィクトリアはお前と遊びたいらしいぜ、フリューゲル」

 フリューゲルは渋々、前を向いた。直後、目の前の空気が鈍く唸り、先の尖った鉄塊に頭を思い切り叩かれた。
首関節が嫌な軋みを上げて、姿勢が崩れる。応戦しようと顔を上げると、顔の横っ面にまた鉄塊が叩き込まれた。
次は、胸。そして腹、肩、首、足に打撃が加えられる。ぶぅん、と鉄塊が唸るたびに衝撃が訪れ、痛みが起きる。
驚いたのと頭を中心に叩かれているせいで身動きが取れず、フリューゲルは前のめりによろけて倒れ込んだ。
その途端に、胸に影が降ってきた。鉄塊を持った両手が真っ直ぐに振り下ろされると、装甲に刃がめり込んだ。
 視界の中で、乱れた長い髪が散っている。青白かった頬にほんの少しだけ血の気が戻り、表情も生まれていた。
乾いた唇が奇妙に歪み、虚ろだった灰色の瞳は一転してぎらぎらした光を帯び、声のない声で笑い転げていた。
 けたけたけたけたけたけたけたけたけた。







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