足を踏み出すたびに、煙が立ち上る。 溶岩のように熱く滾った怒りが魂と言わず体中を満たし、今までにないほどの力に打ち震えてしまいそうだった。 あれほど重たかった体が、羽のように軽かった。鋼の相棒もいつになく軽く、風を受ければ舞い上がりそうだった。 目前に立つ黒竜の男は、服を破って尾を伸ばした。背中から突き出した翼を広げて羽ばたかせ、大きくさせた。 黒竜の男の体格が、数倍に膨張する。白衣の下に着ていた服を一気に引き裂いて現れたそれは、竜人だった。 ギルディオスの倍はあろうかという体格に変化したファイドは穏やかだった眼差しを強め、赤い瞳をぎらつかせた。 「まず聞こうじゃねぇか」 ギルディオスはバスタードソードの柄を、軋むほど握る。 「どうしてジョーとジョセフィーヌを殺しやがった」 「ジョセフィーヌは常々未来を変えたがっていた。だから、私の手で彼女の未来を変えてやったのだよ」 「殺しちまったら、未来もクソもねぇだろうが」 「あれが最良なのだよ、ギルディオス。ジョセフィーヌは主人格であるジョーに並々ならぬ憎悪と嫉妬を抱き、攻撃的な面も併せ持っていた危険な人格だったのだよ。あのまま生かしておけば、いずれエカテリーナの二の舞になろうというものだ。私の計略に穴はなかったが、万が一ということもあるのでね」 「そうかい!」 ギルディオスは素早く足元を踏み切り、飛び出した。普段なら更に地面を蹴るのだが、異常なほど体が軽い。 滑空するようにファイドの懐に飛び込んだが、ファイドはギルディオスのバスタードソードが届く前に身を翻した。 ギルディオスは一度身を屈めてから再度地面を踏み切り、高く跳ね上がりながら剣を捻って竜人へと叩き込んだ。 使い古された刃は黒竜の固いウロコに衝突したが、力を込めると食い込んだ。鮮血が迸り、ヘルムを濡らした。 もう一歩踏み込めば腕が落とせる、というところまで刃を深めたが、ファイドはギルディオスを尾で振り払った。 腹部に強烈な打撃を加えられたギルディオスは吹っ飛ばされたが、地面に膝を擦って制止し、体勢を直した。 踏ん張りを効かせるために両足に力を込めて腰を据えた時、関節という関節から緋色の閃光と熱が噴出した。 それは、紛れもない炎だった。再びファイドへと駆け出した時、背面からも紅蓮が溢れ出し、大きく広がった。 炎で成した翼を広げ、ギルディオスはファイドへ飛び掛かる。有り得ないほど身軽な動作で、剣を振るった。 ファイドは傷を塞いだ腕と伸ばした爪を振るい、荒々しくも正確な斬撃を受け止めるも、徐々に押されていった。 竜人の体格も体重も物ともせずに、ギルディオスは剣を叩き付ける。ファイドは腕を頭上に出し、それを受けた。 だが、食い込んだ刃は浅かった。ギルディオスは空中で前方へ転身し、その勢いで竜人のツノに打撃を加えた。 ファイドの腕を足掛かりにして更に踏み込んだギルディオスは、剣を横に払ってもう一撃を加え、ツノを折った。 根本から砕けた太いツノが跳ね上がり、宙を舞う。頭への打撃と痛みでファイドが身動ぐと、剣士は高く飛んだ。 「所詮はお医者先生ってか!」 ファイドの背後に降下したギルディオスは、ファイドのもう一本のツノにも刃を叩き込んだ。 「もらったぁああああ!」 ギルディオスは足を擦りながら着地すると、乱暴に根本が折られた二本のツノが立て続けに落下し、転がった。 ギルディオスの足が擦れた部分は真っ黒く焼け焦げ、油を熱したような音を立てており、黒い煙が漂っていた。 また、折られたツノも底の部分が黒ずんでいた。ギルディオスが全身から発している熱は、恐ろしく高かった。 「ぐ…」 ファイドはよろけ、頭を押さえていた。ツノを二本とも折られてしまったことで、脳が激しく揺さぶられてしまった。 視界もぶれていたが、ここで怯んでは命がない。ファイドは魔力を高めて唸りを漏らし、強引にツノを再生させた。 ここでギルディオスに敗れてしまっては、これまで積み上げてきたことが、成したことが全て無駄になってしまう。 こうなれば、最後の手段を使うしかないだろう。本来の姿を取り戻せば、ギルディオスであろうとも敵ではない。 「その程度で、勝ったと思うのは早計ではないかね」 ファイドは魔力中枢を活性化させ、高出力の魔力を全身の隅々まで行き渡らせた。 「私を何だと思っているのだ?」 全身の骨が軋みを挙げ、関節が呻き、ウロコが割れていく。肉と筋が拡張し、臓物が膨らみ、視界が上昇する。 ファイドの体格はめきめきと音を立てながら膨張し、尾の太さは数十倍となり、翼もまた何十倍にも拡大していく。 ギルディオスはたじろがなかったが、僅かに足を下げた。程なくして、竜人は天を突くほどの黒竜へと変化した。 本来の黒竜の姿に戻ったファイドは、元の姿のフィフィリアンヌよりも数倍は大きく、圧倒的な存在感を誇っていた。 考えてみれば、彼女は半竜半人であって完全な竜ではない。だが、ファイドは純粋な血を継ぐ本物の竜族なのだ。 「私は、竜だ!」 ファイドは禍々しき咆哮を放ちながら、羽ばたき、急浮上した。フィフィリアンヌでさえも、軽く眉根を歪めていた。 第二のブリガドーンと化しているゼレイブを覆い尽くすほどの大きさを誇る黒竜が、朝日を覆い隠してしまった。 翼の端から零れ出る日差しは眩しく、黒いウロコを白く光らせ、瞳孔が縦長の赤い瞳を毒々しく輝かせている。 地鳴りや海鳴りを遙かに越える低音の咆哮が放たれるとゼレイブ全体が揺さぶられ、地面に多数のヒビが走る。 巨大な体躯の影でゆらりと動いた尾が、ゼレイブの端を叩いた。途端に、円盤状の土地がぐらりと大きく傾いた。 「ピート!」 ギルディオスがすかさず元部下の名を叫ぶと、ピーターは念動力を広範囲に解放した。 「言われなくとも!」 傾いた地面から滑り落ちそうになっていた面々は、見えない手で支えられたかのように宙に浮かび上がった。 中心で念動力を解放しているピーターは、ファイドから感じるびりびりと痺れそうなほどの威圧感を堪えていた。 力を出すということは、感覚を剥き出しにすることに近い。おかげで、竜の恐ろしさが嫌と言うほど身に染みた。 まず、力だけでなくあらゆる面で桁が違う。擬態している時には、竜の気配以外は全く感じなかったというのに。 十年前に異能部隊基地を竜に変化したフィリオラが破壊したことがあったが、あの時とは比べ物にならなかった。 フィリオラは竜族への先祖帰りをしているだけであり、純血の竜ではないため、凄まじさはそれほど感じなかった。 あの時も異種族に対する恐怖と圧倒的な力に対する寒気は感じたが、格が違う。僅かでも気を抜けば、潰される。 リリは、本来の姿を取り戻したファイドを大きく目を見開いて呆然と見ていたが、がくがくと震え出してしまった。 僅かに体を流れる竜の血が、同族の凄まじさを直接教えてくる。血を凍らせ、内臓を冷やし、魂を押し潰してくる。 「あ、うぅ、ああああ」 恐ろしさのあまりにリリがフリューゲルに縋ると、フリューゲルはリリを抱き締めた。 「オレ様もいるし、皆もいるんだ。だから大丈夫だ、リリ」 リリはフリューゲルの首に腕を回してしがみつき、ぼたぼたと涙を落としながら、歯を食い縛って頷いた。 「…うん。皆だって、頑張っているんだもん。私も頑張る」 「弱ったな。僕も戦いたいのに、力が少しも出てこない。致命的な訓練不足だな」 ロイズは、青ざめた頬を引きつらせる。ヴィクトリアは少年の震える肩に、そっと手を添える。 「何も出来ないとしても、ギルディオスを信じ抜くことぐらいは出来るのだわ。だから、胸を張って生かされなさい」 「全部終わったら熱いスープでも作りますから、皆で頂きましょう。きっと、おいしいですよ」 魔力を解放してピーターの念動力を補助してやりながら、フィリオラが言った。 「きっと旨いさ。フィリオラの料理に外れはないからな」 レオナルドは妻の手に己の手を重ね、自身の魔力も放出させた。念動力の範囲内が、暖かな熱を帯びる。 「ほら、ウィータ。何も怖がることはないのよ。皆が、あなたを守ってくれるわ」 キャロルは、わあわあと泣き喚き続けているウィータの柔らかな頬に口付けを落とした。 「少佐ぁーっ、頑張って下さい!」 ヴェイパーは竜の迫力に負けて動かない体を恨みながらも、精一杯叫んだ。 「少佐なら絶対に勝てますっ、誰にも負けたりなんかしませんっ、だって、だって、僕達のお父さんなんですから!」 「私は、またも許されざる罪を犯しました。しかし、それでも、愛しい者達を守ることは許されましょう」 ラミアンは妻の死体を抱き締めながら、剣士の背を見上げた。 「どうそ、心置きなく戦って下さい、我らが戦士よ。躊躇いなど欠片も覚えませんよう、願っております。あなたの剣に陰りを作らせては、あなたの愛する奥様に叱られてしまいますからね」 「本当に、どうだっていいんだよ。未来がどうとか世界がどうとか罪がどうとか、そんなものはオレ達が生きることを妨げる理由にもなりゃしねぇんだよ。だから、おっちゃん。そこの先生に教えてやってくれよ。オレらの未来を勝手に決めるなってな!」 ルージュを抱き、ブラッドは怒りのままに叫ぶ。 「確かに私は死んだ存在だ。何の価値もなければ、何も生み出さない。だが、私は愛する男がいて、この上なく心地良い居場所を見つけることが出来たんだ。それこそが私が生きる理由であり、意味だ。それを否定しないでくれ」 ブラッドの腕の中で、ルージュは声を詰まらせる。 「そうとも。我が輩達に意味を求め、答えを導き出したことがそもそもの間違いなのである。我が輩達はそこに在ることが理由であり、在るからこそ在るのである。どんなに醜く、やるせなく、腹立たしい存在であろうとも、生きているからには生を全うする義務があるのである。そうではないのかね、ファイドよ」 フィフィリアンヌの腰に提げられたフラスコの中で、伯爵が気泡を吐き出した。フィフィリアンヌは、平坦に言う。 「行け、ギルディオス。貴様の剣に、全てを預けよう」 ギルディオスは振り向くこともせずに、教えを乞うた。 「おうよ。んで、フィル。魔法ってのは、どう使うんだったか?」 「力を求め、言霊に乗せよ。さすれば、魔性の力は現れん。ヴァトラ・ヴァトラスの記した魔導書の一節だ」 「そうかい、思ったよりも簡単じゃねぇか!」 ギルディオスは、バスタードソードを天へと突き上げる。 「我が魂に宿りし魔性なる力よ、我が声を聞け! この朽ちたる身に、紅蓮なる鎧と灼熱なる刃を授けたまえ!」 そして、バスタードソードは真上に放り投げられた。回転しながら落下した剣は、ギルディオスを狙っていた。 「その鎧は、竜が如し!」 バスタードソードの先端が甲冑の胸元にめり込み、背中へと貫通した。分厚い金属が、紙のように破られた。 だが、ギルディオスは倒れなかった。胸と腹を貫いたバスタードソードが魔導鉱石を砕き、赤い破片が浮遊する。 その様は、ギルディオスの双子の兄であるイノセンタスが、弟の剣で己の命を断ち切った様にとてもよく似ていた。 フィフィリアンヌは喉から出そうになった悲鳴を飲み込んだが、他の者達からも息を呑んだ気配が伝わってきた。 竜への変化を完全に終えたファイドは、追撃を加えるべく息を吸い込んだ。肺を満たした空気に、魔力を注いだ。 背中を折り曲げるようにして勢い良く吐き出した息は、炎に変化した。羽ばたいて空気を送り込み、煽り立てる。 最初の巨大な炎の固まりはギルディオスを直撃し、彼の立っていた部分が大きく抉れて吹き飛んでしまった。 すかさずラミアンが魔法で防御壁を張るも、受け流すだけで精一杯だった。次第に、炎の圧で押されてしまった。 フィフィリアンヌは防御壁を強めるべく魔力を高めようとしたが、腹部の刺し傷が治りきっておらず、目眩がした。 ラミアンも全力で踏ん張っているが、いつまでも持つとは限らない。しかし、ギルディオスの姿は見えなかった。 あの一撃で潰えたのか。いや、そんなはずはない。皆が皆、不安と共に期待を抱いて戦士の復活を待ち望んだ。 すると、炎の壁が途切れた。どこからか現れた巨大な紅蓮の刃が振り下ろされ、防御壁を焼く炎を散らした。 更にもう一度剣が振られてファイドの首筋を打ちのめし、その太い首に横一線の火傷を負わせ、後退までさせた。 視線を下げると、抉れた地面の中心には赤々と熱した甲冑が立っていた。甲冑だけでなく、剣すらも熱していた。 「我ながら、上出来じゃねぇか」 紅蓮の剣士は、ぎ、と顔を上げて首関節から火の粉を散らした。 「イノの野郎に、自慢してやりたいぐらいだぜ!」 紅蓮の剣士が踏み出すと、その背から生えた翼が広がる。燃え盛る頭飾りが分かれて、頭頂部の脇に付いた。 熱が漲る足で空中を蹴って駆け上がりながら、姿が膨らんでいく。炎が炎を呼び、閃光が閃光を生み出していく。 翼の後方からは逞しい尾が伸び、太い手足は鋭い爪を持ったそれに変わり、体格は見る見るうちに大きくなる。 紅蓮の剣士が空へ駆け上がった時には、もう一つの太陽となっていた。炎で成された竜が、黒竜を照らし出した。 「こいつぁいいぜ!」 炎の竜は立派なツノが生えた頭を下げ、羽ばたいた。 「いくらだって無茶が出来らぁな!」 炎の竜の頭突きが、ファイドの腹部を抉った。と、同時にじゅうじゅうと嫌な音がして黒いウロコが焼け焦げる。 ファイドは牙を剥いて炎の竜の首を噛み千切ろうとするも、牙と口中が焼け焦げてしまい、唾液が一瞬で沸騰した。 炎で成した竜、ギルディオスは手慣れた仕草で尾を振るってファイドの首を打ちのめし、呆気なく体勢を崩させた。 どうやら、蹴りの要領で尾を使っているようだった。ファイドの姿勢が揺らいだ瞬間を見計らい、再度突っ込む。 ファイドの巨体は大きく仰け反って、ゼレイブの上空から脱した。ブリガドーンの破片が散らばった、海上に出る。 ギルディオスは身を翻して尾を振るい、ファイドの頭、首、胴体、尾の順に強烈ながら的確な打撃を加えていった。 黒竜の肌から蛋白質の焦げる匂いが漂い、頭への打撃が目を掠めたらしく、赤い瞳の瞳孔が白濁してしまった。 だが、ファイドもやられてばかりというわけではなかった。ギルディオスの打撃が止んだ瞬間、突然急上昇した。 薄い煙を残しながら上昇する黒竜を追い、ギルディオスも上昇する。しかし、使い慣れない翼は動きが悪かった。 増して、足場のない空だ。地上とは要領が違いすぎる。ファイドの巨体を目で追いながら、懸命に追尾していった。 すると、ファイドはぴたりと動きを止めた。ギルディオスが炎を吐き付けるべく口を開くと、ファイドは翼を畳んだ。 黒竜は頭を真下に向け、落下を始めた。ギルディオスに正確に狙いを定めて、投擲された槍のように迫ってくる。 ギルディオスは回避行動を取ったが、落下と共に加速を重ねていたファイドを避けきれず、腹部に突っ込まれた。 黒竜の体当たりによって炎の胴体は真っ二つに断ち切れ、翼の支えを失った長い尾と逞しい後ろ足が落下する。 ギルディオスはそれを追おうとするも、ファイドはギルディオスの目の前に現れて妨げ、身を捻って尾を振った。 黒い尾の襲撃には魔力が込められており、炎の竜の頭を揺らした。それは、生身で受けるような重みがあった。 魂そのものに打撃を加えられている。ギルディオスは上半身だけの竜の姿で応戦したが、消耗はかなり激しい。 ただでさえ無茶をしているのに、下半身を分断されてしまった。再生するためには、かなりの魔力を使うだろう。 精一杯の速度で回避を続けるも、遂に前を取られた。ファイドは大きく口を開き、炎の竜の首筋に喰らい付いた。 「所詮、付け焼き刃の魔法だ」 ファイドは口中が焼け焦げることを物ともせずに、ギルディオスの喉へ太い牙を埋めていく。 「竜に敵うはずがなかろうが!」 ファイドの首が捻られて大きく反り、ぶつり、と炎の竜の首が千切れた。 「うおおおぁあああっ!」 魂を千切られるような痛みと衝撃でギルディオスは絶叫し、首を千切られた傷口からはぼろぼろと炎が零れた。 ファイドは炎で成した竜の首を放り捨て、真下の海峡へと投げ込んだ。程なくして、じゅっ、と海中に飲み込まれた。 蒸気混じりの煙が上るも、潮風に掻き消される。ファイドは角膜が白濁した赤い瞳を細めて、炎の竜を見据えた。 「諦めたまえ、ギルディオス。君は死ぬのだ、そして、彼らも死ぬ」 「うるせぇ」 「生を求めて足掻く姿は泥臭いが、故に美しい。しかし、度が過ぎると無様でしかないのだよ」 「無様で結構! それが人生ってもんじゃねぇか!」 ギルディオスは翼と前足だけとなった姿でファイドへ突っ込むも、ファイドは頑強な額でそれを受け止める。 「さあ、共に還ろう! 原初の海へ! そして、永久の闇へ沈もうではないか!」 「オレが帰る場所は海なんかじゃねぇし、真っ暗闇でもなんでもねぇ!」 首のない胴体を押しやっていたファイドの額が、じりじりと押し返されていく。 「意地っ張りで無表情で怒りっぽくて捻くれているが笑うと滅茶苦茶可愛い娘と、偏屈でお喋りで調子が良くて気位が高いが大事なダチのいる城だ! 長いこと外に出てたから、いい加減にっ!」 炎の竜の残された前足がファイドの首を掴んだかと思うと、物凄い力で真上に放り投げた。 「帰りてぇんだよおおおっ!」 「全く、呆れるほど君らしいよ、ギルディオス!」 投げられながらも姿勢を整えたファイドは、翼を折り畳んで落下し、加速する。だが、ギルディオスは動かない。 吹き付ける潮風を切り裂きながら向かってくる巨体の竜の影が、あっという間に炎の竜の残骸へと迫ってくる。 フィフィリアンヌが回避を促す言葉を叫んでも、ギルディオスは退かない。ただ、炎の翼を広げているだけだった。 ファイドの目は勝利を確信した笑みを浮かべていることがゼレイブからでも解るほど近付いた時、彼は動いた。 炎の竜が、内側から破られた。紅蓮の鎧を纏ったバスタードソードが振られ、炎は花が開くように広がった。 その中心に立っていた紅蓮の剣士は迫り来る黒竜を見定めると、大剣を構えて、熱した足で空中を蹴り上げた。 「だから、こんな戦いはとっとと終わらせるに限るんだよ!」 紅蓮の剣士は己の熱で造り出した上昇気流で最加速し、迫り来る黒竜に向かって直進する。 「人だろうが竜だろうが魔物だろうが兵器だろうがなんだろうが!」 紅蓮の剣士と黒竜の影が、空中で重なる。 「今を生きなきゃ、未来なんか来ねぇだろうがあああああぁっ!」 そして、紅蓮の刃が一筋の軌跡を描いた。 「あばよ、ファイド」 紅蓮の剣士が遠のくと、黒竜は動きを止めていた。剣士の身の丈を遙かに越える太さの首が、切れていた。 黒竜の角膜が煮えて白濁した瞳は大きく見開かれ、焦点を失ってわなわなと震えていたが、ぐるんと上向いた。 赤い筋のようにしか見えなかった切り口が、自重で首がずれたことによって露わになり、動脈から鮮血が噴いた。 滝のように流れ出した血の瀑布はゼレイブにも届いたが、ラミアンが防御壁を拡大したので、被害は少なかった。 紅蓮の剣士の全身にも竜の血は降り注ぐが、呆れるほど熱した体は触れた途端に血を蒸発させて焼け焦がした。 血の残留物である蛋白質も灰となり、すぐに剥がれてしまった。手の中では、鋼の相棒がみしみしと軋んでいた。 本来なら金属が溶けるほど過熱した上に、竜の首を断ち切るという荒技に使ったために限界が訪れたのだろう。 ギルディオスは鋼の相棒に感謝を贈る意味で口付けしてやってから、海へと還っていく黒竜の姿を見送った。 ブリガドーンの破片が散らばる海中に落下した首のない竜の死体は、無数の魔導鉱石の岩石に肉体を貫かれた。 落下した瞬間に立ち上った巨大な水柱の内側では爆発が繰り返し起き、耳を塞ぎたくなるほどの轟音が続いた。 ゼレイブ近くまで舞い上がってきた海水の飛沫が装甲に降り注いだが、蒸発する勢いは先程よりは緩んでいた。 そのうちに海水がマスクを伝うようになり、水の冷たさが感じられた。春と言えども、まだまだ朝晩は寒いのだ。 この上なく、満足していた。だらりと下げた両腕からは力が抜け、指先から装甲が割れていく感覚が伝わった。 己の剣で貫いた魔導鉱石のヒビは修復不可能なまでに広がり、腹の中に破片が零れ落ちていることが解った。 濃い朝靄と黒竜の姿に覆い尽くされていた朝日が、ようやくゼレイブへと降り注ぎ、異形の楽園を照らし出した。 それは、まるで天上の光景のように見えた。目を細めんばかりの白い光に包まれた、狭くとも素晴らしい世界。 ファイドの言い分も、一概に否定出来ない。けれど、ギルディオスにはどうしてもそれが正しいとは思えなかった。 己の正義感と現実の狭間に揺れて立ち止まった時もあったが、やはり、最期はいつものように戦ってしまった。 結局、収まるところに収まるだけなのだ。ギルディオスは砕けつつある足でゼレイブに降り、晴れた空を仰いだ。 「さあ、帰るとすっか」 それが、最期の言葉だった。 命の炎を煌めかせ、猛る力を剣に込め、愛する者をその背で守る。 人でありながらも人でなく、人ならざるが人で在り、そして、死して尚も生き続けた。 不器用で荒々しく、かつ無様で泥臭く、それでいて深い愛情に満ちた、篤き重剣士の二度目の死を。 今はただ、見つめようではないか。 07 11/13 |