ドラゴンは滅びない




原初の海 中



 ヴァトラの願いは、打ち砕かれていた。
 フィフィリアンヌを通じて知り得た現在のヴァトラス家は、対面こそまともだったが、実状は乱れに乱れていた。
長男であり次の家長となるイノセンタス・ヴァトラスは、国王付き魔導師である傍らで帝国にも深く通じていた。
ファイドが医療行為を行った際に出来た情報筋を辿ると、イノセンタスはドラゴン・スレイヤーを手助けしていた。
魔法の知識が乏しい剣士などに竜の弱点や強力な魔法を教え込み、竜族の世界を直接的に脅かしていたのだ。
王国は表面的には帝国との仲は悪かったが、裏では不況を打開するために共謀して戦争を起こそうとしていた。
そういった背景があったため、イノセンタスの暗躍は一切咎められなかった。むしろ、煽られていたようだった。
狩られた竜族は分厚い皮を剥がれて加工され、肉を切り売りされ、血を抜かれ、ツノも牙も奪われてしまった。
中でも特に惨い事例は、コルグ・ドラゴニアのように剥製にされて貴族や大衆の見せ物と化していたことだった。
 三番目の子であり長女であるジュリア・ヴァトラスは、魔物の研究をしていたが、次第に方向性が歪んできた。
最初は魔物の生態や分布を研究していたが、魔導を極めるうちに興味が湧いたらしく、人造魔物を造り上げた。
それは一体に止まらず、ウルバード、レオーナ、スパイド、そしてセイラと四体も造り上げてしまったのである。
魔物への冒涜であり魔導の乱用だとファイドは思ったが、当の本人や周囲は欠片も悪く思っていないようだった。
 そして、イノセンタスの双子の弟であり次男であるギルディオス・ヴァトラスは、志半ばにして兄に殺されていた。
多少の魔力はあるが、魔力中枢の発達障害で魔力をほとんど外に出せない彼は、生前から疎ましがられていた。
特に一族の名誉と魔力の高さを重んじる両親と兄には嫌われていたらしく、死後も彼の扱いはひどいものだった。
 また、調べれば調べるほどおぞましい事実が明らかになった。ヴァトラス一族は、近親相姦を繰り返していた。
ヴァトラス一族はヴァトラの血を引く子から派生した一族だが、元々はそれほど魔力の高い一族ではなかった。
だが、何かの拍子で近親者同士の血を掛け合わせると魔力の高い子が産まれると知ったらしく、悪夢が始まった。
竜族と全く同じ過ちだったが、こちらは中途半端にいい結果が出てしまったことで余計に悪い事態が生まれた。
ギルディオスらの両親も、兄弟同士や親戚同士の子といった、特に血の濃い者同士から生まれた者同士だった。
そしてギルディオスも、魔力のない役立たずとされながらも、実の妹であるジュリアと結婚するよう迫られていた。
だが、ヴァトラス家でありながらも真っ当な価値観を持っていたギルディオスは、結婚させられる前に家を出た。
だが、血の濃い家柄と閉鎖的な価値観に支配された兄、イノセンタスは、実妹のジュリアを愛してしまっていた。
実弟に嫉妬して殺すだけでは飽きたらず、魔法まで使って妹の心を手に入れようとしたが、失敗に終わった。
 その壮絶な出来事の後、イノセンタスは自害し、ジュリアはヴァトラスの名を捨てたので負の連鎖は途切れた。
残されたヴァトラス家はギルディオスの息子であるランス・ヴァトラスが継ぎ、それが現在の一族の先祖である。
その後は近親相姦や高い魔力への過剰な執着はなくなったが、ヴァトラス家が完全に壊れたのは確かだった。
 根本的な原因は、ヴァトラス家を崩壊させるための策を弄していたルー一族が価値観を歪めたからであった。
だが、ルー一族は元々は帝国が作り出した架空の一族であり、つまりヴァトラス家は填められて壊れたのだ。
皆、ヴァトラが教えた通りにはしなかった。誰もが力を求めるがあまりに力を恐れ、そして、力に喰い殺された。
 それは、竜もまた同じだった。


 ファイドが決定的な絶望を抱いたのは、五十年前のことだった。
 竜族と帝国が激しく争った黒竜戦争を経て、竜族の絶対数は激減し、残された者達は東竜都へと逃げ延びた。
ウェイラン・ドラグラウに強姦されたアンジェリーナ・ドラグーンが産んだ子が、東竜都の新たな長となっていた。
その名はキース・ドラグーンといい、フィフィリアンヌの種違いの弟で、母親似の美貌と知性を持った男だった。
しかし、幼い頃に蔑まれていたにも関わらず成長すれば持て囃されるという落差に戸惑い、情緒が不安定だった。
種違いの姉であるフィフィリアンヌにも強い執着心を抱き、下手をすればヴァトラス家のようになりかねなかった。
キースのフィフィリアンヌに対する感情は、肉親に対するそれとは若干違っており、恋愛感情にも近いものだった。
放っておけば良くないことになるのは目に見えていたので、フィフィリアンヌには弟と接するべきではないと言った。
それがフィフィリアンヌの心を動かしたのかどうかは定かではないが、まるで効果がなかったわけではなかった。
 冬の日、ファイドはキースに呼び出されて東竜都を訪れた。診察の依頼自体は、今までもよくあることだった。
キースは年上の妻のリンが孕まないことを不安に思って診察を頼んできたのが、妻が孕まない理由は別にあった。
侍女上がりの身であるが故に金と地位にどっぷりと溺れていたリンは、キース以外の男とも通じていたのである。
そこで、キース以外の種で孕んでは長の妻という地位が失われるので、保身のために精を殺す薬を使ったのだ。
ファイドもそれに気付いていたし、診断の際にリンは告白してきた。だが、キースにはとても伝えられなかった。
長になったとはいえ、精神的な幼さと不安定さがあるキースにそんな事実を突きつけてしまうと、崩れかねない。
そこでファイドは、一計を案じることにした。キースは元から種が作れない体だ、と嘘の診断を下したのである。
だが、ファイドの嘘によって自分の地位の安泰を確信したリンは、キースを罵倒した挙げ句に母と姉を侮辱した。
全てを否定されたキースは怒り狂い、最後の一線を越えた。ただでさえ不安定だった心が壊れ、狂気に負けた。
だが、誰一人として暴れ狂うキースに敵わなかった。弱体化が進んだ竜族達は、同族にすらも勝てなくなっていた。
 東竜都が焼かれた夜、ファイドはその光景を間近で見ていた。もしやと思い、用事を終えてすぐに戻ったのだ。
しかし、戻った時には何もかもが手遅れだった。東竜都には生ける者の姿はなく、あるのは炎と死体だけだった。
その中心で、若き竜の長は君臨していた。同族の血で全身を赤黒く汚して、狂気に溺れた咆哮を放っていた。
 キースが我を失った原因は、間違いなくファイドの嘘だった。良かれと思ってしたことが、裏目に出てしまった。
罪悪感と共に、限りない絶望の底に沈んだ。だが、何もかもが壊されていく光景を見ていると、価値観も崩れた。
醜く歪んだ世界を守っていく意味など、なかったのではないか。ヴァトラス家と同じく、壊せばいいのではないか。
そう思った時、燃え盛る東竜都に飛び込む者の姿が見えた。それは、ウェイランに敗れた虎、ラオフーだった。
ラオフーは東竜城付近で死にかけていたリーザの元に辿り着いたが、リーザはキースの放った炎で殺された。
キースの炎に包まれて息絶えた白竜の姿にラオフーはひどく怒り、老いた体を振るってキースを殺しに掛かった。
 その様を見た瞬間、ファイドは飛び出していた。久しく使っていなかった爪で、ラオフーの首を跳ね飛ばした。
ラオフーの首が宙を舞い、猛虎の血の飛沫が顔に付着した。赤々とした炎の海に、首のない死体が転がった。
キースは怒り狂いすぎて、ファイドの姿には気付いていない。ファイドは彼に背を向けて、東竜都を立ち去った。
 これまで竜や魔物や人といった生ある者達を救ってきた手が、かつて命を救った者を殺し、血で汚れていた。
爪先を伝って落ちる血の生温さを感じ、肌を焼かんばかりに燃え盛る炎を見つめていると、ある思いを抱いた。
これから先、竜はますます歪み、魔物はますます劣り、魔法もますます崩れていく。それは、見るに耐えられない。
素晴らしかった時を知っているからこそ、在るべき姿を覚えているからこそ、辛かった。ならば、壊してしまおう。
 治せないなら、滅ぼすしかない。



 ファイドの語り口は、いつもとなんら変わらない。

「そこで私が最初に思い付いたのは、敢えて力を与えていくことだったのだよ。手始めに、魔導師協会からの要請という名目で魔導球体を成す魔法を教えさせられた相手であり魔導師協会の前会長、アルフォンス・エルブルスの元を訪ねてみた。アルフォンスは魔導師協会本部の地下に造り上げた魔導球体に、吸血鬼の女を捉えていたのだ。彼女の名はルージュ・ヴァンピロッソといい、彼女には何の非もなかった。だが、アルフォンスは彼女を食い物にしたのだ。延命魔法を成すための魔力の供給源にしたり、彼女が簡単に死なないことをいいことに虐待を繰り返していた。時にはルージュに餌を与える名目で気に入らない人間を殺させて、悦に浸っていた。しかし、アルフォンスの任期は何度も終了しており、魔導師協会内でも疎ましがられていた。そこで私は顔見知りの魔導師協会役員に声を掛けて、新任ながらも際立った知性と才能を持つ役員、ステファン・ヴォルグことフィフィリアンヌ・ドラグーン女史を推薦させて会長選挙で当選させたのだよ。その結果、フィフィリアンヌは金と知識だけではなく、権力も手に入れられたのだよ」

 医者は顔が広いのでね、とファイドは得意げだった。

「魔導師協会地下の魔導球体を停止させる際にフィフィリアンヌが手に入れた魂、ルージュ・ヴァンピロッソは副産物のようなものでね。私は対して気に止めていなかったが、彼女はなかなかいい道化として動いてくれたよ。さて、話を戻そう。フィフィリアンヌが権力を手に入れたのなら、次は当然ギルディオスの番だった。共和国軍の一兵士として動いていた彼の元に、手術で脳に手を加えて造り出した異能者であるローラ・ハドソン抹殺の命令が下るようにさせ、彼の感情的かつ短絡的な価値観に異能者は不憫だという価値観を強烈に刷り込んだ。その結果、ギルディオスはもとい共和国軍までもが異能者に目を付けるようになったのだよ。だが、その一方では異能者は魔物同然の扱いを受け、共和国内でも内密に処分されていた。異能部隊で戦闘員として活躍出来るのは、忠実に命令を聞く者や押さえ付けられるほどの力を持った者達だけであったからね。矛盾しているが、本当にそうなのだから仕方ないのだよ。力を求める一方で、力を恐れているのはどの時代でも変わらんよ。その異能部隊を足掛かりにして、ギルディオスがのし上がるまでには時間は掛からなかった。前線で活躍していたから、手柄には困らなかったのだよ」

 そして、とファイドは倒れている二人を見下ろした。

「思った通り、力を得た君達は互いの考えをぶつけ合い、敵対した。君達ならば少しはまともな結果が出るのではと思っていたが、期待外れもいいところだったよ。君達は互いしか見ていなかったおかげで、ジョセフィーヌの体を得てサラ・ジョーンズと名乗ったキースは割と順調に暗躍出来ていたよ。彼に憑依の魔法を教えたのは私でね。死にそうになったら誰でもいいから憑依して長らえたまえ、とも教えたよ。もっとも、教えてくれと申し出てきたのはキース自身だったが、今となってはどうでもいいことだとも」

「貴様が、あの子を死なせてやらなかったのか」

 黒竜の口から出た弟の名に、フィフィリアンヌは激しい憤りで顎を食い縛った。

「じゃあ、てめぇが、アンソニーもそそのかしたってのかよ」

 ギルディオスの弱々しくも怒りに満ちた言葉に、ファイドは頷いた。

「そうとも。彼はいつか使える駒になると思って、揺さぶっておいたのだよ。十年前のあの出来事の後に、能力強化兵となっていた彼に再手術を施した後で、気の弱った彼が、べらべらと自殺願望やら劣等感を話してくれたのだよ。そのおかげで、異能部隊は思ったよりも早く始末することが出来た。念のためにラオフーを取り込ませたのだが、彼のおかげで効率は上がったが隙も出来てしまったよ。ブリガドーンでの戦いで負傷したラオフーを修理し、ゼレイブに送り込んだのも当然だが私だ。もっとも、期待していたほど活躍してくれなかったがね。ラオフーは戦闘能力こそ素晴らしいが、それだけでしかなかったのだよ」

「グレイスの野郎も、そうなのか」

「無論だとも。グレイス・ルーを謀る前に、フィフィリアンヌを謀ったがね。私も最初の頃は彼女の目的に添った行動を取っていたし、彼女の行動の足掛かりとなるブリガドーンに魔導球体を設置して安定化も図り、途中までは本当に同じ道を歩んでいた。フィフィリアンヌも私と近しい答えを見出したようで、魔法を滅ぼすべきだと考えていたのだよ。だが、生物までは殺さないと考えていた。だが、その考えは決して有効ではない。魔法という文化を全て滅ぼしたとしても、それではその場凌ぎの解決に過ぎない。根本的な原因である魔力を持つ者達を完全に滅ぼさなければ、事は終わらないのだよ。そこで私は、フィフィリアンヌを利用してグレイスを填めることにした。ブリガドーンと生体魔導兵器を利用し、彼が油断する一瞬を逃さずに殺したのだよ。彼は、長く生きすぎたのだ。その力の恩恵を受け続けていたロザリアも、生かしておけばいずれ新たな危険を孕むかもしれないと思ってね。ヴィクトリアを二度も殺し損ねたのは残念だったがね」

 ファイドの表情は終始普段のままだったが、それが一層薄ら寒さを感じさせた。

「フリューゲルの一件にも、多少噛んでいてね。あれが造られた魔導技術研究所に、ジュリア・ヴァトラスの負の遺産である人造魔物の研究資料を流したのだよ。人造魔物の製作に欠かせない大量の魔力を増幅させるために、研究所の地下に魔導球体を設立させたのも私だとも。彼らには、そこまでの魔法技術はなかったからね。だが、異能者を手当たり次第に殺したことは私の指示ではない。あれは、君をのし上げるために利用したローラ・ハドソンの存在の余波のようなものでね。あの一件から、共和国は過剰なまでに異能者を恐れるようになってしまったのだよ。故に、私には間接的には非はあるかもしれんが、直接的な非はないことを付け加えておこう」

 ああ、そうだ、とファイドは手を打った。

「そうそう、あの二人のことを忘れてはならんな。アレクセイ・カラシニコフとエカテリーナ・ザドルノフのことだが、あの二人は連合軍の中で工作活動している最中に偶然見つけたのだよ。二人共、君達に負けず劣らず歪んでいてね。アレクセイはエカテリーナを妹だと知りながら抱いて孕ませ、エカテリーナはアレクセイが兄だと知った途端に父親を邪魔に思って殺してしまったのだよ。戦傷病院に入院していたアレクセイは右腕一本だけを残して手足はなくなっており、そこに見舞いにやってきたエカテリーナはアレクセイに執心するあまりに我を失っていた。そのまま生かしておくのは良くないと思ったのでね、私は二人を誘い込んで生体魔導兵器と化すための施術したのだよ」

 そして、とファイドは巨体の獣人へ変化した白ネコを見やった。

「ヴィンセントは私の良い友人でね。彼のおかげで、私の策は随分と順調に進められたよ。彼はアレクセイとエカテリーナという格好の被験者を見つけ出し、私が揺さぶりを掛けておいたアンソニーを手際よくこちら側に誘い込み、戦闘本能に魂を焦がしていたラオフーを抱き込んでくれたのだよ。魔導兵器三人衆を謀り、君達を惑わし、私の欲する情報を素早く手に入れてくれたのだ。時折、その有能さに寒気がすることもあったがね」

「お褒めに預かり、光栄でごぜぇやす」

 ヴィンセントは、うやうやしく頭を下げた。ギルディオスは、ジョセフィーヌを見上げた。

「じゃあ、ジョセフィーヌ、お前もファイドの野郎に」

「そんなものではありませんわ」

 決意を固めるように、ジョセフィーヌはフィフィリアンヌの血に濡れたレイピアの柄を握り締めた。

「私は、私が在ることの出来る未来を求めているだけです」

「ジョセフィーヌよ。貴君が求める未来とこの女の命とは、一体どういう関係があるのであるか」

 悔しさに震えるフィフィリアンヌに代わり、伯爵が声を張る。ジョセフィーヌではなく、ファイドが答えた。

「何、私が彼女に教えてあげたのだよ。主人格と副人格を入れ替え、主人格を消すためには魔法薬が必要だとね。その材料として相応しいのが竜の血なのだが、さすがに私も自分の血は惜しいのでね。そこで、ブリガドーン作戦が終わったことで用済みとなったフィフィリアンヌに目を付けたのだよ。半竜半人ということで少々血は薄いかもしれんが、魔力濃度は一級品だ。だが、その魔法薬に効果を与えるためには、薬を服用する本人が竜の血を採らなければいかんのだ。そこで、ジョセフィーヌは剣を取り、我が同胞に突き立ててくれた、というわけなのだよ」

「…浅ましい嘘だ」

 血で喉を詰まらせながら、フィフィリアンヌは呟いた。青ざめた肌とは逆に、赤い瞳には怒りが漲っている。

「人格を交換する? 主人格を副人格と入れ替える? 竜の血を使う? 服用者でなければ意味がない? 陳腐な上に安っぽすぎて、この私であっても笑えてしまうぞ。そんな旧時代のまじないで、何が出来るというのだ。私の血を採って煮詰めたところで、何の薬にもならん。一時的に魔力数値が上がって副人格の意識が主人格を圧倒出来るかもしれんが、それだけだ。そんな子供騙しの効果も、一時間もせずに抜けてしまうわ」

「フィル、喋るな。血が出るだけだ」

 ギルディオスが制したが、フィフィリアンヌは言葉を止めない。

「そんなこと、気にする価値もない。私の再生能力を止めている魔法さえ破れれば、数分もせぬうちに傷は塞がって血は蘇るのだ。心配されるだけ、無駄というものだ」

 フィフィリアンヌは地面に手を付いて身を起こすが、胸元の傷口からぼたぼたと血が落ちて広がった。

「術式こそ解らぬが、媒介は解っておる。それさえ、壊せれば」

「立つな、フィル! いくらお前だって、無茶しちまったら死んじまうぞ!」

 ギルディオスは必死に声を張り上げたが、フィフィリアンヌは額に脂汗を浮かばせて眉根を歪めた。

「やかましい、黙らんか! このニワトリ頭め!」

 フィフィリアンヌは踏み出したが、膝が曲がって血溜まりで足が滑り掛けたが、強く踏ん張って細い体を支えた。
少しでも力を加えると、そのたびに出血量が増えていく。歩くに連れて新たな血溜まりが出来、足跡のように続く。

「君の答えを聞こう、フィフィリアンヌ」

 ファイドはフィフィリアンヌの前に歩み出ると、爪を長く伸ばした手を彼女の胸元に向けた。

「君もまた、私と同じ道を見定めていたのではなかったのかね? 君は禁書を始めとした魔導書を焼き、滅ぼすことで、魔法に関わる事実を殺そうとしていた。禁書を回収して海中に沈め、ブリガドーンでの戦いで連合軍に決定的な敗北と屈辱を味わわせることで連合軍の自尊心と体面を徹底的に汚し、世間的にも魔法の存在が隠匿されるように仕向けた。そのおかげで、あの戦い以降は連合軍も魔法に関わる物事には表立った手出しをしなくなり、異能者達の処刑も減少してきたと聞く。だが、連合軍ではない他国の軍や国際政府連盟の諜報機関などは未だに魔法に興味を抱き、水面下では手を伸ばしつつある。彼らは中途半端な知識と覚悟で、君が愛した魔法を手に入れようとしているのだよ。それが許せないとは思わないのかね、フィフィリアンヌ。彼らの手に魔法を与えないためにも、我らの誰かがまた兵器とされないためにも、我らは滅びなければならんのだよ。君は賢い。だから、それが最も有効な手段だと解ると思うがね」

「貴様は極端なのだ。それでは、何一つとして解決せんではないか」

 フィフィリアンヌは掠れた声で、強い言葉を吐き出す。

「貴様のような愚か者と手を組んだ、私が最も愚かだった。貴様の言っていることも、確かに間違いではない。年月と共に歪み、崩れ、衰え、劣化し、滅びへの道を歩む者達の姿を見るのは見苦しい上にやるせない。だが、だからといって殺したところで何がどうなるわけでもないではないか。私も、今にして思えば愚かの極みだが、一時はその考えに至ったことがある。だが、滅びへの道を造り出し、迷い込むのは命在る者の業だ。生きているからこそ力を求め、より良い明日を拓こうと思うからこそ力を得ようとし、命を守りたいと願うからこそ力に頼ろうとするのだ」

「君らしくないな、フィフィリアンヌ」

「笑いたければ笑うがいい。だが、これこそが私の答えなのだ」

 フィフィリアンヌはファイドの手首を掴み、血に汚れた頬を引きつらせた。

「禁書を封じただけで事がどうにかなるとは欠片も思っておらんわ。これから先、魔法はより暗き世界へと沈むことだろう。元より、光当たらぬ世界からもたらされた技術であり力なのだ。また闇に沈むのが当然だ。その末に、魔法や我ら人外がよからぬ物事に使われたとしよう。その際に、それを押さえ付ける者がおらねばならん。そのために、私は生きなければならん。大いなる過ちの生き証人として、歪んだ力の体現者として、そして」

 フィフィリアンヌはファイドの手首を離し、魔力を至近距離で放った。

「竜としてな!」

 ファイドは抗いもせずに、フィフィリアンヌが放った魔力を浴びた。黒竜の体は、呆気ないほど簡単に吹き飛んだ。
背中と翼を激しく擦りながら、ファイドは地面に転げた。フィフィリアンヌはその様を見下ろして、肩を上下させる。

「貴様にはそれは出来まい。安易な逃げ道を選び、浅ましい手段で現実を歪めたのだからな」

 フィフィリアンヌは上体を反らし、深く息を吸った。血が溢れ出る胸元を押さえ、目を閉じていたが、見開いた。
そして、咆哮した。傷を負った体のどこからこんな音が出せるのかと驚くほどの、荒々しい竜の猛りが響き渡る。
背中の下の地面も震えていた。ゼレイブ全体が竜の猛りで戦慄き、ゼレイブを包む空気すらも揺らいでいる。
吹き抜ける風すらも勢いを止め、降り注ぐ日差しすらも固まり、猛々しく波打つ海すらも痺れていることだろう。
そう思えるほどの咆哮だった。ギルディオスが知る中で最も凄まじい咆哮だったが、不意に途切れてしまった。
 フィフィリアンヌはふっと意識を失い、崩れ落ちるように倒れ込んだ。浅かった呼吸は、更に浅くなっている。
その体の下に、新たな血溜まりが広がっていく。ギルディオスは立ち上がろうとしたが、また踏み付けられた。
ヴィンセントだった。巨体の獣人はギルディオスを押し潰すかのように、甲冑を踏む右足に体重を掛けてきた。

「大人しくしていたらええんですぜ、旦那。これ以上何かしたところで、なあんにもならねぇんですからねぇ」

 ギルディオスは内心で歯を食い縛った。

「いい気になってんじゃねぇぞ」

「いやあぁっ!」

 唐突に、高い悲鳴が聞こえた。ギルディオスがその声の主を辿ると、ジョセフィーヌがレイピアを放り出した。
彼女が投げ出したレイピアの刀身に、細かなヒビが生まれていた。それが、成長するように広がっていった。
フィフィリアンヌの滑らかな血を纏ったレイピアは地面に突き刺さったが、途端にヒビが拡大し、遂に破裂した。
粉々に砕けた刀身が降り注いだため、ジョセフィーヌは顔を覆ったが服の袖やスカートの端が切れてしまった。
ヴィンセントは苦々しげに舌打ちし、フィフィリアンヌを睨んだ。今にも途切れそうだった呼吸に、力が戻っている。

「覚悟を決めるのは、貴様らの方だ」

 先程とは打って変わって覇気の強い言葉を発したフィフィリアンヌは体を起こし、血溜まりから立ち上がった。

「指向性の魔力波を撃つ余裕はなかったが、全方向に照射してしまえばなんら問題はない」

「なるほど。強烈な魔力波で魔法そのものを破壊してしまえば、魔法も解けるという算段か」

 事の次第を見守っていたファイドもまた立ち上がり、白衣を払った。

「君も案外強引だな、フィフィリアンヌ」

「貴様ほどではない」

 フィフィリアンヌは血混じりの唾を吐き捨ててから、口元を拭い、胸に手を当てて傷口の再生具合を確かめた。

「あーりゃりゃ…」

 ばつが悪そうに呟いたヴィンセントはギルディオスの背から足を離すと、ぴょんぴょんと身軽に跳ねて後退した。
フィフィリアンヌはファイドとヴィンセントを睨め付けてから、青ざめた顔で立ち尽くすジョセフィーヌに目を向けた。
ジョセフィーヌはフィフィリアンヌの射抜かんばかりの眼差しに負けて目を逸らしたが、唇を噛んで目を戻してきた。
だが、フィフィリアンヌはジョセフィーヌには近付かずに、身を起こそうとしているギルディオスに歩み寄っていった。
 ギルディオスは目の前に立ち止まったフィフィリアンヌに気付いて、頭を起こすと、彼女は手を差し出してきた。
不本意そうに眉を吊り上げていたが、それが照れ隠しなのはとっくに解り切っている。だから、内心で笑い返した。
フィフィリアンヌはギルディオスの胸元に手を添え、魔力を注ぐ。ばらばらにされた手足が、胴体に集まっていく。
右肩、左肩、右肘、左肘、右手首、左手首、右太股、左太股、右膝、左膝、と順序よく填り、すんなりと噛み合った。
程なくしてギルディオスの意志も通じるようになり、手は考えた通りに拳を固め、膝も曲がり、楽に起き上がれた。
ギルディオスは両足に力を込めて踏ん張ると、背筋を伸ばした。彼女の魔力のおかげで、魂にも力が漲っている。

「すまねぇな、フィル。お前も大変だってのに、手間掛けちまってよ」

 ギルディオスが血まみれのフィフィリアンヌを見下ろすと、フィフィリアンヌは事も無げに腕を組んだ。

「この程度、どうということはない。疲れているのなら、まだ眠っていても良いのだぞ」

「馬鹿言うな、こういう時こそオレの出番じゃねぇか」

 ギルディオスがバスタードソードを拾い上げると、彼女の腰に下がったフラスコの中で伯爵がぶるぶると震えた。

「はっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは。ニワトリ頭よ、貴君が役立つ場面はその程度しかないのであるからして、この機を逃してしまえば貴君が目立てる場面など激減してしまうのである」

「言えてるぜ」

 ギルディオスが鼻で笑うと、フィフィリアンヌは僅かに唇の端を持ち上げた。

「して、報酬は入り用か?」

「そうだな」

 ギルディオスはバスタードソードの柄を握り締めた。全身を駆け巡る業火の如き怒りが、力を呼び戻してくれた。
関節の隅々まで意志が行き渡り、炎に酷似した熱が魂から燃え盛っていたが、不思議と心は落ち着いていた。
今までにないほど怒っているはずなのに、怒りすぎているせいで逆に突き抜けてしまったらしく、穏やかだった。
だが、少しでも動けば噴き出すだろう。装甲に張り付いた朝露が、熱せられて蒸気と化して漂っているのだから。
ギルディオスは傍らの竜の少女とその腰に下げられたスライムを見ていたが、へっ、とやけに明るい声で笑った。

「いらねぇよ。だが、約束してくれ。ここにいる連中は、全員生きて連れて帰ってくれるってな」

「妥当だな」

 フィフィリアンヌが呟くと、伯爵が高笑いした。

「はっはっはっはっはっはっはっはっはっは。ニワトリ頭にしては、悪くない答えなのである」

「そりゃどうも」

 ギルディオスは一笑すると、バスタードソードを抜き、鞘を投げ捨てた。

「せっかく人が死にそうだったってのに、ゆっくりさせてくれなかったてめぇらが悪いんだぜ? 死に際に後味の悪い話ばっかり聞かせやがって、すっかり目が冴えちまったじゃねぇか。おかげで、トサカに来ちまったぜ」

 使い込まれた剣先が上がり、黒竜の男に定まった。



「滅ぶのはてめぇの方だ、ファイド!」




 万物を生み出す海と万物を飲み込む海の狭間で、生者と死者は睨み合う。
 数々の終焉を見つめた黒き竜は、絶望と失望の末に見出した答えを貫き通した。
 しかし、壊れ、歪み、崩れ、軋み、砕け、綻び、乱れていても、命は命に変わりないのだ。

 そして。烈火の剣士は、最期の炎を盛らせるのである。





 


07 11/9