ドラゴンは滅びない




老いたる王



 だが、ワンフーの命は尽きなかった。
 あのまま死ぬものだと思っていたが、騒ぎを察知して駆け付けたリーザとファイドによって命を救われたのだ。
全身の骨が折られ、筋肉も千切られ、血が出すぎていたので失血死する寸前だったが、ファイドの魔法が効いた。
一般的な回復魔法を治療用に改良した彼の魔法は、肉体から分離しようとしていたワンフーの魂を繋ぎ止めた。
骨も治せる部分はその場で治され、傷は縫われて塞がれた。だが、潰れた右目だけは、元通りにならなかった。
二人がしきりに呼び掛けてくれたことは覚えていたが、耳も千切られていたのでその言葉の中身は届かなかった。
だが、それは決して無駄ではなかった。二人の声がするたび、ワンフーの途切れ途切れの意識は引き戻された。
それからワンフーは、ファイドの診療所へ身を移された。ダイシェンを殺した夜明けから、一週間以上も眠った。
けれど、意識が戻っても動けなかった。少しでも体を動かせば、死んだ方がマシだと思えるほどの激痛が走った。
 ファイドとリーザは、ワンフーが生き延びたことをウェイランには知らせないと約束し、本当にそうしてくれていた。
敗北者に過ぎない自分になぜそこまでするのか、とワンフーが尋ねてみると、リーザは日向のように明るく笑った。
目の前で困っている方を見捨てられるほど堕落しておりませんわ、と。彼女の言葉に、ファイドは何度も頷いた。
 ワンフーは、体が動かせる程度に治るまでの間、二人の竜族との奇妙ながらも穏やかな共同生活を送った。
ワンフーが歩けるようになると、ファイドは森の奥深くにもう一つの小屋を建てて、そこにワンフーを移動させた。
リーザは、ワンフーの小屋を毎日訪れた。日が経つに連れて、彼女は東竜都よりも小屋にいる時間が長くなった。
暇になると余計なことが気になるもので、ワンフーがそれとなくリーザに過去を尋ねると、リーザは話してくれた。
夫であり竜王軍の副将軍であったエドワード・ドラゴニアとは、政略結婚に近い形で結婚した間柄だったそうだ。
結婚した当初も幼い子供でしかなかったリーザは、遥かに年上のエドワードとは当然ながら上手くいかなかった。
だが、確かに彼を愛していた。ただ一度だけだが、女として扱われた一時のことは生涯忘れられない出来事だ。
夫婦らしいことは一切出来なかったが、それでも夫婦にはなれた。だからこそ、リーザは彼を信じ抜いていた。
エドワードが将軍ガルムに手を掛け、その後に自害したと伝えられても、夫への愛を揺らがせることはなかった。
幼すぎて妻にも女にもなりきれなかった自分が出来ることはそれだけだ、とリーザは少し寂しげな顔で笑んだ。
 そういった背景があるからこそ、リーザは東竜都に長居しづらいのだろう。理由はどうあれ、同族殺しの妻だ。
敬遠されこそすれ、親しくされるはずがない。黒竜戦争以前は高貴な家柄だったそうだが、今ではただの平民だ。
まともに付き合ってくれるのはファイドとたまにやってくる変わり者の半竜半人とワンフーだけだ、と彼女は言った。
リーザとファイドの話で、竜の世界にも色々とあるのだと知った。魔物の世界とは違い、人の世界によく似ていた。
ワンフーが魔物の世界の話をすると二人は面白がってくれたので、ワンフーも調子に乗って様々なことを話した。
 それから更に月日が過ぎ、ワンフーの体はまともに動かせるようになったが、以前のようには戦えなくなった。
ウェイランとの戦いで切られた筋や神経が完全に元に戻らなかったのと、生体機能の限界だとファイドは言った。
それを言われた時、ワンフーは笑った。笑うしかなかった。今まで、戦うことばかりを考えて生きてきたというのに。
だが、二度と戦えないことは自分自身が一番良く理解していた。受け入れたくなかったが、これもまた現実なのだ。
ウェイランに筋を断ち切られたために上手く動かない頬を引きつらせて笑いながら、ワンフーはファイドに言った。
 それもまた一興、と。


 それから、かつての王は緩やかな余生を過ごした。
 傷だらけの体は思いの外しぶとく、三百五十年の月日を長らえたが、遠からず命が消えることを悟っていた。
その頃には、王虎ワンフーから老虎ラオフーへと名を変えていた。王であった頃の栄光に縋らぬように、王の名を捨てたのだ。
時が経つに連れて竜族は更に勢力を増し、森の魔物は減り、王となる者もいなくなったことも名を変えた理由だ。
下々がいないのに王と名乗るのは、滑稽でしかない。また、戦えない今となっては、力を振るう必要もなくなった。
無闇に力を振るわなくなると、若い頃は腕力や敏捷力に回していた魔力が衰えた魂や肉体を守るようになった。
そのおかげで、ここまで長らえていた。だが、今度こそ限界が近いと思う時もないわけではなく、体は弱っていた。
ウェイランに辛うじて潰されなかった左目は、酷使し続けたために水晶体が白濁し、視力もほとんどなくなった。
耳も遠くなってしまい、音の聞こえる範囲も狭くなった。次の冬を越えられないかもしれない、と思うようになった。
 それでも、リーザはラオフーの元へと通い続けてくれた。この頃になると、リーザの擬態も少女ではなくなった。
四百歳弱になった彼女は、竜族としてはまだ若年といえる年齢なので、擬態は二十代前半の女性になっていた。
少女の頃は小さくて可憐だった体つきや顔付きも、成長すると均整良く手足が伸びて大人び、大分美しくなった。
 その日も、リーザはラオフーの元を訪れていた。最近の話題は、新しく長となったウェイランの息子のことだった。
彼の名はキースと言い、ウェイランではなく母親に似ているらしく、男ながら女性的な顔立ちが美しいのだそうだ。
ウェイランは、キースが生まれる一年ほど前に死んでしまった。なんでも、キースの母親に殺されてしまったらしい。
その辺りの事情は込み入りすぎていて、ラオフーには今一つ把握しきれなかったが、キースの存在は気になった。
竜族の世界は、黒竜戦争以降はがたがたになった。そんな世界の中心に据えられたキースは、哀れにも思えた。
傍目に見ていても、竜族が復興し再び繁栄することは有り得ないと解る。だが、竜族はその事実を否定し続ける。
滅ぶことを恐れ、怯えているからだ。リーザは覚悟を決めているのか、この話になっても穏やかに微笑んでいた。
 ラオフーとリーザは、森の奥にぽつんとある池の傍に座っていた。最近、ラオフーのもっぱらの趣味は釣りだ。
衰弱と古傷のためにあまり動けないラオフーの退屈凌ぎになれば、とリーザが教えてくれた人間の遊びである。
最初は、ただ糸を垂らすだけじゃないかと馬鹿にしていたのだが、いざ始めてみるとこれが意外と面白かった。
リーザの持ってきてくれた丈夫な糸を先端に結び付けた竿を振り、池の水面に落とすと、うっすらと波紋が広がる。
波の上で、初夏の爽やかな日差しが煌めいた。リーザは白い衣を身に纏い、ラオフーの隣で池を見つめていた。

「ラオフー様」

 リーザの鈴を転がすような声に、水面を見据えていたラオフーは千切れていない方の耳を動かした。

「なんじゃい」

「これを」

 幅の広い袖の下に手を入れたリーザは、そこから魔導鉱石の填った装飾品を取り出した。

「光りモンになど興味はないわい」

 ラオフーは、色の失せた視界にちらちらと入り込む閃光で、リーザの持っているものが何であるかを感じ取った。
実物の輪郭ははっきりと見えないのだが、雰囲気で掴める。リーザは、ほっそりとした白い指で装飾品を撫でた。

「これは、私の一族に伝わるものですの。ですが、もう意味などありませんの」

「おぬしの一族も、皆死に絶えたのじゃからのう」

「ええ。それに、私はエド様以外には身を許すつもりはありませんし、子を成すつもりもありません」

 リーザはラオフーに寄り添うと、虎の大きな手に装飾品を載せた。

「ですから、これはラオフー様に差し上げますわ」

「ん…」

 ラオフーは左目のすぐ前に手を近寄せ、リーザが渡してきた装飾品を眺めた。どうやら、首飾りのようだった。
純金製の立派な鎖が付いており、やはり純金製の円の台座には大振りな紫の魔導鉱石が填め込まれていた。

「ラオフー様には、本当に感謝しておりますの」

 リーザの指先がラオフーの毛並みに触れ、愛おしげに撫でてくる。

「私の愚にも付かない話をいつも聞いて下さってくれて、傍にいて下さるんですもの」

「そいつは、おぬしのことじゃろうが。儂なんぞに三百五十年も付き合うんじゃから、おぬしも変わっちょる女じゃ」

 ラオフーは太い指に鎖を絡め、魔導鉱石の首飾りを手の中に握った。

「くれるっちゅうんなら、もらってやろう」

「私があなたに返せるものは、それぐらいしかありませんもの」

「儂は、おぬしに何もしちょらんのじゃがのう」

 ラオフーは左目を動かし、彼女に向けた。リーザは、ラオフーの腕の毛並みを撫で付ける。

「何もなさらないから、嬉しいんですの」

 あ、来ましたわ、とリーザが声を上げるのと、ラオフーの手の中で釣り竿が跳ねたのはほとんど同時だった。
ラオフーが慣れた手付きで釣り竿を引き上げると、釣り糸の先端では肥え太った淡水魚が踊り、水滴を散らした。
リーザは自分のことのように喜び、手を叩いている。ラオフーは釣り糸を引き寄せると、針から淡水魚を外した。
このまま喰ってしまってもいいがリーザから手を加えてもらうのも悪くない、と思い、ラオフーは彼女に魚を渡した。
ラオフーの意図を察したのか、リーザは傍らに置いたカゴに淡水魚を入れた。その中で、びちびちと魚が暴れた。

「夜になったら、また戻ってきますわ。今日はどんなお料理にいたしましょう」

「この間のはちぃと辛かった。今度は甘いのがええのう」

 ラオフーが言うと、リーザはくすっと笑みを零した。

「解りましたわ」

 リーザの作ってくれる料理は人の世界のそれではなく、竜族のものなので、魔物であるラオフーの舌にも合う。
前はそうでもなかったが、今となっては楽しみになっていた。リーザも、料理を作るのを楽しんでいるようだった。
食べてくれる相手がいるのといないのでは、大違いだからだ。ラオフーは、もう一匹釣り上げるべく糸を投げた。
 どうせなら、大物を釣り上げよう。


 だが、夜になっても、リーザは来なかった。
 その理由は、既に解っていた。森の奥からでも解るほど激しい騒乱が、東竜都内部で起きていたからだった。
都の真上の空は朱色に染められ、火の粉が舞い散る。その炎の中心では、巨大な影、竜が猛り狂っていた。
その竜の肌の色は、青緑だった。青竜でも緑竜でもない色を持つその竜は、東竜都の若き長、キースだった。
キースと思しき竜が咆えるたびに、空気がびりびりと震える。その爪が何かを切り裂くと、飛沫が吹き上がった。
煙と灰に混じって、嗅ぎ慣れた匂いが漂ってきた。だが、それは魔物でも動物でもない、初めて嗅ぐ血臭だった。
キースの爪に引き裂かれたそれは、ばさりと翼を揺さぶるも上昇出来ず、掠れた息を漏らしながらよろめいた。
それが倒れると、地面が上下するほどの振動が起きた。次なる竜が現れると、キースは鋭利な爪を振るった。
何の躊躇いもない動作で同族の腹を切り裂いたキースは、咆えている。だが、その猛りには悲しみしかなかった。
 ラオフーは、久々に走っていた。目標が定まっている上に燃え盛っているので目指すのは簡単だが、苦しかった。
数十年ぶりに酷使した筋肉は動かした直後から悲鳴を上げ、関節は外れそうだが、居ても立ってもいられない。
ファイドの姿を探そうとしたが、無駄だと言うことを思い出した。今日、ファイドは人の世界へ降りていったのだ。
物好きな竜の医者は、同族や魔物だけでなく人をも治療している。この場に一番いるべき者が、この場にいない。
なんと運の悪いことだろうか。ラオフーは苛立ちで低い唸りを漏らしながらも、懸命に地面を蹴って前進し続けた。
 東竜都に近付くに連れて、焦げ臭さが強くなった。その中には、蛋白質が焦げる匂いが大量に含まれていた。
葉に炎が燃え移った木々の間を通り抜けて飛び出すと、そこには、火の海と称するに相応しい景色が待っていた。
めらめらと燃え盛る炎は、巨大なものを包み込んでいた。炭と化しつつある巨大な物体は、竜族の死体だった。
あまり利かなくなっているはずの鼻に、膨大な死臭が襲い掛かる。見えないはずの右目までも、見開いていた。
竜が竜を殺している。おぞましい光景ではあったが、手当たり次第に同族を殺すキースから目を離せなかった。

「何があったっちゅうんじゃ…」

 魂を冷たい手で握り潰されたかのような、動揺と恐怖が起きた。本能的にずり下がろうとしたが、踏みとどまる。
他の竜はどうでもいいが、リーザの無事は確かめなければならない。ラオフーは四つん這いになり、駆け出した。
体と共に衰弱してきた魔力中枢を奮い立たせて魂を熱させ、体の至る所から走る痛みを押さえ込ませ、進んだ。
炎を纏った倒木や踏み潰された家屋の隙間を擦り抜け、キースの目から逃れながら走ったが、視界が悪かった。
右目が死んでいる上に左目は白濁し、聴覚は鈍り、頼みの嗅覚さえも、猛烈な熱風を吸い込んだために焼けた。
魔物としての感覚も、キースが咆えるたびに怯えて縮こまる。それでも、ラオフーは心を奮い立たせて走り続けた。
 右手の指に絡めているリーザからの贈り物が、炎の熱を吸収して熱し、強く握っていたために素肌が火傷した。
しかし、それを気にしていられるほどの余裕はなかった。リーザの姿を思い求め、名を呼ぶだけで、精一杯だった。
頭上では、キースと他の竜が鬩ぎ合っている。青竜が放った魔法の衝撃波を受けても、キースはよろけなかった。
それどころか、巨体に見合わぬ恐ろしい速さで飛び出し、そのまま魔法を放った青竜の首に食らい付いてしまった。
いつかのラオフーと同じように、牙と顎だけで相手の首を噛み切ってしまうと、ゴミのように同族の首を投げ捨てた。
首を失った青竜は白い頸椎の覗く首から滝のように血を吹き出しながら、たたらを踏み、キースへと倒れ込んだ。
キースはそれを避けることもせずに、頭を下げてツノを突き出した。死んだ同族の胸を、太いツノで貫き、破る。
そこから溢れ出した更なる血が、キースの全身を赤黒く汚す。炎で沸騰した血の生臭い匂いが、鼻を痛め付ける。
 リーザを必死に探しつつもキースの様子を窺っていたラオフーは、キースが理性を失っていることに気付いた。
ラオフーがどれだけ叫んでも、キースは全く反応しない。大きく見開かれた瞳は焦点がずれ、遠くを見つめている。
キースに気付かれてしまったら、即座に殺されるだろう。そうなる前に彼女を見つけなくては、とラオフーは駆けた。
 駆けて、駆けて、駆けた先に、腹を切り裂かれた白竜が倒れていた。東竜城の影で、他の竜と折り重なっていた。
いずれの竜も負傷していて、頑強なはずのウロコが容易く切り裂かれており、肉だけでなく骨が垣間見えていた。
その白竜以外の竜は息絶えているらしく、虚ろな目をしている。だが、その白竜だけはかすかだが呼吸していた。
ラオフーが歩み寄っていくと、白竜は吐息のような細い鳴き声を零して、折れた前足で地面を掴んで這いずった。

「リーザ! リーザか!?」

 彼女であってくれ、と願いながらラオフーが名を呼ぶと、白竜は目を細めた。

「ラオフー様…」

 魔力が乏しいためか、白竜が発した声は濁っていた。ラオフーが近寄ると、白竜は長い尾をゆらりと動かした。

「お逃げになって…」

「何が起きたんじゃ、リーザ。あそこで暴れちょる竜は、ここの長ではないのか?」

 ラオフーが問うと、白竜、リーザは厚い瞼を伏せた。

「私には、解りません。本当に、突然でしたの。ああ、なんてことでしょう。約束を、守れませんでしたわ」

「気に病むでない。儂は気にしてはおらん」

 ラオフーの言葉に、リーザは安堵したように息を吐いた。

「ああ…なんてお優しいの…」

「おぬしは、そこで休んでおるがいい。我が牙で、あれをなんとかしてやろうぞ」

 ラオフーはリーザに背を向け、立ち上がった。すると、リーザは焦点を失いかけた赤い瞳を潤ませた。

「エド様…。そこに、いらっしゃるのね?」

 リーザの歓喜に満ちた声に、ラオフーは思わず振り返った。リーザは首を持ち上げ、あらぬ方向を見つめる。
そして、リーザは咆えた。キースのそれとは掛け離れた、高音でありながらも優しげな咆哮を焼けた夜空に放つ。
ラオフーはリーザの見る先を見たが、何もなかった。分厚くどす黒い煙が立ち込める空へ、リーザは咆え続けた。

「今…そちらに」

 リーザが一際高く咆えた直後、炎の固まりがラオフーの頭上を抜けた。強烈な熱風で、瓦礫が巻き上げられる。
反射的に閉じてしまった目を開くと、白竜が燃え上がっていた。咆哮を放ったままの恰好で、火柱と化していた。
飛ぶつもりだったのか、広げかけた翼が歪み、皮が溶けてずるりと落ちる。その下から、赤い筋と脂肪が現れた。

「リーザ…」

 ラオフーが名を呼ぼうとも、彼女はもう答えなかった。自重に絶え切れなくなった首が折れ、目の前に落ちた。
落下した衝撃で煮えた目玉が飛び出し、転がって割れた。ラオフーは、炎よりも熱している己の魂に気付いた。
これが長の、王のすることか。長年慕ってくれた者達を手当たり次第に殺すのは、王ではなく、ただの殺戮者だ。
心の片隅では娘のように思っていたリーザが殺されたという怒りも相まって、ラオフーは力の限りに猛っていた。

「王たる者がいかなるものかその身に叩き込んでやろうぞ、小童こわっぱ!」

 強烈な怒りで爆発的に上昇した魔力を全身に巡らせたラオフーは、リーザの血が広がる地面を蹴り、跳んだ。

「その命、儂が喰らおう!」

 明日もまた、穏やかながら退屈な日になると思っていた。リーザの魚料理を食べ、遠回しに褒めるはずだった。
そしていつか、眠るように死ぬはずだった。リーザと別れるのは寂しいが、現実を受け入れる覚悟は出来ていた。
だが、この竜はそれらを全て破壊した。ラオフーは宙を蹴ってキースへと飛び掛かりながら、力強く咆えていた。
力は王の証であり、強さが王を定める。だが、それだけでは王にはなれない。かつての自分がそうだったように。
ラオフーは、ようやく王らしい王になれた気がしていた。死ぬ間際なので、かなり遅すぎる気がしないでもないが。
 キースの理性のない瞳が動き、ラオフーを捉えた。キースは汚れた口を開き、ごぶ、と喉の奥に血を詰まらせた。
それを飲み下してから、キースは再度口を開いた。ラオフーは全体重を掛けて落下し、キースの口中を目指した。
中から切り裂けば、どんなに強い者であろうとも死ぬはずだ。だが、竜の喉へと飛び込む前に、衝撃が訪れた。

「…う」

 背後から、重たい一撃が首に叩き付けられた。冷たい感触が真横へとずるりと抜けると、視界も横へずれた。
首が動いたからだった。だが、それは根本から動いたのではなく、頭そのものが肩の上をごろりと転がり落ちた。
頭を失った胴体が、落下していくのが見えた。首となって初めて見る己の体は、記憶の中よりも随分と衰えていた。
飛び掛かりかけた恰好のままで地面に吸い込まれていく本体の右手には、リーザの魔導鉱石が眩しく輝いていた。
炎の光を吸い込んだ魔導鉱石は、異様に美しい光を帯びていた。そして、視界がぐるりと回転し、真上が見えた。
 最後の記憶は、妙に明るい夜空だった。




 目を覚まし、過去から現実に戻ったラオフーは、首を押さえた。
 魔導金属製の太い首は頭と胴体をしっかりと繋ぎ合わせており、多少叩いても外れる気配はなく、安心した。
あの時、リーザからもらった魔導鉱石を握り締めていなければ、死した後も長らえることは出来なかっただろう。
あまりの怒りで燃え滾った魂は、偶然魔導鉱石に収まった。ラオフーの意志ではないので、本当に偶然なのだ。
ラオフーとしては、あの時に命を使い切るつもりだった。だから、こうしてこの場にいるのは不本意なのである。
だが、体を動かせる以上、動かさなければならない。痛む膝を曲げたところ、異様に動きが滑らかになっていた。
他の関節も曲げてみるが、どこからも軋みは聞こえない。人造魔力中枢の動作も軽く、魔力量も元に戻っている。
過去を思い出しているうちに眠ってしまった間に、何かあったのか。ラオフーが立ち上がると、紙切れが舞った。

「ん?」

 素早く手を伸ばし、紙切れを指の間に挟んだ。そこには見覚えのある字が並んでおり、短い文が印されていた。
眠っていたので起こさなかった、治せるだけ治しておいた、との用件だけしか書かれていない簡潔な文章だった。

「まだ、戦わせてくれるっちゅうことか」

 指先で紙切れを潰し、ラオフーは笑った。

「我が本懐が叶う時も、近そうじゃのう」

 ラオフーは、重たい足音を響かせながら歩き出した。広大な墓場と化した東竜都に入り、竜の骨を踏み潰した。
東竜城の後ろに回ると、そこには首が転げ落ちたまま朽ちているリーザの白骨死体があり、苔に覆われていた。
ラオフーは彼女の頭蓋骨に貼り付いている苔を軽く払ってやってから、その隣に腰を下ろすと、胡座を掻いた。
 ヴェイパーとの戦いは、娯楽の一環だ。本当の狙いは、ヴェイパーの主であるロイズ・ファイガーに他ならない。
ラオフーの役割は、異能者の殲滅だ。他の者達に比べれば単純かもしれないが、簡単というわけではなかった。
これまでロイズが生き残っていることから考えうるに、ロイズはあの者達では手に負えないほどの能力者らしい。
ブリガドーンでの戦いの最中に、ロイズが空間湾曲能力をでたらめに発動させた際の破壊力は特に凄まじかった。
子供だからと言って油断すれば、前回の二の舞になりかねない。ラオフーは、リーザの頭蓋骨を優しく撫でた。
 死して尚も、自分がこの世に在り続ける意味は、機械仕掛けの王の力を振るって果たすべきことがあるからだ。
ルージュとフリューゲルが望んでいるものは、ラオフーには理解出来ない。先を求めたところで、何もないのに。
絹糸よりも遥かに細く、儚く、不確かな未来を求められるほど、ラオフーは若くもなければ理想に酔ってもいない。
だからこそ、己のためにだけ生きる。遠い過去に果たせなかった願いを果たすために、手段を選ぶ余裕はない。
どうせ、今度の命もそう長くはない。あの時に尽きた時間が引き延ばされているだけであり、いずれ終わるだろう。
故に、迷わない。ブリガドーンの一件で多少先延ばしになったが、異能者を皆殺しにすれば願いは叶えられる。
願いを叶えた先に待ち受けている未来はただ一つしかないが、心残りを残さずに果てられればそれでいいのだ。
 リーザの形の良い頭蓋骨の眼窩から、若木が生えていた。今年生えたばかりのものらしく、ほっそりとしている。
これでは痛かろう、とラオフーは若木を引き抜いた。若木の根はぶちぶちと千切れ、柔らかな腐葉土が飛び散る。
それを放り捨てたラオフーは、リーザの眼窩に零れた土を払ってやってから、立ち上がると、森へと歩き出した。
 彼女のために、あの池で大物でも釣り上げるとしよう。




 かつて、魔物と獣の頂点に君臨し、支配していた獣の王。
 彼の成した秩序は竜によって砕かれ、そしてその身も竜に切り裂かれた。
 気高き心を踏み潰され、逞しき肉体が滅び、紛い物の器に魂を収められていても。

 王の誇りは、朽ちぬのである。







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