ここで退いたら、生涯の恥だ。 ブラッドはギルディオスを睨み、駆け出した。ギルディオスは背負っていたバスタードソードを外し、放り捨てた。 どうやら、あちらは本気ではないらしい。そのことが少々癪に障ったが、文句を口に出来るほど余裕はなかった。 ブラッドはギルディオスに殴りかかったが、拳は掠りもせずに虚空に突っ込み、ギルディオスは重心をずらした。 ほとんど足を動かさずに突撃を回避したギルディオスは足を上げ、ブラッドの丸まったままの背に蹴りを入れた。 「言ってくれるじゃねぇかよ」 ブラッドが顔から地面に突っ込むと、頭上から声が降ってきた。ギルディオスは両腕を組み、笑う。 「オレを倒したらお前の言い分もちったぁ聞いてやってもいいぜ? まあ、倒せたら、の話だが?」 「…うるせぇええええ!」 ブラッドは立ち上がると、再びギルディオスに殴りかかる。だが、やはり当たらず、盛大に空振りしてしまった。 「おいおい。それでオレに勝つつもりか?」 ギルディオスはブラッドのでたらめな蹴りや拳を避けていたが、腕を上げて拳を受け止めた。 「ガキのケンカ以下だな」 「うっせえなあ!」 ブラッドは右腕を下げ、毒突いた。受け止められた際に骨に走った痺れが残っていたが、気にする暇はない。 腰を据えて上半身を捻り、拳を繰り出す。ギルディオスは避けずに胸の中心でそれを受けたが、揺らがない。 「もうちょいと鍛えろ。魔力にばっかり頼りやがって、背は伸びたかもしれねぇが、体はまだまだ子供だぜ!」 ギルディオスは胸に打ち込まれた拳を掴んで捻り上げると、足を払い、ブラッドがよろけたところで殴り付けた。 「腰も足も弱すぎるんだよ!」 鳩尾が、ひどく重たい打撃で抉られた。ブラッドは咳き込むよりも先に息が詰まり、一瞬目の前が暗くなった。 なんとか呼吸を戻そうとするが、喉が上手く動かない。反撃出来ずにいると、ギルディオスの追撃がやってきた。 先程とは逆の頬を、硬い拳が襲う。ただでさえ霞んだ視界が更に掻き混ぜられ、耳の中にも雑音が飛んだ。 頭蓋骨そのものが揺さぶられて、気が遠くなる。だが、即座に新たな衝撃が胸を突き上げ、意識を戻させた。 骨を痛めないようにしているらしく、柔らかな肉の部分に痛みが続く。それでも、痛いことには変わらなかった。 更に腹に膝を入れられ、ブラッドの体は呆気なく浮いた。上体が反れていくと、今度は胸全体を蹴り飛ばされる。 倒れ込んだブラッドは、地面の冷たさで意識を戻した。再生能力が追いつかないのか、痛みは消えていない。 咳き込みながら膝を立てて起き上がろうとしたが、力が入らない。体の負傷よりも、精神的な負傷が大きかった。 あのギルディオスに殴られているという事実を、信じられないからだ。彼は友人であると同時に、父親だった。 ラミアンが殺されて居ても立ってもいられなくなり、旧王都へ赴いたブラッドを助けてくれた上に、仲良くしてくれた。 生意気の固まりのような少年だったブラッドを蔑ろにせずに、フィリオラと同等に扱ってくれ、一緒に遊んでくれた。 おかげで、寂しさを感じずに済んだ。強さとは何なのか、彼を通じて知ることが出来た。少しだけ、大人になれた。 ギルディオス・ヴァトラス。それは、ブラッドにとって憧れの存在であり、決して乗り越えられない頂でもあった。 いつ何時であっても誰よりも力強く行動し、守るべきものを守り、揺るぎない強さを持ち、誇り高い熱き魂の戦士。 そのギルディオスに、いいように殴られている。だがブラッドは、ルージュを愛することが悪いことだとは思えない。 ルージュは魔導兵器であり、利用されていたが、それでも一人の女だ。女が幸せを手に入れようとして何が悪い。 死を切望するほどの寂しさと空しさの中で生きてきたが、決して強いわけではなく、人並みに弱い心を持っている。 密会を終えて去っていく時のルージュの横顔は悲しさと寂しさを湛えていて、何度引き留めようと思っただろうか。 「もういい、ブラッド」 立ち上がれずにいるブラッドの前に、ルージュが立ちはだかった。 「私が戦う。お前を守れるなら、私はどうなろうと」 「うるせぇっつってんだよ!」 どうしようもない自分への怒りに任せてブラッドが叫ぶと、ルージュは狼狽えた。 「しかし…」 「邪魔すんじゃねぇ、ルージュ! オレはお前を守るために戦ってんだ、お前に守られちゃ意味がねぇ!」 ブラッドはよろけながらも立ち上がり、唾を吐き捨てて口元を拭った。鼻から流れ出た血が、ぼたぼたと落ちる。 「肝心な時に戦えないようじゃ、情けなくて反吐が出るんだよ」 ブラッドは魔力を高めようとしたが、魔力ばかりで、と罵倒されたことを思い出し、鎮痛にだけ回すことにした。 それなら、文句はないだろう。痛みは失せたが内出血の重みや骨の軋みまでは消えず、敗色は極めて濃厚だ。 だが、もう二度と膝を付かない。ブラッドを引き留めようとしたルージュの手を振り払ってから、甲冑の前に立った。 「気にするな、ルージュ。一晩経てば大体の傷は治るし、骨を折られても三日もすればくっつく」 けどな、とブラッドはルージュへ振り向き、腫れた頬を歪めて無理矢理笑みを作った。 「ルージュはそうもいかねぇだろ?」 ブラッドは笑みを唇の端に貼り付けたまま、ギルディオスに向いた。ギルディオスは腰を落とし、拳を固める。 「さすがに丈夫だな、まだ立てるのか。だったら、続きと行こうじゃねぇか」 「当たり前だ!」 ブラッドは、足元を強く踏み切った。空を飛ぶ要領で地面のすぐ上を飛び抜け、ギルディオスの懐に飛び込む。 だが、ギルディオスは重心をずらして軽々と避ける。ブラッドは地面に足を擦り付けながら、目一杯踏ん張った。 どうやっても避けられる上に、決定的な打撃は与えられない。ならば、せめて視界だけでも奪ってしまえばいい。 そう判断したブラッドは、右手でギルディオスの胸部へ殴り付けた姿勢のまま跳ね上がり、足を伸ばして振るう。 一気に足を振り抜いてしまえば、頭の兜が外れる。だが、右足はギルディオスの太い腕によって遮られてしまった。 だが、もう一方の足がある。ブラッドは右足をそのままにして左足を大きく振り、ギルディオスの頭へと叩き込んだ。 しかし、予想していたことは起こらなかった。ブラッドはギルディオスの肩を蹴って背後に着地して、振り返る。 ギルディオスの頭は反れていたが、付いたままだった。思い切り蹴ったのに、と思っていると、彼は首を曲げた。 ずれてしまった首の関節を元に戻してから、ギルディオスはブラッドに向き直った。ヘルムには、泥が付いている。 「力が不十分なくせに、足場を崩すなよ。足場があっても中途半端だってのによう」 ギルディオスはブラッドへと駆け寄りながら、飛び上がった。 「蹴りってのは」 ブラッドが後退するよりも先に、ギルディオスの足が唸りを上げて振り下ろされ、後頭部を直撃した。 「こうやるんだよ!」 視界の上下が反転し、顔から地面に突っ込んだ。重たい蹴りをまともに受け止めた頸椎が、悲鳴を上げる。 頬と肩を土に引き摺り、目にも少し入ってしまった。口中に異物感を感じて吐き出すと、折れた歯が零れ出た。 折れた歯で皮が深く切れたのか、唾に混じる血の量も増えている。今度の痛みは、魔力でも押さえ切れない。 それでも、立ち上がらなければ。ブラッドは上体を起こしたが、胃の中から液体が迫り上がり、出てしまった。 足元に、血が混じった胃液が零れ落ちた。腹への打撃は少ないのに、と思ったが、痛みが強すぎるせいだろう。 胃液に汚れた口元を拭ったが、立っていられなかった。頭の芯が抜けたかのように、ふらふらと揺れてしまう。 すると、大きなものが視界を塞ぎ、頭皮が引きつる。ギルディオスの銀色の大きな手が、髪を乱暴に掴んでいた。 「そんなにあの女を守りたいか」 ギルディオスの言葉に、ブラッドは言い返した。 「聞かれるまでもねぇ」 だが、その声は血と胃液で濁っていた。ギルディオスはブラッドの髪を離し、右手を持ち上げた。 「だったら、オレを殺すぐらいの気合いで来たらどうなんだ」 ブラッドの手に、鉄の感触が訪れた。瞬きをして凝視すると、右手がギルディオスの胸元に当てられていた。 「この意気地なしが」 頭上から聞こえた嘲笑に、ブラッドはぐっと奥歯を噛み締めた。爪を立てる勢いで指を立て、装甲に噛ませた。 手の真下に、ギルディオスの魂が込められた魔導鉱石があるのが解る。その熱が、手に流れ込んでくるからだ。 生身の人間の鼓動となんら遜色のない脈と温度が、伝わってくる。幼い頃には、これを感じて安心したものだ。 薄らいでいた意識が戻ってこなかった方が、良かったかもしれない。彼の温度で、温かな記憶が呼び起こされた。 旧王都での短くも楽しかった日々の記憶や、ギルディオスの手の温かさや、背の広さや、言葉までもが蘇った。 これほどまでに殴られても、敵意を抱くことは出来なかった。ルージュとギルディオスの命など、比べられない。 殺し合う必要はないはずだ。そうは思っても、舌が上手く回らない。言葉が出せない。心がきつく締め上げられる。 しかし、ルージュを守るために倒さねばならないというのなら、ギルディオスを殺さなければ彼女が殺されるなら。 「だぁれが」 右手を拳にしたブラッドは、ギルディオスの胸元を力一杯殴り、猛った。 「意気地なしだぁああああっ!」 最大限まで高めた魔力を、拳から放った。拳の接している部分の金属が急激に熱し、皮が焼ける匂いがした。 間を置かずして、ギルディオスのマントのない背から魔力の光が飛び出した。夜を裂くように、太い閃光が駆ける。 ギルディオスは、今まで少しも揺らがなかった足元を僅かに崩した。ブラッドの髪を掴んでいた手を緩め、後退る。 今だとばかりにブラッドは拳を振るい、ギルディオスを殴り付けた。魔力で撃ち抜いたからか、楽に殴られてくれた。 顔面を全力で殴り付けると、ギルディオスは上体を反らして倒れ込んだ。ブラッドは、肩を大きく上下させて叫んだ。 「おっちゃんだろうが父ちゃんだろうが誰だろうが、オレの邪魔はさせねぇ!」 これで、二度と後戻りは出来ない。 「ルージュが誰の道具だろうが、オレが何に利用されようが、そんなことはどうだっていいんだよ!」 魔力を放った余韻が残る右手を握り締めると、食い込んだ爪が皮を破り、血が流れた。 「好きだから守りてぇし、好きだから信じてんだし、好きだから好きなんだ!」 だからこそ。 「これ以上オレらの邪魔をするってんなら、本気で殺すぞ、ギルディオス・ヴァトラス!」 ブラッドの頬を、熱いものが伝い落ちた。それが自分の涙であると気付くまで、多少時間が掛かってしまった。 誰よりも敬愛している男に、こんな言葉をぶつけたくはなかった。だが、彼女もまた、とても大事な存在なのだ。 ブラッドには家族や友人達がいるが、ルージュはこの世に一人ぼっちだ。彼女を支える者は、ブラッドしかいない。 ブラッド自身も、孤独を味わったことがある。父親が死に、母親が消え、友人がいない、深い空しさを経験した。 だからこそ、ルージュを見捨てられない。利用されていたと知った今でも、彼女を愛しく思う気持ちは変わらない。 「本気で撃つとはな。ちょいと驚いたぜ」 ギルディオスは平然と起き上がると、魔力の熱で少し歪んだ胸部装甲をさすった。 「仕方ねぇ。お前の言い分、ちったぁ聞いてやる」 牙を剥いて敵意を示すブラッドとは対照的に、ギルディオスの声色は一転して柔らかくなっていた。 「こっちから誘い込んだとはいえ、オレを転ばせたんだ。引き分けってところだな」 ギルディオスは、殴り合いを傍観していたヴェイパーに向いた。 「ヴェイパー」 「あっ、はい!」 「お前は先に戻って、ラミアンに事の次第を報告しろ。悪いが、夜釣りはまた今度だ」 「少佐はどうするんですか?」 「少し遅れてから行く。やることがあるんでな」 ギルディオスは親指を立て、ブラッドを示した。ブラッドは言い返そうと口を開けたが、足の力が急激に抜けた。 魔力の大半を放ってしまったためだろう、痛みを押さえていた魔力も薄らぎ始め、全身を荒々しい激痛が襲う。 気付かないところで筋も痛めたらしく、肩や腕も痛い。一番痛いのは首だが、頭痛と目眩で立っているのも辛い。 夜の闇よりも濃い闇が目の前を覆い、膝の感覚が失せた。地面に倒れた時には、既に意識は消え失せていた。 ヴェイパーは気を失ってしまったブラッドが気に掛かっていたが、ギルディオスの命令に従って屋敷に向かった。 ルージュは倒れたブラッドに駆け寄り、抱き起こした。心臓の鼓動を確かめてから、ギルディオスを強く睨んだ。 「ここまでやる必要がどこにある!」 「安心しろ、ルージュ。ラッドはそれぐらいで死ぬタマじゃねぇってことは、お前が一番よく知っているだろう」 ギルディオスは、ゼレイブへと駆けていくヴェイパーを見送りながら、呟いた。 「ルージュ、お前はラッドの傍にいてやれ」 地面に放り投げたバスタードソードを拾って担ぎ直し、ギルディオスはその場に腰を下ろした。 「ヴェイパーの言動と姿を見て気付かなかったのなら、言ってやろう。半月と少し前に、ラオフーの野郎が来たんだ」 「そのことなら、ブラッドから一通り聞いている」 「だが、その話には続きがあってな。ラオフーはロイとヴェイパーが倒したんだが、そのおかげで裏切り者がいることが解ってな。詳しいことは後で説明するが、そのせいでオレも気が立っちまってたんだ。ラッドの本心を探るついでにお前の本心も探ろうと思ったんだが、オレもちったぁやりすぎたと思わないでもねぇや。ラッドが目を覚ましたら、誠心誠意謝るつもりだ。歯ぁ折っちまって悪かった、ってな」 ギルディオスは、気を失っているブラッドを見つめた。 「ルージュ。お前が本当にラッドを好いているなら、良心の呵責ってのがちったぁ起きるだろう。だから、下らねぇ隠し立てなんざしねぇで、フィルの奴が何を考えているのかを話してくれ。駒であるお前はそれを知っているはずだ」 「知っている。だが、この話をするのは…」 「オレがフィルの考えを知ったら、良くないことにでもなるってのか?」 「恐らくは」 「だったら、尚更話してもらわねぇとな。その上で、オレは行動を取るつもりだ」 「だが、お前が動いても何の意味もない。私は一応理由があるし、あの人にもそれなりの事情があるが、お前には何の関係もない。関わるだけ、無意味だ」 「それを決めるのはルージュでもフィルでもねぇよ、このオレだ」 ギルディオスは親指を立て、自分を指した。ルージュは、顔を伏せる。 「しかし」 「いいから話せ。ごちゃごちゃぬかすのはそれからでも遅くねぇだろう」 「解った」 腹を決め、ルージュは頷いた。 「但し、他の誰にも口外するな。それが条件だ」 「当然だ。だが、手っ取り早く頼むぜ。うかうかしていると、ラミアンが来ちまうからな」 「それぐらい、弁えているとも」 「しかしなんだ、お前って奴ぁ幸せだぜ、ルージュ。命張って守ってくれる男がいるんだからよ」 ギルディオスの茶化すような言葉に、ルージュは照れ混じりの笑みを零した。 「ああ。私もそう思う」 ルージュの腕に体を預けているブラッドは、目を覚ます気配はない。痣と血に汚れた顔は、満足げに見えた。 極度の緊張と戦闘の疲労による眠りはかなり深いようで、ルージュが傷に触れてもブラッドは反応しなかった。 吸血鬼と言えど、体力が消耗していれば再生も遅い。だが、魔力さえ回復すれば、折れた歯も元に戻るだろう。 色男が台無しだ、と思いながら、ルージュはブラッドを見つめた。これまでは、若い部分ばかりが目立っていた。 歳がかなり離れているため、その若さが幼さに思えてしまうこともあったが、これからはそうは思わないだろう。 ギルディオスの物騒な文句に心底怒り、精一杯の力を振るって戦ってくれた男を、誇りに思わないわけがない。 そして、嬉しく思わないわけがない。だからこちらも、愛する男に対してはどこまでも誠実でなければならない。 ギルディオスに真相を話すのは躊躇われたが、ここで話しておかなければ、状況はますます悪化するだろう。 ルージュがフィフィリアンヌからゼレイブを探るように命じられたのは、事を動かす頃合いを見計らうためなのだ。 ラオフーがゼレイブを訪れ、敗北したと言うことは、事が動いた証だ。ならば、こちらも動き始める必要がある。 戦いは、未だに続いている。 守るものがあるからこそ、男は強くなれる。 憧れ、羨み、目指した高みであったとしても、壁となれば打ち破るのみ。 この世の誰よりも愛おしい、鋼鉄の乙女を生かすためならば。 半吸血鬼の青年は、血を流すことも厭わないのである。 07 9/18 |