ドラゴンは滅びない




冷たい口付け




 ルージュは、真剣だった。


 全身に巡らせた高ぶらせている魔力を維持し、僅かでも弛ませないように気を遣いながら、慎重に目を開けた。
眼球を覆っていた瞼が上がり、ぬるりと粘膜が滑る。指先に触れている肌は冷たかったが柔らかく、弾力がある。
握り締めていた両手を緩めて、片手を上げて髪に触れた。硬質で無機質だった髪の手触りが、優しくなっていた。
指を通しても肌が切れることはなく、滑らかな感触だけが残った。焦点の定まってきた目を上げ、鏡を見据えた。
 鏡に映っていたのは、兵器ではなかった。最初に見た瞬間は戸惑ったものの、すぐにそれが自分だと解った。
今では記憶の中にしかない、生身の頃の自分そのものだった。青白く生気の感じられない肌も、吸血鬼らしい。
唇を開けてみると、ちゃんと舌も歯も出来ている。舌先で歯をなぞると、犬歯の位置に鋭い牙が備わっている。
吸血鬼の命ともいえる牙も、ちゃんと再現されている。それが無性に嬉しくて頬を緩めると、鏡の中の女も笑った。
鉱石ランプで照らされているために一層血の気が失せている肌に手を伝わせ、柔らかな感触を確かめてみた。
大きく張りのある二つの乳房も、握り締めると弾力が返ってくる。生前よりは少々硬い気もしたが、問題はない。
胸の間には、五角形の紫の魔導鉱石が埋まっている。魔力数値が特に高い魔導鉱石は、変化出来なかった。
さすがはフィフィリアンヌの教えてくれた魔法だ、とルージュは感服した。自分の力だけでは、ここまでは出来ない。

「気は済んだか?」

 窓際の机に腰掛けているフィフィリアンヌは、分厚い魔導書をめくっていた。

「凄いな。完璧だ」

 ルージュは心底喜びながら、フィフィリアンヌに向いた。フィフィリアンヌは、目線も上げずに返す。

「その変形魔法が作用しているのは外見に過ぎぬ。だから、貴様の肌は普段の装甲と変わらぬし、腹の中には歯車が詰まっておる。だから、変化としては不完全だが人の目を眩ます程度には使える魔法だ。貴様のような者は、完全に変形させられんのだ。魔導兵器とは魔力の固まりであると同時に無機物の固まりであるが故に、有機物の姿を模すことは出来るが有機物になれはせん。それを充分弁えておけ」

 フィフィリアンヌはページの間に細い指を挟んでから、僅かに視線を上げた。

「そのまま、あの男を喰らいに行くつもりか?」

「別に、そういうつもりでは」

「だが、貴様がその姿になる理由として考えられるのは、ブラッド絡みしかないではないか」

「それは、そうだが…」

「入り用であれば、人工体液でも作ってやるが?」

「必要なのか?」

 ルージュは鏡に振り返ると、そこに映る自分を改めて眺めた。どこからどう見ても、若さの漲る瑞々しい女だ。
瞳も潤んでいるし、舌にはほんの少しだが湿り気はある。しばらく訝っていると、フィフィリアンヌが目を上げた。

「貴様の体内には冷却水は備わっておるが、体液はないに決まっておる。下が濡れぬと、どちらも辛かろうて」

「う…」

 股間に手を差し込んでみて、ルージュは眉を下げてしまった。フィフィリアンヌの言った通り、乾き切っている。
どうやら、目や口中には冷却水を回せたようだが、他の部分、特に重要な性器に回せる余裕はなかったらしい。
生前の柔らかくもぬるりとした感触を思い出しながらまさぐってみるが、指に伝わるのは無機質な冷たさだけだ。
肝心なところが機械のままでは、どうしようもない。ルージュは逃げ出したいほど恥ずかしかったが、懇願した。

「すまん、作ってくれ」

「ならば、別料金だ」

 フィフィリアンヌは本を閉じると脇に抱え、身軽に机から降りた。

「書庫の整理を頼む」

「書庫なら、この間も整理したはずでは?」

 訝しげなルージュに、フィフィリアンヌは首を横に振った。

「あれは三階の書庫だ。まだ、一階二階と地下が残っておる」

「はっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは。この城に貯蔵されている書物の数は天空に煌めく星の数にも等しいのであるからして、このトカゲ女の馬鹿馬鹿しいまでに膨大な活字への欲望を満たすためだけに集められたのに過ぎぬものであり、学術的価値はないのであるからして、丁重に扱わぬとも良いのである」

 フィフィリアンヌの腰に下げられたフラスコの中で、伯爵がごぼごぼと泡立った。彼女は、僅かに眉根を歪める。

「私の見込んだ本に、価値がないわけがなかろうが。価値がないものとは、貴様の下らぬ言動のことを言うのだ」

「そんなことでは、いつか床が抜けるぞ」

 ルージュが呆れると、フィフィリアンヌは彼女の脇を通り過ぎ、扉を開けた。

「そんなもの、当の昔に抜けておるわ。何分古い城だからな、補強の魔法で保っておかんとならんのが面倒だ。また著者名と分野別に整理して、本棚に詰め直しておいてくれ」

「了解した」

 ルージュが答えると、フィフィリアンヌは小さく頷いてから扉を閉めた。口で言うのは簡単だが、面倒な仕事だ。
安請け合いしてしまったことを後悔したが、逆らえる身分ではない。この体も魂も、彼女によって生かされている。
ブリガドーンが消滅してしまった今では、人造魔導兵器が消耗する並外れた魔力を補給するのは大変なのだ。
大出力で攻撃を行い、高速で移動するためには、それ相応の出力と質を持った魔力を欠かすことが出来ない。
魔力がなくなってしまえば魔法を発動出来なくなり、そうなればルージュは単なる機械仕掛けの人形でしかない。
また、魔導鉱石に収めている魂もフィフィリアンヌに修復してもらったが、死している事実が消えたわけではない。
死している以上、自力で再生し活性化することは不可能だ。だからこそ、フィフィリアンヌから離れられないのだ。
フィフィリアンヌが定期的に注いでくれる魔力を失うことは、本当の死を意味している。だが、もう死にたくなかった。
 まだ日は高い。昼下がりなので太陽は眩しく、枯れ始めた草木を照らしている。夜にならなければ、行けない。
昼間では目立ってしまうし、何より他の者達が起きている。ゼレイブに住まう者達が寝静まってからでなければ。
ブラッドは、ブリガドーンの戦いでルージュを殺したということになっている。その際、彼は約束をしたらしいのだ。
手加減せずに本気で戦い、ルージュを殺す、と。ルージュが生きていることが知れれば、一悶着起きてしまう。
少なくとも、ブラッドは何かしら責められてしまうはずだ。それを考えただけでたまらなく嫌なので、息を潜めている。
それに、フィフィリアンヌの命令もある。本当はこちらの方が重要なのだが、ついブラッドへ思考が傾いてしまう。

「あ…」

 ルージュは我に返り、自分が全裸だと気付いた。上手く変化出来た嬉しさのせいで、すっかり失念してしまった。
まずは服を探しに行こう、夜までに間に合えばいいが、とルージュはシーツを外して体に巻き付け、縛り付けた。
さすがに今夜は、いつもの菓子を持っていくことは出来ないだろう。すまん、とルージュは内心でブラッドに謝った。
ブラッドはルージュの作る他愛もない料理を楽しみにしてくれているので、申し訳なかったが、今回は仕方ない。
 それに、きっと喜んでくれるはずだ。彼も男なのだから。ルージュは自室を出ると、裸足で薄暗い廊下を駆けた。
いつもと勝手が違うので転びそうになりながらも、冷え切った石畳の床を蹴り、服がありそうな部屋を目指した。
 だが、見つかったのは布だけだった。カーテンか何かの布らしい、厚みのある真っ黒な大きな布しかなかった。
これを使って適当な服を作ることも考えたが、裁縫をしようにも時間が足りないので、服に仕上げられないだろう。
それ以前に、裁縫はあまり上手くない。フィフィリアンヌから教えてもらっているが、一向に上達していないのだ。
けれど、なんとかなるはずだ。自室に戻ったルージュは黒い布と睨み合いながらも、時折鏡を見、にやけていた。
 久し振りに、心が浮き立った。




 その夜。ブラッドは、湖畔に座り込んでいた。
 月の高さから考えても、いつもならルージュはとっくに来ているはずの時間なのだが、彼女はまだ来ていない。
辺りを見回しても、それらしい影はなかった。もっとも、気配が強いので、近くに来たのならばすぐに解るのだが。
彼女が待っていたことはあっても、待たされたことは少ない。だから落ち着かなくて、ブラッドはそわそわしていた。
 鋼の女吸血鬼、ルージュとブラッドが真夜中の逢瀬を重ねるようになったのは、彼女と再会してすぐ後だった。
この手で殺したはずのルージュと再会したことが信じられなくて、信じたくて、湖に向かう頻度は以前よりも増した。
最初の数回は擦れ違ってしまったらしく、ルージュと会えなかったのだが、そのうちに互いの間が合うようになった。
それから二人は、湖に訪れる時間を決めておくことにした。その結果、二人は密会を重ねられるようになったのだ。
密会はブラッドよりもルージュの方が熱心で、ブラッドが湖を訪れるよりもずっと前から待っていることが多かった。
たまにブラッドが先を越そうと早い時間に向かってみても、既にルージュが待ち侘びていたこともたびたびあった。
そんなことの繰り返しだったので、ルージュが早く来るのが当たり前になっており、遅れるとは思っていなかった。
 焦燥感に耐えきれなくなって立ち上がったブラッドは、探しに行こうか、と思ったが、またその場に座り直した。
下手に移動して擦れ違ったりしたら、彼女に悪い。それに、いつも待ってもらっているのだから、待つのは当然だ。
だから、もう少し頑張ろう。ブラッドは変に緊張しながら、ルージュがどの方向からやってくるのか気にしていた。
考えてみれば、ルージュがどの方向から来るのか見たことはない。なので、ブラッドは忙しなく目を動かしていた。
 すると、空間に歪みが生じた。ブラッドが反射的にその方向に振り返ると、星空がぐにゃりとねじ曲がっていた。
その歪みから、人影が降ってきた。わあ、と聞き覚えのある声色の悲鳴が上がって、草むらの中に転げ落ちた。
ブラッドは素早く立ち上がり、駆け寄った。そこには、銀色の長い髪を持った青白い肌の女が倒れ込んでいた。
 銀髪の女は、やけに薄着だった。夜はかなり冷え込む季節にもかかわらず、肩も腕も出していて、足も裸足だ。
ブラッドのマントに色味が似ている黒い布を巻き付けているため、減り張りの付いている体型が強調されている。
左肩で角を縛り、腰の部分は同じく黒の帯を締めて背中で結び、一応の体裁を付けているが服には見えない。
乳房は爆ぜてしまいそうなほど大きいが腰は華奢で、尻から足に掛けての線はしなやかで、申し分なく魅力的だ。
女の瞳は、深い赤色だった。だが、瞳孔は縦長ではなく普通で、気配も強烈ではないので、竜族ではなさそうだ。

「そうか、これでは解らないか」

 女の艶やかな唇が開き、よく知った声が出てきた。唇の隙間から、鋭い牙が覗く。

「ブラッド。私だ」

 その声に、ブラッドは目を丸くした。いつもよりもやや水気を含んでいるが、間違いなくこの声はルージュだ。

「ルージュ、なのか?」

 女は、とても美しかった。涼やかな目元と整った鼻筋と薄めの唇の配置と均衡は、計算し尽くされたかのようだ。
豊かな銀髪の下に隠れている首筋と鎖骨は細く、力を加えれば折れてしまいそうだが、その下の乳房は大きい。
両腕に無駄な肉は一切付いていなかったが、黒い布の下から零れている白い太股は乳房と同様に柔らかそうだ。
ブラッドの知る限り、一番好みの女だった。というより、ルージュを生身にしたら、と想像していたのとほぼ同じだ。
違うのは、瞳の色だけだ。吸血鬼族は本来銀色だが、この女の瞳の色が赤いのは、魔導兵器であるからだろう。
恐らく、変形魔法でも使ったに違いない。ブラッドが見入っていると、彼女は照れくさそうに肩を縮めて目を伏せた。

「変か?」

 その仕草と言葉だけでも、充分艶があった。ブラッドは、慌てて首を横に振る。

「い、いや、全然!」

「そうか、なら、良かった」

 ルージュは立ち上がろうとしたが、足を踏み外してよろけた。ブラッドは、慌てて彼女の腕を取る。

「大丈夫なのか?」

「力の配分と体重移動が上手く出来ないだけで、それ以外には何も問題はない。この姿では飛行は不可能だから、空間転移魔法を使って来たんだが、あまり使わない魔法だから座標固定に失敗して落下してしまったんだ。だが、どこも痛くないから気にしなくていい」

 ルージュが微笑むと、ブラッドは戸惑いながらも彼女の腕から手を外した。

「だったら、いいけどさ」

 手のひらに返ってきた弾力も肌の滑らかさも、生身のそれに限りなく近い。いや、生身そのものと言ってもいい。
だったら、胸も尻も太股も当然柔らかいわけで。そう思った途端に反応しそうになる下半身が、恨めしくなった。
なんて理性がないんだ、とブラッドは自嘲しつつ、ルージュに向き直った。ルージュの笑みは、たまらなく美しい。
恥じらいと照れが入り交じりつつも、ブラッドに会えた嬉しさが滲み出ている。けれど、何か、違和感があった。
見れば見るほど綺麗な女性だとは思うし、性的魅力にも溢れているし、表情は愛らしさもあるので目を離せない。
しかし、何かが違っている。ルージュはルージュなのだろうが、何かずれている。ブラッドは、引っ掛かりを感じた。

「ブラッド?」

 ブラッドが近付かないためか、ルージュはきょとんとしている。

「どうかしたのか?」

「なんかさ」

 ブラッドは、生身を模しているルージュから、目を逸らした。

「無理してねぇ?」

「そんな…」

 そんなつもりではない。ただ、喜んでほしかっただけだ。ルージュは、ブラッドの気のない横顔を見上げた。

「つーか、さぁ」

 ブラッドの目が動き、ルージュを見下ろした。

「どういうつもりなんだよ、それ」

「どういうつもりも何も…」

「じゃあ、なんだってんだよ」

 ルージュの煮え切らない答えに、待たされていた苛立ちが蘇ってしまい、ブラッドの口調は多少荒っぽくなった。
彼の刺々しい口調と言葉に臆し、ルージュは顔を伏せた。途端に情けなくて、やるせなくて、たまらなくなった。
無理なんかしていない。ただ、喜んでもらえると思っただけだ。機械の女よりも、抱ける女の方が良いと思った。
なのに、なぜそんな態度を取られるのだろう。次第に腹が立ってきたが、ここで怒ってはいけないと押し殺した。
せっかく会えたのに、怒っては台無しになる。ルージュが黙っているので、ブラッドはやりづらくなって背を向けた。

「そういうのって、なんか違うんじゃね?」

「何が違うと言うんだ」

 ルージュの問いに、ブラッドは言葉を選びながら返した。

「だからさー、なんてーの? そういうのって、ルージュらしくなくね?」

 安易に、体を差し出してほしくなかった。確かに前々から一線は越えたいと思っていたが、早すぎる気がした。
ルージュのことは、好きで好きで仕方ない。一時も頭から離れない。けれど、だからこそ、手を出しづらいのだ。
体こそ頑丈で破壊力こそ強烈だが、その内側は繊細な女性だ。恋に迷い、苦しみ、悩みながらも戦っていた。
前はぎこちなく硬さの残っていた笑顔も、近頃ようやく柔らかくなってきた。声を転がして笑うようにもなってきた。
それが愛おしかったが、力任せに扱えば失われそうで怖かった。また、あの冷徹な女戦士に戻ってほしくない。
ルージュは気付いていないだろうが、それなりに気を遣っているのだ。好きだからこそ、慎重になってしまうのだ。
けれど、それらを上手く言葉に出来なかった。気恥ずかしさや情けなさが邪魔をして、刺々しい言葉になった。

「そうか」

 ルージュは、弱々しく呟いた。

「つまり、私は馬鹿だということか」

 めきめきと金属が軋む音が聞こえてきた後に、熱風が背後に吹き付けた。振り返ると、彼女は飛んでいた。
布に覆われていない薄い背中から、あの推進翼が生えていた。破られた肌の下からは、装甲が垣間見える。
推進翼から青い炎を走らせて上昇したルージュは、激しい熱風で銀色の髪を乱しながら、ブラッドを一瞥した。

「正論だ」

 途端に、ルージュの姿は夜空に吸い込まれた。ブラッドは彼女の姿を追ったが、あっという間に小さくなった。
青い炎から、目を逸らさなければ大丈夫だ。ブラッドは地面を蹴って飛び上がると、翼を生やして羽ばたいた。

「待てよ、ルージュ!」

 自分を殴り付ける代わりに翼を動かして、遥か先を行く彼女を目指した。だが、その距離はまるで縮まらない。
生身の自分と兵器の彼女では、機動力に恐ろしく差がある。それがどうしようもなく悔しく、ブラッドは歯噛みした。
このまま、逃げ切られたくない。ブラッドは口の中で簡単な魔法を紡ぐと、風を操って翼を煽り、一気に加速した。
闇は深いが、ルージュを隠せるほどではない。吸血鬼の目にはどんな闇も通用しない。だから、見失うことはない。
 追わなければ、絶対に後悔する。







07 8/10