ドラゴンは滅びない




産声



 ウィータが産まれてから、一週間後。
 ファイドの許可を得て、子供達はウィータを見に来ていた。リリとロイズだけでなく、ヴィクトリアまでもが訪れた。
産まれたばかりの子供が珍しいのは皆が同じらしく、何度もキャロルの話を聞いては、ウィータに話し掛けていた。
弟夫婦から借りた幼児用のベッドに寝かされたウィータは、懸命にあやしてくる者の姿を青い目で見上げていた。
 リリはつま先立ちになって、ベッドを囲む柵の上からウィータに手を伸ばし、柔らかく丸っこい頬にそっと触れた。
途端に、リリは歓声を上げて目を輝かせた。もう一度ウィータに触ってから、ベッドを離れてキャロルに近付いた。

「すっごく可愛い! 何度見ても可愛いです!」

「うん、こればかりは僕もそう思う」

 ロイズも、興味深げにウィータを覗き込む。

「改めて父さんと母さんに感心するよ。よくもまあ、あんなに壊れやすいものを抱えて行軍していたなぁ…」

『そうね。あなたが死ななかったのは、奇跡でしかないのだわ。普通なら死んでいるのが当たり前なのだわ』

 手早く石盤に文字を書いたヴィクトリアは、ロイズに見せた。ロイズは、少しむっとする。

「まあ、そりゃそうだけどさ。なんか引っ掛かる言い回しだよなぁ、相変わらず」

 ばんばんばん、との物音で一同は窓に振り向いた。そこには、鋼鉄の鳥人が窓にべったりと貼り付いていた。
部屋の中に入れないのがかなり不満なのか、フリューゲルは睨み付けるようにしてじっと部屋の中を覗いていた。
それを、ヴェイパーが制していた。フリューゲルの腕を掴んで首を振るも、フリューゲルは窓から離れようとしない。

「ウィータが驚いちゃうでしょ、めっ!」

 リリに叱られてしまい、フリューゲルは渋々引き下がった。

「だけどオレ様、マジつまんねーんだもんこの野郎」

『免疫もなければ抵抗力もない赤子に、あなたみたいな低俗で野蛮な輩が近付くのは害悪でしかなくってよ』

 ヴィクトリアが石盤に書いた文字をフリューゲルに向けると、その文面を読んだリリは苦笑いした。

「言い過ぎかも…」

「ウィータが大きくなったら、一緒に遊んでくれればいいわ。でも、今だけはちょっと我慢してね」

 キャロルが眉を下げると、フリューゲルはしばらくキャロルとウィータを見つめていたが、こくりと頷いた。

「うん、オレ様、解った。ウィータ、すっごく小さぇもんな。で、いつ頃大きくなるんだこの野郎?」

「歩けるまでには一年半ぐらい掛かるかしら」

 キャロルが返すと、フリューゲルは不満げに翼を羽ばたかせた。

「えー!? そんなの待ってられねぇんだぞこの野郎! イチネンハンってずっと先じゃねぇかこの野郎!」

「待ちなよ、それぐらい。我が侭だなぁ」

 ロイズが呆れていると、ヴェイパーはフリューゲルの頭をぐいっと押さえ込んだ。

「フリューゲルはお兄ちゃんなんだから、もうちょっとしっかりしなさい!」

「オニーチャン?」

 フリューゲルはヴェイパーの手の下から、ヴェイパーを見上げた。

「オニーチャンってなんだ?」

「お兄ちゃんっていうのは、ウィータよりも年上だってこと。お兄ちゃんは下の兄弟の、というかこの場合は小さい子のお手本にならなきゃいけないんだよ」

「ふーん。じゃ、リリとロイズとヴィクトリアは?」

「ロイズはフリューゲルと同じでお兄ちゃんになるんだけど、リリとヴィクトリアはお姉ちゃんになるね。リリはウィータとれっきとした従姉妹だし、ロイズも義理の従兄弟ってことになるし、ヴィクトリアは僕達とブラッドみたいな関係になるだろうから。あ、お姉ちゃんっていうのは女の子のことで、お兄ちゃんっていうのは男の子のことだからね。言葉は近いけど大違いだから混同しないでね」

 ヴェイパーの解説を大人しく聞いていたフリューゲルは、少し考え込んでいたが、びょんと飛び上がった。

「オレ様はお兄ちゃんか! お兄ちゃんか! お兄ちゃんなんだなこの野郎! くけけけけけけけけけけけけ!」

 フリューゲルの高笑いに驚いてしまったのか、それまで大人しくしていたウィータは火が付いたように泣き出した。
キャロルはすぐさまウィータを抱き上げて、あやした。だが、ウィータは余程驚いたらしく、なかなか泣き止まない。
さすがにフリューゲルも気まずくなったのか、翼を折り畳んで身を縮めた。その後頭部を、ヴェイパーが小突いた。

「泣かせちゃダメでしょ、お兄ちゃんなんだから」

「うん。ごめん…」

 フリューゲルはしゅんとして、声を落とした。キャロルはウィータを揺らしながら、話し掛ける。

「ごめんね、驚かせちゃったのね。でも、大丈夫だから。ほら、ウィータ。笑ってちょうだい」

 キャロルは手拍子のような調子でウィータの着た産着を優しく叩いてやりながら、緩やかな声色で歌い始めた。
それは、ここにいる子供達は一度は聞いたことのある子守唄だった。フリューゲルも、フィリオラから聞かされた。
共和国語とは抑揚と言い回しの違う言葉は、かつてこの国の国土の一部が王国と呼ばれていた時代の言葉だ。
フィリオラが音痴なので、キャロルの歌はリリ達にはやたらと上手く聞こえた。実際には平均的な上手さなのだが。
 いつのまにか、子供達はキャロルの歌に聴き入っていた。フリューゲルですらも、黙って彼女の歌に耳を傾けた。
子守唄のおかげで、リリはフィリオラの歌の優しさを思い出し、ロイズはフローレンスの腕の暖かさを思い出した。
ヴィクトリアも、今は亡き母親、ロザリアの歌を思い出していた。幼い頃に聴かされた歌と、全く同じ歌だったのだ。

  空よ空よ、高くあれ。草木よ花よ、強くあれ。風よ光よ、清くあれ。炎よ、温かく穏やかにあれ。
  この世を見下ろす、神の優しきゆりかごで。闇を避けて深く眠れ。
  愛しき我が子よ、どうか、健やかにあれ。

 母が子守唄を歌い終えた頃には、娘は泣き止んでいた。




 丸く膨れた腹を上下させ、赤子は眠っていた。
 その傍らでは、キャロルがはだけた襟元を直していた。つい先程まで、ウィータに乳を含ませていたからである。
リチャードから注がれる目線に気付いたキャロルは頬を赤らめて恥じらったが、目を上げて夫と目を合わせた。
暖炉に灯した明かりだけでは不充分なので、鉱石ランプにも明かりを入れてベッドの傍らのタンスに置いていた。
おかげで寝室は明るかったが、外は真っ暗だった。窓から漏れた光が、地面に薄く積もった雪を光らせている。

「雪、積もるでしょうか」

 キャロルは娘に気を遣い、小声で呟いた。ベッドに座っているリチャードは、長い足を組む。

「積もる前に溶けちゃうかもしれないよ。ゼレイブは旧王都ほど寒くならないから」

「リチャードさん」

 キャロルはウィータの傍から離れると、リチャードの隣に腰を下ろした。

「いつ頃、ゼレイブから旅立たれるんですか?」

「なんだ、もう解っていたの?」

 リチャードが肩を竦めると、キャロルは夫に寄り掛かった。

「それぐらい、私にだって解ります。リチャードさんが泣いてしまわれたから、きっと、そうじゃないかなって」

「うん、そうだね。あの時も、年甲斐もなく泣いちゃったんだよなぁ」

 リチャードは、以前よりも若干丸みを持った妻の肩を抱いた。

「もう、前みたいな我が侭は言いません。私も子供じゃありませんから」

「嬉しいけど、寂しいね」

「本当のことを言えば、ウィータがリチャードさんの顔を覚えるまでいてほしいですけど、無理は言えませんから」

「このご時世なのに、ここまで生き延びられたことに感謝しなきゃ」

「ウィータがちゃんと産まれてくれたことにも、ですね」

 キャロルは夫の肩に頭を預け、その腕に腕を絡めた。

「リチャードさんが覚悟をなさったんですから、私も覚悟を決めましょう。リチャードさんが傍にいて下さったおかげで、私も少しは強くなれましたし、皆さんほど凄くはないですけど魔法も使えるようになりました。自分の身とウィータを守ることぐらいのことは、出来ると思います」

「君は戦わなくていいよ。生きていてくれれば、それでいいんだ」

 リチャードはキャロルの波打った赤毛に指を通し、頬を寄せた。

「その代わり、僕が全てを引き受ける。君とウィータには寂しい思いをさせるだろうけど、決して罪を背負わせたりはしない。君達に向かう敵がいたら、僕に向かわせる。どんなことをしてでも、君とウィータを守ってみせる」

 キャロルは夫の腕にしがみ付いたが、ぐっと唇を噛み締めた。

「…はい」

「ありがとう、キャロル」

 リチャードは、キャロルの頬に口付ける。

「雪が溶けて春になったら、僕はゼレイブを出て連合軍に出頭するよ。前はキースに連れて行かれたけど、今度は僕自身の意志だ。最後ぐらいは潔くいきたいしね」

「その時は、是非お見送りさせて下さい」

「ああ。行けるところまで、一緒に行こう」

 リチャードは、キャロルの手に自分の手を重ねた。

「その時は、君の作ったパンやお菓子を持たせてくれないかな。ちゃんと味を覚えていたいから」

「はい」

「僕の指輪は、君とウィータにあげるよ。他の誰にも触られたくないからね」

「はい」

「ゼレイブを出る時があったら、ヴァトラスの名は捨てるんだ。そうしないと、殺されてしまうからね」

「はい」

「ウィータが大きくなっても、僕のことは一切話さないでほしい。産まれる前に死んだ、とでも言ってくれ」

「は、い」

「でも、僕がウィータを世界一愛していたってことは教えてあげて」

「はい…」

「それと…なんだろう、思い付かないや。言いたいことは一杯あるんだけど、ありすぎてまとまらないんだ」

 リチャードの視界は滲んだ涙で歪み、零れ落ちた滴が妻の頬を濡らした。

「ごめんね、こんな守り方しか出来なくて」

「いいえ。充分すぎます。私の方こそ、守られてばかりですみません」

 キャロルはリチャードの胸に顔を擦り付けるように、首を横に振る。夫の服を握り締めている手は、震えていた。
リチャードは妻の手を包み込み、その手を緩めさせて指を絡めた。妻の手は肌が荒れていたが、温かかった。

「僕の方こそ、君がいなかったらここまで生きてこられなかったよ」

 暖炉の炎の色を写し込んだキャロルの緑色の瞳に、リチャードが映る。繋ぎ合わせた手は、自然と固くなった。
背負うものがどれほど重くとも、それを支える手があった。絶望の底に沈んでも、引き上げてくれる手があった。
立ち止まろうとすると、後ろから押してくれた。自分の運命を嘆きたくなってしまった時には、笑顔を向けてくれた。
逃げ回ることに心底疲れ果てて、死を選ぼうと思った時もあった。だが、傍らの少女は震えながらも励ましてきた。
リチャードが行ったのでは目立つからと、キャロルは率先して自分から動いて食糧や必要物資を調達してきた。
日雇いのきつい仕事で僅かな金を稼いで路銀を作り、時には男が働くような現場で働いてくれたこともあった。
 キャロルは、ただの妻ではない。リチャードの半身であると同時に掛け替えのない存在であり、生き甲斐だった。
初めて出会った時は、手足が痩せた子供に過ぎなかった。ヴァトラス家の屋敷のメイドとして、雇っただけだった。
落ちぶれたヴァトラス家が雇える範疇の労働者に過ぎず、リチャードもそれほど気に掛けていたわけではない。
子供なので仕事も完璧ではなかったが、日が経つに連れて上達し、いつしか大人に負けぬほどの腕になった。
真面目であることだけが取り柄で、目を引く部分はなかった。むしろ、年頃だったフィリオラに気を引かれていた。
だが、フィリオラが本当に心を許したのはレオナルドだった。それを知ると、フィリオラへの興味は失せていった。
 キャロルに興味が湧いたのは、キャロルがリチャードに好意を抱いていると知り、それを弄ぼうと思ったからだ。
フィリオラがレオナルドに惚れたのは、正直な話あまり面白くなかった。嬉しいことは嬉しかったが、引っ掛かった。
その憂さ晴らしを兼ねて、キャロルの恋心がどれほどのものか試してみたくなったから近付いただけに過ぎない。
それがなかったら、一生興味など抱かなかっただろう。だが、キャロルは予想以上に強く、なかなか折れなかった。
最初はからかうだけで満足していたのに、いつのまにか少女の恋心を折りたくなってしまい、やめられなくなった。
 しかし、先に折れたのはリチャードだった。他人の温かさと愛情に飢えていたのは、リチャードも同じだったのだ。
この十年間、二人は互いの飢えた部分を埋め合い癒やし合い、生きてきた。キャロルもまたリチャードが半身だ。

「キャロル」

 リチャードは手を緩め、妻の手から外した。

「辛くなったら、僕のことは忘れて」

「だったら、リチャードさんが私のことを忘れて下さい。私の存在がリチャードさんを苦しめるというのなら、私の存在自体を、最初から、なかったことにして下さい…」

 キャロルは嗚咽で言葉を詰まらせながら、リチャードの胸に縋り付いた。

「ありがとう。愛しているよ」

 リチャードは万感の思いを込め、囁いた。キャロルは泣き声と子に聞かせまいとするためか、身を固くしていた。
幼児用のベッドでは、ウィータが寝息を立てていた。両親の話し合いにも気付かぬほど、よく眠っているようだった。
キャロルは声を殺していたが、溢れる涙は止められなかった。悲しくて、辛かったが、それ以上に幸福だと思った。
リチャードは妻を抱き締めたきり、何も言えなくなった。言いたい言葉がありすぎて、喉の奥で詰まってしまった。
 だが、それすらも幸せだった。




 雪の降る日、穢れを知らぬ白き命が産み出された。
 母親はその手で我が子を抱き、父親はその手に己の運命を握り締める。
 無限に広がる未来へと小さな手を伸ばす、我が子を愛するからこそ。

 守るためには、失わねばならぬものがあるのである。







07 10/8