リチャードは、落ち着かなかった。 妻の陣痛が始まってから、随分時間が過ぎた。寝室から聞こえる妻の声は苦しげで、心配ばかりが募っていく。 だが、入るに入れない。知識もないのに下手なことをしてはいけないし、入ってきてはいけないと女達に言われた。 隣に座るレオナルドも、リチャードと同じく不安げだ。妻のフィリオラと共に来訪し、そのまま留まってくれている。 リリとロイズとフリューゲルは、ギルディオスに任せてきたのだそうだ。気は引けたが、それ以上にありがたかった。 キャロルも初産だが、リチャードにも初めてのことだ。普段は過剰なまでに湧く自信も、今度ばかりは弱っている。 窓を叩く風は強く、雪が窓枠に溜まっている。夜明け前から降り出した雪は強まり、地面は白く覆い尽くされた。 キャロルが産気付いたのは、真夜中のことだ。最初は腹痛だと思って堪えたのだが、違うと気付いたのだそうだ。 そこでキャロルは夫を起こし、女達とファイドを呼ぶように頼んだ。リチャードは珍しく動転して、家を飛び出した。 雪が近付く気配を感じたせいか起きていたフリューゲルを呼び付け、ブラドール家の屋敷に向かうように伝えた。 その後、リチャードは弟夫婦の住まう家に向かい、弟とその妻を叩き起こして自宅へと連れてきたという次第だ。 近いうちに産気付くと予想していたはずなのに、ひどく慌ててしまった。取り乱したこと自体、かなり久々だった。 いつもは綺麗にまとめている長い後ろ髪もろくにまとめず、服も整えずに家を飛び出したのは今回が初めてだ。 余程ひどい恰好をしていたらしく、逆にリチャードの方が心配されてしまったほどだが、今はさすがに整えてある。 「この分だと、長引きそうだな」 リビングのソファーに座り、レオナルドは手の中で紙巻き煙草の箱を弄んでいた。 「レオ、フィオちゃんの時はどうだった?」 リチャードが問うと、レオナルドは兄に目を向けた。 「もちろん大変だった。フィリオラが産気付いたのは昼間だったんだが、それから夜中まで続いたんだ。リリが産まれたのは真夜中だったんだが、事が終わるとオレまで疲れ果てたよ。オレは何もしちゃいないのにな」 いるか、とレオナルドが紙巻き煙草の箱を兄へ差し出すと、リチャードは手を出した。 「一本くれる? 少し、気を静めたいから」 「珍しいな」 レオナルドは箱を開け、リチャードに紙巻き煙草を一本渡した。それを受け取り、リチャードは銜える。 「何かをしたいとは思うけど、何も出来ないからね。こればっかりは」 「ああ、そうだな」 レオナルドは兄の銜えた紙巻き煙草に視線を向け、火を灯してから、自分も銜えて火を付けた。 「まさか、兄貴が父親になるとはなぁ」 「僕もだよ。粋がっているしか能がなかった十年前の僕に教えてやりたいくらいだよ。そうしたら、このねじ曲がった根性も少しは正されるだろうさ。男でも女でもいいから、無事に産まれてほしいよ。それだけが僕の願いだ」 「出来れば、魔力も異能力もない方がいいな」 「全くだ。僕達は、そのせいで散々苦労してきたんだから。無駄な力なんて、持っていてほしくないよ。突出した才能を持っていなくてもいいから、元気に生きていってほしいよ」 リチャードは少しばかり吸った紙巻き煙草を外し、煙を吐き出しながら、雪のちらつく空を見上げた。 「ねえ、レオ」 「なんだ」 レオナルドが聞き返すと、リチャードは薄く笑った。 「僕の頼み、聞いてくれる?」 「変なことじゃないだろうな」 「僕にしてはまともな頼みだよ。レオとフィオちゃんにばかり、こういうことを押し付けちゃうのはさすがに気が引けるけど、他に頼めるような相手はいないからね」 リチャードは手近な皿を引き寄せ、その中に紙巻き煙草の灰を落とした。 「キャロルが落ち着いたら、連合軍に出頭しようと思う。だから、キャロルと子供のことをお願いしてもいいかな」 レオナルドは紙巻き煙草を噛み締め、さも嫌そうに眉根を歪めた。 「なんだ、急に。子供が産まれるからってそんなにしおらしくなりやがるとは、兄貴らしくねぇな」 「でも、それが一番なんだよ。僕がキャロルの傍にいる限り、キャロルにも僕の犯した罪は付きまとうんだ。僕の隣にいてくれるのはとても嬉しいし幸せだけど、それだけでキャロルは命の危険に曝されてしまう。けれど、彼女は何もしていないんだ。なのにそんな目に遭うなんて、理不尽極まりないじゃないか。これから産まれる僕の子供だって、親が戦犯だったってだけで政府やら何からから睨まれたりするんだ。そんなの可哀想じゃないか。そうさせないためにも、僕はこの辺で死ななきゃならない」 リチャードは紙巻き煙草を銜え直し、煙を緩く吸い込んだ。 「連合軍に捕まった後も、色々と忙しくなりそうだなぁ。ブリガドーンの件とかの情報操作もしなきゃならないし、生き残った兵士の記憶もちょっといじらなきゃならないだろうし、ろくに弁護はされないだろうけど証言もしなきゃならないだろうから偽証の内容も練っておかなきゃならないけど、辻褄を合わせておかなきゃ怪しまれちゃうから、きっちりと煮詰めておく必要がある。他にもまだまだやることはありそうだよ」 「処刑される前に、散々拷問されるだろうな。オレ達の分までも」 「うん、それは間違いないね。あの戦いの後に闇市で手に入れた大国の新聞にはブリガドーンの影も形も書かれていなかったし、本島沿岸基地が壊滅したのと軍艦十隻と砲撃部隊が全滅したってことは書いていなかったけど、僕の名前と特務部隊のことはくどいくらいに書いてあったんだよね。まあ、あの戦争の発端が特務部隊なのは間違いないんだけどね。どうも、連合軍も共和国軍と同じで、僕にほとんどの責任を押し付けてしまいたいみたいなんだ。解りやすい悪人がいた方が大衆意識も扇動しやすいし、共和国への敵対心も育つし、僕が魔導師だから魔法そのものへの差別意識も高まってくれる。つまり僕は、この時代と世界にとっては魔王みたいなものなんだよ。本当だったらそれはキース・ドラグーンかフィルさんの役割なんだけど、キースは早々に死んじゃったし、フィルさんはいずれそうなることが解っていたから表に出てこなかった。だから、ステファン・ヴォルグなんていう偽名を使って完全に姿を隠した上で魔導師協会の会長をしていたんだ。それ以外の理由もあったんだろうけど、先の見通しが利く人だよ、忌々しいくらいに」 リチャードの口調は、本の感想を述べるかのように淡々としていた。 「ああ、拷問かぁ、嫌だねぇ。魔法を使えばある程度は痛みは押さえられるけど、僕は治癒魔法とかはあんまり得意じゃないし、連合軍に魔法に長けた人間がいたら魔力封じとかされちゃうだろうしなぁ。なんとも気が滅入る話だよ」 「ろくでもない生き方をしているから、そういことになっちまうんだよ」 「あれ、喜ばないの? レオらしくもない」 「兄貴に子供が生まれるって時じゃなかったら、取って置きの酒でも開けて盛大に祝ってやったさ」 レオナルドは苛立ち混じりに、兄へと吐き捨てる。 「らしくないのはあんたの方だ、兄貴。今更自己犠牲に目覚めやがるとは、腹が立ってきて仕方ない」 「なんでそこでレオが怒るのさ。相変わらず訳が解らないなぁ、君の性格は」 「解られても嬉しくないがな」 二人の会話の合間にも、キャロルの苦しむ声と女達が励ます声が聞こえていた。妻の戦いは、まだ続きそうだ。 舌を噛まないように布を噛ませられているためにキャロルの声は籠もっていたが、力強い生命力に溢れていた。 男には想像しがたいほどの痛みと苦しみに苛まれながらも、十ヶ月間育てた子を外の世界に出そうとしている。 そして子もまた、安息の場所である母親の胎内から、苛烈な現実が待っている外の世界へと出ようと必死なのだ。 これから待ち受けるであろう苦労や試練を思い描いただけで、魂が押し潰されてしまうような罪悪感に襲われた。 リチャードが子にしてやれることは、限りがある。だからこそ、下らない自尊心などかなぐり捨てなければならない。 それぐらいのことをしなければ、我が子と妻を守れない。決して償いきれぬ罪を背負うのは、自分一人だけでいい。 それもまた、親の愛だ。 遂に、産声が聞こえた。 途端に寝室の扉が開き、疲労と緊張で多少疲れてはいたが、溌剌とした笑顔のフィリオラが飛び出してきた。 フィリオラは真っ先にリチャードの元へ駆け寄ると、リチャードの手を引っ張って寝室に向かって駆け出していった。 レオナルドは妻の態度が少々不満だったが今回ばかりは仕方ないと思い、妻と兄の背を追って寝室へと入った。 ベッドの上には、布団を背中に挟まれて上半身を起こしたキャロルがいたが、下半身には掛布が掛けられていた。 寝室内は汗ばむほど空気が暖められていて、窓に貼り付いた雪も溶けている。キャロルの傍には、二人がいた。 フィリオラと同じく疲れた様子ながらも嬉しそうなジョセフィーヌと、一仕事終えたといった表情をしたファイドだった。 キャロルの腕には、産まれたばかりの我が子が抱かれていた。小さな身体から懸命に泣き声を絞り出している。 目は閉じているので瞳の色は見えないが、うっすらと生えている髪は赤毛と薄茶の中間のような色合いだった。 「女の子です」 疲れ果ててはいるものの、満足げにキャロルは笑んだ。リチャードは、キャロルの傍に立つ。 「お疲れ様、キャロル。よく頑張ったね」 「この子の名前は、ウィータでいいですよね?」 「そう、ウィータだ。君と僕の子だ」 リチャードはキャロルの肩を抱き、妻の汗ばんだ額に頬を寄せた。キャロルは、泣き喚く我が子に口付ける。 「ほら、ウィータ。あなたのお父さんよ」 名付けられたばかりの赤子は、必死に泣き喚くばかりだった。リチャードは、頬が緩むのを押さえられなかった。 得も言われぬものが胸の奥から込み上げて、涙が出そうになる。疲れ果てた妻の姿が、愛おしくてたまらない。 恐る恐る娘に触れると、火傷しそうなほどの熱い体温が感じられた。命そのものと言い表したくなる温度だった。 「オレは他の連中に報告してくる。フィリオラはキャロルの世話を続けていてくれ」 レオナルドは顔を綻ばせながら、兄の肩を叩いた。 「良かったな、兄貴」 「今日は僕の生きていた中で一番嬉しい日だよ」 リチャードが弟に笑い返すと、レオナルドは物凄く照れくさそうに眉根を歪めていたが、寝室から出ていった。 フィリオラは笑顔を浮かべて夫の背に手を振りながら見送っていたが、足早に寝室を後にして台所へと駆けた。 キャロルは何度となくウィータの名を呼び、産まれたばかりで脆弱な我が子を落とさないように抱き締めていた。 「私も一旦屋敷に帰りますわ。お祝いの準備もしなければなりませんもの」 ルージュにも手伝ってもらいましょう、と幸せそうに頬を緩め、ジョセフィーヌも寝室から出ていった。 「ああ、楽しみにしているよ」 ファイドはジョセフィーヌを見送ってから、くたびれた白衣のポケットに両手を入れて窓際に寄り掛かった。 「キャロルもウィータも、本当にご苦労だったな。おめでとう」 「ありがとうございます」 キャロルはファイドに礼をしてから、涙を拭わないまま微笑んだ。 「私がこの子を産めたのは、皆さんのおかげです。皆さんがいらっしゃらなかったら、きっと無理でしたから」 「いやいや。私や他の者は君やリチャードを手助けしただけであって、十ヶ月間もウィータを守り育てたのはキャロルであり、また成長したのはウィータなのだよ。褒めるべきは私達ではなく、君とウィータではないかね?」 なあ、とファイドに笑みを向けられ、リチャードは深く頷く。 「ええ」 「雪、降っていたんですね」 キャロルは窓の外を見やり、呟いた。 「ずっと苦しかったものだから、ちっとも気付きませんでした。道理で寒くなるわけです」 「雪ねぇ」 リチャードはキャロルの傍らに腰掛けて肩を抱き、強い風に揺さぶられる窓と舞い散る雪を見つめた。 「キースのせいで雪にはそんなにいい思い出はなかったけど、今度からは良くなりそうだよ」 「そうですね。だって、ウィータが産まれた日ですもの」 キャロルは娘を見つめ、目を細める。リチャードは妻の乱れた赤毛を撫でた。 「本当にありがとう、キャロル。愛しているよ」 「御礼を言うのは私の方です、リチャードさん」 キャロルは身を乗り出し、リチャードに口付けた。リチャードも少し前のめりになって、妻との口付けを深めた。 キャロルの眼差しは、強くなっていた。緑色の瞳に宿る輝きは揺るぎない愛情に満ち溢れ、力強ささえ感じた。 それは、今までに見てきたどんな表情よりも幸せそうだった。父親と母親の間で、ウィータは盛大に泣き続けた。 リチャードは、改めて心を決めた。ブリガドーンでの戦いの後の感じた、悔しさに似たやるせなさを思い出した。 守ると決めた傍から他者を踏みにじっていては、意味がないのだ。殺し合って滅ぼし合っても、何も生まれない。 キース・ドラグーンに手駒として利用された時から、リチャードの位置付けは戦いを起こし掻き乱す歯車になった。 だがそれは、キースが死んだ今となっても変わっておらず、未だにリチャードの行く先々では争いが待っている。 愛する女と子を守るためだけに殺した人間の数は、数え切れない。過ちだとは思わないが、正しいはずがない。 また、そのような方法ではいつまでも守れるわけがない。破壊に次ぐ破壊の行き着く先は、やはり破壊なのだ。 自分が犯した罪は、巡り巡って自分に降りかかる。だが、その時に妻と子が傍にいては、妻と子も罰を受ける。 だから、妻子から離れなくてはいけない。全身の隅々まで染み渡った妻と子への愛情が、決意を強固にする。 だが、愛しい我が子に父親だと認められる前に離れなければならないと思うと、息が詰まるほど切なくなった。 リチャードは目元を押さえたが、涙は勝手に滲み出てくる。堪えようにも堪えきれなくて、妻の肩を借りて泣いた。 愛しい。だからこそ、辛い。 07 10/8 |