彼女が姿を消そうとも、ヴァトラ・ヴァトラスの影は消えなかった。 ヴァトラが結婚するために都市部に旅立った後、当然ながらファイドはヴァトラと顔を合わせることもなくなった。 時折、無性に会いたいと思う時もあった。だが、竜族である手前は探すわけにはいかないと思い、探さなかった。 それに、探さなくとも彼女の名は耳に入った。竜族に匹敵する実力の魔導師が現れたという噂が流れたからだ。 その名はヴァトラ・ヴァトラスと言い、素性の知れぬ女だという。彼女の元には、多数の弟子が集っているそうだ。 だが、ヴァトラが教えるのは竜族の操るような荒々しい魔法ではなく、僅かな力で操れる魔法ばかりなのだそうだ。 高い魔力を持つ者もほとんど魔力を持たない者も有象無象に集まったが、ヴァトラは分け隔てなく教え込んだ。 力の高さだけで評価するのではなく、その人間が持つ長所を的確に見つけ出し、手順を踏まえて覚えさせていく。 おかげで、これまで力を持て余していた者達は力を操れるようになり、力の弱い者達は自信を得るようになった。 ヴァトラ・ヴァトラスは優れた魔導師であると同時に、教育者でもあった。並外れた知識と教養を持っていたからだ。 その評判は人間の世界だけでなく、竜の世界まで届いていた。しかし、竜族の間では評判はすこぶる悪かった。 絶対的な力を良しとする竜王朝では、力の弱い者にまで魔法や教養を与える意味はないとされていたのである。 事実、竜族の中でも魔力の低い者は見下げられており、大した教養も与えられないまま兵役に就かされていた。 ファイドの下に生まれた弟も、竜族の平均からすれば魔力が低かったために、幼い頃に竜王軍へ入れられた。 ファイドは脱皮を繰り返して体格も大きくなり、魔力出力もそれなりに高かったために地位は一応安定していた。 竜族はその高い再生能力故に、医者らしい医者がいなかったおかげで、すんなりと医者になることも出来た。 もっとも、仕事の量も少なかったが、それならそれでいいと思っていた。暇ならば、その分研究に励めるからだ。 時折、ファイドは人の姿に擬態して下界にも降りた。研究のためでもあり、ヴァトラの評判を聞くためでもあった。 古今東西の医学書を買い付けるために様々な街へ降り、様々な人種に触れ、様々な言語や文化に直接触れた。 気が付くと、ファイドはすっかり人間を気に入っていた。ヴァトラの存在があったからこそ、踏み入れられた世界だ。 視野が広がると、世界も広がった。 そして、ファイドはヴァトラの家を探し当てた。 竜族の長や地位の高い者達が住まう竜王都からそれほど遠くない王国の首都、王都の傍に居を構えていた。 探し出そうと思って探し出したわけではない。医学書を求めて街から街へと歩いているうちに、知ったのである。 何度も専門書を扱う店を訪れていたために店主に顔を覚えられてしまい、いつしか話し込むまでになっていた。 医学書ばかりではなく、興味を惹かれた魔導書もいくつか買い付けていたので、魔導師だと思われたらしかった。 その店主もまた魔導師の端くれであるらしく、ヴァトラ・ヴァトラスを心の底から尊敬しており、信仰にも等しかった。 店主はファイドとヴァトラが会えるように紹介状まで書いてくれたので、行かないわけには行かなくなってしまった。 もっとも、それがなくともヴァトラとは顔を合わせるつもりだった。長い間、彼女と会いたくてたまらなかったからだ。 ヴァトラ・ヴァトラスの住まう家は、こぢんまりとしていた。王都といっても中心部ではなく、その周囲の森だった。 王都を囲む森の端にある針葉樹に取り囲まれた空き地のような場所に、小さな石造りの家が一軒建っていた。 苔の生えた石造りの井戸や割れられたばかりの薪が散らばる光景は生活観に溢れていて、彼女らしいと思った。 ファイドは玄関に行き、年季の入った家の扉を叩くとすぐに返事が返ってきた。だが、その声はひどく幼かった。 扉を開けたのは、十歳にも満たない少女だった。目が大きく愛らしい顔立ちには、ヴァトラの面影が感じられた。 少女は訝しげにファイドを見ていたが、ファイドが店主からの紹介状を見せると、少女は身を翻して中に戻った。 家の奥にある部屋に、お母さん、お客様、と声を掛けた。返事がなかったので、もう一度同じことを繰り返した。 すると、家の奥から足音が駆けてきた。使い古したエプロンドレスを着ていたが、間違いなくそれは彼女だった。 「ああ、お前か」 以前となんら変わらない口調で返したヴァトラは、屈んで幼い娘と目線を合わせた。 「ゲルダ、すまんがしばらく自分の部屋にいてくれないか。これは私の友人でな、話し込みたいのだ」 「うん、解った。いい子にしてる」 ゲルダと呼ばれた少女は頷くと、ファイドに丁寧に礼をしてから、軽い足取りで二階に続く階段を上っていった。 ファイドはその背を見送ってから、扉を閉めた。ヴァトラはファイドに椅子を勧めると、自分も椅子に腰掛けた。 促されるまま椅子に座ったファイドは、改めてヴァトラを眺めた。外見は変わらないが、顔立ちは柔和になった。 ヴァトラもまた、ファイドを眺めていた。目を細めながら上から下まで舐めるように観察すると、にやりと笑った。 「その変化は上出来だぞ、ファイド」 「あなたがそう言うのなら、少しは自信が持てますよ」 ファイドが頬を緩めると、ヴァトラはスカートの下で男のように足を組んだ。格好は変わっても、仕草は同じだ。 「お前も笑うんだな。そうだと知っていれば、もう少し面白みのある話をしてやったものを」 「あれで充分でしたとも。ツノも短ければ牙もなまくらだった青二才には丁度良かったですよ。おかげで、人の世界に下りられるようにもなりました。そのおかげで、どれだけ自分が付け上がっていたかを思い知りましたよ」 ファイドが肩を竦めると、ヴァトラは楽しげに口元を上向けた。 「人嫌いも治ったようで何よりだ。価値観が狭まったままでは、生きる楽しみは半減してしまうからな」 「竜族は己の再生能力を過信している節がありますからね。医術の発展は、人の方がいくらか早いですよ」 「ほう。となれば、お前は医者になったのだな?」 「元々、我が血族には医者の数が少ないですからね。医者といっても魔導師とほとんど変わらなかったり、でたらめなことを医術だと言い張る医者だけでしたから、ひどいものでしたよ。これからは、もう少しまともにしたいものです」 「お前ならやれるとも」 ヴァトラに励まされてファイドは若干照れてしまい、照れ隠しも兼ねて話題を変えた。 「先程の子は、あなたの娘ですか?」 「五番目の子だ。上から男、男、女、男、そして女だ。夫は、昼のうちは仕事に出ている」 ヴァトラは、幸せそうに顔を綻ばせた。 「実に素晴らしい! 単なる分裂ではない繁殖行為がこれほど神秘的だったとは、体験するまで全く知らなかった。異性体との繁殖行為もさることながら、己の体内で別の個を成長させていく感覚もまた素晴らしかった。子供達は、私と夫に似ているがまるで違う点もまた良いぞ。今はまだ、どの子も成長が不充分だが、どんな個体に成長するのか楽しみで仕方ない」 「その子達にも魔法を教えているのですか」 「まあ、一通りはな。知っているに越したことはないからな」 「あなたの評判は、我らの都まで届いております。ですが、同族の間では極めて不評ですがね」 「なあに、当然のことだ。生物とは互いに競い合いながら進化していくのだから、反発されぬ方がおかしいのだ」 以前と変わらないヴァトラの言動に、ファイドは安堵していた。変わらないものがあるというのは、嬉しかった。 竜族の世界は、少しずつだが変化していた。先代の竜王が崩御し、長子である第一王子が即位して竜王となった。 新たな竜王は先代の竜王に比べると若干勢いが弱く、側近達も忠誠心がやや薄いせいで権力も発展途上だった。 目に付いた物事に手当たり次第に手を出すのだが、いずれも中途半端に終わることが多く、失敗ばかりだった。 王が揺らげば、下も揺らぐ。頼りない新たな竜王の姿に不安を抱いた竜族達は、じわじわと統率が崩れていった。 北部の山間地から竜王都へ住まいを移したファイドは、その様を間近に見ていたので、同じく不安を抱いていた。 その不安が息苦しいほど膨らんでいたから、店主の一件がなくとも、ヴァトラに会いに来たかもしれないと思った。 「なんだ、その顔は」 ファイドはいつのまにか表情を変えてしまったらしく、ヴァトラはそれにめざとく気付いた。 「私に話したいことがあるなら言ってしまえばいいではないか。それほど浅い仲でもなかろう」 「話してもいいですが、他言無用ですよ」 「ああ、そういうのは得意だ。誰にも話さんと約束する、だから早く話してみんか」 ヴァトラに急かされて、ファイドは躊躇いながらも口を開いた。新たな竜王に対する不安を、だらだらと零した。 絶対王政である竜王都内では間違っても口に出来ないようなことも言ってしまったが、気にしていられなかった。 予想以上に不満が蓄積していたらしく、延々と話しつづけていたが、ヴァトラは辛抱強く耳を傾けてくれていた。 話し終えた頃には、窓の外からは西日が差し込んでいた。ヴァトラは最後まで聞き終えると、きっぱりと言った。 「ならば、試せ。その上で答えを見つけるが良いだろう」 「ですが、相手は竜王ですよ?」 ファイドが多少怯むと、ヴァトラは眉を吊り上げた。 「その竜王に対する罵倒を散々私にぶつけておいて、今更何を言うのだ。そこまで思うところがあるのなら、真っ向から言えば良かろうて。今すぐに動けないのなら、機を見て取り入れば良い。幸い、お前は医者だ。どうにでもなろうというものだ。世界とはお前だけのものではないが、お前の見ている世界はお前だけのものなのだ。お前が信ずるままに動き、成したことこそがお前の世界になる。私も、これまでそうやって生きてきた。思うがままに動くことは時として苦痛も伴うが、それすらも生の実感となる。良いと思うなら、実践してみるがいい。己の意思を殺したまま生きられる者など、どこの世界にもおらんぞ」 「そう、ですね」 ファイドが頷くと、ヴァトラも頷き返した。 「私もやるだけのことをやっているつもりだ。私はこれまで、この地に似た世界をいくつも目にしてきた。だが、同じ力を持ちながらも異なる姿形をした者達は、必ず戦いを起こし、力に溺れ、滅びていった。数多の命が失われ、数多の星が光を失った。その様は物悲しく、悔しく、そして歯痒くてならなかった。だからこそ、私はこうして地に降りた。見ているだけでは、何も変わらぬからだ」 「あなたは、神か何かですか?」 やけに壮大な言い回しにファイドが少し笑ってしまうと、ヴァトラは首を横に振った。 「いや。私は神などではない。それほどの力があれば、何かしているとも」 「では、一体」 「言うならば、旅人だ」 ヴァトラは、目を上げた。その先の薄暗い空では、星が一つ輝いていた。 「闇と虚無の海を泳ぎ、時と次元の狭間を移ろい、数多の星を渡り歩く、星の旅人だ」 「星の…?」 「ただの世迷い言だと思うならそれでいい。だが、信じるならそれでいい」 「はあ」 ファイドは訳も解らずに、生返事をした。無論、ヴァトラが言っていることを真に受けているわけではなかった。 元々、ヴァトラはどこかずれたことを口にする人間だったので、今度もそういったものなのだろうと思っていた。 その頃はファイドも知識が浅く、視野が広くなったと言っても、昔に比べればまともになったというぐらいだった。 今にして思えば、ヴァトラはファイドだけではなく誰も知らない世界からやってきた、来訪者だったのかもしれない。 それから、ファイドはヴァトラとまた頻繁に会うようになった。ツノも牙も爪も翼も隠し、人間と化して会っていた。 更に年月が過ぎても、ヴァトラはやはり姿が変わらなかった。だが、子を産んだ影響からか少しずつ弱っていた。 毎日のように訪れる何十人もの弟子達に魔法や勉学を教える傍ら、五人の子を育てたのだから、疲れもする。 ファイドもそう思っていたし、ヴァトラもそう言っていた。だから、ヴァトラの変調はあまり気に止めていなかった。 そして、別れは唐突に訪れた。ある朝、ヴァトラは眠るように死んだ。夫によれば、気付いたら死んでいたらしい。 いつもであれば先に目を覚ましているヴァトラがまだ眠っていたので、おかしいと思って触れると冷たくなっていた。 ファイドは偶然にもヴァトラが死んだ朝に訪れ、取り乱している夫に頼まれて、確実に死んでいることを確かめた。 心臓も止まり、呼吸もなく、瞳孔も開ききり、筋肉は硬直し、体温は完全に抜けており、肌も張りを失いつつあった。 死なないと言っていたはずのヴァトラが死んだことでファイドはとてつもない衝撃を受け、打ちひしがれてしまった。 会いたい人がいなくなったため、ファイドはしばらく人の世界に降りるのを止めて、医術の研究に没頭していった。 そうでもしなければ、気が紛れなかったからだ。 それから、約四百年後。 すなわち、現在の五百年前と等しい時代である。その頃には、竜族の中ではファイドの地位も高まりつつあった。 ヴァトラから教わった医術と人の世界のものを研究して発展させた医術は、竜王とその一族にも評判が良かった。 帝国のドラゴン・スレイヤーと小競り合いを続けるうちに、再生能力だけでは追い付かなくなったからでもあった。 数年前から下界へ降りていった竜族と、住む世界を広げんとする人の間で摩擦が起き、交戦を繰り返していた。 昔から変わらない戦法を取る竜族に対し、人はヴァトラの伝えた魔法や様々な戦術を駆使して竜族を押してきた。 その結果、竜族は人に敗北することが多くなった。竜族内には伝えられていない死者の数は、増える一方だった。 ファイドは職業柄その死体の処理と事後処理を任されることが多かったので、竜族の現状は誰よりも知っていた。 かつては独自の世界を確立していた竜の世界は、じわりじわりと人に侵されつつあり、竜が弱りつつあることを。 竜族の弱体化は、静かに拡大していた。過去の竜族は、中世時代の竜族など足元にも及ばないほど強かった。 魔力はもとい、体格も一回り以上は大きく、頭脳も冴え渡っていた。人に殺されるような者は、一匹もいなかった。 ファイドの知る中で最も大きな竜は、先代の竜王だった。天を突くほどの身の丈を持つ、王に相応しい銀竜だった。 だが、その長子であり第一王子である現在の竜王は、成竜となっても先代の竜王よりも一回り以上小さかった。 魔力も先代よりも劣り、幼い頃から狭い世界で育てられてきたためか了見も狭く、また意志の弱い部分もあった。 だが、それでも竜族は現在の竜王を讃えた。王が絶対である世界を壊したくないからこそ、竜王を讃え続けた。 竜族は一族の弱体化の事実に気付いていないか、或いは気付いていたとしても理解しようとしなかっただろう。 原因は、血の濃さだった。種族の特性か何かで絶対数の極めて少ない竜族は、必然的に血族と交わっていた。 繁殖が十年周期であり、産まれる子の数も限られているので事態の進みは遅いせいで、皆、気付くのが遅れた。 しかし、気付いたとしてもどうにもならなかった。竜族の絶対数は増えないため、同じ血ばかりを連ねていった。 ある日、ファイドは竜王に呼び付けられた。使者に促されるままに竜王城に赴くと、玉座で竜王と接見した。 そこで竜王は、やけに遠回しな言葉を使って、ファイドに不老不死をもたらす魔法を研究するように命令した。 つまり、竜王は不死の存在になりたいのだという。ファイドは己の耳を疑ったが、竜王の眼差しは真摯だった。 ファイドは反論も出来ないまま、竜王城を後にした。竜はここまで堕ちたのか、と空しさと共に絶望に襲われた。 確かに、竜王は寿命が近かった。先代の竜王がなかなか退かなかったため、王子といっても妙齢を越えていた。 竜族の寿命は二千年前後で、長く生きても二千五百年が限界だ。竜王は二千年を越えた際に、病に冒された。 ファイドは竜王に施術して病巣を取り除いたが、その病のせいで竜王はすっかり体が弱ってしまい、気も弱った。 人の世界に媚びるように、人の姿を模した擬態に変化せよと命じ、人と諍いを起こさないために勢いも失せた。 昔はあれほど嫌っていた人に謙り、顔色を窺う始末だ。ファイド以外の者も、さすがにこれには辟易してしまった。 その少し前、竜王に反発するように人と交わった者がいた。西の守護魔導師、アンジェリーナ・ドラグーンである。 百歳少々と竜族の中ではかなり若かったが、天才的な魔法の腕と膨大な魔力を買われての異例の大抜擢だった。 若さ故の危なっかしさはあったものの、アンジェリーナは竜王にも一族にも忠義が堅く、良く出来た魔導師だった。 しかし、アンジェリーナは人の世界に降りた際に王国軍の騎士と恋に落ちてしまい、そればかりか子供を設けた。 それはとてつもなく大きな問題になったが、竜王が弱った今、守護魔導師を欠けば竜王都の滅亡を意味していた。 守りを少しでも緩めれば、即座に帝国に攻め込まれてしまうだろう。そこで竜王は、アンジェリーナと取引をした。 子を生かす代わりに竜王都へ戻り、生涯を捧げよ、と。だが、竜王都へ戻らない場合は、その場で子を殺す、と。 アンジェリーナは渋々その取引に従い、夫、ロバートとの娘であるフィフィーナリリアンヌを王国へと置いてきた。 フィフィーナリリアンヌ、通称フィフィリアンヌは、人の血とはいえ他の血を混ぜたおかげでまともな竜になった。 トカゲ以下の蛮族になる、との大方の予想に反して、ほぼ独学で学んだ魔法薬学を研究する第一人者となった。 頭が良いだけでなく、魔法の腕も冴えていた。アンジェリーナ譲りの才覚とロバート譲りの勉強熱心さの賜だった。 だが、竜族は彼女を認めなかった。半竜半人を認めてしまえば、竜族が穢れを受け入れたことになるからだった。 しかし、表向きは認めていなくとも裏側では認めていた。フィフィリアンヌの作る魔法薬は、高値で買われていた。 竜王とその一族もまた、フィフィリアンヌの薬に頼っていた。ファイドも、彼女の作った薬を使う機会は多かった。 そういった背景があったため、竜王の使者となったファイドは必然的な流れでフィフィリアンヌの元へ訪ねた。 フィフィリアンヌが住む場所のは、タチの悪い冗談か趣味の悪い偶然なのか、ヴァトラの住んでいた付近だった。 王都の西側の森の中で、こぢんまりとした石造りの家に住んでいた。その様もまた、ヴァトラのそれに似ていた。 一つ違うのは、荒れ果てていたことだった。研究熱心のあまりに生活を忘れるらしく、雑草は伸び放題だった。 ファイドが訪れても、フィフィリアンヌは反応しなかった。埃の積もった大きな机に向かい、厚い本を読んでいた。 ちらりと目を上げただけで、それだけだった。ファイドは付き合いが長いため、彼女の冷淡さにも慣れていた。 「やあ、フィフィリアンヌ」 「魔法薬の注文であれば、書簡だけ置いていけ」 フィフィリアンヌは活字を追いながら、素っ気なく返した。ファイドは、彼女の向かう机の前に立った。 「私は、竜王陛下からの命を届けに来たんだがね」 「精力剤なら作らんぞ」 「いや、そうではなくてな」 ファイドが事のあらましを説明すると、フィフィリアンヌは即座に突っぱねた。 「悪趣味だ。帰れ」 「そうもいかんのだよ、これが。前金はもらっているのだからね」 ファイドの言葉に、フィフィリアンヌはページをめくる指先を止めた。 「額によっては考えてやっても良いが、はした金ならいらん。間に合っておるのでな」 「報酬は占めて金貨十五万枚なのだが、前金は金貨五万枚だそうだ」 「五万枚か」 フィフィリアンヌは活字を追っていた目を止め、ファイドに向けた。その傍らのグラスの中で、粘液が泡を吐く。 「はっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは。貴君も竜王も、この女の動かし方を弁えているのである」 「君は確か、魔法薬研究の傍らで、魔導鉱石に魂を封じる魔法も研究していたのではなかったのかね?」 「あれは私も愚かだったのだ。父上の魂がまだ現世を彷徨っているのではないか、などと思った末に犯してしまった蛮行に過ぎん。結果はそれなりのものは出たが、あれは空しいだけだ。やる価値もない」 「竜王はそれをご存じだ」 「だから、それがなんだと言うのだ」 「用を足す際に、竜王都に赴くことになる。となれば、母君に会えるかもしれんぞ、フィフィリアンヌ」 「あんな女と同じ空気を吸うと思っただけでも腹が立つのだ、誰がそんな誘いに乗るものか」 そうは言いつつも、フィフィリアンヌの表情はほんの少しだけ変わった。口元の端が、かすかに緩んでいた。 伯爵もそれを察したらしく、一際大きな泡を吹き出した。極度の意地っ張りとはいえ、母親は恋しいらしかった。 双方と付き合いのあるファイドから見れば、二人は表面的な仲は悪いが、その実は互いに惹かれていると解る。 幼い頃に父親が死してしまったフィフィリアンヌにとっては最後の肉親であり、また掛け替えのない母親である。 心のどこかで、思っていないわけがない。十五万枚の金貨と母親という揺さぶりは、彼女には効いたようだった。 フィフィリアンヌは心が動いた事実すらも認めたくないのか、とてつもなく不愉快げな目をしてファイドに向いた。 「金貨五万枚を逃すのは惜しいからな」 「ならば、引き受けてくれるのだね?」 「私が引き受けることで、貴様にも利潤が生じるのだろう。そうでなければ、ここまでくどく誘わんだろう」 「まあ、多少はあるとも。私とて無欲ではない」 「だが、竜王の魂を魔導鉱石に封じる前に実験を行う必要がある。あの魔法は未完成なのでな」 「事を起こすなら確実な方が良かろう。そう説明すれば、竜王も承諾してくれるはずだとも」 「王都の共同墓地で、残留思念がやたらと濃い魂を見つけたのだ。それを実験材料とする」 フィフィリアンヌは椅子から降りると、本棚から一冊の帳面を抜き、ぱらぱらとめくった。 「ほう、それは誰かね?」 ファイドは特に興味はなかったが、問うた。すると、フィフィリアンヌの口から意外な名が出てきた。 「ギルディオス・ヴァトラスという名の男だ。生前は傭兵だったらしい」 「ヴァトラス?」 それはヴァトラの末裔なのか。ファイドが目を剥くと、フィフィリアンヌは振り向いた。 「なんだ、貴様も知っておるのか? ヴァトラス家は実力の高い魔導師一族なのだが、ギルディオスとやらは先天的に魔力を持たぬ者だったらしく、一族から弾き出されて傭兵になった挙げ句に不審な死を遂げたのだ。その裏事情も多少気になるから、暇潰しに手を付けようと思っておるのだが」 「まあ、少しはね」 ファイドは動揺を隠しつつも、嬉しくなった。きっと、ギルディオスはヴァトラの子達の誰かの末裔なのだろう。 フィフィリアンヌは使い込まれた帳面を開いて見つめながら、考えをまとめるためなのか、独り言を呟いていた。 恐らく、中身は魔導鉱石に魂を封じる魔法の研究成果なのだろう。端から見ただけでも、高度な魔法だと解る。 ファイドはあのヴァトラの血が連なり続けている嬉しさと共に、かすかな不安も感じていたが、すぐに払拭した。 ヴァトラの教えは力を使わない魔法だ。暴力や武力としての魔法ではなく、文化や技術としての穏やかな魔法だ。 ヴァトラの末裔ならば、その教えを守っているに違いない。ファイドは、ヴァトラス一族にそんな期待を抱いていた。 だが、その期待は脆くも崩れ去った。 07 11/8 |