ドラゴンは滅びない




籠の中の鳥



 だが、女と会ったのはそれきりだった。
 センソウというものが始まってからは研究員達は日に日に数が減り、フリューゲルの餌が抜かれる日もあった。
時折、研究所の窓の外で閃光が煌めき、地面が揺れる時があった。そのたびに、研究員達は机の下に隠れた。
手紙を残して去る者もあり、研究所の中で自害する者もあり、出征する者もあったが、鉄格子の中は同じだった。
いつも通り、黒くて金臭い棒が並んでいるだけだった。鍵を開けられる日は減ってしまい、体を伸ばせなくなった。
運動量が著しく減ったせいで、成長だけは妙に早い体がおかしくなってしまい、翼や膝が上手く動かせなくなった。
羽ばたこうと思っても、肩も筋肉も固まっているせいで羽根がぶるぶると震えるだけで、鳴き声も鈍くなってきた。
ハツイクショウガイ、というものだと皆は口々に言っていたが、フリューゲルは訳が解らなくて首をかしげていた。
だが、その首もいつしか曲がらなくなり、前のめりになったままになってしまい、そのせいで喉が潰れてしまった。
研究員達は、難しい顔をして鉄格子の中を覗き込んできた。彼らは、毒を使うべきか否かを悩んでいるようだった。
このまま放っておいても、いずれ死ぬだろう。だが、処分しなければレンゴウグンに研究成果が渡ってしまう、と。
意味は解らなかったが、大変そうなのは確かだった。けれど、喉が潰れているせいで、変な声しか出せなかった。
 戦争が始まってしばらくしたある日、ウィリアム・サンダースが現れた。ひどく痩せて疲れていたが、彼だった。
覚えのある匂いに混じって鉄臭さと油臭さもしており、手も機械油で汚れ、機械を扱う仕事をしているようだった。
ウィリアムは、研究員達に話を持ちかけていた。キョウワコクグンは負ける、レンゴウグンに付いた方がいい、と。
研究員達の何人かは、レンゴウグン行きの話を受けた。そのうち、フリューゲルの処遇も話題に上るようになった。
処分するべきか、それとも研究成果を有効利用するべきか。ウィリアムも、皆も、真剣な顔をして話し合っていた。
フリューゲルも話し合いに参加したかったが、声が出ないままだった。ぐえ、とも、ぎょえ、とも鳴けず終いだった。
 それが、歯痒かった。


 数日後に、結論は出た。
 フリューゲルは、レンゴウグンに連れて行かれることになった。だが、役に立たない肉体は捨てていくのだそうだ。
魂だけを抜き出して魔導鉱石に収め、マドーヘイキにするのだそうだ。きっと、これも眠っているうちに終わるのだ。
マドーヘイキというものがどんなものなのか、ウィリアムから色々と説明されたが、ちっとも頭に入ってこなかった。
研究員達が交わす言葉よりも面倒な言葉ばかりだったし、興味もなかったので、ウィリアムの独り言も同然だった。
それでも、鉄格子の中にいたために、聞かないわけにはいかなかった。こればかりは、さすがに退屈だと思った。
 レンゴウグンの軍人が迎えに来る前日、フリューゲルは久々に外へ出された。サイゴのジヒ、と誰かが言った。
いつも見ていた庭に出たが、ハツイクショウガイのせいで歩行も飛行も困難だったので、かなり動きづらかった。
よたよたと這いずって、翼を引き摺りながら進んだ。庭の中程まで来てから上を見ると、あの青い天井があった。
大分前に見た時よりも色はくすんでいたが、それでも綺麗な色をしていて、そこかしこに白いものが散っていた。
あれは何なのだろう。フリューゲルがふわふわした白いものをじっと見つめていると、背後でウィリアムが言った。

「そうか、お前は何も知らないんだな」

 ウィリアムの言葉は、同情的だった。フリューゲルは動きの鈍い眼球を動かして、厚い瞼を上下させて答えた。
首が動かせなくなったので、頷く代わりだ。ウィリアムはフリューゲルの傍まで近付くと、同じように天井を仰いだ。

「あの白いのは雲と言うものだ」

「ぎぅ」

 じゃあ、これは。フリューゲルは嫌な音を立てる肘を伸ばし、雲の周囲に広がる青い天井を示した。

「それは空だ。どこまでいっても、同じものが広がっている」

「ずぉ、るぁ」

「空の上には、天上の世界がある」

「づぇん、じょ?」

「天上。つまり、神のおわす世界だ。死んだ者は空の上に導かれ、星となって世界を照らすんだ」

「ぐぁ、びぃ」

「もっとも、オレはそんなに綺麗なところには行けないだろうが」

 ウィリアムの眼差しは、空を通り越した場所を見つめていた。

「ここから逃げ出した時、オレはまともに生きようと誓った。妹を救えなかったことは忘れられないが、普通に家族を得て、穏やかに生きるつもりだった。だが、やっと見つけた女房はオレの汚い過去に感付いた途端に、オレも娘も放り出していっちまった。せめて娘を連れて行ってくれれば少しは許せたんだが、あいつは一回りも年下の男に擦り寄っていやがった。本当にどうしようもない女だから、ろくでもない奴に金を渡して殺してもらったが、そのおかげでオレも魂を握られている。自業自得ってのは、このことだ。旧王都に置いてきてしまった娘のことは心配だが、きっと大丈夫だろう。ヴァトラス家の長兄が目を掛けてくれているようだからな。死ななければいい、生きてさえいればいいんだ。オレのことは、いくら憎んでくれても構わない」

 ウィリアムの目が、フリューゲルの白濁した目を見下ろした。

「悪いな、つまらない話を聞かせてしまって。連合軍に行ったら、上手くやれよ」

「ぐぇ」

 フリューゲルは返事をした。だが、何をどうやればいいのか解らないので尋ねたかったが、言葉にならなかった。
ウィリアムは、それきり黙ってしまった。フリューゲルは何も言わないウィリアムから興味を失い、空を見上げた。
 これは、天井ではなかったらしい。ソラ。そら。空。空。空。空。空。空。空。空。空。空。どこまでいっても、空だ。
たまに雲。ずっと雲。雲。雲。雲。そして、空。なんて面白い。なんて楽しい。なんて広い。なんて、なんて、なんて。
飛びたかったが、飛び立てなかった。翼を広げようとすると関節が軋み、脆くなっていた骨が砕けて痛みが起きた。
空は遠い。とてもとても遠い。けれど綺麗だ。行きたい。でも、行けない。どうしようもなく悲しくなって、鳴き喚いた。
 けれど、空は近付いてきてくれなかった。




 空。空。空。
 フリューゲルは銀色の翼を備えた両腕をだらりと下ろし、あの日と同じように澄み切った高い空を仰いでいた。
あれほど遠いと思っていた空も、今ではすぐに近付ける。白くて湿っぽい雲も、呆気なく突き破ることが出来る。
鉄格子の外側の世界は、とても楽しい。あの日、フリューゲルが思い描いたものよりも、遥かに面白く広大だ。
魔導鉱石に魂を収めた状態で連合軍に引き渡されてからのことは解らないが、あまり知りたいとも思わなかった。
今更、そんなことはどうでもいい。過去のことを思い出したのだって、たまたまこの研究所が目に付いたからだ。
目に付かなければ、一生思い出さないままでいただろう。フリューゲルにとっては、己の過去とはそんなものだ。
誰かに話したところで、何にもならない。自分でも面白いと思わないのだから、きっと他の皆も面白くないはずだ。
 フリューゲルは、手の中に持っていた自分の骨を握り締めた。長年放置されて風化していた骨は、軽く砕けた。
白い粉となって土に飛び散った骨を散らしてから、フリューゲルは研究所に振り返った。これ自体が、檻なのだ。
フリューゲルが入れられていた鉄格子の箱は、檻、という名のものだ。だが、更にもう一回り大きな箱もあった。
それが、この研究所だ。昔はなんとも思っていなかったが、今は見ているだけで無性に腹が立って仕方なかった。
ここは、ちっとも楽しくない。魔導兵器三人衆の禁書回収の仕事や、ゼレイブでの日々に比べると雲泥の差だ。
何も知らなかったからこんなにつまらない場所でも我慢出来ていたのだが、物を知り始めた今では我慢出来ない。

「それに、なんつーか」

 フリューゲルは、手の中に僅かに残った骨片を見下ろした。

「オレ様、カワイソーだ」

 目を上げると、研究所の庭には穴が空いていた。窪みからは、朽ちかけた羽根が貼り付いた骨が出ていた。
羽根の色は褪せていたが、骨に繋がっている根本には見覚えのある青が僅かに残っていた。あれも、自分だ。
決して広くない庭の中に、フリューゲルが埋まっていた。かつての自分は、ろくな埋葬もされていなかったのだ。
それはそうだろう。研究員達にとってフリューゲルは単なる道具でしかなく、研究成果を示すものでしかなかった。
だから、いい扱いを受けるわけがない。そうだと解るようになっていても、ぞんざいに扱われたと思うと腹立たしい。
意志は希薄だったかもしれないし、知能も低かったかもしれないし、失敗作だったかもしれないが、生きていた。
何十体にも及ぶフリューゲルは、同じ魂を共有し同じ記憶を持っていたが、それぞれ違うフリューゲルだったのだ。
フリューゲルを名付けられる前のイチゴウも、最初に目を覚ましたイチゴウも、意識すら持てなかったイチゴウも。
けれど、全部自分だ。その自分を軽く扱っていた研究員達を殺してしまいたいが、もう、彼らはどこにもいない。
だから、誰も殺せない。それが面白くなかったが、リリとの約束を思い出したので慌ててその思考を振り払った。

「んー…」

 フリューゲルは骨片を見つめていたが、ふと、先日のダニエルの葬儀を思い出した。

「なんか、してたよな?」

 ブリガドーン戦の最中、アレクセイとエカテリーナの作戦によって戦死したダニエルは、焼かれて骨になった。
その骨はリチャードのマントに包まれてゼレイブに持ち帰られ、改めて棺に入れられて埋葬されて墓を作られた。
だが、骨を持って帰ろうにも、庭に埋まっている骨は量が多すぎて持ち帰れない。かといって、一体だけでは。
フリューゲルは首をかしげながらしばらく考えていたが、うん、と大きく頷いた。持ち帰れないなら、燃やせばいい。
燃やしてしまえば、火葬になるはずだ。かなり強引な結論だったが、フリューゲルは満足して浮上し、上昇した。
 研究所は、真上から見下ろすとブラドール家の屋敷よりも小さかった。それに、外見に全く面白味がなかった。
ブラドール家の屋敷は、古いだけあって様々な装飾が施されているので面白いが、これはただのっぺりしている。
塀に囲まれている庭も、周囲の土地が広いのに庭の中は広くない。ますますつまらなくなったが、一応我慢した。
どうせ、すぐに壊すのだ。面白くなかろうが、どうでもよくなる。そう思い直したフリューゲルは、両翼を全開にした。
いつも通りに魔力弾を振りまいて空爆しようと思ったが、魔力を止めた。他の攻撃も、出来るようになったはずだ。
リリと契約を結び、破損した魔導鉱石を修復するために魔導鉱石を吸収したおかげで、魔力の扱いを知った。
それまでは、単純に外に出すだけだった魔力を変化させられるようになった。といっても、その種類は少ないが。
ゼレイブにいる限り、戦闘を行わないので使う機会はない。だから、この機会を逃したら、当分使えないだろう。
となれば、やらない他はない。フリューゲルは久々に沸き起こる破壊衝動を味わいながら、両翼を大きく掲げた。

「くけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけ!」

 人造魔力中枢の回転数を上げて魔力を高め、両翼に注ぎ込む。ばさり、と一振りすると、翼が炎に包まれた。

「行くぜ行くぜ行くぜぇー!」

 フリューゲルは炎を纏った翼を大きく振ると、研究所の真上に急降下した。

「オレ様によるオレ様のためのオレ様しか使えない最高最強最悪の必殺技ぁああああ!」

 屋根を突き破って屋内に飛び込んだフリューゲルは、翼を包んでいる朱色の炎を収束させ、射出した。

「炎嵐!」

 威勢の良い掛け声と同時に、炎の弾丸が壁という壁を貫いた。窓は強烈な熱波を浴びて砕け、破片が散った。
荒々しい魔力で成された炎の固まりが本棚や研究資料の束に命中すると、たちまちに燃え上がり、灰と化した。
火の手はあっという間に広がり、ヒビの走っていた天井が砕けて崩れ始めた。フリューゲルは、くるりと身を翻す。
その動きに合わせて振られた翼の先から放たれた炎が、大きく空いた壁の穴から飛び出し、庭に降り注いだ。
着弾すると、爆発した。魔力を大量に含んだ炎が爆ぜるたびに、地面には新たな抉れが次々と生まれていった。
それが妙に楽しくて、フリューゲルはくるくると回り続けた。部屋の片隅にあった鉄格子の箱も、溶けて崩れていた。
これで、自由だ。清々しい開放感に、くけけけけけけけけけけけ、と高笑いしていると、足元がずんと大きく揺れた。
少し壊しすぎたか、とフリューゲルは回るのを止めて素早く飛び立った。屋根の穴から出て、炎の海を見下ろした。
 ほんの一時の破壊活動で、研究所は焼き尽くされていた。炎の弾丸によって穴だらけになった壁が、倒れる。
ずぅん、と鈍く重たい震動が起き、研究所の敷地全体が揺れた。すると、敷地が動き、建物ごと地面がずれた。
更なる爆発のたびに、また下にずれる。いつしか、研究所の建っていた建物とその周りが一段下がっていた。
どうやら、下に空洞でもあったらしい。初めて知る事実に少し驚きつつも、フリューゲルは最後の一撃を放った。

「これで終わりだぁこの野郎ー!」

 一際大きな炎の固まりを生み出し、翼を振ると同時に、地面に叩き込んだ。着弾の直後、地面が吹き飛んだ。
盛大な爆音と全身を揺るがす衝撃波を浴び、フリューゲルはぞくぞくしていた。やはり、破壊は素晴らしく楽しい。
煙と砂の混じった粉塵が舞い上がり、火の粉が爆ぜて熱が漂う。それらの隙間から、半球状の空洞が見えた。
その空洞に、フリューゲルは既視感を覚えた。どこかで見たことのある構造だ、と思ったが、それも崩れ去った。
焼け焦げた土も割れて砕け、穴の中に雪崩れ込んでいく。その崩れが収まると、穴はすっかり埋まってしまった。
土は穴を埋め尽くし、中に何があったのか解らなくなってしまったのだが、フリューゲルは全く興味を持たなかった。
終わったのだから、もうどうでもいい。フリューゲルは晴れやかな気持ちで燃え盛る廃墟に背を向け、飛び立った。
 帰るべき場所へ、帰ろう。




 翌朝。フリューゲルは、ゼレイブに戻っていた。
 だが、研究所を破壊する際に暴れすぎてしまったらしく、帰り着いた頃には魔力の残留量が怪しくなっていた。
新しい攻撃手段を覚えたのが楽しくて仕方なく、また、魔力弾以外のものが作り出せたことで浮かれてしまった。
そのせいで歯止めが利かず、敵もいないのに張り切りすぎてしまい、つい出力を最大にして炎を放ってしまった。
ゼレイブの敷地内、つまりはラミアンの魔力の蜃気楼の内側までは飛んできたのだが、とうとう力尽きてしまった。
飛行せずに移動すると意外にもゼレイブは広く、正直、ヴァトラス一家の家まで歩いていくのはとても面倒だった。
だが、一刻も早くリリに近付かなければ魔力が補充されない。フリューゲルは翼を引き摺りながら、ゆっくり歩いた。
 あー、うー、と居間にも死にそうな呻きを漏らして歩いていると、朝日に照らされている大柄な甲冑が立っていた。
ギルディオスはいつものバスタードソードを背負って、太い木に寄り掛かっていた。待っていてくれていたらしい。

「おう。帰ってきたか、フリューゲル」

「おー、にわとりあたまー…」

 手を挙げる余力もなかったので、フリューゲルは力なく返した。ギルディオスは、内心で目を丸める。

「どうしたんだ、フリューゲル。やけに疲れてねぇか?」

「うん、あのなー、ひっさつわざって、たいへんだな」

 あー、うー、とフリューゲルは歩いたが、上手く立っていられないので左右にふらふらと揺れてしまった。

「リリと離れた状態で戦うと魔力の消耗が激しいから暴れるなって、先に言っておいただろうが」

 ギルディオスに咎められたが、怒る気力もないフリューゲルはずるずると前進した。

「うん、でもな、なんか、むかついたんだ」

「連合軍でもいたのか?」

「ちがう」

 フリューゲルは、ぎちっ、と首を動かしてギルディオスを見やった。

「でも、もういいんだ。おわったから」

「そうか」

 ギルディオスは若干訝しげだったが、深く聞いてこなかった。それをありがたく思いながら、更に前進を続けた。
今は、声すらも無駄に出来ない。直線上にヴァトラス一家の家は見えてきたが、まだまだ距離は開いていた。
あそこにはリリがいる。リリが待っている。リリが。リリが。リリが。フリューゲルは、疲れ切った魂を奮い立たせた。
もうすぐ、リリに会える。魂が焼け付きそうなほどに熱いが、それでいて柔らかな気持ちが全身にくまなく広がる。
だが、足が動かなくなった。股関節に力を入れて足全体を前に出そうとしても、体内で歯車が上手く噛み合わない。
噛み合っているはずなのに、歯車が動かない。歯車が動かなければ、この機械仕掛けの体は動かないままだ。
もうすぐなのに。もうすぐで会えるのに。本当に後少しで、大好きな少女の元へと帰れるのに。会いたかったのに。
帰ってきた。帰って来たかった。なのに、この体は全く言うことを聞かない。フリューゲルは憤りに任せ、叫んだ。



「リリィイイイイイイイッ!」



 甲高く引きつった絶叫が、穏やかな空気を切り裂いた。木々の間からは、声に驚いた鳥が飛び立っていった。
彼らの羽音を聞きながら、フリューゲルは肩を上下させた。これでいい。これで彼女は来てくれる。すぐに来る。
それまでは立っていよう、と思ったが、絶叫したせいで残り僅かだった魔力を消耗してしまい、視界が薄らいだ。
がしゃり、と耳障りな金属音がしたと思ったら、膝を地面に付いていた。こんなことは、ラミアンに負けた時以来だ。
後少し。本当に、後少しだけでいい。そう思って虚空を見つめていると、名を呼ぶ声がした。何度も何度も何度も。

「ふりゅーげるうっ!」

 ヴァトラス一家の家の扉から転がるように飛び出した寝間着姿の少女が、裸足のままで駆けてくる。

「ふりゅーげるうぅーっ!」

 懐かしくも愛おしい、我が主の声だった。

「フリューゲルー!」

 寝て起きたままの格好のリリは、フリューゲルの胸に飛び込んだ。

「お帰り、フリューゲル!」

 いつもなら受け止められるが、魔力がないためにその勢いに負けてしまい、フリューゲルは倒れてしまった。
それでもリリは構わずに、フリューゲルにしがみついてくる。可愛い寝間着が汚れることも、気にしていなかった。
フリューゲルは、硬いだけの肌に染み込んでくる温かな体温と、脈打ちながら魂に流れ込む熱い魔力を感じた。
魔力が抜けたせいで冷えていた各機関部にも熱が戻り、魂が目覚め、心が熱する。ああ、リリだ。リリがいる。
フリューゲルは両手をぐっと握り締め、魔力が戻ったのを確かめてから起き上がり、縋り付くリリを抱き締めた。

「リリ、リリ、リリー!」

「お帰り、フリューゲル! お帰りなさい、ちゃんと帰ってきてくれるって思ってた!」

 リリは青い瞳を涙で潤ませ、フリューゲルを見つめてきた。フリューゲルは、それだけで心が満たされた。

「うん、帰ってきたぜこの野郎!」

「お外でもちゃんと良い子にしてた?」

 リリは小さな手を伸ばし、フリューゲルのマスクを愛おしげに撫でた。フリューゲルは、赤い瞳を細める。

「うん。でも、最後にちょっとだけ暴れてきた」

「なんで?」

「昔のオレ様を、全部終わらせてきたんだ。だからな、リリ。オレ様は、今のオレ様だけなんだぞ」

「意味が解らないよ」

 きょとんとしたリリに、フリューゲルは笑った。

「くけけけけけけけけけけけけけけ。オレ様もだ!」

「でも、もう、なんでもいいー!」

 リリは腕を伸ばすと、フリューゲルの首に抱き付いた。そして、両手でフリューゲルの顔を挟んで引き寄せた。
フリューゲルが気付いた時には、リリの柔らかい唇がマスクに触れていた。リリは嬉しそうで、頬を染めている。
これは一体何だろう、とフリューゲルは不可解に思ったが、リリがあまりにも幸せそうなので引き剥がせなかった。
そのままリリは体重を掛けてきたので、フリューゲルは姿勢を崩してしまい、背中から地面に倒れ込んでしまった。

「くきゃっ!」

 フリューゲルは変な悲鳴を上げたが、リリが転げ落ちそうになっていたので、すかさず手を伸ばして受け止めた。
リリは照れ臭そうに笑いながら、フリューゲルの胸に頬を擦り寄せている。嬉しいには嬉しいが、少し恥ずかしい。
心底幸せそうなリリを抱えて起き上がると、ヴァトラス一家の家の玄関先に立っているレオナルドと目が合った。
 呆然としているレオナルドの傍には、娘と同様に照れているフィリオラに、口をぽかんと開けているロイズがいた。
一部始終を見られていたらしい。リリもそのことに気付いたらしく、あ、と小さく声を上げて、顔を伏せてしまった。
先程の口付けは恥ずかしかったらしく、指の隙間から覗いている頬は真っ赤になっており、体温も上がっていた。

「やだぁ…」

 頬を染めて恥じらうリリは愛らしかったが、レオナルドに睨まれているフリューゲルはそれどころではなかった。
今まで見た中で、一番怖い顔をしている。フィリオラの持つ竜の威圧感とは違った感覚に、圧倒されそうになる。
逃げられるものなら逃げたかったが、リリを放って逃げられない。どうしよう、と困っていると、フィリオラが笑った。

「本当に、レオさんってば親馬鹿ですねー」

「おっ、お前は何も思わないのか、フィリオラ!」

 妙に上擦った声を上げて、レオナルドはフリューゲルを指した。ロイズも、こくこくと頷いている。

「僕も、ちょっとはまずいとは思います!」

「あらまあ」

 フィリオラは頬に手を添え、にたりと笑んでロイズを見下ろした。その笑みにたじろぎ、ロイズは俯いた。

「別に、深い意味はないんですけど…」

「あらどうしましょう、レオさん。敵が増えちゃいましたねー」

 フィリオラに茶化されて、レオナルドは恥ずかしさを紛らわすために声を荒げた。

「うるさい! 大体、敵とはなんなんだ、敵とは!」

「私個人の意見としては、恋愛対象も初恋の年齢も自由だと思うんですけどね。それに、私達は種族の違いがどうこうと言える立場じゃありませんってば」

「だからって、あれが恋愛対象として相応しいわけがないだろう! お前は認めても、オレは認めないからな!」

 レオナルドはフィリオラに食って掛かりながら、フリューゲルを貫きそうな勢いで指した。

「ロイズ、お前も何か言ってやれ!」

 レオナルドに命じられ、ロイズは戸惑いながらもフリューゲルに向いたが、これといって文句は出てこなかった。
確かにフリューゲルのことが気に食わないと思う瞬間はあるが、レオナルドほど嫌っていないし、友人の一人だ。
だから、言うべきことは決まっている。ロイズはいきり立っているレオナルドを横目に見てから、鳥人に声を掛けた。

「お帰り、フリューゲル」

 二人のやり取りを眺めていたフィリオラは、微笑ましげに笑いながらフリューゲルに向いた。

「フリューゲル、お帰りなさい。それと、おはようございます」

「あ、うん。ただいま」

 フィリオラの笑顔に毒気を抜かれたフリューゲルは、至極まともな返事をした。フィリオラは、レオナルドを指す。

「レオさんが落ち着くまで時間が掛かりそうなので、それまではリリと存分にいちゃいちゃして下さいね」

「え、ええ…?」

 それでいいのだろうか。ロイズが困惑していると、フィリオラは文句を並べ立てるレオナルドを家の中に戻した。 
フィリオラの調子に付いていけない。ロイズがその場に突っ立っていると、フィリオラは扉を開けて手招きしてきた。
入れ、ということらしい。ロイズはリリに振り返ったが、頬を赤く染めたリリは気恥ずかしげな眼差しを伏せていた。
その表情に軽く妬けたが、今は押し殺すことにした。この二人は親友なのだから、再会したら嬉しいのが当然だ。
だから、どれほどリリが嬉しがっていてもなんら不自然な点はない。そう自分に言い聞かせながら、家に戻った。
三人が家の中に引っ込むと、周囲は朝の静けさを取り戻した。なんとなく、フリューゲルとリリは見つめ合った。
 リリはまだ照れ臭そうだったが、だらしなく頬を緩めている。フリューゲルは、リリのツノの生えた頭を撫でた。
ギルディオスやレオナルドやブラッドがしていたように撫でてやると、リリはますます笑うので、こちらも嬉しくなる。
すると、リリも手を伸ばしてフリューゲルの頭を撫でてきた。良い子良い子、と言われると、また嬉しくなってきた。

「リリ」

「なあに?」

「ん、なんでもねぇや」

 フリューゲルは胡座を掻くとリリを膝に座らせ、寝乱れたままになっている薄茶の柔らかい髪に頭を擦り寄せた。
研究所を完全に吹き飛ばしたから、もう過去を思い出すことはないだろう。壊してしまえば、何もかも失われる。
壊してはいけないものも多いが、壊さなければならないものもある。あの檻と研究所は、壊すべきものだったのだ。
だが、リリは絶対に壊させない。こんなにも嬉しそうに自分の名を呼んでくれて、出迎えてくれるのはリリだけだ。
 空は近付いてこなかった。だが、リリは近付いてくれる。誰も外に出してくれなかった。だが、リリは出してくれた。
あの檻でもブリガドーンでもないゼレイブに導いてくれて、毎日のように遊んでくれて、全力で好意を示してくれる。
傍にいるだけで、魔力とは違ったものも満ちてくる。フリューゲルは空を仰ぎ、どこまでも続く群青色を見つめた。
 鉄格子のない世界こそ、本物の世界だ。




 造られた命を弄ばれ、鉄の籠に捕らわれていた鳥。
 その記憶の中には、悪しき竜の青年と、道を誤った男が在った。
 だが、それらの過去を破壊して終わらせた今、彼の心に在るのはただ一つ。

 幼き主への、熱き思いだけなのである。







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