ドラゴンは滅びない




老いたる王




 ラオフーは、疲れていた。


 ブリガドーンでの戦いで痛めた箇所は未だに回復しておらず、全身の関節が潤滑油切れで悲鳴を上げている。
やはり、整備しておくべきだった。だが、ああやってフィフィリアンヌに背いた手前、今更戻れるわけもなかった。
ブリガドーンにいた時のように魔力さえ補充すれば回復するものだと思っていたが、そう簡単にはいかないようだ。
考えてみれば、ブリガドーン内の魔導球体で魔力の補給を受けると、繋げた魔導金属糸が独りでに動いていた。
それが壊れた部品の内部や装甲の隙間に滑り込み、修理してくれた。あれには、他者の意志が宿っていたのだ。
魔力だけで充分か思っていたが、そうではなかったらしい。生身の頃は、魔力だけでどんな傷も塞げたというのに。
 だらしなくなったものだ、とラオフーは自嘲した。動きの悪い首を動かし、頭上でざわめいている枝葉を見上げた。
ブリガドーンでの戦いでヴェイパーと交戦した後、ラオフーは連合軍の目から逃れるために遠くへと飛び続けた。
ヴェイパーと交戦している最中は気分が高揚していたので、全く気付かなかったが、思いの外体は痛んでいた。
彼のことを、ただの機械人形だと侮っていた節がないわけではない。だが、決して油断していたつもりもなかった。
ヴェイパーの渾身の魔力と蒸気を込めて放たれた超轟弾に、金剛鉄槌を貫かれたのは予想外の出来事だった。
金剛鉄槌を使わずに素手でヴェイパーの拳を受けていたなら、鉄屑と化し、ルージュのように砕けていただろう。
その様を想像するだけで、背筋が逆立つほど魂が沸き立つ。命と命を削り合うことこそが、戦いの真骨頂なのだ。
ヴェイパーとあの少年の母親である異能者の女を殺したことが、こんなところで役に立つとは思ってもみなかった。
 あの女を殺しておいて良かった。ラオフーは朝露と土に汚れた巨大な手を広げて見つめながら、笑いを零した。
目を上げると、青い苔にびっしりと表面を覆われている骨が無数に転がっている、墓に似た光景が広がっていた。
骨はいずれも太く立派で、かなり長い背骨の先には二本のツノが生えており、口先が細い頭蓋骨が付いていた。
それは、遠い過去に死した竜族の骨だった。成竜のものもあれば子供のものもあるが、どれもが黒ずんでいた。
堆積した枯れ葉や土に覆われて見えづらくなっているが、それは同族の放った炎や魔法で焼け死んだ証だった。
辺り一面に転がっている竜族の骨の向こうには、やはり焼けた廃墟があり、ここが都であったことを示していた。
東方の建造物に似せて作られた建物の柱には朱色の塗装が施されていたが、風雨に晒されて色が抜けていた。

「東竜都か…」

 巡り巡って、この地に戻ってきてしまうとは。ラオフーは一笑すると、竜の骨の山を見渡した。

「あの竜が、この様とはのう」

 竜が滅ぶと知っていれば、全力で戦い抜いたものを。だが、あの頃はまだ若く、命が惜しいと思ってしまった。
そして、今もまた命を惜しんでしまった。だが、命を惜しんだからこそ今があり、朽ちかけてはいるが力がある。
無数の竜の骸が、弱った魂を奮い立たせてくる。空しくも静かな時間の中で萎みかけていた戦意が、蘇ってくる。
 戦いに身を投じなければ、生きているとは言えない。




 三百九十二年前。
 この森に住まう生き物は魔物と動物が拮抗していたが、互いが互いを見張り合い、争い事の火種を潰していた。
無駄な争いをすれば人から目を付けられ、狩られることが目に見えていた。だからこそ、双方は睨み合っていた。
魔物も動物も、元を辿れば同じ生き物だ。魔物は言葉を操れて力を持っているが、動物には敬意を払っていた。
動物もまた、魔物を無用に恐れることはしなかったが、無用に近付くこともしなかった。縄張りを守り、生きていた。
 その中に、特に力の秀でた魔物が存在していた。二本足で立ち言葉を操る異形の虎、ワータイガーであった。
古くからこの森に住まう種族の末裔であったが、時が経つに連れてその数は減り、十数体しか残っていなかった。
ワータイガーの中でも最も古く、力が強い者がいた。誰が呼んだかのは知らないが、皆から王虎ワンフーと呼ばれていた。
竜族に匹敵するほどの年月を生きてきたワンフーは、どのワータイガーよりも体格が良く、知能も優れていた。
また、魔力も高く、西方で言うところの魔法も使えた。よって、ワンフーの膝下に屈さぬ魔物も動物もいなかった。
だが、ワンフーは誰も従わせようとしなかった。けれど、強い者が現れると真っ先に動き、その者を打ち倒した。
どんなに屈強な魔物もどんなに荒々しい動物であろうとも、彼の牙と爪には敵わず、誰一人として勝てなかった。
そんなことを繰り返すうちに、いつしかこの森一帯がワンフーの縄張りと化し、比喩や敬称ではない王となった。
 ワンフーが森の王となってから数十年の年月が過ぎた頃、西の空が騒がしくなった。黒竜戦争が起きたのだ。
いくら森の王と言えど、ワンフーはただの魔物に過ぎなかったため、黒竜戦争のことを知ることが出来なかった。
ただ、竜族共が騒がしい、とぐらいにしか察せなかった。そのうち、西側の空から竜族が飛来するようになった。
その竜族達の行き先はさすがのワンフーも近付くことを多少躊躇う場所の、竜族の拓いた都、東竜都であった。
日に日に竜の数が増えていくと、竜の気配に怯えた者達が逃げ惑うようになり、旧い森は均衡を失いつつあった。
 その日。ワンフーは、客と向き合っていた。ワンフーの住処を訪れたのは、ワーウルフの長、ダイシェンだった。
ワンフーよりも少し背丈は低いものの毛並みも良く体格のいいダイシェンは、ワンフーと同じく古い魔物だった。

「何の用じゃ、ダイシェン」

 ワンフーは、人のように頬杖を付いた。

「おぬしんところの若造を懲らしめる手伝いは、もうせんぞ。あんな歯応えのないモンとは、二度と戦いとうない」

「先日のことは、申し訳ないと思っている。だが、ああしなければ、あれは納得してくれなかったんだ」

 ダイシェンは人がするように胡座を掻き、腕を組んでいた。

「近頃の竜族の動向を、どう思う」

「芳しくないのう」

 ワンフーは口元を歪め、太い牙を覗かせた。ダイシェンは尖った鼻先を東竜都へ向け、ひくつかせた。

「竜の数が多すぎると思わないか」

「これまでは青い竜ばかりじゃったが、近頃は妙な色の竜が増えちょるのう」

 ワンフーは、木々の隙間から空を見上げた。

「おかげで、空が騒がしゅうてならんわい」

「全くだ。あれらが現れてから、我らの心が安まる時は欠片もなくなってしまった」

「それで、おぬしは儂に何をどうさせたいんじゃ?」

 ワンフーがダイシェンを見下ろすと、ダイシェンはワンフーを見据えた。

「竜族と戦ってくれないか」

「あれだけの数じゃ、やり合うんじゃったら儂じゃのうておぬしらの一族ですればええことじゃ。おぬしらは数が多い上にそれなりに賢いからのう」

「私も、そうしたかったのだが」 

 ダイシェンは肩を怒らせ、俯いた。直後、どこからか飛んできた竜の影が二人を覆い、猛烈な風が吹き付けた。
嵐のように凶暴な風は木々を掻き乱し、枝を容易く降り、木の葉を撒き散らした。辺りに、青い匂いが立ち込める。
ワンフーは竜族の荒々しさに僅かに目元を歪めただけだったが、ダイシェンは全身の毛を逆立ててしまっていた。
尾は大きく膨らんでぴんと伸び、耳は下がり、明らかに怯えていた。ダイシェンは両手をきつく握り、震えを堪えた。

「…この通りなんだ」

 ワンフーも、畏怖を感じていないわけではない。長年の鍛錬と執念によって、覆い隠せるようになったのである。
ダイシェンも、並みの魔物ではない。近頃では衰えてきたが、若い頃はワンフーと肩を並べたほどの実力者だ。
頭も冴えていていて、統率者としても優れている。ワンフーの次に王となる者ではないか、と言われるほどだった。
そのダイシェンが、こうも簡単に怯えてしまうとは。先程の竜は、肌の色から察するに東竜都の長ではないはずだ。
そんな者が頭上を過ぎっただけで、この有様とは信じられない。ワンフーは戸惑っていたが、声には出さなかった。

「それで?」

 ワンフーが続きを乞うと、ダイシェンは膨らんでしまった尾を萎ませる努力をしながら答えた。

「私の血族が調べたのだが、あの都には新しい長がいる」

「そうじゃろうのう。儂が知っちょる東竜都の長は、もうちぃとは慎重に事を運ぶ男じゃった」

 ワンフーは竜の気配が濃厚に残る空気を吸い、吐き出した。

「少なくとも、儂らに話を付けずに同族を招くようなことはせん。止むにやまれぬ事情があったとしても、儂かおぬしには話を通すはずじゃて。ジンロンとその息子のシェンウーは、あの都におらんというのか?」

「どうも、そのようだ」

「西で余程のことがあったんじゃのう。じゃが、儂らに何も話さずに事を進められてはこちらも困る」

「だから、戦わねばならない。あちらがそのつもりなら、我々も強く出なくては舐められる」

 ダイシェンは語気を強めて声の震えを押さえ、牙を剥いた。

「それに、最近では竜族共は都を広げ始めている。ワンフー、お前の縄張りすらも浸食している」

 縄張りという言葉を出され、ワンフーはぴんと耳を立てた。

「ほう…」

 一言でも断りがあれば、渋りつつも納得したかもしれない。または、戦い合って負けたのならば譲っただろう。
だが、本当に何もなかった。何もせずに縄張りを広げ、他者の縄張りに踏みいるとは竜族といえど許せない。
獣の世界にも、礼儀は存在している。ラオフーは悔しげなダイシェンを見つめていたが、にやりと目を細めた。

「その戦い、引き受けようぞ」

 ワンフーの返答に、ダイシェンは安堵したように息を零した。竜族に張り合える相手がいて良かった、という顔だ。
ワンフーは縄張りを侵された怒りよりも、竜族と拳を交えられる喜びが迫り上がり、久々に気分が高揚していた。
この森を制してからというもの、ワンフーと張り合える者はいなくなった。それまでいた強者達は、去ってしまった。
敗北した者は去っていくのが決まりだが、全力で戦い合える者がいなくなってしまうと、つまらなくなってしまった。
竜族は、ワンフーにとって未知の相手だ。どれほどの強さを秘めているか計り知れないが、だからこそ楽しみだ。
 込み上がる笑みが、押さえられなかった。


 ダイシェンの言った通り、東竜都は拡張されていた。
 立ち並んでいた巨木は切り倒されて土が耕され、人間のものに似た畑や家が作られ、都の建物も増えていた。
ワンフーは東竜都と確実に距離を保ちながらも、様子を窺っていた。息を殺して身を潜めるのは、虎の得意技だ。
獲物は大きい方が闘争心が燃え上がるが、相手が大きすぎる。ワンフーといえど、慎重にならざるを得なかった。
戦いを仕掛けるとしても、長の喉笛を噛み切らなければ意味がない。下っ端など、殺したところで体力の無駄だ。
まずは、敵の大きさを見定めることから始めよう。ワンフーは俯せになって地べたに這い蹲りながら、見ていた。
 そのうちに日が暮れて、夜になった。昼間は騒がしかった東竜都も落ち着き、竜族達は寝入ったようだった。
近頃の竜族は人間を模した姿に変化しているばかりか、生活習慣までもが人間のそれに似せているらしかった。
一昔前の、荒々しいまでに猛々しく、ありのままの姿で生きていた竜族を知る者としてはあまり面白くなかった。
これでは、単なる堕落ではないか。他者の縄張りを勝手に侵すような者達だ、竜族の誇りなど失ったのだろう。
 夜こそ、獣の本領だ。ワンフーは草を揺すらぬように気を配りながらそっと身を起こし、前に踏み出していった。
普段は二本足で歩いているが、こういう時は四つ足の方がいい。呼吸すらも押さえながら、暗闇の中を進んだ。
東竜都の中心からやや奥まった場所には、東竜城がある。平屋造りで、朱色の柱と瓦屋根が目立つ建物だ。
長がいるとすれば、その城に違いない。暗がりに沈む家々の向こうに見える東竜城には、明かりが灯っていた。
これでは寝首を掻くのは難しいだろうが、元よりそのつもりで来たわけではないので、このまま進んでしまおう。
 東竜都の敷地の傍まで近付いて、ワンフーは足を止めた。明かりも持たずに、東竜都から出てくる影があった。
その影は、当然ながら一対のツノと翼が生えていた。竜族の視力は恐ろしく高いので、光がなくとも難なく見える。
その者もまた、人の姿を模していた。東方の服装に身を包んでいる竜族の男で、長い青髪を後頭部で括っていた。
ワンフーの気配に気付いているのか、いないのかは解らない。だが、この距離だ。気付かれていないわけがない。
男の身のこなしは、普通の竜のそれとは少し違っていた。男の視線がこちらに定まり、深紅の瞳が細められた。

「この間の連中とは、違う匂いだな」

 男の声は若かったが、幼さはなかった。すると、城の方向から新たな足音と声がした。

「ウェイラン様、どうかなさいまして?」

 男の背後に、白い服を着た少女が駆け寄った。彼女もまた、ツノと翼が生えている。

「ああ、リーザ」

 男は、白竜族の少女に柔らかく微笑みかけた。

「あら…」

 リーザと呼ばれた少女は、ウェイランという名の男が見ていた先を見た。少女であっても竜は竜ということか。
これでは分が悪い。ワンフーが身を下げようとすると、リーザはちらりとウェイランを窺ってから、駆け出してきた。

「お待ちになって!」

 ワンフーは素早く立ち上がって後退したが、リーザはワンフーが逃げるよりも早く、草むらに飛び込んできた。
白い服に負けないほど白い肌と銀色の髪を持った、あどけなさの残る少女だった。彼女は、ワンフーに近付く。

「あなたは、この辺りの者ですわね?」

「放っておけ、リーザ」

 ウェイランが冷たく言い放ったが、リーザはそれを無視してワンフーへと手を伸ばした。

「よろしければ、お茶などいかがでしょう。私、あなた方と一度お話しをしてみたかったんですの」

「それは畜生だ。とてもじゃないが、私達の言葉が通じる相手とは思えないがな」

 ウェイランは、草むらから半身を出しているワータイガーに軽蔑した目を向けた。だが、リーザは怯まない。

「私には、とてもそうとは思えませんわ。私達と同じ力を感じますもの」

 リーザの白く小さな手が、ワンフーの黄色と黒の縞模様の毛並みへと伸びてきた。

「…ふん」

 リーザの手から逃れるように、ワンフーは顔を背けた。

「若造。おぬしが長か」

「いかにも」

 ウェイランはリーザを押し退けると、ワンフーの前に立ち塞がった。

「だが、こんな夜中に城を訪れられても、持て成しようがないんだがね」

「ジンロンとシェンウーの姿が見えぬようじゃが。ここの長は、あの親子ではなかったのか?」

「死んだのさ」

 躊躇いも含みも持たせず、ウェイランは言い放った。リーザは胸の前で手を組み、目を伏せる。

「竜王都と帝国が戦争をして、沢山の竜族が亡くなってしまわれたのですわ。ジンロン様とシェンウー様も竜王軍に志願なさったのですが、戦死してしまわれて…」

「腑に落ちたわい」

 道理で、西から大量の竜がやってくるわけだ。それは全て、竜族と帝国の戦いから生き延びた者達だったのだ。
ワンフーは立ち上がると、ごきりと首を曲げて関節を鳴らした。長い間四つ足で歩くと、少しばかり疲れてしまう。

「そいで、おぬしが長となったっちゅうことか」

「何か、不満でも?」

 ウェイランの表情には、己への自信が満ち溢れていた。

「おぬし、強いか」

 ワンフーの言葉に、ウェイランは笑った。

「愚問だ」

「お止めになって、お二方!」

 リーザは青ざめると、二人の間に割って入った。

「あの戦争で、あれほどの血を流したではありませんか! ここでも血を流すというのですか!」

「案ずるな、リーザ。血を流すのは私ではない、この獣だ」

「それでも血は血ではありませんか!」

 更に抗議したリーザを、ウェイランは睨んだ。

「下がらないか」

「ですが!」

「いい機会だと思わないか。ここで私の力を見せれば、私は本当の意味で長となれるではないか」

 ウェイランはリーザを横目に見、小声で吐き捨てた。

「逆賊の女が。下らない綺麗事を押し付けるな」

 途端にリーザは顔を歪めると、足早に走り去ってしまった。ワンフーは、白竜族の少女の後ろ姿を見送った。
リーザは明らかに泣き出していたが、ウェイランはそれを後悔するどころかどこか満足げな表情を浮かべていた。
その荒い態度を見て、ワンフーは納得した。こんな性格の男だったら、魔物や動物達に気を払うわけがない、と。
竜族にとっては重大な危機が訪れ、その一つの結末が東竜都とその周辺にもたらされた、ということらしかった。
だが、それとこれとは別だ。久々に、まともに戦える相手が現れた。その事実だけで、笑い出してしまいそうだ。
ウェイランは、ワンフーを値踏みするように眺めている。この男もまた、自分の力を振るいたくてたまらないのだ。
種族は違えど、性格は似通った部分があるようだ。ワンフーが腰を落とすと、ウェイランも腰を落として身構えた。
 ざあ、と夜風が森を掻き乱した。







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