ドラゴンは滅びない




穢されし過去




 ルージュは、眠れなかった。


 魔導兵器の体は魔力の消耗こそあるが、肉体的な疲労を感じることはないので、眠気は大して訪れなかった。
本来夜行性の吸血鬼族は夜に眠る習慣がないということもあり、普通の人間の生活にはまだ慣れていなかった。
ジョセフィーヌとの間に起きた諍いにも決着が付き、ゆっくりとではあるが歩み寄って習慣や仕事も教えてもらった。
女の仕事は思っていたよりも多く、早朝から夜遅くまで仕事があることに驚きながらも、懸命に身に付けていった。
他者とのまともな接し方なども教えられた通りに実践しているが、慣れないので気疲れして多少神経が立っていた。
おかげで目が冴えてしまい、眠ろうにも眠れなかった。ルージュはベッドで熟睡するブラッドが、少し羨ましくなった。

「いい気なものだ」

 ルージュは手を伸ばし、ブラッドの頬に触れた。軽く撫でると眉をひそめたが、彼が目を覚ます気配はなかった。
起こしては悪い、と手を下げたルージュは、ベッドの傍から立ち上がった。音を立てないように、カーテンを引いた。
窓の外には分厚い闇が広がっており、月明かりすらなかった。窓にうっすらと浮いている結露は、凍り付いている。
だが、部屋の中の空気はそれほど寒いとは思わなかった。体が体だからということもあるが、ここには彼がいる。
それだけで、全てが違う。手が届かないものだと思い込んで諦めていたものが傍にあるのだから、とても幸せだ。

「ブラッド。少し、話をしてもいいか?」

 泣き出したくなるほど幸せなのだから、きっと向き合える。

「長い話になる。退屈で、どうしようもなくて、下らなくて、つまらないが、それでもいいと言うのなら」

 ルージュはブラッドの傍らに腰掛けたが、ブラッドはやはり反応しなかった。

「沈黙は了承と判断しよう」

 ルージュは一笑すると、身を屈め、ブラッドの唇に自分のそれを重ねた。

「お前には、聞いてもらいたいんだ。きっと、他の誰にも言えないから」

 あれから、長い時が過ぎた。けれど、傷は未だに残っている。肉体の傷は灰と化して消え去ったが、魂は別だ。
魂と心には醜い傷が残されたままで、忘れようと思っても薄らぐ気配すらない。だからこそ、死んでしまいたかった。
死ねば全てから解放されると信じていたから死したのに、死にきれなかった挙げ句に恋をして生を望んでしまった。
ブラッドのために、自分自身のために、これからも生き続けるためにも過去とは真正面から向き合う必要がある。

「聞いてくれるだけでいい」

 ブラッドの傍に横たわり、ルージュは小声で呟いた。兵器の重量を受け、ベッドが耳障りな鋭い悲鳴を上げた。
解ってくれとは言わない。受け止めてもらえるとは思っていない。眠っているままでも、聞いてくれるだけで充分だ。
それだけで、膿んで腐りかけた傷口が癒やされる。ただの自己満足だが、今までは言葉にする勇気すらなかった。
けれど、今なら大丈夫だ。彼がいるのだから。ルージュは掛け布団の下へ手を差し込むと、ブラッドの手を握った。
 金属製の肌に伝わる彼の体温が、切ないほど優しかった。




 二百十数年前。
 ルージュは、共和国内を当てもなく彷徨っていた。吸血鬼族の証である銀色の髪を布で隠して、放浪していた。
帰る場所もなければ向かう場所もなかったのだが、同じ場所に留まっているよりも余程いいと思い、動いていた。
黒竜戦争後から魔物族の立場は目に見えて悪くなり、手当たり次第に狩られていることも放浪の理由だった。
平常時の姿が人間に酷似しているので人に紛れるのは容易いが、突発的に起こる血への飢えが困りものだった。
 魔物や動物で飢えを凌いだとしても所詮はその場凌ぎでしかなく、血と共に魔力も吸わなければ腹持ちしない。
あまり長い間血を吸わずにいると、飢えの苦しみの末に本能に支配されてしまい、銀色の獣と化す場合もある。
そのため、魔導師協会や軍に見つかる危険がありながらも、人里からあまり離れてしまうことは出来なかった。
銀色の獣と化せば、欲望を抑えきれなくなる。若い頃に何度か暴走したことがあり、その時にかなり懲りていた。
暴走している間は意識が飛んでいるので何も解らないが、理性を取り戻せば体中が傷だらけになっていたのだ。
魔法と思しき傷もあったので、どこかで人間を襲って反撃されたようだったが、恐ろしくて事実を確かめなかった。
 それ以来、常にルージュは人家から離れた道を通って進んでいた。移動手段は専ら徒歩で、馬車も使わない。
どうしても歩けない道や疲れ切っている時は乗る時もあるが、体が動く限りは自分の足と翼だけで動いていた。
日雇いの仕事で稼いだ金にも限りがあるので、使いたくなかったと言うこともある。魔物といえど、金は必要だ。
血以外のものも食べるし、たまには宿にも泊まりたいし、歩き通しなので服や靴はボロボロになってしまうからだ。
だが、こんな生活がいつまでも続けられるとは思っていなかった。体は疲れなくても、心はかなり疲れていたのだ。
どこでもいいから、落ち着いた暮らしをしたい。ルージュはいつもそんなことを考えながら、ずっと歩き続けていた。
 冬が始まったばかりのある日も、ルージュは歩いていた。鬱蒼と茂った深い森を、くたびれた靴で進んでいた。
何度も修繕した革靴だったが、さすがにガタが来たらしく、縫い目が緩み掛けていてそこから冷気が入り込んだ。
また直さなければならない、とは思っていたが、休める場所が見つかるまで修理するのは我慢することにした。
十年来着ている厚手の上着も右の袖が取れかけていたので、せめてこれぐらいは縫い合わせてしまいたかった。
だが、落ち着ける場所がない。森は思っていたより深く、座れるところがあればと探していたが見つからなかった。
そのうちに、雨まで降ってきた。木々の隙間から落ちた冷たい水滴が外套を叩き、伸びた前髪を伝い落ちていく。
雨宿りしなくてはならないな、と思いながらルージュは歩き続けた。すると、木々が途切れ、急に視界が開けた。
 綺麗な円形に整えられている土地には、明らかに人の手で伐採された切り株がいくつも並び、家が建っていた。
石組みの壁とレンガの屋根の小さな家だった。年季が入っており、屋根は苔に覆われ、壁にはツタが這っている。
平屋建ての小さな家で、そこかしこに人の住んでいた痕跡は残っているが、積み重ねられた薪は大分腐っていた。
積み重ねられた薪の傍に落ちていた斧も赤茶色に錆び付いていて、つま先で小突いてみると簡単に刃が砕けた。
どう見積もっても、十数年は放置されているらしい。ルージュは一応周囲を見回してから、家へと近付いていった。
 雨宿りぐらいは出来るかもしれない。こぢんまりとした玄関の前に立ち、外套に付いた雨水や木の葉を払った。
玄関の扉の取っ手も斧と同じようにひどく錆び付いており、掴むと赤茶けた錆びが手に付いてしまうほどだった。
恐る恐る回してみると、鍵は掛かっていないらしいが動きがかなり悪く、力を入れなければ取っ手は回らなかった。
ざりざりと耳障りな音を立てる取っ手を回しきっても、開かなかった。扉と壁の間に、年月と共に土が堆積している。
ルージュは足を踏ん張り、強引に扉を引いた。扉の前に積み重なっていた落ち葉が動き、乾いた土が剥がれた。
蝶番も錆びているらしく、なかなか開かない。それでも半分ほど開いたので、ルージュは体を横にして中に入った。
 家の中には、カビ臭く湿っぽい空気が詰まっていた。あまりのカビ臭さに、少し吸っただけで咳き込んでしまった。
扉の左側の壁にある窓を開いて新しい空気を入れるが、外は雨模様なのでそれもまた多く湿気を含んでいた。
だが、このままでいるよりはいい。ルージュは重たい外套を脱ぐと、埃をたっぷり被っている椅子に引っ掛けた。
一括りにして結っていた長い髪も解き、背中に流した。壊れた革靴も脱いでしまい、冷え切った足を布で拭った。

「ここは、誰の家なんだろうな」

 数日ぶりに発した言葉は、掠れていた。屋根からは軽快な雨音が聞こえ、森の奥からは鳥の鳴き声がする。
案の定、家の中も狭かった。一目で全てが見渡せてしまう。もう一部屋あるようだったが、そちらも狭そうだった。
台所と居間の間には薄い壁があったが、それ以外の生活用品は全てこの部屋にあり、ごちゃごちゃしていた。
分厚い埃に覆われたテーブルには、数冊の本と埃が積もって汚れ切った食器が並び、人の息吹が残っていた。
ルージュは興味を持ち、テーブルに近付いた。その本を開くと、固く貼り付いていたページがばりばりと剥がれた。
ページは虫に喰われていて、触れると呆気なく崩れた。読むに読めないのでテーブルに戻し、部屋を見渡した。
目に付いたのは、本棚で本の間に押し込められている陶器の壺ぐらいなもので、他にめぼしい物は見当たらない。
それが妙に気になったので、ルージュは壺に手を伸ばした。大きさは子供の頭程度で、重量はそれほどではない。
左右に揺すってみると、内側でからからと軽いものが動いた。蓋を開けて覗くと、そこには白い欠片が入っていた。
 一目見て、これが何なのか察しが付いた。人骨だ。火葬された際に出た骨のようで、黒ずんでいる部分もある。
手と思しき骨は細く、腕と思しき割れた骨の破片も華奢なので、女のものだろう。だが、この部屋に女の服はない。
その代わり、ソファーには男物の服が折り畳んで置いてある。となれば、この骨は住人の妻か恋人ではないのか。
恐らく、住人の男とその伴侶は身分差か何かで周囲から関係を反対されていたが、それを押し切って寄り添った。
だが、病か事故で女が死してしまった。その際に男は女と引き離されそうになったので、女の死体を奪い取った。
しかし、そのままでは女の死体は醜く腐り果ててしまう。そこで男は女を火葬して骨にし、壺に収めてここへ運んだ。
それから男は、この家で骨と化した女と共に生き続けたのだ。だが、男もまた、寿命か病かで死してしまったのだ。
男の死体は見当たらないので、森の中で行き倒れてそのままになったのだろう。伴侶の心掛けとしては立派だ。
大方、そんなところだろう。想像から現実に意識を戻したルージュは蓋を閉じ、女の骨が入った壺を棚に戻した。

「愛の巣か」

 自分の想像から思い付いた言葉を言って、恥ずかしくなった。愛など、今まで使ったことのない言葉だからだ。
そんな場所に入り込むのは悪い気がしたが、雨脚が次第に強くなっていた。開け放った窓から、吹き込んでくる。
これでは、歩くわけにはいかない。壊れた革靴で泥の道を歩くのは危険だし、下手をすれば迷ってしまうだろう。
道に迷った挙げ句に人家に近付いてしまっては元も子もない。ルージュは、無理はしない方がいいと判断した。
一晩ぐらいは間借りしてもいいだろう、と思ったルージュは骨壺に深く礼をして、今夜一晩間借りすることを詫びた。
 明日になれば、雨も上がっているだろう。


 翌朝、ルージュは激しい雨音で目を覚ました。
 古びた屋根を壊さんばかりに大粒の雨が降り注ぎ、強い風で窓はがたがたと揺さぶられ、森全体が荒れている。
強風が抜けるたびに木々が大きく波打ち、数少なくなった木の葉が一斉に鉛色の空へ舞い上がって散っていく。
思っていたより、ひどい嵐になったらしい。カミナリも起きているらしく、一瞬の閃光の後に鈍い重低音が聞こえた。
これでは、外へ出たら吹き飛ばされてしまう。ルージュは砂っぽいベッドに座って、半ば呆然として外を見つめた。

「どうしようもないな…」

 意味もなく独り言を呟きながら、ルージュはベッドから降りた。青白い肌に付着した砂を払い、乱れた髪を整える。
もう一日、ここに留まるしかない。幸いなことに、道中で買った食糧はある程度残っているので飢える心配はない。
人間の血も数日前に補給したばかりなので、喉もまだ渇いていない。かなり頑張れば、一ヶ月程度は辛抱出来る。
たまには、休むのもいいだろう。毎日毎日歩き通しなのだから、少しぐらいは体を休めてやらなければ可哀想だ。
 二日目の朝もまた、雨だった。三日目の朝は晴れていたが、ルージュは日が昇った途端に寝入ってしまった。
何もしない一日が心地良くてたまらず、その日は丸一日眠っていた。目を覚ますと、四日目の朝が始まっていた。
そして五日目の朝を迎えた時、ルージュはなんとなくこの家に愛着が湧いてきてしまい、出ていく気が失せていた。
五日間の間に、何もしなかったわけではない。埃が気になったので軽く掃除をしたり、水源を探しに出たりもした。
家の中にあった腐っていない薪を暖炉で燃やしたり、ベッドの汚れを拭いたり、使えそうな食器を洗ったりしていた。
多少なりとも家主とその伴侶に申し訳なく思っていたが、あまりにも埃だらけだったので落ち着かなかったからだ。
 六日目になると、ルージュは開き直った。住み続けられる限りはこの家に住もう、当分は留まってしまおう、と。
落ち着く先を探していたのだから、丁度良い。人里からはかなり離れているので、滅多なことでは見つからない。
そうと決まれば、俄然やる気が湧いてきた。ルージュはなんだか嬉しくなってきて、ひたすら掃除や整理をした。
丸三日ほど掃除をしたおかげで埃の山も消え、虫の喰った本や腐った本は焼き捨て、使えない食器は処分した。
使えそうなものやまだ読める本は取っておくことにした。堆積した葉で埋まった井戸も掘り起こすと、水が湧いた。
 家がまともになると、今度は食糧が減った。買い込んであったと言っても、所詮は旅の荷物にならない程度だ。
だから、買い出しに行かなければならない。それと一緒に、いい加減にくたびれた靴と服の代わりも欲しかった。
人には近付きたくなかったが、物資が流通するのは総じて人の多い場所なので、近付かないわけにはいかない。
荷物の中からなるべく見窄らしくない服を選んで、一括りにまとめた髪を布で隠し、直した靴を履いて出掛けた。
 吸血鬼といえど、人並みの暮らしはしたい。


 それからおよそ半年が過ぎ、初夏が訪れた。
 人目に付かない場所での暮らしは、思いの外楽しかった。気を抜いて過ごせることの、なんと素晴らしいことか。
狭いながらも畑も耕して種を撒くと、芽が生えた。それが日に日に成長していく様が面白くて、やけに嬉しかった。
気を落ち着けて暮らしているためか、吸血衝動も以前に比べて随分と穏やかになり、人を襲う機会は減っていた。
どうしても喉が渇いて仕方ない時は、近くの村人ではなく、夜の街道を歩いている行きずりの旅人を襲って喰った。
生理的に男は好かないので出来れば魔力の高い女を選び、血を啜り終えたら回復魔法を施してから立ち去った。
人を襲う街道もその時ごとに変え、見つからないように努力した。そのおかげか、追われたことは一度もなかった。
森の中で薪に出来そうな気を探しているうちに、この家の主と思しき白骨化している死体を見つけたので埋めた。
その傍らには女の骨壺も埋め、大振りな石を上に載せて簡素だが墓にしてやり、数日おきに墓参りをしていた。
家の近くで咲いた花を摘んで供え、家を間借りしていることを詫びた。その際に、取り留めのないことも話していた。
落ち着いた暮らしをしていると、どうしても話し相手が欲しくなる。二人は人間だが、死者なので問題はなかった。
二人はルージュの話を聞くだけで答えてくれることはないが、胸の内の気持ちを吐き出せるだけで充分だった。
 その日も、ルージュは家の手入れをしていた。外れかけてしまった窓枠を修理して、古びたカーテンも新調した。
街の市場で買い集めた端切れを縫い合わせただけのものだったが、時間を掛けて作ったので気に入っていた。
端切れの色合いはばらばらだったが、日に透かすと綺麗だった。何度も窓を見上げて、一人で悦に入っていた。
もうしばらく眺めていたい気分だったが、数日前に小麦粉が切れてしまい、二度焼きしたパンもなくなっていた。
 そろそろ買い出しに行かなければ、と思い、ルージュは着替えることにして色褪せたエプロンドレスを脱いだ。
たまに街中で日雇いの仕事をして稼いだ金を貯めて買った、少しだけ上等な服に着替えると、帽子を被った。
この季節では、外套を被るのは目立ってしまう。銀色の髪を全て隠すために、帽子の上から布を被って結ぶ。
顎の下でリボン結びにして、少しばかりの金を入れた布製のカバンを持つと、家から出て扉に鍵を掛けた。
 日は高く昇り、歩き出すと軽く汗ばむほど気温は高い。だが、木陰を選んで進めば、それほどでもなかった。
初夏といえど、日陰は涼しい。吸血鬼族の青白い肌は日差しには弱いので、森の深さはとてもありがたかった。
長時間日差しを浴び続けると、火傷に似た火膨れが出来てしまう。すぐに治るとはいえ、痛いものは痛いのだ。
小鳥のさえずりや虫の鳴き声を聞きながら獣道も同然の道を辿っていくと、木々の間から広大な牧場が見えた。
放牧されている牛や羊の姿に、ルージュは目を細めた。彼らを騒がせないようにと、遠回りになる道を選んだ。
迂回した道を通って街から離れた街道の出ようとした時、木々が分かれている先に見慣れぬ人影が立っていた。
 柔らかな日差しの輪郭を纏った影は黒く、長いマントを羽織っていた。その手には、長い杖が握られている。
それを見た途端、ルージュは身を硬くした。思わず後退ろうとすると、その者は先端に石の填った杖を掲げた。

「眠れる草木よ、我が言霊に目覚め、いざ従わん」

 呪文が紡がれ、魔法が生まれた。ルージュは逃げ出そうとしたが、足元の草むらの中からツタが飛び出した。
木の枝ほどもあるツタは鞭のようにしなってルージュの手足に絡み付き、帽子を跳ね飛ばし、カバンを奪った。
ツタの一本はルージュの首筋を締め上げ、喉が詰まった。ルージュはなんとか目を動かして、魔導師を睨んだ。
魔導師の背後には、同じく杖を構えた魔導師が並んでいた。ルージュを拘束した魔導師は、杖で彼女を指した。

「銀色の髪、銀色の瞳、死者の肌色。間違いない、吸血鬼だ」

「外見の特徴が近隣住民の情報と近しいですから、きっとこれが例の吸血鬼でしょう」

 先頭の魔導師の傍で、白いマントの魔導師が呟いた。ルージュは拘束を解こうと魔力を高め、力を込めた。

「う、ぐぁっ!」

 瞬間的に解放した魔力で衝撃波を発生させ、ツタを切り裂いた。その場に着地すると、背中から翼を生やした。
それを一振りして、牙を剥いた。どうやら魔導師協会に通報されたらしい。人を喰う範囲が狭すぎたかもしれない。
だが、この人数なら逃げられないことはない。殺さないように気を付けて気絶させてから、全力で飛べば大丈夫だ。
あの家から離れるのは名残惜しいが、見つかったのなら仕方ない。羽ばたこうとすると、何者かに翼を貫かれた。
振り返ると、いつのまにか背後に剣士が立っていた。魔法文字が施された剣が捻られ、翼の骨が容易く折れる。

「ぎぁっ!」

 全身を駆け抜けた痛みにルージュが呻くと、剣士は翼から剣を抜き、躊躇いもなくルージュの背に剣を埋めた。
内臓が千切られ、傷口から血が溢れ出した。腹の下に広がりつつある生温い水溜まりから、鉄臭さが立ち上る。
血が抜けていく喪失感の中、ルージュは目を上げた。歩み寄ってきた魔導師の一団は、ルージュを取り囲んだ。
黒いマントの魔導師が手を差し出すと、そこに小鳥が舞い降りた。白い小鳥は、聞き覚えのある声でさえずった。
魔導師がその手を払うと、小鳥は一瞬にして薄らぎ、煙のように掻き消えた。魔法で様子を探られていたらしい。

「処分しますか?」

 魔導師の一人が黒いマントの魔導師に尋ねると、彼はルージュを見下ろした。

「いや、捕獲しよう。本部へ連れていき、研究材料とする」

「了解しました」

 頭上でやり取りが行われた後、数名の魔導師は揃って杖を振り上げると、ルージュを囲むように地面を叩いた。
直後、ルージュの魔力は急激に弱まった。塞がりかけていた傷口が開いたままで、折れた翼も元に戻らなかった。
抵抗しようと顔を上げるも、力が全く入らない。視界がぼんやりと薄らぎ、意識が段々と遠のいていくのが解った。

「お前達は帰り支度を整えろ。輸送用の荷馬車も手配してくれ。視察に来たはずが、こうなってしまうとはな」

 黒いマントの魔導師が首を横に振ると、他の魔導師が言った。

「ですが、何も会長までお出でになることはなかったと思いますが。この程度なら、我々だけでも充分ですよ」

「現場の仕事を把握しておきたかったのだ。それに、上にいるばかりでは魔法の腕も鈍るからな」

「ご協力ありがとうございます、会長」

 ルージュの背を貫いた剣士が深く頭を下げると、黒いマントの魔導師は軽く笑った。

「いや、気にするな。私は大したことはしていない」

「では、荷馬車を調達してまいりますので、しばしお待ちを」

 魔導師達は規律良く動き、森から出ていった。ルージュが朧な視界を動かし、会長と呼ばれた男を見上げた。
魔導師達の言動から察するに、魔導師協会の会長なのだろう。なぜ、そんな男がこんな田舎にいるのだろうか。
視察と言っていたが、この付近には魔導師協会支部はないはずだ。まさかとは思うが、自分を追ってきたのか。
そんなはずはない、とすぐにルージュは思い直した。数こそ少ないが吸血鬼族は他にもいるし、魔物もいるのだ。
きっと悪い偶然だ。体が動くようになったらコウモリにでも変化して逃げ出そう、と考えながら、男達を見上げた。

「後でこの森も捜索させよう。何度もここに戻ってきていたようだから、隠遁している場所でもあるはずだ」

 会長と呼ばれた男が言うと、剣士が返す。

「解りました。見つけ次第、焼き払います」

 あの家が焼かれる。壊される。畑も作ったのに、作物の芽が出始めたばかりで、窓も修理したばかりなのに。
せっかく手に入れた居場所が、掛け替えのない家が、失われる。ルージュは身を起こそうとしたが、崩れ落ちた。
二人はルージュを一瞥したが、また会話に戻った。ルージュは悔しさのあまりに唸ったが、喉の奥で声が潰れた。
 確かに人は襲った。だが、そうしなければ生きられない。血を吸っていなければ、飢えで死んでしまうからだ。
だが、誰も殺さなかった。本能を理性で押さえ付けて、命には別状がない程度しか吸い出さないようにしていた。
どんなに喉が渇いていても、理性が飛びそうなほどに飢えていても、人は殺さなかった。殺したくなかったからだ。
生きていたいだけなのに。そう呟いたはずだったが、青ざめた唇の間から零れたのは震えた吐息だけだった。
 程なくして、荷馬車を連れた魔導師達が戻ってきた。荷台にルージュは運び込まれ、縄できつく縛り付けられた。
動けなくなった途端、死体と同じ扱いをされた。乱れた裾も直されずに、罪人のように晒し者にされて運ばれた。
人家の前を通り過ぎると、興味半分に出てきた子供を大人が引き留め、激しく叱り付けているのが聞こえてきた。
 これからどうなるのだろう。仰向けに縛り付けられたまま、失血のために定まらなくなってきた視線を動かした。
ごとごとと荷車が揺れるたびに傷口が引きつって痛み、少しだけ上等な服は血を吸い込んで重たくなっていた。
背中の下に出来た生温い血溜まりから流れた血が砂利が散らばる道に落ち、森の出口から点々と続いていた。
 悲しすぎて、泣けなかった。







07 10/3