嫌な夢を見た。 だが、覚めるだけまだマシだった。目を開いてしまえば夢は途切れるが、現実は目を閉じても消え去らない。 全身の倦怠感と重たい頭痛を感じて、ロイズは瞬きした。鎮静剤で朦朧とした頭であっても、記憶は蘇ってくる。 天井は、いつもとは違っていた。家具や鏡台が置いてあったので、ここはヴァトラス家の両親の部屋だと解った。 自室の屋根裏部屋ではないらしい。目線を下げていくと、枕元に大きな青い魔導鉱石が置いてあることを知った。 それは、ヴェイパーの魔導鉱石だった。魂の反応もしっかりと残っていて淡く発光しているが、じっと黙っていた。 扉が開き、人が入ってきた。落ち着いた足音がベッドに近付くと、足音の主は傍らに腰掛けて覗き込んできた。 視界に入ってきたのは、フィリオラだった。ロイズが目を覚ましたことに気付いたフィリオラは、柔らかく微笑んだ。 「気分はどうです?」 「良くない…」 「あれから、丸一日が過ぎたんですよ」 「そんなに?」 疲労の残り具合から、せいぜい半日ぐらいだと思っていた。フィリオラは、ロイズの短い髪を撫で付ける。 「ええ。あの人は、小父様が拘束してお屋敷に閉じ込めています。ですから、安心して下さいね」 途端に、ロイズは目を大きく見開いた。喉の奥を這い上がってきた嫌悪感が溢れ出しそうになり、咳き込んだ。 だが、あれから何も飲食していなかったため、胃液すら出てこなかった。フィリオラは、苦しむ少年の背をさする。 「大丈夫、大丈夫」 フィリオラの声と手付きはとても優しかったが、ロイズの不安は少しも弱まらない。 「あ、ぐ…」 ぼろぼろと涙を落としながら震える少年を、フィリオラは抱き締める。 「落ち着くまで、ここにいますから。だから、気が済むまで泣いて下さい」 「かあさんが、かあさんがあ!」 ロイズは居たたまれなくなってフィリオラの腕を振り解こうとしたが、フィリオラはそれ以上の力で抱き留める。 「大丈夫ですから。もう、あなたを脅かす者はいませんから」 「はなして、はなせっ、はなしてくれよ!」 殺したい。今すぐに、アンソニーを殺さなくては。ロイズは必死に暴れるが、フィリオラはなんとか押さえ込む。 「大丈夫。だから、落ち着いて下さい」 「あいつだけは許さない! 絶対に僕が殺してやる! だから離せ!」 渾身の力でフィリオラを突き飛ばしたロイズはベッドから飛び降りて扉に走ったが、急に外側から開かれた。 そこには、レオナルドが立っていた。レオナルドは外へ出ようとするロイズの腕を掴むと、中に引き摺り込んだ。 レオナルドは容赦なく力を込め、ロイズを引っ張った。ロイズはそれから逃れようとしたが、今度は勝てなかった。 ロイズは、再びベッドに転がされた。突き飛ばされて床に落ちたフィリオラは立ち上がったが、悲しげに俯いた。 ロイズを見下ろすレオナルドの眼差しはきつく、ロイズに厳しく当たっていた時のダニエルの眼差しに似ていた。 「許せ、ダニー」 いつになく険しい表情のレオナルドは、拳を固めて振り上げた。 「お前でも、こうするだろうがな!」 レオナルドの怒声と共に、ロイズの頬へ大きな拳が叩き込まれた。突然訪れた激しい衝撃に、視界は乱れる。 頬に熱い痛みが広がり、頭全体が痺れる。ロイズは布団の中に転げたが、起き上がり、レオナルドを睨んだ。 レオナルドはロイズの襟元を掴み、引き寄せた。突然のことにロイズはつんのめったが、顔を上げさせられた。 「ロイズ! アンソニーの野郎を殺すなら、その前にまずオレを殺せ!」 「レオさん…」 レオナルドの言葉に、フィリオラは動揺して身動いだ。レオナルドは、妻を一瞥する。 「お前は引っ込んでいろ、フィリオラ」 「この!」 だったら、弾き飛ばしてやる。ロイズは掴まれていない方の左腕を突き出したが、その腕も掴まれてしまう。 「お前がそのつもりなら、オレもそうさせてもらおうか」 レオナルドはロイズの両腕を離してから肩を突き、転ばせると、眼差しを強めた。 「安心しろ。焼きはしない。家を燃やしたら事だからな」 ロイズが再度力を放とうとすると、強烈な圧が掛かった。抵抗する間もなく、体重の軽い体は壁まで吹っ飛んだ。 壁に背中から衝突し、新たな衝撃が頭を揺さぶる。ロイズは壁からずり落ちたが、怯まずにレオナルドを見返す。 炎に変換されていない異能力は、念動力に近しかった。だが、ダニエルの操る念動力ほど精密ではなかった。 ロイズは立ち上がろうとしたが、痛みが全身に残っていたために動けずにいると、レオナルドが目の前に立った。 レオナルドはロイズの頭を掴むと、ぐいっと上向けさせた。レオナルドの攻撃的な視線が、ロイズを射抜いてくる。 「ロイズ。お前は、人を殺すことを誇れるか?」 レオナルドの威圧的な口調に、ロイズは僅かに気圧されて身動いだ。 「人を殺すんだったら、殺した人間の人生を全部背負う覚悟をしてから殺せ。それが出来ないなら、誰も殺すな」 「なんだよ、それ」 ロイズは戸惑うが、レオナルドは淀まない。 「死体を積み上げた山の上に立って胸を張れるんだったら、オレはお前をアンソニーの野郎のところに放り込んでやる。だが、出来ないんだったらやるな。生半可な気持ちで、こっちに来ようとするな!」 レオナルドはロイズの両腕を掴んで、強引に壁に押し付ける。 「ヴェイパーから話は全部聞いたよ。ダニーとフローレンスが何を考えていたのかも、アンソニーの馬鹿野郎が何をやらかしたのかも、ラオフーが関わっていた理由も理解した。それを承知した上で、オレはお前に言っているんだ。確かに、アンソニーの野郎は生かしておく価値のない裏切り者だよ。オレがまだ刑事だったら、迷わず射殺していただろうさ。だが、今のオレは人を殺せる大義名分もなければ地位もない。だから、殺すことは出来ない。殺したところで、ただの人殺しになるだけだ。それはお前も同じだ、ロイズ。私刑の名目でアンソニーを殺したとしても、何も解決しない。それどころか、人殺しという安易な逃げ道を覚えちまう」 「離せっつってんだろうが!」 ロイズはレオナルドの手から逃れようと藻掻いたが、両腕を掴む手は微動だにしなかった。 「そのつもりだったら、本気で来やがれ」 レオナルドはロイズと額を突き合わせ、語気を強めた。 「オレは人殺しだ。異能部隊にいた頃も、刑事をやっていた頃も、ブリガドーンでの戦いでも、オレは人間を殺したよ。だが、好きでやっていたわけじゃない。異能力も、人殺しをするために生まれ持ったわけじゃない。増して、オレは人殺しがしたいから戦ったわけじゃない。だが、ありがたいと思う時もある。この力がなきゃ、オレはこの女と娘を守れなかったからな。ゼレイブはラミアンさんが守っているが、絶対に安全というわけじゃない。戦時中には連合軍だけじゃなく共和国軍も来ていたし、情けないことに潜入されちまった時もあるし、危うい目に遭ったのは一度や二度じゃない。無論、オレは戦った。そうしなきゃ、誰も彼も死んじまうからだ」 レオナルドの殺気立った気迫に、ロイズは思わず息を詰めた。 「だが、どれほど立派な理由があろうがなかろうが、オレ達のしていることは正しいことじゃないし、ダニーがしてきたことも正しいはずがない。軍隊だろうがなんだろうが、所詮人殺しは人殺しなんだよ。それでも胸を張って、どれだけ痛かろうが辛かろうが両足を踏ん張って立っていられるぐらいにならないと、殺しなんて出来ないんだよ」 レオナルドは、力強く声を張り上げた。 「いいか、ロイズ! 部下の粛清と処刑は違う! 隊長なら隊長らしく、公平な判断を下せ!」 「レオさん…。あの」 事の行く末が不安でたまらないフィリオラは夫の背後に寄ったが、レオナルドは妻を無視して更に叫んだ。 「ロイズ、お前がアンソニーの野郎を殺すのは何のためだ! 自分の心を守るためか! だとしたら、尚更殺させるわけにはいかない! そんなことをしたら、お前はあいつと同じになるんだよ! それが解らないのか!」 「あ、あ…」 ロイズはようやく理解して、脱力した。アンソニーを殺すことは、両親を死に追いやった裏切り者と同類になる。 烈火の如く激しい憎しみを、正義だと錯覚していた。裏切り者を罰することの延長で、殺してもいいと思っていた。 むしろ、そうしなければならない気がしていた。それこそが必然であり、なんら不自然なことはない。正しいのだと。 だが、そうではない。憎しみだけでアンソニーを殺すのは、身勝手な感情で仲間達を殺したアンソニーと同じだ。 わなわなと膝が震え出して下半身の感覚が失せて立っていられなくなり、ロイズはその場に崩れ落ちてしまった。 「解ったなら、それでいい」 レオナルドはロイズの両腕から手を離すと、立ち上がった。ロイズは頭を抱え、腹の底から泣き叫んだ。 「あああ、ぁあああああああっ!」 「ロイズ。復讐なんて、間違っても考えるんじゃないぞ。アンソニーの野郎を殺しても、誰も帰ってこないんだ」 「うぁああああぁぁぁあぁあああああぁああああああぁああああぁぁぁっ!」 ロイズは床に頭を押し付け、体に収まりきらない衝動を声にして吐き出した。丸めた背を、大きな手が撫でる。 「誇るなら、これまで生き延びられたことを誇れ。お前を守り通してくれた両親の強さを誇れ。これから先もしっかり生き延びて、立派になって、誰よりも強くなることこそが、あの野郎への一番の復讐だ。だから、生きろ」 レオナルドの手の大きさと温度は、父親のものに良く似ていた。父親の最期の姿と言葉が、脳裏に蘇ってくる。 ラオフーに見せられた母親の勇姿と哀れな最期も、浮かんできた。両親が一番望んでいることこそ、それなのだ。 居もしない敵を探して旅を続けたのも、捨てるとまで言ってゼレイブに残そうとしてくれたのも、戦ってくれたのも。 夫も仲間も連れずに一人でラオフーに立ち向かったのも、最後の最後まで愛してくれたのも、その何もかもが。 それなのに、自分は何をしようとしていたのだ。ロイズが力一杯泣き喚いていると、レオナルドは背を軽く叩いた。 「ついでに、自分が異能者であることも誇れ。それがお前の才能なんだから」 レオナルドはロイズの傍で胡座を掻くと、ロイズがしゃくり上げるたびに引きつる背をさすった。 「アンソニーの野郎は、それが出来なかったんだ。だから、異能部隊の連中を殺しちまったんだよ」 レオナルドの手が離れると、今度はフィリオラの手が頭を撫でてきた。こちらの手は、少しひんやりしていた。 「私達ではダニーさんとフローレンスさんの代わりにはなれませんけど、お二人がこの世にいない分、私達も精一杯やりますから。だって、私達は家族じゃないですか」 「ロイズ」 聞き慣れた声で名を呼ばれ、ロイズははっとして顔を上げた。ベッドの上で、魔導鉱石が輝いている。 「ヴェイパー…」 ロイズが掠れた声で彼の名を呟くと、青い魔導鉱石は光を放ちながら言葉を連ねる。 「また、釣りに行こう」 「…うん」 兄の言葉を受け、ロイズは何度も何度も頷いた。なんでもない言葉だからこそ、ロイズの激情は引いていった。 ヴェイパーは戦いを終わらせようとしている。始まりかけた復讐を止めるために、日常に引き戻そうとしてくれた。 ヴェイパー自身にも、アンソニーへの復讐心はあるだろう。流れ込む思念には、荒々しい感情も混じっている。 だが、ヴェイパーはそれをロイズに感じさせまいと押さえ込んでいる。それらの心遣いが嬉しくて、物悲しかった。 湖でラオフーと会った時も、いや、それよりも前からずっと、ヴェイパーは愚直なまでに母親の命令を守っている。 ロイズを傷付けないために、体だけでなく魂をも盾にしている。その気持ちを裏切ることだけは、絶対出来ない。 きっと、これはヴェイパーなりの愛情なのだ。意識しなければずっと気付けなかったであろう、静かで硬い愛情だ。 涙は止まらなかったが、苦しみは弱まらなかったが、激情は収まった。これも全ては、皆がいてくれたおかげだ。 確実に、自分は愛されている。 夜になってから、ギルディオスはロイズの様子を見に行った。 拘束してあるアンソニーのことはラミアンに任せ、破損したヴェイパーの肉体の修理はピーターに任せてきた。 今回の破損はあまりにもひどかったので、不本意ではあったが死したラオフーを解体した部品を使うことにした。 ラオフーの部品がヴェイパーに合うとは思えないが、高純度の魔導金属製の部品を捨てるのは惜しかったのだ。 それに、ラオフーはヴェイパーと体格が似通っているので、関節部分ぐらいなら合うのではないかという話だった。 上手く事が運べばヴェイパーを強化改造することも出来るかもしれないが、あまり期待しないでおくことにした。 ギルディオスは屋根に座り込んでいるフリューゲルに挨拶してから玄関を叩くと、フィリオラが出迎えてくれた。 夕食も終わってリリは眠ってしまったらしく、家の中は静まっており、居間の鉱石ランプの光量も落とされていた。 フィリオラがギルディオスを通したのは、ロイズの自室になっている屋根裏部屋ではなく、夫婦の寝室だった。 寝室の大きめのベッドには、ロイズが眠っていた。頬には涙の筋が付いていて、瞼は腫れぼったくなっていた。 その手には、ヴェイパーの魔導鉱石がしっかりと握られていた。少年の傍らには、レオナルドが腰掛けていた。 「よう」 ギルディオスが手を挙げると、レオナルドはロイズに掛けてある布団を軽く叩いた。 「薬なしで眠ってくれましたよ。散々泣いて暴れましたから、当然と言えば当然ですが」 「で、どんな具合だ?」 ギルディオスはロイズの上に屈み、乾いた涙が貼り付いている頬を指先で撫でた。 「まだ安心は出来ませんけど、きっと大丈夫ですよ。ロイズは一人じゃないですから」 フィリオラは、ロイズの手中にあるヴェイパーを見下ろした。ギルディオスは、こん、とヴェイパーを小突く。 「よう、ヴェイパー。元気か」 「僕は平気です。それよりも少佐、アンソニーはどうしていますか」 ヴェイパーは薄く発光しながら、答えた。ギルディオスは、顎で屋敷の方角を示す。 「ラミアンが見張りに付いてくれている。だが、処分は早い内に下さねぇと」 「解っています。ロイズにも、ちゃんと伝えます」 ヴェイパーは言葉に合わせて点滅していたが、輝きを強めた。 「少佐。僕は、少佐の部下になれて本当に良かったと思っています」 「ああ、オレもだ。お前らみたいなのが部下で良かったと思うぜ」 ギルディオスはヴェイパーの励ましに、笑い返した。 「僕の命を救ってくれたのはフローレンスだけど、魔導兵器として生かしてくれたのは少佐です。そして、ダニー達と巡り合わせてくれて、一緒に戦わせてくれたのも少佐です。だから尚更、僕は、アンソニーが許せない。ダニーや皆だけじゃなく、少佐まで裏切ったんですから」 「本当に許せないのは、アンソニーをそそのかしやがった生体魔導兵器共だがな」 ギルディオスが苦々しげに呟くと、ヴェイパーは驚き混じりに漏らした。 「そうなんですか」 「どうもそうらしい。まあ、だからといってアンソニーの罪が軽くなるわけでもないが」 またややこしいことになってきたぜ、とギルディオスは肩を竦めた。 「そうなると、ここ最近の出来事の裏には、全てそのお二人がいるということになりますね」 フィリオラが表情を強張らせると、レオナルドも不愉快げに眉間を寄せた。 「あの二人は、ブリガドーンでヴィクトリアを殺し損ねている。だから、いずれゼレイブに来るはずだ」 「どいつもこいつも、人の命を何だと思っていやがるんだ」 ギルディオスは苛立ちに任せ、荒い語気で吐き捨てた。アンソニーも、ラオフーも、生体魔導兵器の二人も。 これ以上、無駄に人を殺させるわけにはいかない。ゼレイブに住まう者達だけでも、守り抜かなければならない。 今のところ、ラオフー以外の襲撃者は訪れていないが、アレクセイとエカテリーナが来るのは時間の問題だろう。 ゼレイブに潜入していたヴィンセントに逃げられたのは失敗だったが、かなりの時間が過ぎた今では手遅れだ。 ブリガドーンで終わったと思っていた戦いは、まだ続いていた。だが、これ以上戦えば残り少ない命が削れる。 しかし、迷う余地などない。ギルディオスは泣き疲れたロイズの寝顔を見、弱まりつつある魂に戦意を滾らせた。 真の敵は、生体魔導兵器なのか。 異能者が在る限り、異能故の苦しみが潰えることはない。 その苦しみを歪められし男は、道を誤り、這い上がれぬ深淵へと沈む。 ささやかな願いを甘き誘いでねじ曲げ、命と心を弄ぶ者達こそが。 平穏を掻き乱す、悪しき存在なのである。 07 9/12 |