追われていると知って、安堵した。
　まだ、関心を抱いてくれている。愚かな女だと見限ったわけではないのだ、とルージュは彼を見つめて思った。
ブラッドの影は、背中から炎を走らせているので光源を持っているルージュとは違い、完全に闇に沈んでいる。
それでも、見失うことはなかった。このまま追い続けて欲しい、と思う傍らで、来ないでくれ、とも思ってしまった。
背中から突き出してしまった推進翼を引っ込めようとしていたが、その部分の変形魔法は解けてしまっていた。
どれほど魔力を送ろうとも、皮膚が伸びて翼が背中に戻ることはなく、背中の皮膚は青い炎に炙られ続けていた。
やはり、このまま帰ってしまおう。この姿は、機械の固まりでもなければ生身でもない。ただ、醜いだけの姿だ。
あの迷いのない眼差しで見られたら、また惨めになる。ルージュはブラッドから目を逸らし、炎を強めて加速した。

「待てよ！」

　夜の静寂を切り裂いた怒声が、ルージュの背に襲い掛かる。

「だから」

　ブラッドは羽ばたきを止めて空中で制止すると、右手を突き出し、口の中で魔法を紡いだ。

「待てって言ってんだろうがあああああ！」

　ブラッドの放った魔力が光の鎖と化し、じゃらじゃらと鈍い音を立てながらルージュへ向かって伸びていった。
ルージュはそれから逃れるべく加速したが、魔法で成された鎖の伸びる勢いはルージュの速度に劣らなかった。
右足首に熱を帯びた硬いものが絡み、がくんと体がつんのめった。ブラッドの放った戒めに、捕らえられたからだ。
振り解くよりも先に、それに引っ張られた。ルージュは姿勢を崩してしまい、引っ張られるがままになってしまった。
そのまま、ルージュは落下していった。変化しているために勝手が違うせいで、姿勢制御が上手くいかなかった。
せめて、地面に激突する前に戻さなくては。魔力を高めて浮遊魔法を強化しようとしたが、目の前に彼が現れた。
ブラッドは落下しつつあるルージュの腕を掴んだが、予想外の重量に肩が抜けそうになり、反射的に手を放した。

「重っ！」

「当たり前だ」

　推進翼から再度炎を走らせて浮かび上がったルージュは、右肩を押さえているブラッドに背を向けた。

「お前の腕では、私を受け止められるわけがない」

「それって、皮肉？」

　関節は外れなかったものの筋を痛めたらしく、激痛と熱を持った肩を押さえながら、ブラッドは口の端を歪めた。

「そう聞こえたなら、そう思えばいい」

　ルージュが冷ややかに返すと、ブラッドは舌打ちした。

「そういうところは、相変わらずだな」

「お前もだ」

「じゃあ、他にどうしろってんだよ。止めないわけにもいかねぇし、助けないわけにもいかねぇだろうが！」

　苛立ちながらブラッドが言い返すが、ルージュは背を向けたままだった。

「帰らせてくれ。一日ぐらい会わなくとも、何も変わらない」

　ルージュの平坦な口調には一切の感情が込められていないように思えたが、その声色は微妙に弱っていた。
見えないはずの表情も、おのずと感じ取れた。ブラッドはルージュの滑らかな肩と腕を見つめ、唇を噛み締めた。
どんな思いでこの姿に変化し、どのような期待を抱いてブラッドに会いに来たのか、想像するのは難しくなかった。
だがやはり、受け入れることは出来なかった。好きだが、好きだからこそ、触れてしまいたくない部分があるのだ。
この姿の彼女を肯定することは、いつもの姿の彼女を否定することになる。それだけは、どうしても出来なかった。
ルージュは、魔導兵器であるからこそ美しいとすら考えることもある。だから、尚更、今の彼女を正視出来ない。
痛々しくてたまらない。変形魔法まで使って自分に気に入られようとしているルージュは、相当な無理をしている。

「だけど、このまま別れちまうわけにはいかねぇよ」

　ブラッドは左手を伸ばしてルージュの冷たい腕を掴み取ると、無理矢理引き寄せた。

「オレは、そんなのは嫌だ」

「離せ」

　ルージュはブラッドの腕を振り解こうとしたが、ブラッドは思い切り力を込め、引き留めた。

「嫌だね」

　ブラッドはルージュの腕を掴んだまま彼女の背後に寄り、横顔に顔を近付けた。

「私のことなど、放っておいてくれ！」

　ルージュはブラッドの態度に怒りきれない自分が歯痒くてたまらず、声を荒げた。

「放っておけるかよ」

　ブラッドはルージュの腕を掴んでいた左手を外すと、後ろからルージュの細い顎を持ち上げた。

「今にも泣いちまいそうな美女を放っておける男なんて、この世のどこにもいねぇよ」

「う、ぐ…」

　肌に染み入ってくるブラッドの体温で、ルージュは息苦しいほど胸が詰まった。ブラッドは、彼女の頬をなぞる。

「ルージュは、オレとしたいってことなのか？」

　耳元で囁かれたその言葉に、ルージュは途端に照れた。みるみるうちに、頬の温度が上がっていくのが解った。
そんなつもりではない、と言えば嘘になる。というより、この姿に変化した最大の目的が、それなのは間違いない。
ブラッドに思いを抱いてからというもの、とっくに朽ち果てたと思っていた女の部分が次々に呼び起こされていた。
特に大きいのは、性欲だった。生前は誰も愛さなかったので、誰とも交わったことがなかったから、尚更だった。
体を重ねるということは、どういうことなのだろう。彼と肌を触れ合わせ、繋がれば、どれほど満ち足りるのだろう。
想像しただけでたまらなくなる。内心では軽蔑していた類の欲望が沸き起こり、押さえきれなくなってしまいそうだ。
やれる限り生前の姿を思い出し、人を魅了し喰らうための美しい姿を持つ自分に戻ろうと努力して、変化した。
だが、それはルージュの勝手な感情であり、ブラッドがそう思っているとは限らないのだ、とルージュは理解した。

「う…」

　なんて、情けない。ルージュはぼたぼたと落ちてくる涙を拭わずに、項垂れた。

「笑うなら、笑ってくれ」

「誰が笑うかよ」

　ブラッドはルージュの腰に腕を回し、滑らかな髪に顔を埋め、髪の隙間から零れる金属の匂いを味わった。

「オレの方こそ、ごめん。ひどいこと言っちまって」

「いや…」

　ルージュは涙を拭おうとしたが、気付いた。左腕の皮がいつのまにか消え、左肩から下が機械に戻っていた。
左肩の付け根から下の皮膚が歪み、引きつっていた。艶やかな肌と装甲が解け合い、奇妙な様相と化していた。

「戻っている…」

　唖然として、ルージュは左腕を見据えた。ブラッドは羽ばたき、彼女の左側に回ってその左腕を取った。

「え、でも、変形魔法の効果ってそんなに短くなかったはずだけど」

「恐らく、私の魔力数値が高すぎるからだ。魔力が高いと、魔法の効果は魔力に相殺されてしまうからな」

　ルージュは女の腕ではなく兵器の腕に戻った左腕を下げると、ブラッドから身を引いた。

「やはり、今夜は帰らせてくれ。これ以上、みっともない姿を晒したくない」

　いつも以上に繊細な表情を見せる彼女の顔には後悔が現れ、言葉の端々には機械への嫌悪が滲んでいた。
違和感の原因はこれなんだ、とブラッドは悟った。兵器として振る舞う彼女は、己の実力への自信に満ちていた。
だが、生身の体を模した姿の彼女は、機械の体を疎んでいる。ぴんと張り詰めた誇り高さは、消え失せていた。
その代わり、妙に浮かれていた。それが決して悪いとは言わないが、戦士としての彼女からは掛け離れていた。

「帰らせねぇよ」

　なぜ、全て受け入れてやれないのだ。ブラッドは自分の心の狭さが情けなくなりながら、ルージュを抱き締めた。
腕の中の彼女が、好きで好きでたまらない。だが、好きだと思えば思うほどに彼女の心が見えづらくなってしまう。
そして、自分自身の心も空回りする。お互いに求めているものは同じはずなのに、上手く噛み合ってくれなかった。

「綺麗だぜ、ルージュ」

　細い泣き声が、腕の中から聞こえた。ブラッドは冷たくも柔らかな体のルージュを、少女を慈しむように抱いた。
乱暴に扱えば、彼女の心は容易く傷付いてしまう。頑丈な装甲と強力な武装の下には、脆い心が隠されている。
だが、ブラッドの知るルージュは誰よりも強く誰よりも美しい魔導兵器でしかなく、一途に恋をする女ではなかった。
だから、どうやって接すればいいのか解らなかった。敵対していた頃の方が、余程楽だと思えるほど難しかった。
けれど、だからといってあんなに冷たい態度を取っていいはすがない。ブラッドは再度後悔に苛まれ、胸が痛んだ。
ブラッドはルージュの顔を上げさせ、その目元に口付けた。どんな言葉を掛けるべきなのか、解らなかったからだ。
　彼女の涙は、機械油の味がした。




　それから二人は、一晩中寄り添っていた。
　その頃にはルージュの変形魔法も完全に解けてしまい、白く滑らかだった肌は魔導金属製の装甲に戻った。
長い夜の中で、ルージュは己の言葉を闇に溶かすかのように語った。そのどれも、ブラッドへの愛に溢れていた。
基本的には理性的で気の強い性格のルージュらしく、やけに遠回しな表現が多かったが、彼女は幸せそうだった。
それらの言葉の端々や合間からは、ルージュの孤独な過去や寂しさが滲み出ていて、時折声を詰まらせていた。
そのたびに、ルージュは言った。お前の傍にいられてこんなにも幸せなのに、なぜ私は泣いてしまうのだろう、と。
嬉しいのに悲しく、幸せなのに切なく、満ち足りているのに物足りない。愛すれば愛するほど、愛されたくなる、と。
　ルージュは、ブラッドの左肩に頭を預けていた。寄り掛かってはいけないと思っているのか、腕を突っ張っている。
ブラッドは、左手を彼女の右手に重ねていた。彼女を引き留めた際に痛めた右肩は、まだずきずきと痛んでいた。
竜族に比べれば少々劣るが、吸血鬼族も再生能力は高い。だから、日が昇る頃には右肩も治っているだろう。
ルージュは、その傷への罪悪感もあるから身を預けてこないのだと解っていた。悪いのは、ブラッドだというのに。

「ブラッド。一つ、聞いていいか」

　ルージュの呟きに、ブラッドは聞き返す。

「何を？」

「幻滅したか？」

「どこをだよ」

　ブラッドが笑うと、ルージュは口元を緩めた。

「そんなことを言うから、私はお前に惚れてしまうんじゃないか」

「そりゃ、オレの頭ん中を見てないからそんなことが言えるんだよ」

「どういう意味だ？」

「オレも男だってこと。ルージュって、オレのことを結構過大評価してるよな」

「そんなつもりはないが」

「いや、してる」

「なぜ、そう思うんだ？」

「オレが手ぇ出さなかったの、立派だとか思ってねぇ？」

「少しは」

　昨夜の蛮行を思い出したルージュが気恥ずかしげに漏らすと、ブラッドは顔を背けた。

「それ、違うから。オレも男だからやることやりてぇし、昨日のルージュは滅茶苦茶綺麗だったからその気にならねぇ方がおかしいし、つうか正直堪えるのが大変だった！」

「…う」

　そうだと知っていたら、もっと攻めたのに。ルージュは強烈な照れと共に怒りが生じ、声を荒げた。

「だったら、なんで素直に手を出してこなかったんだ！　そうしてくれていたら、こんなことには！」

「出したいけど出せなかったんだよ！」

「はあ！？」

「だって、なんか、怖いっつーか」

「私の何が怖いと言うんだ」

　その言い草にルージュがむくれると、ブラッドは金に近い銀髪を掻き乱した。

「オレ、女の扱い方なんて知らねぇんだもん」

「それではお前は童貞か」

「ばっさり切り捨ててくれるなーもうー！」

「すまん」

「まあ、そうなんだけどさ、だからなんていうか、やりたくてたまんねぇんだけどイマイチ勇気が出ないっつーか！」

　自分で言いながら情けなくなってきてしまい、ブラッドは頭を抱えた。

「頭ん中じゃいくらだって出来んのによー！」

「一体どんな妄想をしているんだ」

　ルージュの冷酷な問い詰めに、ブラッドは答えを濁した。

「言えるかよ、こんなこと。言ったらきっと怒る、間違いなく怒る」

「所詮、お前も月並みな男というわけか」

　ルージュがため息混じりに零したので、ブラッドは恐る恐る目を上げた。

「や、だからよ、過大評価しているっつったろ？　オレもたまに自分のことを凄ぇ馬鹿だって思うぐらいだし」

「だが、安心した。私が魅力に欠けていたわけではなかったんだな」

「今度あの格好になる時は、もうちょっとまともな服を着てこいよ。じゃないと、オレの理性が飛んじまう」

「無論だ。出会い頭に事に及ばれては、私も困るからな」

　冗談混じりに、ルージュは笑った。

「それとさ」

　ブラッドは、不意に真顔になった。

「ルージュは、もうちょっと自信持って生きていいと思うぜ」

　言葉を返そうとして開けた口を閉じ、ルージュは目を伏せた。事を急いてしまった原因は、間違いなくそれだろう。
生前も、魔導兵器と化した後も、胸を張れるようなことはしていない。また、自分を誇れるほど自尊心は高くない。
それ以前に、誇れるものが見つからない。吸血鬼としての力も、魔導兵器としての破壊力も、疎ましいぐらいだ。
どちらも、こんなものさえなかったら、と思ったことは一度や二度ではない。だからこそ、ブラッドに殺されたのだ。

「すぐには無理だろうから、いきなり持てとは言わねぇけどさ」

　ブラッドは気恥ずかしさからか、少々言いづらそうだった。ルージュは、伏せていた目を上げた。

「そうだな」

　視界の隅で、東の空から日が昇るのが見えた。それに気付いたブラッドは、やべ、と立ち上がった。

「悪い、オレ、もう帰るわ」

「私の方こそ、すまなかった」

　ルージュも立ち上がると、ブラッドは服の背をめくり上げてから翼を出し、コウモリに似た白銀の翼を広げた。

「じゃ」

　またな、と言おうとして、ブラッドはつんのめった。振り返ると、ルージュがブラッドのズボンのベルトを掴んでいた。
そこは服の裾だろうが、とブラッドは思ったが、翼で服を破らないためにめくり上げたのは他でもない自分なのだ。
自分のせいなのだから多少色気がなくても仕方ない、と思い直した。ルージュはベルトを掴んだまま、俯いている。
しばらく、膠着状態が続いた。ルージュも行動を起こそうとするのだが、まだ気恥ずかしさの方が強いようだった。
ブラッドは彼女を振り払えないので、ルージュが動くのを待っていた。ズボンが伸びないか、少し気になっていたが。
　地平線の果てに見える高い山の端から現れた太陽が、夜の暗さが残留している地上に鋭い日光を差し込んだ。
その光が、二人の影を作る。ルージュは目線を彷徨わせていたが、ベルトを放し、ブラッドの左腕を掴んで引いた。
直後、ブラッドの頬に冷たいものが当てられた。それは素早く離れてしまい、ルージュも二三歩後退ってしまった。
ブラッドが口付けられた頬に手を当てると、ルージュは聞き取りづらくなるほど上擦ってしまった声で小さく呟いた。

「いつもは、お前からだから」

「またな、ルージュ」

　ブラッドは恥じらっているルージュが愛らしくてたまらず、笑んだ。ルージュは目を上げ、かすかに頷いた。

「また、夜に」

「おう。待ってるからな」

　ブラッドはにっと笑ってから、翼を広げて朝の冷たい空気に叩き付けて浮上し、夜明けの空へと飛び出した。
ルージュは、ブラッドの姿がゼレイブを包んでいる魔力の蜃気楼の中に沈んで見えなくなるまで、見送っていた。
彼は、どんな衣装が好きなのだろう。それを聞いておくべきだった、と今更ながら思ったが、もう手遅れだった。
だったら、自分で考えるしかない。フィフィリアンヌから、裁縫と服の仕立て方をきっちり教えてもらわなければ。
けれど、再び変化するのはずっと先になるだろう。今のところは、素のままの自分で彼と向き合っていくべきだ。
　初めての恋が幸せすぎたせいで、焦ってしまった。普通の思考であったら、あんなことは絶対にしないのに。
恋をしたのも誰かに愛されるのも初めてで、何もかもが手探りだから、時折間違えておかしな方に進んでしまう。
だが、間違えたのなら引き返せばいい。ブラッドも似たような状況なのだから、二人で慎重に事を進めればいい。
　ルージュはブラッドの感触が残る唇に触れていたが、微笑んだ。彼がいるなら、少しぐらいは自信が持てそうだ。
少なくとも、ブラッドはルージュを生ある存在として認め、女として見てくれる。いや、それだけで充分ではないか。
他でもないブラッドから愛されているのだから、これ以上素晴らしいことはない。一体、何を不安がっていたのだ。
ルージュは昨夜の名残である体を包んでいた黒い布を拾って左腕に絡めると、地面を蹴って空へと飛び出した。
　布の中には、フィフィリアンヌが作った人工体液が入った瓶が残っていたので、飛びながらビンの蓋を開けた。
作ってくれたフィフィリアンヌには申し訳ないが、今回は使わなかった。ルージュは苦笑しながら、ビンを逆さにした。
粘り気のある無色透明の液体が流れ出し、零れると同時に掻き消える。吹き付ける風が、液体を散らしていった。
中身を全て捨ててしまってから、最後に蓋とビンを捨てた。間を置いてから、遥か下でガラスの砕け散る音がした。
不思議と晴れやかな気持ちになったルージュは、瞬間的に加速して高度を上げて薄い雲を突き破り、飛行した。
　雲の上には、鮮烈な朝焼けが広がっていた。




　外装が硬ければ硬いほど、その内の魂は脆い。
　若く危うい恋に揺さぶられて生まれた不安が、心を掻き乱す。
　鋼鉄の乙女が抱いていた弱さを受け止め、それすらも愛してこそ。

　二人は、恋人と成り得るのである。





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