アレクセイのことを思わない日はなかった。 彼が戦場に旅立ってからというもの、エカテリーナの日常は欠損し、何をしていても空しさばかりが募っていった。 食事をしても味が感じられず、働いて稼ぎを得ても満ち足りず、眠っても疲れは取れず、涙を流してばかりだった。 アレクセイが書くと言った手紙が届くことだけを待ち侘び、日々を生き延びることだけを考えて体を動かし続けた。 生きていれば、彼に会える。そのために働いて、食べて、家を守らなければならない。ここは彼の家なのだから。 アレクセイが安心して帰ってこられる場所を守ることこそが、自分の役割だ。そう思いながら、毎日を過ごした。 アレクセイが遠い戦場に旅立ってから、一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎた頃、エカテリーナの体に異変が起きた。 いつもならば規則正しく訪れる月経が来なかった。そのうちに気分が悪くなり、何度か吐き戻してしまうほどだった。 それは妊娠の兆候だった。たった一度の交わりで子供が出来ると思っていなかったので、嬉しくて、幸せだった。 周囲には、単なる体調不良だと説明した。そのうち感付かれるかもしれないが、それでもいいとすら思っていた。 アレクセイは、エカテリーナにとって生き甲斐と化していた。日に日に彼の分身は膨れ上がり、重みを増した。 アレクセイの残していった衣服は定期的に手入れして、いつ帰ってきてもいいようにと彼の部屋もいつも掃除した。 こちらから手紙を出しても届くのではないか、と思って戦場に手紙を出したこともあったが未だに返事はなかった。 それでも、書かずにはいられなかった。アレクセイへの熱い思いは胸に募る一方で、吐き出す必要があったのだ。 だが、帰ってきたのはアレクセイではなく父親だった。遠方での出稼ぎを終えて大国に帰るとの手紙が届いた。 その知らせを受け取った時、エカテリーナはひどく落胆した。同時に、アレクセイではないことを恨みすらしていた。 それまで父親のことは嫌いではなかったし、どちらかと言えば好きな方だったが、アレクセイには敵わなかった。 アレクセイの代わりに父親が戦場に行けばよかったのに、と、父親からの手紙を睨みながら思ったこともあった。 そして、それから数日後に父親は家に帰ってきた。出稼ぎで稼いだ金と荷物を抱えて、数ヶ月ぶりに帰宅した。 エカテリーナはアレクセイではないことを腹立たしく思っていたが、嬉しいことは嬉しかったので笑って出迎えた。 父親は久し振りに再会した娘を可愛がり、留守を守っていたことを褒めてくれ、土産として値の張る品物も与えた。 エカテリーナは喜ぶような素振りをしたが、内心では少しも嬉しくなかった。以前なら、飛び上がるほどだったのに。 父親は娘の本心に気付いていないらしく、上機嫌だった。だが、そのうちにアレクセイがいないことに気付いた。 エカテリーナはアレクセイが連合軍の兵士として出征したことを話すと、父親はどこか安堵したような顔をした。 これまで家族として一生懸命働いてくれた彼のことが心配ではないのか、と思うと、腹の底で怒りが煮え滾った。 だが、怒るわけにはいかなかった。上機嫌な父親を怒らせて殴られたりしたら、お腹の子に障ってしまうからだ。 いつもより少しだけ豪勢な夕食を終えて、父親は酒を飲み始めた。エカテリーナも、それに付き合うことにした。 父親に対する怒りは収まっていなかったが、この数ヶ月間は一人きりだったので寂しくてたまらなかったからだ。 酒精の濃い酒を少しずつ飲んでいた父親は、久々の自宅で落ち着いたからか、いつになく酔っているようだった。 「そうか、アレクセイがなぁ…」 父親は以前までアレクセイが座っていた食卓の椅子を見やり、呟いた。 「寂しくなるなぁ」 言うことはそれだけなのか、とエカテリーナは内心で毒突きながらも、表情には出さなかった。 「アレクセイは、きっと帰ってくるわ」 「ああ、そうだな。帰ってくればいいんだが、西の方の戦争は大分激しいんだそうだ。無事でいるかどうか…」 父親は酔いで弛んだ眼差しを、娘に向けた。 「言い忘れていたが、エカテリーナ。あれは、お前の兄だ」 「え…」 エカテリーナは意味が解らず、口を半開きにした。父親は、空になったコップに新たな蒸留酒を注いだ。 「あれは、最初に出来た子供なんだよ。だが、アレクセイが生まれてすぐにお前の母さんが病気になっちまったもんだから、孤児院に預けていたんだよ。出稼ぎに出るのにお前一人を家に残していくのは心配になったもんだから、連れ戻したんだ。もっとも、アレクセイの奴はオレが父親だとは気付いていなかったようだがな。戦争に行っちまうんだと知っていたら、ちゃあんと話してやったんだが」 「アレクセイが、私の兄さん?」 「なんだ、気付いていなかったのか? オレから見れば、お前らはよっく似ていたんだが」 父親は少し寂しげな顔をして、蒸留酒の続きを飲んだ。エカテリーナはどくどくと心臓が高鳴り、胸が痛くなった。 アレクセイは孤児院からやってきたのだから、孤児なのだと思い込んでいた。だが、そうではなかったというのか。 通じる部分が多かったのも、兄妹であれば当たり前だ。お互いに惹かれていたのも、同じ血が流れていたからだ。 もしかすると、アレクセイは気付いていたのかもしれない。だから、エカテリーナを抱いた後に悔やんでいたのだ。 だが、もう遅い。今はまだ目立っていないが、腹の中には子がいる。実の兄と妹の血を継いだ、血の濃い子だ。 けれど、おぞましさは感じなかった。それどころか、それほど近い関係だったと知って歓喜で胸が熱くなっていた。 「だが、それで良かったのかもしれんなぁ」 父親は、酒精の混じった熱いため息を吐いた。 「兄弟だと知らんで一緒に暮らしていると、いつかおかしなことになっちまうかもしれん。そうなる前に、片方がいなくなってくれたんだ。正直、ほっとしたよ」 大好きな人。でも、兄さん。けれど、好きでたまらない。しかし、血が繋がっている。だけど、だけどだけどだけど。 エカテリーナは下腹部に手を当てて、項垂れた。父親はエカテリーナの異変に気付かぬまま、独り言を続けた。 「アレクセイは、お前を妙な目で見ていたからな。だが、何もなかったようで良かったよ」 違う。そんなに簡単じゃない。安っぽくない。 「お前もだが、あれも年頃だ。見境がなくなって、お前に手を出すかもしれんからなぁ」 そんなに下らないものじゃない。ちゃんと思い合っていたからこそ、繋がったのだ。 「出稼ぎ先で会った男の娘が年頃でな。あれが戻ってきたら、あてがってやろうと思っているんだ」 そんな女は、いらない。 「オレが出稼ぎに行っている間、お前も寂しかっただろう」 寂しくない。彼と、彼の子がいてくれるから。 「だが、これからは大丈夫だ。アレクセイの嫁さんになる娘が来てくれるから…」 ふと、父親は言葉を切った。黙り込んだ娘が気になって振り返ると、娘が肩を震わせながら立ち尽くしていた。 エカテリーナは暖炉に目をやり、その傍らに立て掛けてある斧に目を留めた。分厚い刃が、鈍く光を放っている。 「何も、いらない」 アレクセイは帰ってくる、だから女はいらない。そして、親もいらない。 「いらない、いらないいらないいらないいらないいらないいらないぃいいいいいいい!」 エカテリーナは使い古した斧を取り、振り上げた。呆気に取られている父親の頭目掛けて、振り下ろした。 「いらないっ、いらないっ、いらないっ!」 斧を振り下ろすたびに生温い飛沫が飛び散り、壁だけでなく、天井にも及んだ。 「いらないいらないいらないいらないいらないいらないいらない!」 アレクセイがいてくれればそれでいい。アレクセイがアレクセイがアレクセイがアレクセイが。 「アレクセイしか、いらない…」 エカテリーナは息を荒げながら、顔に付いた液体を拭った。気付くと、テーブルはめった打ちされて割れていた。 その向こう側にいた父親は、頭が砕かれていた。めちゃめちゃに割れた頭蓋骨の間から、どろりと脳漿が零れた。 肩や胸にも深い傷が付けられ、テーブルだけでなく床にも血溜まりが広がった。鉄臭い匂いが、立ち込めている。 つま先で血溜まりを踏み付け、エカテリーナははっとした。手にした斧と父親の死体で、何をしたのかを悟った。 驚愕のあまりに息を吸い込むと、体温が残っている生々しい匂いが鼻を突き、吐き気が込み上げてよろめいた。 まだ消化されていない夕食を血溜まりの中に出してしまい、エカテリーナは何度か咳き込んだが、肩を震わせた。 「う、くぅ」 これで、アレクセイと二人きりになれる。子供が生まれたら家族になれる。誰にも邪魔をされないで済むのだ。 父親の死体は顎を砕かれたらしく、無様に口を開けて折れた歯と千切れた舌を零し、口から血を滴らせていた。 だが、それは全く目に入らなかった。エカテリーナは斧を放り出すと、笑いながら踊るようにくるくると回転した。 「くはぁあはははは」 アレクセイ。アレクセイ。アレクセイ。 「大好きよ、アレクセイ。愛しているわ、アレクセイ」 だから、彼も喜んでくれる。 「アレクセイ、今、あなたはどこにいるのかしら?」 沢山書いた手紙は、一通ぐらいは届いているだろう。 「早く帰ってきてぇ、ねえ、早くぅ」 甘ったるい声を出しながら、エカテリーナは笑い続けた。 「あなたの子供がいるんだからぁ」 アレクセイはエカテリーナの全てだ。何の刺激もない退屈な日々を変えてくれた、とてもとても大事な愛しい人だ。 笑顔を向けると笑い返してくれて、手を取ってくれて、抱き締めてくれて、女にしてくれて、母親にもしてくれたのだ。 ああ。大好き。好きすぎて、どうにかなってしまいそうだ。エカテリーナは絶え間なく笑いながら、腹を撫でていた。 不安に支配された日々と孤独な時間が、じわりじわりと少女の心を潰して、本人も気付かぬうちに歪んでいた。 アレクセイの存在と盲目的な恋心は歪みを押し広げ、妊娠による精神の変調も歪みを広げる一因となっていた。 そして、アレクセイが出征してしまったことによる重たい不安が決定的となり、エカテリーナは心を壊しかけていた。 だが、エカテリーナにとっては恋は甘く、美しかった。実兄の子を妊娠した事実も、素晴らしいことでしかなかった。 兄だろうが何だろうが、アレクセイは大事な恋人だ。その子を授かれたのだから、こんなにも素敵なことはない。 アレクセイがいる。だから、幸せだ。 父親の死体は、解体して処分した。 何日も掛けて細切れにして、カマドに入れて焼いていった。腐敗し始めた部分は、焼けなかったので土に埋めた。 父親を殺害し、解体するために使った斧は血液と脂肪がこびり付いて切れ味は鈍っていたが、洗って使い続けた。 細切れにした腕や足や胴体を時間を掛けて焼くと、最後まで残っていた骨も焼けた。溜まった灰も、土に埋めた。 その灰を埋める場所は、畑や井戸からは離れた場所にした。死体の養分を吸ったものは口にしたくないからだ。 産まれてくる子供のためにも、そんなものは食べたくなかった。全ては、アレクセイとその子のためなのである。 近所の住民には、父親はまた出稼ぎに行ったと説明した。出稼ぎには何度も行っていたので、怪しまれなかった。 不審がられないように、今度はかなり長引く、と言っておいた。時間が過ぎたら、出稼ぎ先で死んだとでも言おう。 幸い、父親が送ってきた手紙には日付が入っていなかったので、怪しまれたらそれを使って言い訳すればいい。 アレクセイの子を孕んだ腹は、日に日に膨らんだ。エプロンドレスのスカートを、大きく押し上げるようになった。 父親の稼ぎは残っていたが、それを浪費したくなかったので、体が重たくなってきても以前と同じく働き続けた。 エカテリーナの大きくなった腹を見、女達からは誰の子だと聞かれるたびに、にっこり笑って恋人の子だと答えた。 それが誰なのか言及されることもあったが、アレクセイの名を他の女に呼ばれたくなかったので言わなかった。 アレクセイが出征してから半年以上が過ぎた頃には、エカテリーナの腹は張り詰めて随分と大きくなっていた。 さすがに動くのが億劫になってきたが、それでも仕事に出向いた。朝早くから夜遅くまで、力の続く限り働いた。 産まれてくる子と帰ってくるアレクセイのために、少しでも多く金を稼いでやりたいと思ったからこそ働けていた。 だが、そんな無理はいつまでも続かなかった。ある朝、エカテリーナは下腹部の激しい痛みで目を覚ました。 体を起こそうとすると、股の間から生温いものが流れ出した。布団をめくると、そこには大量の血が染みていた。 羊水と思しき水も混じっていたが、血の方が多かった。エカテリーナは動揺したが、あまりの痛みで動けなかった。 だらだらと出てくる血は、一向に止まらなかった。そして、最後には、小さな小さな胎児が血と共に流れ出した。 身重の体できつい労働を続けていたせいで、流産したのだ。だが、エカテリーナは現実を受け止めきれなかった。 手のひらに収まるほど小さく、息をしているはずもない胎児を抱いて眠った。血生臭さも、気にならなかった。 胎児と自分を繋ぐへその緒を切ることすらも惜しかったが、抱いているうちに千切れてしまい、とても悲しかった。 エカテリーナは自分自身の血と体液にまみれたまま、その一日を過ごした。翌日になると、ようやく体を動かせた。 血をたっぷりと吸った布団とシーツを泣く泣く捨て、体を洗い、死んだまま産まれてきた我が子も洗ってやった。 それが、とても愛おしくてたまらなかった。目も鼻も口も耳も出来ていなかったが、どことなく彼の面影があった。 愛おしさのあまりに、小さな胎児を舐めていた。胎児に付いた血には、彼の血が混じっているような気がした。 このまま彼の一部が腐ってしまうことが耐え切れなくて、失いたくなくて、エカテリーナは胎児を囓り、飲み下した。 こうすれば、彼の血も彼の子も再びエカテリーナの一部になってくれる。食べてしまえば、一生離れることはない。 胎児はとても柔らかく、とても細い骨すらも柔らかく、噛み砕くたびに悲しくなったがアレクセイのために我慢した。 それから、エカテリーナは萎んでしまった腹を撫でながら泣いて過ごした。仕事にも、ぱったりと出なくなった。 子がいなければ、働く意味もない。アレクセイが帰ってきてくれるまで待っているぐらいしか出来ない、と思った。 そして、月日は過ぎ、アレクセイが出征してから二年が経った。だが、エカテリーナは未だに泣いて暮らしていた。 それではいけないと思うものの、流れてしまった子が愛おしくて、アレクセイに会いたくて、胸が裂かれそうだった。 貯め込んでいた金もあっという間に減っていき、日々の食事も削るようになってしまい、体も随分痩せてしまった。 三年目の春に、一通の手紙が届いた。それは紛う事なきアレクセイの字が並んだ、待ちに待った手紙だった。 そこにはエカテリーナに愛を囁く言葉が並び、エカテリーナからの手紙を読んだ、ということも書き記してあった。 宛先は連合軍の輸送部隊になっていたので彼の居場所までは掴めなかったが、その時は気にもならなかった。 アレクセイが生きていた。その事実にエカテリーナは涙を流すほど喜び、人が変わったように元気になった。 また仕事も始めるようになり、なくなりかけていた金を貯め直すために稼いだ。彼のために生きなければ、と。 子供は流れてしまったが、アレクセイさえいれば何度でも作れる。どんな名前にしようかと、毎日のように考えた。 アレクセイからの手紙は一通だけでなく、何通も届いた。そのたびにエカテリーナは、熱を帯びた恋文を綴った。 アレクセイがいなくなった日々がどれだけ寂しいか、切ないかを、それほど多くない語彙を精一杯使って表現した。 彼もまた、エカテリーナに会えないことをとても悲しんでいた。行間には、エカテリーナへの思いが込められていた。 エカテリーナは、アレクセイが兄であると知ったことを書いた。だが、アレクセイの返事が変わることはなかった。 血が繋がっていようとも構わない、君は掛け替えのない女性だ、愛している、と熱の籠もった文を返してくれた。 エカテリーナは、アレクセイからの手紙を何度も読み返した。そのたびに彼への愛が込み上げ、胸が詰まった。 だが、ある時を境に急にアレクセイの手紙は変わった。丁寧だった文章も粗雑になり、語気も荒っぽくなった。 死んでしまいたいと書いている時すらあり、字は激しく震えていた。涙の跡と思しき水滴の染みも、落ちていた。 心底驚いたエカテリーナが励ましの手紙を綴って送るも、アレクセイの手紙の内容から陰鬱さは消えなかった。 会いに行くから居場所を教えて、とも書いた。だが、アレクセイは、頑なに自分の居場所を教えてくれなかった。 エカテリーナが執拗に尋ね続けると、アレクセイは根負けしたらしく、十数回目にやっと居場所を教えてくれた。 戦傷病院だった。 07 10/18 |