ドラゴンは滅びない




切なる望み




 ヴィンセントは、脱力した。


 辺り一面が瓦礫の山と化しており、緩やかな斜面になっていた土地が大きく抉れて薄暗い大穴を開けていた。
ここ最近のうちに降り積もった雪に柔らかく包まれ、昼の日差しを撥ねていたが、無惨な様は隠しきれなかった。
辛うじて残っていた屋根や壁の破片にもヒビが走り、触れば崩れてしまいそうだ。だが、砲撃による損傷ではない。
一見した限りでは砲撃による損傷のようにも思えるのだが、砲弾も転がっていなければ火薬の匂いもなかった。
その代わり、壁の破片にはかすかに魔力がこびり付いている。大方、破壊活動の際に放った魔法の残滓だろう。
誰が行ったことなのかは、容易に想像が付く。こんなに辺鄙な場所にある研究所を知っている者は限られている。
その中でも、こんなにでたらめな破壊活動を行うのはフリューゲルぐらいなものだ。なんとも、傍迷惑な鳥である。
だが、やることをやるしかない。ヴィンセントはほうっとため息を零してから、背後に立つ軍服姿の男を見上げた。

「ちょいと時間と手間は掛かっちまいやすが、掘り出すしかありやせんねぇ。下手に魔法で吹き飛ばしたら、目当てのものまで吹っ飛んで粉々になっちまいやすからねぇ」

「予想範囲内に過ぎない」

 アレクセイは軍服の背を破って伸びていた骨と皮の翼を折り畳み、肉の中へ納めた。

「現時刻より、魔導球体二号の採掘作業を開始する」

「まあ、頑張っておくんなせぇ」

 ヴィンセントは、雪のない瓦礫の上に座る。アレクセイは両手を広げ、皮膚を裂きながら骨の外装を増強する。
アレクセイの両腕は僅かに黄色掛かった分厚い外骨格に覆い尽くされ、両手は通常の数倍の大きさに変化した。
太く長い爪を大きく広げて振り上げたアレクセイは、瓦礫に叩き付けた。鈍い音と震動が響き、瓦礫が崩れる。
突然揺らされた無数の瓦礫は、互いに支え合っていた微妙な均衡が崩れ、その下にある空間に滑り落ちていく。
この作業は当分続きそうだ。ヴィンセントは大きく口を開けて欠伸をすると、寝そべって二本の尾を軽く振った。
 ヴィンセントがアレクセイを伴って来た場所は、かつての共和国政府直属研究機関、魔導技術研究所である。
魔導兵器三人衆の一人であり人造魔物であったフリューゲルが生み出された場所だが、戦時中に放棄された。
魔導技術研究所は市街地からかなり離れた山の斜面に建設されたのだが、道も悪ければ土地も枯れていた。
共和国国民にあまり知られたくない類の研究を行うための施設であるため、辺鄙な場所にあるのは当然だった。
戦時中も戦後も両軍の通り道から外れていたので、無用な攻撃を加えられることも占領されることもなかった。
禁書回収作業中にフリューゲルが突っ込んで壁をぶち抜いたが、大した損傷ではなかったので安心していた。
それに、本当に重要なのは研究所の建物ではなく、その地下に作られた魔力増幅用の魔導球体なのである。
ブリガドーンの魔導球体や魔導師協会本部の地下の魔導球体よりは二三回りほど小さいが、性能は確かだ。
フリューゲルのような人造魔物を生み出せたのも、その魔導球体から生成される大量の魔力があったからだ。
もっとも、フリューゲル本人は知らなかったようだ。大量に量産された実験体に過ぎない彼には、無理もないが。
 アレクセイとエカテリーナが生体魔導兵器としての改造手術を受けたのは、連合軍基地ではなくこの研究所だ。
連合軍基地では高度な魔法を成せる設備がなかったことと、連合軍内でも秘密裏に行われた計画だったからだ。
改造手術の際、アレクセイとエカテリーナは完全な兵器と化すために魂を抜き取られて魔導鉱石に納められた。
魂がなくとも圧倒的な戦闘能力と再生能力を発揮出来るとはいえ、九割以上損傷すると回復が難しくなってしまう。
エカテリーナはブリガドーンでの戦いでギルディオスと交戦し、核の魔導鉱石以外の全てを破壊されてしまった。
核の魔導鉱石はアレクセイが回収したが、一向に回復能力が戻らないので魂を取り戻しに来たという次第である。
 ヴィンセントは体を丸めて体温を温存していたが、ふと、エカテリーナとアレクセイの過去の情報を思い出した。
瓦礫の奥底に埋もれた魔導球体を一心不乱に掘り返しているアレクセイの背を見つめながら、独り言を呟いた。

「なんともまぁ、業の深ぇ男女でやんすよ」




 十年前。
 エカテリーナは、大国の首都から離れた田舎町に住んでいた。母親は病死したが、父親と共に暮らしていた。
生活費を稼ぐために仕事をする傍ら、学校に通わせてもらったので読み書きは人並みに出来るようになっていた。
父親との仲も悪くなく、同年代の友人も数人いた。街全体が貧しかったので、日々の生活苦は気にならなかった。
だが、いつかこの町を出たいとは思っていた。狭い街なので見知った顔ばかりで気楽だが、刺激が足りなかった。
年若いエカテリーナにとって、同じ者達と同じ日々を繰り返すだけの日常は退屈で、鬱陶しいと思う時すらあった。
けれど、十四歳では町を出ても働き口が少ない。年齢を重ねてからではないと、いい仕事は見つけられないのだ。
それに、昨今は世間の情勢が不安定だ。線路を軍隊の列車が通っていくのを見たのは、一度や二度ではない。
税金も引き上げられたこともあり、近々戦争が起きるのではないか、と人々は顔を合わせるたびに囁き合った。
 そんな日々が続いていたある日、父親が少年を連れてきた。働き手として、孤児院から引き取った子供だという。
エカテリーナの家に連れてこられた少年は、身なりはみすぼらしかったが態度は良く、言葉遣いもまともだった。
少年の名はアレクセイといい、エカテリーナよりも四つ年上の十八歳だった。最初の頃は、二人はぎこちなかった。
時間が経つと、次第にアレクセイはエカテリーナとその父親と打ち解けるようになり、笑顔も見せるようになった。
 アレクセイは農場の早朝の仕事だけでなく、昼から夜に掛けて工場でも働いて、朝から晩まで働き詰めだった。
エカテリーナもまた、朝早くから夜遅くまで小間使いとして勤め、そのおかげで日々の暮らしは少し楽になった。
食卓に並ぶ料理も少しだけ良くなり、擦り切れてしまいそうだったエプロンドレスもやっと新調することが出来た。
靴底がすり減った革靴も底を張り替え、壁も塗り直した。これも全て、アレクセイが家に来てくれたおかげだった。
 まるで、兄が出来たようだった。それまで一人っ子だったエカテリーナは、兄弟のいる家庭に憧れを抱いていた。
近所の家族は皆兄弟が多かったが、エカテリーナは母親が早くに死してしまったせいで上も下もいなかったのだ。
そのことをからかわれたこともあり、歯痒い思いをしたこともある。だが、これからはもうそんな思いをしなくていい。
 退屈だった日々が、少しだけ変わった。


 ある日。不穏な気配は、形を成した。
 元々情勢が不安定だった共和国と隣国の摩擦が決定的なものとなり、共和国は隣国に侵攻し攻撃を開始した。
かねてより隣国との付き合いが深かった大国は当然ながら隣国の軍を支援し、戦場に自軍の兵隊を送り込んだ。
新聞の記事のほとんどは戦争絡みのものとなり、いつ見ても大国の支援のおかげで隣国は大勝を果たしていた。
長く厳しい冬が始まる頃になると、共和国の首都は陥落されていくつかの主要都市も集中砲火で壊滅していった。
 だが、大国と他国の軍隊によって編成された連合軍が勝利するにつれて、大国の兵士が戦死する数も増えた。
エカテリーナの町にも、兵士が棺を運び入れるようになった。見知った顔の若者が、次々に死んで墓に入った。
棺を抱いて泣き崩れる母親や妻達の姿を見ることは少なくなかったが、エカテリーナは傍観しているだけだった。
戦争自体が急なことだったので、あまり現実味がなかった。きっと、大国まで戦火が及んでいないせいだろう。
そのうちアレクセイが徴兵されるのでは、とも思わなかったが、彼だけは大丈夫だと根拠のない自信があった。
 大国は巨大な国だ。学校で見せられた地図では、この大陸の上半分が大国の領土だと言ってもいい程だった。
それほど広い国なのだから、人間は山のようにいる。だから、アレクセイが軍隊に見つけられることはないのだ。
子供っぽく浅はかな考えだと自分でも解っていたが、そうでも思わないとひどく不安になってきてしまうからだった。
アレクセイは兄だ。だが、それ以前に最も身近にいる異性だ。孤児ながら理知的で穏やかな彼に、惹かれていた。
だから、アレクセイだけはいなくなってほしくなかった。どうか彼を連れて行かないで、と神に祈ることも多かった。
父親が遠くへ出稼ぎに行ってしまったために、家には彼と二人きりになっていたので、余計に離れがたかった。
 けれど、その願いは届かなかった。大型の馬車に乗って町にやってきた軍人が家を訪れ、アレクセイを呼んだ。
軍人の並べる言葉は高圧的で、逆らいがたかった。文句を言ってやりたかったが、結局何も言えず終いだった。
軍人は、夜明け前に馬車を出発させる、と伝えてから家を去った。だが、既に日は暮れて辺りは暗くなっていた。
出発するまでの猶予は、少ししか残されていなかった。軍人が去ってから、エカテリーナは呆然とするだけだった。
 アレクセイは眉を顰め、悩ましげな顔をしていた。暖炉の炎に照らされた横顔は、いつになく大人びて見えた。
エカテリーナは立ち上がることも出来ずに、食卓の椅子に座り込んでいた。嗚咽を殺しても、喉の奥から漏れた。
窓の外では雪が降り出していた。暖炉で空気を暖めていても、足元には重たい寒さが溜まって這い上がってくる。

「行ってしまうの、アレクセイ?」

「行くしかないさ。いつ届くかは解らないけど、君に手紙を書くよ」

「絶対よ」

「もちろん」

「死んじゃダメよ、アレクセイ。ここはあなたの家なんだから、帰ってこないと許さないわよ」

「約束する」

 アレクセイの眼差しが、エカテリーナを射竦める。暖炉で爆ぜた薪の音が、いやに大きく部屋の中に響いた。
音もなく降りしきる雪が、他の音を吸い込んでいる。見つめ合っていると、アレクセイもまた不安なのだと解った。
あまり表情の出ない目元が険しくなり、唇も曲げている。それがとても痛々しく思え、エカテリーナは手を伸ばした。
アレクセイの骨張った手がエカテリーナの手を掴み、大事そうに握り締める。お互いの指先は、冷え切っていた。
ごく自然な動作で腕を引き寄せられたエカテリーナは、吸い込まれるようにアレクセイの腕の中に収まっていた。
ぎこちなく絡めた指先は、お互いの体温で少し温まっていた。アレクセイは、エカテリーナの頬に慎重に触れた。

「それまで、待っていてくれる?」

「ええ」

 エカテリーナは、アレクセイの手に自分の手を重ねた。

「良い子にしているんだよ」

「子供扱いしないで。私はもう、充分大人だわ」

 エカテリーナは気丈に振る舞おうとしたが、声は震えていた。

「エカテリーナ」

 アレクセイはエカテリーナの顎を持ち上げ、顔を寄せてきた。思わぬことに戸惑って、エカテリーナは身動いだ。
アレクセイの冷え切った唇がエカテリーナの唇に被さり、背中と腰に力強い腕が回されたが、それに身を任せた。
こうなることを、心のどこかで望んでいたのだ。だから、口付けられてとても嬉しかったがそれ以上に切なかった。

「アレクセイ」

 エカテリーナは息苦しさで僅かに息を荒げながら、言った。

「私、あなたのことが好き」

「僕もだ、エカテリーナ」

 アレクセイの語気は強く、真剣だった。エカテリーナは嬉しくてたまらず、涙が出そうになった。

「だから、あなたのものにして」

 不意に、アレクセイの腕が緩んだ。エカテリーナが顔を上げると、アレクセイは苦々しげな顔をしていた。

「だけど、それは」

「いいの。私があなたに出来ることは、それぐらいしかないから」

 エカテリーナは頬が焼けるように熱く、恥ずかしくてたまらなかったが、言葉を絞り出した。

「…お願い」

 ここで精一杯やらなければ、間違いなく後悔する。エカテリーナは緊張と羞恥で震える手で、彼の腕を掴んだ。
それ以外にやるべきことがあったかもしれないし、掛ける言葉もあったかもしれないが、これしか出てこなかった。
朝になれば彼はいなくなる。この時を逃せば、二度と会えないかもしれない。もしかしたら、彼は死ぬかもしれない。
そうなるぐらいだったら、結ばれてしまいたい。エカテリーナが再度小声で懇願すると、服を掴む手が握られた。
 体こそ成長していたが、どちらもまだ幼かった。アレクセイは辿々しい仕草で、肉の薄い少女の体を攻め立てた。
戦場への恐怖と不安が欲望に変化したかのように、アレクセイは普段とは掛け離れた荒々しさで少女を抱いた。
自分から頼んだこととはいえ、未熟な体では痛みも激しかった。エカテリーナは、服を噛んで必死に痛みを堪えた。
快感など欠片もなく、苦しいだけだったが、今、自分が出来ることはこれしかない。だから、なんとか押し殺した。
アレクセイは肌に汗すら浮かべながら、劣情のままにエカテリーナを貪っていた。気が済むまでさせたいと思った。
だから、腹を裂かれるような痛みや内股を伝い落ちる血に耐えて、出そうになる悲鳴も懸命に飲み込んでいた。
 それぐらいしか、出来なかったからだ。


 事を終えても、エカテリーナは痛みに苛まれていた。
 少しは役に立てただろうか。エカテリーナはアレクセイに笑おうとしたが、下腹部には激しい痛みが残っていた。
ろくに濡らしもしないうちに強引にねじ込まれたため、本当に裂けてしまったらしく、鼓動が脈打つたびに痛んだ。
だが、そのことは言わなかった。どうせ、そのうちに治る。だから、言わない方がアレクセイを悩ませずに済む。
アレクセイは苦痛と寒さですっかり青ざめたエカテリーナを見やったが、頭を抱えて泣き出しそうな声を漏らした。

「ごめん、本当に」

「いいの」

 エカテリーナはそれから先を言おうとしたが、舌が震えて言えなかった。

「子供、出来るかな」

「たぶん…」

 アレクセイはひどく後悔しており、声は掠れていた。エカテリーナは、弱々しく笑う。

「だったら、いいな」

「ごめん」

「だから、いいって」

 エカテリーナは厚手の上着を羽織り、前を掻き合わせた。

「私が言い出したことなんだから」

 どれほどの痛みに襲われようとも、別離の苦しみは紛れない。窓の外が、少し明るくなっているのが見えた。
アレクセイがエカテリーナを力任せに抱いている間に夜は過ぎ去っており、気付いた頃には朝が近付いていた。
いつのまにか、雪が止んでいた。東からかすかに白んできた空は、重たい藍色の中に朱色が混じり始めていた。

「いってらっしゃい」

「必ず、君の元に帰ってくる」

 エカテリーナの涙で上擦った言葉に、アレクセイは小さく頷いた。もう、それ以外の言葉は思い付かなかった。
アレクセイはエカテリーナの血の気の失せた頬に口付けてから、立ち上がり、身支度を始めるために出ていった。
 暖炉にくべていた薪は燃え尽き、灰と炭が溜まっていた。僅かに残った火が、ぱちりと思い出したように爆ぜる。
エカテリーナは力の入らない足で立ち上がると、焚き付けと薪をくべて火を煽った。焚き付けが燃え、火が蘇る。
たったそれだけで、ぐったりしてしまった。朝から晩までずっと働いた時よりもひどい疲労が、色濃く残っていた。
体を動かすと、彼が注ぎ込んでくれたものが流れ出した。血よりも粘り気のある液体が、内股を流れ落ちていく。
初潮は既に訪れている。だから、きっと子供が出来る。そうなったら、頑張って産んで、ちゃんと育ててあげよう。
アレクセイは恋心を抱いた相手である以前に、掛け替えのない家族だ。だから、その血を受け継いでやりたい。
ちゃんと話せば、父親だって解ってくれるだろう。厳めしい顔をしているが、一人娘のエカテリーナには甘いのだ。
食い扶持が増えてしまうが、その分働けばいい。万が一アレクセイが死んだとしても、彼の血がこの世に残る。
 準備を終えたアレクセイが戻ってきた。分厚い上着に身を包み、僅かな荷物を詰めたカバンを提げていた。
エカテリーナはテーブルに手を付いて立ち上がり、アレクセイにしがみついた。アレクセイも、抱き締め返してくる。

「じゃあ、そろそろ行くから」

 アレクセイはエカテリーナを引き離し、扉を開けた。エカテリーナは涙を拭い、顔を上げた。

「どうか、死なないで」

 アレクセイは表情を固め、頷いた。そして、雪が降り積もった外へ出ていった。扉が閉められ、足音が遠ざかる。
その足音が聞こえなくなるまで、エカテリーナは立ち尽くしていた。聞こえなくなった途端、泣き崩れて座り込んだ。
半身が欠けてしまったかのような空しさに襲われ、声も出せない。つい先程まで、繋がり合っていたというのに。
 最初は、軽い憧れだった。年上の異性が物珍しかったこともあり、アレクセイを見ていた。そして、目が合った。
毎日接しているうちに彼の態度が柔らかくなり、交わす言葉が増えると、通じ合うものがあると感じるようになった。
気が合うのもあったが、それだけではない何かがあった。気付くと、友人と接する時間よりも彼との時間が増えた。
まるで、産まれた頃から一緒にいるような気さえしていた。家にいる間は、傍にいない時間の方が短いほどだった。
それが、いなくなってしまう。大型の馬車と思しきひづめの音と車輪の軋みが、町外れからかすかに流れてきた。
 エカテリーナはその後を追い縋るように立ち上がったが、足がもつれて倒れ込み、テーブルにもたれかかった。
そのまま、泣き出した。うわごとのようにアレクセイの名を繰り返しながら、エカテリーナは冷えた床に座り込んだ。
 初めての恋は、身を裂くよりも辛い恋だった。







07 10/17