ドラゴンは滅びない




白痴の仮面




 ラミアンは、妻の様子を窺っていた。


 ベッドで眠る妻は浅い呼吸を繰り返し、喘いでいる。軽く汗ばんだ首筋を拭いてやり、紅潮した頬に触れた。
熱は、まだ下がりそうになかった。解熱剤も先程飲ませたが、薬が回ってくるのはもうしばらく後になるだろう。
掛け布団の端から出ている手は、火照った頬とは真逆に指先は冷え切っていたので布団の下に入れてやった。
 ジョセフィーヌが発熱したのは、昨夜遅くのことだった。それからラミアンは、付きっ切りで愛妻を看病していた。
きっと、疲れが出たのだろう。今年に入ってから様々な出来事が起きたので、ラミアンでさえも気疲れしている。
いつも忙しなく働いてくれているのだから、今日ぐらいは休ませてやろう。そう思いながら、妻の傍から離れた。
 窓を開けると、雪の冷たさを帯びた風が滑り込んできた。朝日に照らされた装甲が眩しく、内心で目を細める。
額を冷やすための水がすっかり温くなってしまったので、そろそろ取り替えなければ。飴湯も作って飲ませよう。
肌着も替えてやらなければならない。湯を沸かして、汗ばんだ体も拭いてやろう。やることは、いくらでもある。
彼女が子供だった頃と、やること自体はなんら変わらない。ジョセフィーヌは、幼い頃はよく熱を出したものだ。
予知能力を持っているために精神的な疲労が溜まるらしく、ひどくぐずった後には高い熱を出して寝込んでいた。
体が成長するに従って疲労も軽減され、異能力の扱いも覚えたたらしく、近頃ではあまり熱を出さなくなった。
だが、今でもたまに発熱してしまう。異能者とはいえ人間に過ぎない彼女には、心身の負担が大きいのだろう。

「おやすみ、ジョー」

 ラミアンは冷ややかな手の甲で、ジョセフィーヌの熱い頬をそっと撫でた。

「これから私は、庭へ出て桶の水を取り替えてくる。だから、いい子にしているのだよ」

 ラミアンは妻の頬に軽く口付けてから、水を張った桶を抱えて寝室を出ようとした。

「らみあん…」

 すると、弱々しい声で呼び止められた。振り返ると、ジョセフィーヌが薄く目を開いていた。

「すまない、起こしてしまったかな」

「おかえりなさい」

 ジョセフィーヌは苦しげだったが、かすかに口元を緩めて笑みを見せた。

「どうしたのだね、ジョー。私はずっと君の傍にいたではないか。悪い夢でも、見てしまったのかね」

 熱で朦朧としているのか。そう思い、ラミアンは少し笑ってジョセフィーヌに向いた。

「そうなの?」

 ジョセフィーヌは、虚ろな目を上げた。ラミアンは桶を置いてから、妻の傍らに腰掛けた。

「そうとも。忘れたのかい?」

「みんなは?」

「それぞれの仕事をしているよ。ジョーも、早く良くなって自分の仕事へ戻りたまえ」

「ぶりがどーんは?」

「あれはもう、私達の手で滅ぼしたではないか。見たまえ、この美しき蒼穹を」

 ラミアンはジョセフィーヌの背を持ち上げて体を起こさせ、窓の外を示した。

「天空の異物は海峡の底へと永遠に没し、我らを見下ろす空は在るべき姿を取り戻しているではないか。それすらも忘れてしまったのかね?」

「じゃあ、あのひとは?」

「あの人とは?」

 ラミアンが聞き返すと、ジョセフィーヌはラミアンの胸に縋った。

「やっぱり、しんじゃったの? ジョーがみたとおりになっちゃったの?」

「そうだな。あの戦いで、我らは掛け替えのない友人を失った。ジョーは、未来ではなく過去を夢に見たのだね」

 ラミアンはジョセフィーヌを抱き寄せ、発熱で潤んだ瞳を見つめた。ジョセフィーヌは額を押さえ、顔を歪める。

「ねえ、ラミアン。なんか、へんだよ。ジョー、よく、わかんないよ」

「何がだね、ジョー」

 ラミアンは訝りながらも、不安がらせないために声色は変えなかった。ジョセフィーヌの言動はどこか妙だった。
熱で寝入る前までは年相応の言動をしていたが、目を覚ました途端に以前のような幼女そのものに戻っていた。
発熱したのは、大人として振る舞い続けたからだろうか。だとしても、ブリガドーンの件を知らないわけがない。
ジョセフィーヌの精神が年相応に成長したのはブリガドーンへ戦いに出ている最中だったのだから、尚更である。

「らみあん」

 ジョセフィーヌは、今にも泣きそうな顔をしていた。

「もう、どこにもいっちゃやだ…」

 夫にしがみつくも、その腕にはあまり力が入っていなかった。ラミアンは、妻を優しく抱き締める。

「私はどこへも行かないさ。私の全ては君であり、この地なのだから」

「ジョーを、ひとりにしないで」

 ジョセフィーヌは背伸びをしてラミアンに口付けようとしたが、急に意識を失い、仰向けに倒れ込んでしまった。
ラミアンはその体を支え、ジョセフィーヌの名を呼んだ。だが、ジョセフィーヌは反応せず、顔色も真っ青だった。
 ただ事ではない、と悟ったラミアンはベッドに妻を横たわらせると、すぐさま寝室の窓から庭へと飛び出した。
木の枝を足掛かりにして飛び跳ね、屋根に着地する。そこからぐるりとゼレイブ全体を見回し、彼の姿を捜した。
目を凝らして感覚を解放すると、竜の気配は即座に感じ取れた。ラミアンは屋根を蹴り上げ、高々と跳ね上がる。
銀色のマントを揺らしながら宙を舞い、更に魔力を込めた足で空中を蹴ってから、黒竜の男の元へと向かった。

「ファイドどの!」

 降下しながらラミアンが叫ぶと、往診用のカバンを担いで道を歩いていたファイドは振り返った。

「どうしたのだね、ラミアン」

 ラミアンはしなやかに着地し、ファイドの前で膝を付いた。

「我が妻の様子がおかしいのです、一刻も早く来られますよう!」

「そうか、解った」

 血相を変えているラミアンに、ファイドは頷いてみせた。ラミアンがここまで動揺することは、珍しいことだった。
ゼレイブをまとめ上げている者としての立場と元々の性格で、滅多なことがない限り慌てたりすることはない。
そのラミアンがひどく焦っているのだから、余程の事態に違いない。ファイドは往診用のカバンを、担ぎ直した。

「では、君は先に戻りたまえ。私はすぐ後に向かおう」

「お待ちしております、先生」

 ラミアンは立ち上がると同時に地面を蹴り、俊敏に飛び跳ねた。銀色の骸骨は、矢のように屋敷に舞い戻った。
ファイドは呪文は使わずに空間移動魔法を成し、屋敷へと向かった。飛ぶよりも、こちらの方が余程速いのだ。
直後、ファイドの姿は消え失せ、ブラドール家の屋敷の広間に現れた。二階へ繋がる階段を、駆け上がっていく。
 二階に上ると、寝室の前の廊下には既にラミアンが待っていた。恐らく、彼は窓から入り込みでもしたのだろう。
ラミアンが扉を開けるよりも先に、ファイドは古びた扉を開けた。寝室のベッドでは、彼の妻が倒れ込んでいた。
二人が駆け寄ると、彼女は目を開いた。ゆっくりと体を起こして瞬きし、不思議そうな目で夫と医者を見比べた。

「あら…」

 ジョセフィーヌは襟元を直し、困惑気味に眉を下げた。

「そんなに慌てて、一体どうなさったんですか、ファイド先生」

「ジョー…?」

 ラミアンが呆気に取られていると、ジョセフィーヌは困った笑顔を夫に向けた。

「ラミアンもどうしたの? 私の顔に何か付いているのかしら?」

「何がどうしたというのだね、ラミアン。確かに昨夜から彼女は発熱していたが、もう下がったようではないか」

 ファイドは腕を組み、苦笑いする。ラミアンは妻を示し、声を上げる。

「いえ、そうではありません! つい先程、ジョーが倒れたのですよ!」

「どれ、診せたまえ」

 ファイドはジョセフィーヌの額に触れてから、手首を取って脈を計った。

「熱も下がっているし、脈も魔力も平常ではないか。私が診る余地など、欠片もなさそうだがね」

「いえ、ですから!」

 ラミアンは若干声を上擦らせ、ファイドに迫った。ファイドは、もう一方の手でラミアンを制する。

「妻の不調で不安になるなと言うのは無理だが、そこまで慌てずとも良いではないか」

「そうよ、ラミアン。私はもう元気なんだから、あんまり心配しないで?」

 ね、とジョセフィーヌはラミアンの手を取り、頬に当てさせた。先程までの高かった熱が嘘のように引いている。
うっすらと汗ばんでいるものの、火照ってもいなければ冷えてもいない。顔色はまだ悪いが、それ以外は普通だ。

「なんだったら、後で薬でも作ってしんぜよう。養生するのだぞ、ジョセフィーヌ」

 私の出番はなさそうだ、とファイドは安堵の笑みを浮かべて、ジョセフィーヌから離れて寝室から出ていった。
ラミアンはその背を見送っていたが、ジョセフィーヌはラミアンの腕に腕を絡めると、照れくさそうに微笑んだ。

「私を心配してくれるのは嬉しいけど、あまり先生を困らせちゃいけないわ」

「ジョー…」

 その仕草は、先程のジョセフィーヌとは全く違っていた。ラミアンは、背筋に冷水が伝うような感覚に襲われた。
まさかとは思うが、そんなことがあっていいのだろうか。ジョセフィーヌはラミアンの肩に頭を預け、目を閉じた。

「ありがとう、ラミアン。あなたのおかげで、すっかり良くなったわ」

「ジョー」

 ラミアンは内心でかすかな恐怖を感じながらも、腕に絡められた妻の手を握った。

「ブリガドーンの一件を、覚えているかね?」

「ええ、もちろん。ひどい戦いだったわね。皆が皆、傷付いて、苦しんだのに、結末はとても悲しい戦いだったわ」

「命を散らした者達の名も、覚えているかね?」

「当たり前よ。短い付き合いだったけど、ダニーさんのことは絶対に忘れられないわ。グレイスさんとロザリアさんも、さぞ無念だったことでしょうね。少佐の話では、本当にこれからって時に娘の目の前で殺されてしまったんだもの」

 切なげに話すジョセフィーヌに、ラミアンは戦慄を隠せなかった。

「まさか、本当にそうなのか…?」

「どうしたの、ラミアン?」

 ジョセフィーヌは、夫の態度を訝った。ラミアンは仮面を押さえ、俯く。

「ああ、なんということだ」

「ねえ、だからどうしたの」

「それでは、ジョー。君が先程目を覚ましたことは、覚えているかね?」

 ラミアンは仮面から手を外し、慎重に言った。だが、ジョセフィーヌはきょとんとしただけだった。

「ええ。さっきは、少し頭がふらふらしてしまったのよ。だから、それがどうかしたの?」

「そうか。ならば、もう心配はいらないな」

 ラミアンは喉の奥まで迫り上がった言葉を飲み下し、取り繕った。ジョセフィーヌは、頬を緩める。

「だから、さっきもそう言ったじゃないの。ラミアンこそ大丈夫?」

「いや、私は平気だとも。何か、温かいものでも持ってきてやろう。何がいいかね?」

「温めた牛乳に、少し砂糖を入れたものが欲しいわ」

「解った。では、しばらく待っていてくれたまえ」

 ラミアンは銀色の爪先でジョセフィーヌの顎を持ち上げると、ジョセフィーヌはすぐさま瞼を下げて目を閉じた。
その乾き切った唇に仮面の口元を押し当ててから、ラミアンは寝室を出て扉を閉め、足早に台所へと向かった。
珍しく足音を立てながら階段を下りて廊下を歩きながら、ラミアンの胸中は動揺と混乱で荒く掻き乱されていた。
脳裏に浮かんだ仮説が正しいとしても、なぜそうなったのか理由が解らない。妻の身に、何かあったのだろうか。
あったとすれば、ラミアンが留守にしていたブリガドーンでの戦いの時だが、こちらでは事件はなかったはずだ。
皆もそう言っているし、ジョセフィーヌ自身もそう言っていた。大人になったから、解りやすい言葉で話してくれた。
だが、それがもしもジョセフィーヌの言葉ではなかったとしたら。だとすれば、何の切っ掛けでそうなったのだ。
 ひとまず、台所に行って牛乳を温めよう。考え込むのは、体力を消耗しているジョセフィーヌを休ませてからだ。
ラミアンは動揺を押さえ込んでから一階に下り、台所に向かった。食堂に通りかかると、ギルディオスがいた。
ギルディオスはナイフでチーズの固まりを切り分けていて、火を入れた暖炉の前にはヴィクトリアが座っていた。
他の面々は早めに起きて銘々で朝食を摂ったようだが、一番起きるのが遅いヴィクトリアは食いっぱぐれたのだ。
ヴィクトリアはラミアンに気付くと、空腹で苛立った目を向けた。ギルディオスはナイフを下ろして、片手を挙げる。

「よう、ラミアン。ジョーの具合、どうなんだ」

「熱は下がったのですが…」

 ラミアンが言葉に詰まっていると、ヴィクトリアは石版に白墨を滑らせてラミアンに向けた。

『下がったのなら、それでいいのだわ。何か懸念でもあって?』

「懸念というか、私の想像で終わるのならば何よりなのですが」

 珍しく歯切れの悪いラミアンに、ギルディオスはパンにナイフを差し込みながら言い返した。

「なんだよ、そんなに悪いことでもあったのか?」

「万が一に過ぎませんが、私の想像が現実に添うものであったとするならば、私の愛しい妻は…」

 ラミアンが重々しく吐き出した言葉に、ギルディオスはパンを切る手を止め、ヴィクトリアも目を剥いていた。 
有り得ない話ではないが、その想像が真実だとは思いたくなかった。それは、ギルディオスもまた同じだった。
パン屑とチーズの油脂が貼り付いたナイフをテーブルに置いたギルディオスは、顎に手を添えて低く唸った。

「そういうことはあるかもしれねぇが、気持ちのいい話じゃねぇな」

『受け入れがたいのだわ』

 ヴィクトリアは白墨を動かし、こつこつと石版を鳴らした。

「ですが、受け止めねばなりません。それが夫というものです」

 ラミアンは躊躇を振り払うため、言い切った。ギルディオスは、切り分けたパンをチーズと共に皿に載せる。

「ラミアンの想像が当たっているにせよ外れているにせよ、ひとまずファイドに相談しなきゃ始まらねぇな」

「ええ。それが賢明でしょう」

 ラミアンは頷き、ギルディオスに返した。ギルディオスは更に言葉を続けようとしたが、ふと足音に気付いた。
廊下の奥を見やると、そこには彼女が立っていた。顔色はやや青ざめていて、厚い上着を肩に引っ掛けていた。
ギルディオスが声を掛けると、彼女は食堂へと入ってきた。だが、ラミアンは妻に振り返ることが出来なかった。
想像が外れていることを願いたい。だが、外れているとは思い難い。そうだと考えられるからこそ、想像したのだ。
しかし、このままではいけない。真実にせよ妄想にせよ、彼女に確かめないことには何一つ解らないのだから。
 意を決し、ラミアンは愛妻へと向き直った。ジョセフィーヌは嬉しそうに顔を綻ばせると、夫に歩み寄ってきた。
ここで躊躇っては、何も進まないのだ。ラミアンはぎちりと両手を握り締め、叩き付けるように強く言い放った。



「君は、一体誰なんだね」







07 12/18